氷川紗夜さんが目を覚ましたのは、夕方の5時20分。店が閉まるよりもまだまだ前だった。
俺らは和室の畳に、ちゃぶ台をどかして来客用の敷布団を敷き、そこに氷川さんを寝かせて、上から軽く薄めのブランケットを被せていた。
さらに扇風機を首振りにしてクーラーの風を送っていたので、そこそこ快適な睡眠だったとは思うが、果たして。
目の下のクマがまだまだ目立つ氷川さんは、どうやら起きて早々に我が家ではない環境の違和感を感知したのか、勢いよく飛び起きる。
俺は修理の合間に、和室のへりに座って涼んでいたので、すぐ気づくことが出来た。てっきり閉店後まで寝ているものだと思っていたので、少し驚く。
「……もう起きましたか」
「えっ? ……わ、ほんとだ。思ったよりも早い」
掃除していた月夜美が、ぱたぱたと和室の隣に来る。
「まだ17時半ばですよ、紗夜さん。もう少し寝てもいいんですよ」
「じゅうしち……ッ!?」
月夜美がそう言うと、氷川さんは本格的に立ち上がる。
だが、うちの店の奥にある和室は、大型犬くらいの段差があるため、慌てて出ようとした氷川さんは落ちそうになる。
そして、落ち着いてヒールの低めの靴を履き、俺らの方を向いて頭を下げる。
「まずは、申し訳ありません」
「えっ、何がですか」
「何がも何もありません! ひ、ひと様の店……というか、家……? で、このような……」
別に、謝罪も礼もいらないんだけどな。ただ、もし寝不足で倒れたというのなら、寝かせない理由はなかっただけだ。
こうして和室に人を寝かせるスペースもあるし、人が寝ていても誰も来ないので問題のない店だし。
なんならシャワーを浴びていったって、泊まっていったっていいくらいだ。
俺は和室の襖のへりから腰を上げて、扇子で顔を扇ぎながら言う。
「スッキリしましたか?」
「……は?」
「しっかりとした睡眠は取れましたか?」
「それは……まあ……」
「なら良いんです。こちらが勝手にしたことですし。まだ寝たかったら、寝ててもいいですよ」
「いえ、流石にッ」
無茶できるのは若いうち、だなんて、おじさんは思ってたんだけど。どうやら若いうちでも、できるだけ無茶はしない方がいいらしいな。
「本当に、申し訳ないです。最近、恥ずかしながら……」
その氷川さんの言葉を遮るように、月夜美が畳のへりに座って言う。
「目覚まし時計が壊れて起きれないなら、寝なきゃいい、ってところですか?」
「!!」
「あはは、やっぱ皆そこに行き着きますよねー。私も高校の頃、夏休みの生活リズムが直せなくて、それやってましたよ。……まあ、深刻さが違うんでしょうけど。私、演劇やってる時は眠くならないタチだったし」
一人暮らしする前からダラケた生活を続けてきた彼女の勘が当たったのか、氷川さんはぐうの音も出ないくらいに打ちのめされる。
「責めているわけじゃあないんですけど……というか、そんなに忙しいんですか?」
「はい……」
月夜美は氷川さんを待合スペースの椅子に座らせ、茶葉を急須に入れて、お湯を注いでお茶を淹れる。
氷川さんは甘えることに少し抵抗がなくなったのか、すんなりお茶を飲む。
俺は彼女に相手を任せて、修理途中の時計のある作業机まで戻る。
「大学の授業って、3回か4回は飛べるって聞きましたよ」
「とぶ?」
「あ、休むって意味です」
「休む!? とんでもない!!」
思わず立ち上がり、大きな声で言う氷川さん。目の前で座っていた月夜美さんはおろか、俺もちょいとばかしビックリしすぎて、椅子から落ちそうになる。
「じゃあ、その……校外活動? っていうのは……」
「それも休めないですッ!!」
「うわあっ……な、なんか全部に全力だなあ……」
「……両立は、今のところ出来ていないのですがね。今までの3年半のツケが回ってきている気分です」
「そういえば倒れる前、高校の時は風紀委員とか生徒会活動もしてたって言ってたし……ホントに大変そう」
高一からそんな生活してるのかよ。とにかく真面目なんだな。俺はヘッドルーペを取り、少し遠くの氷川さんに言う。
「どうしても起きられないなら、とりあえずうちの時計をなんでもひとつ持って行ってくださいよ」
「え!? そ、そんな……売り物を……」
「車検中の代車みたいなものですよ」
俺は立ち上がり、作業机の向かい側の壁にある時計のガラスケースディスプレイ、その下にある引き出しを開ける。
そこには買い取ったものや当店に取り寄せたものなど、多種多様な目覚まし時計がある。少しばかりホコリは被っているが、使えないわけじゃあない。
引き出しの大きさは奥行30cm、深さは50cmもあるので、だいぶの量の時計が入っている。電池は抜いているので、液漏れも問題ないはずだ。
お茶を飲み干してこちらに来た氷川さんは、引き出しの中を見て、口を押えてはいるが、思わず息を漏らしている。
ここにあるのは、ハイブランドが酔狂で作った目覚まし時計から、それこそ氷川さんの時計を作った会社と同じ所、すなわち『TEIO』の目覚まし時計だってある。
ここにあるものは全て、ベルを小さなハンマーで叩いて音を鳴らす、いわゆるアナログ型ではあるが、氷川さんの目覚まし時計もそうだ。元のタイプに近い方がいいだろう。
「……どれも素晴らしいです。こんなものを持って帰るだなんて……」
「起きることが必ずできるという保証はありませんが、あるだけマシでしょう。好きなものをどうぞ」
「むう……」
顎に手を当てて考える氷川さん。素直に貰ってくれそうで何よりだ。「どれにしますー?」と呑気に茶をすする月夜美。
悩んでいる間に、修理を少しでも進めるとしよう。と、おでこに着けたままのヘッドルーペを目に戻そうとすると、店のドアが開く。
一日に二人も来るとは珍しい。と思いかけたが、うちに一日二度の来店がある時というのは、大概一人は知り合いなのだ。新規の顧客ではない場合が多い。
「進さん。こんにちは」
「いらっしゃい」
そら見ろ。
京都で知り合って依頼、たまに弦巻さんと一緒に遊びに来る倉田さんが、入口に立っていた。今日は私服で。
「倉田さん、今日はどうしたんです?」
「えっと、学校の子たちから修理の依頼が来てて」
店内の涼しい空気に癒される倉田さんは、カバンから小さなダンボールを何個か取り出し、修理机に置く。
倉田さんは「これなんですけど……」と、時計たちを置き続けるが、俺は1個目に置かれたものからもう既に見覚えがあった。
時計マニアでなくても大半の人が聞いたことがあるであろう、『
そのまた、これまた、トップ級に有名なシリーズの『
そして、その後も次々に出てくるハイブランド腕時計や懐中時計の数々。ビビアンにアラウンドザシー、パティフリーにシュメール……。
忘れていた。この人は仮にも日本有数のお嬢様高校の生徒。その周りの人達が着ける時計といったら、このくらいが普通なのだ。
「……荷が重い」
「あ、ましろちゃん! こんちはー……えぇっ。店長、なんで吐きそうになってるんですか」
「月夜美、下手に動いてこの子たちを傷つけるんじゃあないぞ。中古の相場でも、平均200万はくだらない時計たちだ」
「うっそお!? うわあ、そりゃ吐きそうにもなりますよ……」
倉田さんの顔を見ると、申し訳なさそうに眉毛が下がっている。
「ごめんなさい、うちの高校の人達、どの時計を取っても100万円台を超えてて……」
「あっ!? これ私でも分かります! ましろちゃんの持ってるブランドでしょ!」
「あ、本当だ」
しかも、ここでは言いづらいが、倉田さんのモデルと同等かそれ以上の値段がするやつだ。
「修理代はいくらでも出す、と皆さん言っていましたから……あ、これ全員の電話番号と名前のある名簿です。見当がついたらまた教えてください、とのことです」
「り、了解っス。真心込めて直させていただきます」
「よかったあ……ありがとうございますっ」
ああ、この中に並ぶパステルカラーの『TEIO』の安心感といったらない。見慣れたロゴ、簡素な作り、修理のしやすい内部構造。助かる。とても助かる。
いや、罪に重い軽いが便宜上つけられた刑罰の重さ軽さ以外にないように、どの時計も大切に扱うべきなのだ。なのだが。
この中にぽつんと佇む、氷川さんの目覚まし時計にはなんだか、慣れない社交パーティーで友人を見つけた時のような安堵感があるのだ。
ありがとう、氷川さん。そう思い、ふと氷川さんの方を見ると、倉田さんの方を見てぽかんとした様子。
「あら……倉田さんじゃあないですか」
「……ぁええっ!? 紗夜さん!?」
倉田さんは飛び跳ねんばかりに驚いている。
「おふたりは、知り合いなのですか?」
「わ、私たちの……ガールズバンドたちの憧れですよ」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです」
「え!? 紗夜さんもガールズバンドやってるの!?」
月夜美は、「はぁ〜っ、ガールズバンドの戦国時代がどうとか聞くけど、よく会いますねえ」と紗夜さんの手をジロジロと見つめる。
「あ、ギターかベースだ。指先が硬い……」
「んっ……ちょ、ちょっと。あまり触られると……」
「えへへ、なになに〜? くすぐったいんですかぁ?」
じゃれている2人を見て、なんだかア然としている倉田さん。俺に「あそこも、お知り合いで?」と聞いてくるので、「いや、いちおう今日会ったんです」と返す。
「今日会って、紗夜さん相手にあの距離感って……」
「あなたに京都で会った時もそうでしたよね」
「あ、確かに。身に覚えがある……」
確かに、月夜美のコミュニケーション能力というか、人の懐に潜り込む後輩力というか、そういうステータスには目を見張るものがある。
俺が彼女と初めて会った時も、バイトに採用したときも、今までもずっと、距離が近かった。
そうか。さっきはあんなに俺に抱きついていたが、彼女は単にパーソナルスペースが小さすぎるだけで、全員に対してあの態度なんだったな。
あれじゃあ学生時代も、男子生徒相手に勘違いさせるような行動を取って、初恋泥棒をして夜な夜な泣かせていたんだろうな。
ふと、胸が痛む。病的なものではなく、本当に軽く、締め付けられるように痛む。
「ん……」
「どうしたんですか? 香月さん」
「ああ、いや。何でもないです」
いちアルバイトに対して、胸が痛むとは。なにが起きたんだ、俺の心の中で。よく分からないが、おそらくうちの従業員に対して俺以外が親しげにしているのが少し違和感があったんだろう。
第一、従業員に対して独占欲を出していいのは、ブラック企業だけだ。そんな独占欲、この超絶ゆるゆるホワイト企業の青美堂にあってはならない。
いや、だとしても普段から弦巻さんや倉田さん、たまに市ヶ谷さんともひっついている月夜美に、今更そんなことを思うか?
意味が分からない。自分の感情は、自分が一番把握出来るはずのものだと俺は思って今まで30年生きてきたが、どうやら違うらしいな。
「──すみません。香月さん」
「はい?」
くだらない事を考えながら、ぼーっとしている俺に、氷川さんが話しかけてくる。油断していた俺は、間抜けな声で返事をしてしまう。
「こちら……お借りしても、よろしいでしょうか」
「あ……ああ、はい」
月夜美のだる絡みから開放された氷川さんは、こちらに修理期間中に借りる目覚まし時計を持ってきていた。銀色の、上にベルのついたシンプルな目覚まし時計だ。
実はそれ、まあまあ高いブランドのやつなんだが、気づいていなさそうだから一応黙っておくか。
「あっ、あと氷川さん。さっき言いそびれたんですが、ここにお名前と、直ったら連絡する電話番号を……」
「はい、分かりました」
「ペンいります?」
「持っていますので、大丈夫です」
そういった手続きを氷川さんとしている間にも、月夜美は倉田さんに標的を変えて、何やら話しているようだ。
そのうち修理に必要な書類上の手続きは終わり、氷川さんは帰りの身支度を始める。
倉田さんはというと、月夜美にくすぐられたのか半分涙目の半分過呼吸って感じになっている。それでいて吹っ切れているような気もする。何されたんだよ。心配になるくらいボロボロじゃあないか。
そして、店を出ようとする氷川さんに、月夜美は声をかける。
「あ、紗夜さん! 忘れないでくださいね! 倒れる前、私が言ったこと!」
「は、はい」
「……掃除でストレスが溜まるくらいだったら、少しくらい汚い部屋でいいんですよ。自炊の面倒さで潰れるくらいなら、コンビニ弁当を食べればいいんです。あなたが苦しむくらいなら、ちょっとだけ! 適当に生きましょうっ」
「……分かりました」
どうやらあれでも、月夜美は真剣に氷川さんを心配しているようだ。
俺だって心配だよ。初めて見たもん。寝不足の人が倒れる瞬間。あんなになるくらいに日常で大事な目覚まし時計なら、なおさら早く直さないとな。
「お邪魔しました」
「あ、私も失礼します。ありがとうございます、また来ますねっ」
2人とも、なんだか清々しい笑顔で店を出ていく。
店のドアが閉まり、今日はもう閉店かなと椅子を立とうとすると、真横にいつの間にか月夜美がいた。
「わっ」
「……店長」
「な、何だよ」
「さっきの続き、しましょ?」
そう言いながら、月夜美は俺の頭の後ろと背中に手を回す。膝立ちの月夜美は、俺を立たせて壁に追いやる。逃げ場は無い、というわけだ。
「そんなに嫉妬しなくても、どこにも行きませんよ」
「……誰がッ」
「店長、カワイイ」
背伸びして囁く月夜美。耳元や首に息がかかり、汗が伝う。
こいつ、何がしたいんだ。普段から俺の事おじさんだとか何だとか言ってくるくせに。
実際、おれはおじさんだぞ。何だかんだ店内BGMは中島みゆきの時の方が多いし、彼女の言う妖怪ウォッチだか何だかはサッパリ分からないし、世代の戦隊はギンガマンだ。
そんな俺に、何故こんな事をする。意味が分からない。くそっ、何が望みだ? 色目を使って給料アップを要求しているのか?
月夜美の顔を見てみると、頬は紅く染まり、目は多幸感溢れる細め方で、口角はかなり上がっている。
営業スマイルとは似ても似つかない、かといって素の笑いというわけでもない、俺もあまり見ない笑い方だ。
彼女の腹の中を読めない。こんなに腹は密着しているのに。
というか、俺の下腹部と彼女の腹がこんなにくっつくいていながら、俺が興奮していないのはもはや俺側に問題があるように思える。医者行こうかな。
それか、俺が『月夜美は性欲や愛を向ける対象にならない』という決めつけをしているのか? いやそれは事実だ。決めつけも何も──
「進坊〜、野菜貰ったから分けに……」
そこまで考えた頃、店のドアが開くと同時に、おやっさんの声が聞こえた。
見ると、ビニール袋にパンパンの、大量の野菜を両手に持っている。
こりゃあお袋も喜ぶぞ、ありがとうございます。先程から月夜美に追い詰められてカタくなってしまっている俺は、そんなシンプルな言葉も口から出てこなかった。
おやっさんは、数瞬遅れてこちらの状況に気づく。そして『またか』といった風にため息をつき、野菜を置いて出ていこうとする。
「店、閉じてからやれよ」
「ちょっ!? 待って! あの!」
やっと言葉が出た俺を置き去りに、月夜美はあっさりと俺から離れてドア方面に向かう。
「はぁ〜い! じゃあ私、看板裏返してきますね!」
「野菜は置いていくぞ」
「おやっさん!! 待って、聞いて!! 聞いてください!! 元はと言えばこのアルバイトがですね!!」
「大好きなんですよね〜?」
「そんなことは知っている。ただ、店をやっている途中にそういう事をするのが問題だと俺は……」
「ちっ、ちが……2人とも!!俺の話を聞けよぉッ!!」