月曜日。今日も今日とて、俺は懐中時計に向き合っている。
ヘッドルーペの度を、レンズを交換して変える。そして、ひとつひとつパーツを取り出していく。上に被さっているテンプレートや受の板などはあまり複雑では無いから、昨日のうちに外せて助かった。
部品の数々を見たところ、全て新品同様に綺麗なものだが。しかし、下手したら1本だけ細長いガンギ車の歯が折れているか、ピッチが歪んでいるか、ヒゲが上手く噛み合っていないか……。
といった風な、細かいパーツが壊れているか確認するためには、ひとつひとつ洗浄していくしかない。
普段、内部にいて見て貰えない歯車たちは、いつサボるかも分からない。お前らが学校で、先生が見ていないところで掃除をサボるのと同じだ……親父は確か、そう言っていたっけな。
「おじ様! また来たわよー!」
「大声を出さないでください。店の雰囲気が壊れる」
俺の手元は、大声を出したくらいでは決して狂わないが。あと、今はお客さんもいないから店の雰囲気も別に心配する必要は無いが。
弦巻さんは土曜を挟んで毎日、うちの店に来ている。何故なのかは未だに分からない。毎回、俺と月夜美と、軽い会話をして帰るのだ。
今日は珍しく月夜美はいないが。なんでも、地元から東京に、久しぶりに会う友達が来るらしい。地元がどこかは知らないが、まあまあ遠いとは聞いたことがある。
こちらを見て、弦巻さんは口に手を抑えて「あらっ」と言う。
「ごめんなさい。じゃあ、静かに……」
そう言うと、弦巻さんはこちらにとてとて歩いて来る。そして、俺の耳の間近くで、吐息を孕んだ入店報告をする。
「また来たわよ」
手元以外が全部跳ねた。俺はヘッドルーペを外し、弦巻さんの方を向く。
「何故耳元で囁く!」
すると、鼻先がつんとぶつかる。俺と弦巻さんの鼻が、だ。
近くないか。いや本当に。
別に俺はロリコンではないし、女子高校生には興味は無い。ただ、近いのだ。いや、ガチでロリコンじゃあないぞ。うるさいだろうが、本当だから言っているのだ。
考えてもみてほしい。キミたちだって、女子小学生だろうと、90のおばあだろうと、振り向いたらめちゃくちゃ近くにいるってのは、そこそこに怖いもんだろう。
ジョジョの奇妙な冒険などで有名な荒木飛呂彦先生も、どっかのインタビューで言ってたぞ。『そこにあるはずのない物があると人間は怖く感じる』と。
要するに、外にいるゴキブリってのはまだ許せても、本来虫のいる場所では無いキッチンや風呂場にゴキブリがいると怖く感じると。つまりはそういう事だ。
「おじ様、大声はお店の雰囲気を壊すわよ」
弦巻さんはこちらに顔を近づけたまま、キョトンとした顔で話す。元はと言えばキミのせいだが、驚きすぎてしまったのは俺が悪かった。
今度、出会い系アプリでも始めようかな。女性への耐性をつけるために。
「にしても、別にASMR方式で喋らなくてもだな……」
集中力が切れた。俺は机の下にあるダンボールから、ヤングドーナツを取り出す。
子供の頃、家にあまりいなかった母が、それを埋め合わせるようによく買ってきてくれたお菓子なので、昔からよく食べている。
別に当時の俺はゲームボーイがあれば無限に時間が潰せたし、時計屋で忙しい父も、パートに出掛ける母も、正直いてもいなくてもって感じだった。だが、このお菓子は好きだった。
今となっては、この店を継ぐ前にもっと遊んでおけばよかったなと思ったけど。
弦巻さんは、珍しそうに俺の手にあるヤングドーナツを眺める。
「それは何かしら」
「集中力を高めるためのおやつです」
「糖分ね! 作業には大事だわ!」
そうか。お金持ちは普段こういった50円もいかないお菓子は食べないのか。あれかな、マカロンとか食べてるのかな。
高いお菓子を買うなんて、コンビニのちょい高スイーツで精一杯だよ俺は。
「ふふ、小さいドーナツ。可愛いわね」
「なんか、ミニチュア感あっていいですよね」
それにしても、本当に物珍しそうに見るなあ。マジに初めて見るのかよ、これ。
こんなに美味しそうなのに。
「……」
そこまで考えたところで、俺は『美味しそうだから見ているのではないか?』と考えた。実際、今は午後の2時59分。絶妙なおやつ時だ。
「いります?」
「いいのっ?」
「別にまだストックはありますんで」
そんな目で見られたら、食べづらいもの。
俺はもう1つ、ヤングドーナツを弦巻さんに手渡す。
「……うん、初めて見るお菓子だわ」
「字はヤングドーナツ。この世でいちばん美味い駄菓子ですよ」
「ふふ、気に入ってるのね! あ、このハサミ使っていいかしら」
「どうぞ」
弦巻さんは「ありがとう」と微笑みながら、包装を開ける。4つ入りの茶色いドーナツが袋から顔を出すと、微かにまぶしてある砂糖と、ドーナツ本来の甘い匂いがする。
「というか、駄菓子は知っているんですか?」
「ええ! 何度か駄菓子屋さんに行ったことがあるわっ」
「ほお、気に入ったものはありましたかい」
「平べったい飛行機ね! あれは楽しかったわ!」
「あ〜懐かし! アレ、まだあるんですねえ……」
俺も子供の頃、よくああいうオモチャを買ったものだ。100円以下でああいう飛行機だったり、ちょっとしたアクセサリーだったり、紙風船だったりが買えたのは本当に楽しかった。吹き上げパイプやヨーヨーなんかも流行ったな。
今だと少し値上がりしているかもしれないが、そういうのが買えるってだけで、子供にとってはいい環境だろうな。自分たちだけ物価の安い時代を生きていたことを、今の子供たちには少し申し訳なく思うが。
物価高のぶの字も知らなさそうな弦巻さんは、ひとつドーナツをつまんで食べる。手が汚れないように、袋越しにつまんでいる。給食のきなこ揚げパンを食べる時のように。それ賢いな。俺も今度やってみようかな。
「あらっ、美味しいわ」
「ホントですか?」
「本当よ。あなたが気に入るのも分かるわ」
次々に彼女はドーナツを食べる。俺も口にしてみると、20何年と味わってきた甘味が、改めて美味く感じる。ありがたみ補正があるのだろうか。
50円しないくらいでこんな美味しさを提供してくれるありがたみは、今俺はとてつもなく感じている。
「美味しそうに食べるわね」
そう言う弦巻さんは、既に完食していた。
「そうですかね」
「ええ、誰が見てもそう言うわ」
彼女は微笑むと、俺の背中の上あたりに腹をぴったりとくっつけ、ハグをしてくる。俺の頭に、弦巻さんの顎がのっかっている。
「ギギギギギ」
聞くに耐えない声を出してしまった。月夜美以外の女性とここまで密着するのは久しぶりだ。本当に数年ぶりだ。
風俗に行かないどころか29年間貞操を守り抜いている健全な男子としては、正直相手が未成年であれど意識はしてしまうというもの。
あと、意識云々の前に『嫌じゃない!? おっさんに胸押し付けるの!』と思ってしまうな。俺は。
「おじ様、どうかしたの? 震えてるわ……歯車がおかしくなっちゃったのかしら」
「わしゃサイボーグかっ」
俺が壊れたら誰が直すんだ。ブラックジャックみたいに自分で鏡を見ながらオペするのかな。
その回でブラックジャックは、自分で自分を手術するのもまあ話のタネだろう、と言っていたが、俺は怖くて出来る気がしないね。
ああ、気が紛れてきた気がする。そうだ、このくらいなんて事ない。俺のタイプは大人の女性だ。キャッツ・アイみたいな。
「ふふ」
笑ったか。今、俺の反応を見て笑ったのか。それとも照れ隠しなのか。その顔が見てみたい。
そういえば、うなじあたりに胸が干渉しているので、彼女の顔を見ることも、時計の修理に戻ることもできない。どうしたものか。離れてもらうのもちょっと悪い気がしてきた。
その場で数分間そうしていると、ドアが開く。今回は、数日前からの予約客なので驚かない。
「来たわよ〜、進ちゃんっ」
商店街の八百屋のおばあさんだ。手にはマイバッグ。この青美堂には、買い物終わりに寄ったといったところだろう。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃい!」
弦巻さんは俺から離れ、俺の横に立ってお辞儀をする。
別に、キミは来店の挨拶をする必要は無いんだぞ。元気なのはいい事だが。
おばあさんは、弦巻さんの前に俺が修理していた腕時計の持ち主だ。いや、正確には元々、彼女のものではなかったのだが。
「あら、その子はどうしたの? 新しいアルバイトさん?」
「いいえ、友達よっ」
「そうなの! ウフフ、仲が良さそうでいいわねえ」
口に手を当ててあらあらと嬉しそうなおばあさん。まあ、基本的に俺は月夜美と話していることが殆どだから、新しい関係が見られて嬉しいんだろうな。大方そういった笑いだろう。
「いつから俺たちは友達になったんですか」
「友達っていうのは、書類も捺印も要らないのよ? いつなったっていいじゃない」
「……まあ、嫌ではないっスけど」
「ふふっ」
弦巻さんは笑って、こちらを覗き込む。いつ見ても、明るく可愛い笑顔だ。
俺はハッとして、引き出しを開けて「修理が終わったものがこちらです」と、依頼品を渡す。
ブランドは150年の歴史を持つ『
俺が赤い絨毯のような素材が敷いてある板に乗せて出したそれを見るなり、彼女は先程までの明るい笑顔ではなく、優しく暖かい笑顔に変わる。
目を細め、幸せそうに見つめている。やがて、それを手に取り、彼女は自分の左手首につける。
「ありがとう、進ちゃん。おかげで死ぬまで使えそうだわ」
「はは、また来てくれないと潰れちゃいますよ」
軽い冗談を交わすが、多分彼女の方は冗談のつもりで言っていないのだろう。もう八百屋も息子に継いで長い。俺が子供の頃から隠居気味である。そう言う俺も、少し真面目にまた来て欲しいと言っている。
父がここの店長だった時代から、この店にお世話になっているらしいので、常連が居なくなるのも悲しいし、昔から顔見知りだったので、冗談でも死ぬだなんてあまり考えたくない。
時計なんてのはそこまで頻繁に壊れるものでもないし、ここに本来の目的で来るのも年に1回あるかないかではあるが、居なくなるのはなんにしろ嫌だ。
最小サイズまでベルトを締めても、少しぶかっとした腕時計を心地よさそうに着けるおばあさんの顔は、本当に幸せそうだ。
「主人の形見だもの。もう絶対に壊したくないわ」
「……そうですか。ま、常に身につけておくのも『大事にする』ことの一つですよ。あんまり置きっぱなしにしていると拗ねちゃいますから」
「ふふ、そうね。あっちに行った時に、あたしが怒られちゃうわ」
天井のそのまた上を見つめているであろうおばあさんに、俺は言う。
「ご主人の事もありますが、時計そのものだって、あまり使ってくれないと機嫌を損ねてしまいます。大事に、でも擦り切れるくらいに使ってやってください」
俺がガキの時に流行った、ベーゴマのおもちゃがあったが、あれを壊れるまで使った奴は『相棒を壊れるまで使い続けた者』としてヒーロー扱いされていたっけな。
そういった文化があったから、母親に壊したことを怒られようがなんだろうが、『俺は相棒と共に最後まで生きた』と思えた。
それに、腕時計はある程度であれば、ベーゴマのおもちゃと違って新品同様に直せるわけだし。今回の依頼内容、文字盤とケース及び針の破損も、パーツを取り寄せれば戻る。
だから、大事な人に貰ったものこそ、大事に使い続けるべきだ。扱いに気をつけつつも、常に身につけておくべきだと、俺は思うのだ。
「そうね。決して傷つけないことだけが、主人のためになるだなんて思わないもの」
弦巻さんは、俺たちのやりとりを、ただただじっと見ていた。
作業机から移動し、向かいにあるレジの机に向かう。自分でレジを打つのも久しぶりだな。普段は月夜美が打ってくれるもんだから。
少し手間取ったが、無事に勘定を出すことができた。本当に久しぶりなものだから、何が何だか思い出すまでにちょっとだけ時間がかかった。
「お会計です」
「はい、ぴったり」
「ええ。丁度ですね。ありがとうございます」
12,000円ちょうどをレジにしまい、俺は改めてお辞儀をする。
「今度、お野菜でも持ってくるわね〜っ」
「ありがとうございます。この通り人気のない店なもんで、また来てください。老眼鏡くらいなら直せますし」
「あらそう? ふふ、その時はまたお世話になるわ」
上機嫌で店を出ていくおばあさんの背中は、心做しかいつもよりもピンと伸びているように見えた。
「おじ様は、どうしてこの時計屋をやろうとしたの?」
声が奥から聞こえる。見ると、弦巻さんは、いつの間にか店の奥の待合スペースにいた。月夜美の定位置である和室の隣にある、アンティーク調の机と少しふかふかした椅子が置かれた場所だ。
周りは時計に囲まれており、その空間でこちらを見つめる弦巻さんは、不思議なくらいに絵になっていた。
「どうして……ううん、どうしてと聞かれるとなあ」
続ける理由としては単純で、俺の技術で今みたいな困っているお客様が笑顔になるのなら、それをやらない理由は無いからだ。
確定申告があったって、パーツの輸入が面倒だって、お客様の笑顔は続ける理由になる。
やりがい搾取だなんて言葉も近年ではあるらしいが。もしかしたら俺は、この店長という立場にあぐらをかいているからこそ、今みたいなことが言えるのかもしれないな。
普通の平社員なんかはクビにならないかヒヤヒヤして、いつも精一杯仕事をしているわけだから。バイアスというか、なんというか。
それはともかく、時計屋をやると決めた時の理由というのを聞かれた俺は、少し固まってしまった。
なにしろ、別に俺自身がこの店を営んでいくと選択したとは言い難いからだ。
「別に、夢ってわけでもなかったんです。やりたい仕事ではなかった、っていうか」
俺はレジカウンターから出て、待合スペースの机にあるケトルに、店の裏口近くの水道から水を入れる。
戻ってくると、弦巻さんは一旦どこかに行っていたのか、小走りで待合スペースに戻ってくるところだった。手には2つのヤングドーナツ。
俺は「ありがとうございます」と気の利く弦巻さんに感謝して、電気ケトルを平べったい電源コネクタにセットする。
「夢見ていた憧れの職業ではなかった。かといって、やりたい仕事自体も見つからなかったんですよ、俺……高校生の頃、俺は将来本気でやりたい事っていうのが特になかったんです」
進路希望調査だって、結局書けずに白紙で出してしまったし、大学に行くつもりだってなかった。高校を出たら、適当にどこかに就職して、家計を少しでも楽にしてやろうと思っていたのだ。
パートから帰る度に腹ペコだと言う母が、もう少し良いものを食べられるように。道具をボロボロになるまで使い抜く貧乏性の父が、もう少し良い道具を買えるように。
「そういえば、興味があることといえばバスケくらいだったし、それも部活でやっていた程度で、全国大会にも出ましたが、そこまで本気で仕事にしたいわけでもなかった……選手としてのビジョンは、見えなかったんですよね」
「全国大会! すごいじゃない!」
「ここら辺じゃあ、そこそこ名の知れたプレイヤーだったんですよ」
「おじ様、背が高いし向いてたんだと思うわ! でも、上手いのに、どうしてバスケを辞めてしまったの?」
「辞めたわけじゃあないです。休みの日はたまに散歩がてら、公園で1人でボールとじゃれてますよ」
ケトルのスイッチがカチッと鳴る。お湯が沸いたのだ。
俺はケトルを手に取り、待合スペースの机に、棚から取り出した2人分の湯呑みと、粉末タイプの緑茶の素を置く。よく月夜美が好んで飲んでいる緑茶だ。あいつは好みはババくさいが、舌は確かだ。味は保証する。
「ある日、親父が時計について教えてくれたんです」
「お父様が?」
「ええ、突然。それも、ブランド名から修理のしかたまで……高二の頃だったかなあ」
思い出しつつ、俺はお茶の粉末を入れ、お湯を注ぐ。
父は、昔から気分屋で、今回も気まぐれで教えてくれたのだろうと当時の俺は思っていた。
しかし、いつしか俺は、店の時計の修理をたまに手伝うようになった。助手のようなポジションになったのだ。
部活もある中で、あまり時間はなかったのだが、それでも俺は無意識に学ぼうとしていた。興味があったのだ。時計を直す仕事というものに。
「親父は、継いで欲しいとは一言も言いませんでした。ただ、俺は興味が沸いたから親父の仕事を見ていたし、親父だって俺の将来など気にしていなかったんです。就きたい職業に就けばいい、って」
弦巻さんは、それを聞きながら、ぼーっと湯呑みを両手で持っていた。
「高校を卒業する1ヶ月前くらいに、親父は死んだ」
ハッとした顔をする弦巻さん。いや、いいんだ。あなたは別に失礼な質問など何もしていない。俺が好きで話しているのだ。
俺は俯いて、お茶の水面に反射した自分の顔を見る。父に似てきた、自分の顔を。
「おふくろは吐くほど泣いていたけど、それでも俺は前に進むしかなくて……気づいたら、仕事を継いでいた」
結論としては、時計屋に興味はあったが、最終的にはやむを得ずといった形で店を継いだのだ。
「向かいのおじちゃん、いるでしょう」
「ああ、すっごく綺麗な時計屋さんの?」
「悪かったですね、古めかしい時計屋さんで」
「あら。あたしはこっちの方が好きよ」
本心のようだ。俺は話を戻す。
「あのおやっさんが、まだ時計屋になって間もない俺に色々と教えてくれたんです」
だから、俺が18の頃から、おやっさんは俺に時計のことや、店をやるとはどういう事かというのを教えているのだ。定期的に店に来るのもその時の名残である。
俺は月夜美に弱みを握られていると言ったが、正確には恩があるのだ。
「おじい様も、おじ様のお父様も、進おじ様のことを大切に思っていたのね」
俺はハッとして、弦巻さんの方を見る。
「……そうですかね」
「そうよ! パパがあたしに懐中時計をプレゼントしてくれたり、いつもおやすみの前にキスしてくれたりするみたいに、おじ様のお父様も、おじ様にやりたい事をくれたのよっ」
要するに、愛ゆえの決断だと?
「そうよ! 最後に残るのは愛よ、愛っ!」
「なるほどな……」
店内には、中島みゆきの『愛だけを残せ』が流れている。
やりたい事をくれた。そうだったら、嬉しいな。俺は素直にそう思う。
俺は、左腕の『
「この腕時計も、親父がくれたんです」
「四角い……?」
「ちょっと面白いギミックがありましてね」
俺はピンと思いつく。
「少し芝居をしましょう」
「芝居?」
「例えば、今からあなたと会うとしましょう」
「ええ! 『お待たせ、待ったかしら?』」
「『いいや、今来たところだよ。それに、君といる時は時間なんて関係ない』」
そう言って俺は、その腕時計の文字盤をスライドする。文字盤が端まで移動すると、180度回転して、裏返る。裏側は軽いモールドがあるだけの、ただの銀色の塊だ。
「あらっ! 隠れちゃったわ!」
「フフ、一回やってみたかったんだ、これ。親父はこれでおふくろを落としたらしいから」
「確かにかっこよかったわ……ふふ、大人の魅力ね」
当時の俺は、こんな高いものを着けて歩くなんてとんでもないと思っていたが、俺が修理の術を身につければ問題ないと親父は言っていた。そして、この時計に似合う男になれ、とも。
だから、俺はこいつを着けないといけない。大事に、大事に。まだ似合う男になれている気はしないけど。彼女いないし。
「似合いますかね」
「ええ。とても」
弦巻さんは、そう言って俺の手を取る。時計をしている左腕を。
「やっぱり、愛していたのよ。みんな、みんな、あなたを」
「……はは、そうかも」
「絶対にそうよ」
「だと、いいですねえ」
なんだか照れくさくて、俺は少し笑ってしまい、自然に手を離そうとする。
しかし、弦巻さんは俺の手をしかと掴んでいる。それどころか、互いの指を絡ませ、恋人繋ぎのような手の繋ぎ方をしてくる。
弦巻さんは、ぎゅっと俺の手を握る力を強めて、珍しく静かに言う。
「人は死ぬわ。いつか、絶対に」
弦巻さんらしからぬ言葉に、俺は多少ぎょっとしてしまうが、笑顔ながらも真剣な眼差しの彼女を見ていると、それどころではないと感じてしまう。
俺も、弦巻さんの手を握り返す。すると、彼女はこちらを見て微笑む。
「いつか死ぬからこそ、生きている間は笑顔でいたいし、最後は笑顔でサヨナラしたいと思うの。あなたにずーっと笑顔でいてもらうために、おじ様のお父様はこれをあげたんだと思うわ」
俺は頬を伝う、体温よりも少しだけ暖かい一雫を感じた。
彼女は確か、人々を笑顔にバンドのボーカルだとかなんとか言っていたな。それが、こんなにハッキリとした意図があったからだったとは。
少しの間、彼女は目を閉じ、また開く。すると、顔つきはいつもの弦巻さんに戻っていた。
首をこてんと傾げ、静かに微笑む彼女は、ヤングドーナツをひとつこちらに差し出す。
俺はなんだか彼女に圧倒されっぱなしだな、と思ってしまった。彼女がこちらに向けたドーナツを、俺は口で迎えに行き、食べる。
美味しいよ、弦巻さん。俺も微笑んでみせると、「そうよ。笑顔よ」と優しく言う。
何分、何十分、そうしていただろう。周りに時計はいくらでもあったが、俺はそれを見ようとはしなかった。ずっと、ずっと、弦巻さんの天使のような微笑みを見ていた。
時間を忘れるとは、このことか。時計に囲まれて30年近く経つが、改めて身をもって実感した。