月夜美と進のいる置き時計の前に歩いてきたのは、パンダハウスの管理人にして、時計の持ち主である範田志乃だった。
「その時計は、夫が私に買ってくれたものなんです」
夕方まであんなに日本酒を飲んでいたというのに、鋭い目つきで自分たちを睨む冷静な志乃に、月夜美は圧されていた。
志乃は、逆方向に回る時計を見て、その睨みをさらに険しくして進を見る。
「……これは、どういう事ですか?」
「いえ、大したことはありません。しかし、何度直してもこうなるんですよね」
そう進が言うと、志乃は壁に強く拳を打ちつけて彼に対して威嚇する。
「直るんですよね。あの人が、私にくれた、この時計は」
「……なるほど」
「話を聞いているんですか」
文節を区切って強調してくる志乃に、進は怖気付くこともなく、時計を見て頷く。
月夜美は、何がなるほどなのか、この時計屋の稀なケースとはこんな修羅場が毎回なのか、意味不明な時計の故障の原因は何なのか、考えていた。
しかし、いくら頭をフルで回転させても分からない。そのうち、彼女の考えていること全ての答えを持っているように、進が志乃に話しかける。
「俺も、父が居ないから分かるんですよ……他の人のところに行くなんて、考えられないですよね」
志乃は一瞬ハッとしたような顔になるが、すぐに「あなた自身は、未亡人……シングルマザーが何たるかを知っているんですか」と睨む。
その目つきはビームでも出そうな程に恐怖感を与えるものだったが、同時に泣きそうにも見えるようなものであったのが、月夜美には分かった。
「あなたは今も、旦那さんのことを大事に思っているんですね」
「……悪い?」
「いいえ。ただ、『旦那さんも同じ気持ちなのかな』と思いまして」
進のもとにつかつかと歩いてくる志乃は、「どういう意味ですか」と低い声で訊ねる。
「この時計の説明を受けた時……死戻さん達と初めて会った時のことですかね。あなたは、旦那さんの素晴らしさを俺に説いてくれましたね。常に『あなたの幸せを願っていた』人だったと」
「そうよ。あの人は、私と共に喜び、私と共に悲しみ……18年、私と共に歩んできたの」
すると、進はずっと時計の方を見ていた目線を志乃の方に移し、にっこりと笑って言う。
「なら、きっとあなたの『再婚』も望んでいるのではないでしょうか」
志乃は何かの糸が切れたように進のエプロンを掴み、吠える。
「あの人以外の人なんて私にはいらないのッ!!」
正直、月夜美は彼のデリカシーもへったくれもない発言に引いていた。今までこんな彼の一面は見ていなかったものだから、志乃自身も困惑とともに掴みかかっている。
それでもなお、進は笑顔を崩さず、時計を見ている。
「そうですよね……旦那さん」
独り言のように思える問いかけを時計に投げかけると、時計は一度だけ鐘を鳴らした。月夜美と志乃が驚いて時計の文字盤を見ると、12時を指していた。
偶然にしては出来すぎている。そう思った志乃の思考は正解で、これは単なる偶然ではなかった。時計は、ものすごい勢いで針を動かし始めたのだ。
それも今まで通り、逆時計回りで。月夜美は、歯車たちの高速で回る音を聞き、言いようのない恐怖に耐えかねて進と志乃に同時に抱きつく。
「!?」
「やはりか」
進は顎をこすり、ニヤリとしながら時計を見て言う。
「あなたのことを心配しているんです」
「!!」
時計は、鐘を鳴らしながら動き続けている。振り子は追いつくことを諦めて、力なくぶらぶらと軽く揺れている。
このままでは、パーツ同士の噛み合いがどれだけ良くても磨耗が激しくなり、直ったとしても今後数年も使っていれば壊れてしまうだろう。
本来、この時計は150年は手を加えずとも動くというのを、進は知っていた。
この時計は、腕時計や懐中時計といった小さな時計を専門として、普段から直している進でも知っているような有名な時計である。
進は『鶴は千年、亀は万年、ならば時計は?』という有名なキャッチコピーを思い出し、志乃に笑いかける。
「是非、話しかけてあげてください」
「……はい……?」
「旦那さんの遺志は、まだこの時計に残っています」
有り得ないという顔をする志乃が時計の方を向くと、少しだけ針の回る速度が落ちる。
「あなた……そうなの……?」
彼女が進から離れて間近くまで来ると、時計はピタリとその動きを止める。
「私の、ことを……心配して……」
そう言うと、時計はカチッと一度だけ長針を動かす。その後の「でも、私はあなた以外なんて……」と目を背けると、短針が少しだけ動く。
「……あなた。私みたいなおばさんでも、また……幸せになって、いいのかしら……?」
その言葉を志乃が口にすると、小さなウグイスの模型が、文字盤の上の小窓から顔を出す。鳴き声を出して出入りするウグイスは、彼女を元気づけているようで。
世にも珍しい、鳩時計ではなくウグイス時計。それが、この時計の真の顔だったのだ。
「……あなたは、そういう人でしたね。私のやる事は、いつでも前向きに応援してくれる……人で……っ、ぅ……ぁああ……っ!」
志乃は思わず、そんなふざけた時計だったと思い出し、ふっと笑う。そして、彼女は崩れ落ち、堰を切ったように涙をボロボロとこぼし出す。
「あなた……ぁぁ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……!!」
彼女がそう言って時計に抱きつくと、大きな鐘の音が5回鳴る。
「っ!?」
「おおっ、直った」
進は「愛してる、のサインなのかもしれない」と鐘の音を聞き、玄関から見て左側に向かう。そっとしておくべきと判断したのだ。
月夜美もそれに着いていくと、進は夜風のよく当たる木でできた縁側に座って、タバコに火をつける。
彼の座る横にしゃがんで、月夜美は「あれ、何なんですか」とパンクしそうな頭で聞く。
「こういうの、前にも直したことあるんですが……俺が直した感が薄れて、ちょっと手応えないんですよね」
「独特な悩み! えっ、前にもこういう不思議なやつ直したんですか!?」
「……昔のことですがね」
進は縁側のへりに立ち、タバコをくわえたまま月夜美の方を向き、手のひらを上にして左手を差し出す。
何かも分からぬまま、彼女も立ち上がって彼の手を取る。
「死戻さん、外に出ましょう」
「……えっ?」
「管理人さんが落ち着くまで、少し歩きませんか」
「は、はい」
カチコチのまま月夜美は進についていき、玄関から外に出る。時計に泣きつく志乃と、それを見て心配して寄ってきた、起き抜けの住人たちを背にして。
よく晴れた秋の夜長。町田の住宅街の、街灯と月の光に照らされ、思うよりも歩きやすい道を歩く2人と、流れていく呼出煙と副流煙。
微かな主流煙を顔に受け、進は月を眺めながら「そういえば」と言う。
「何ですか?」
「時計が直ったら、面接をするという話でしたね」
「そ、そうですね」
ドキッとした月夜美を見て、進は笑いながら言う。
「……しましょうか、今」
「ここで!?」
「2人きりですし、丁度いいでしょう」
「あっ、え!? その……ええっ、いや……」
笑顔ではありつつも、冗談交じりではなく、至って真剣といったふうに話す進。
タバコの火をネックレス型の携帯灰皿で消して、慌てる月夜美に目を細めて言う。
「面接と言っても、少し俺と話すくらいです。そんなにカチッとしたものではありません」
「そ、そうなんですね」
この前発掘したリクルートスーツはしばらく日の目を見ることは無さそうだと思いながら、月夜美はその提案を了承した。
「よろしくお願いします」
「はい。よろしく」
月夜美は思わず心臓がドクンと跳ねる。進から発される、慣れない馴れ馴れしい言葉ひとことだけで、なんだか彼氏になってくれたようで夢心地になる。
とんでもなく熱くなった彼女の頬に、涼しい風が当たって、トルネロス顔負けの熱風になり通り過ぎていく。
「俺にタメ口で話される気分はどう?」
「……ドキドキします」
「えっ? そうなの?」
斜め上の答えに、進は少し苦笑いをして、そんな彼女の手を取って目を見る。
「キミ、俺のこと……ぶっちゃけどう思ってるわけ?」
月夜美は、足を止めて考える。既に質問は尋問に変わっていると彼女は感じていた。
ここでの選択肢を間違えれば、アルバイト面接不合格どころの話では無い。彼に嫌われてしまうかもしれない、と、彼女は珍しく自分の思考を足踏みさせる。
考えているうちに、月夜美は自分の目から暖かいものが流れていることが分かった。自然と背中が揺れて、鼻水も出てくる。
自分は今、どうしようもなく苦しい恋をしている。
端から無理な話だったのだ、好きな人に近づきたいがためのアルバイトだなんて。そもそもオフィスラブというのは後天性。入社前から狙ってやる奴がいるか。
自分のお花畑具合が馬鹿馬鹿しくなりつつも、彼女は薄々気づいていた。ここで何を言おうが、自分は後悔する。
自分の気持ちに嘘をつく、自分の気持ちを正直に晒す、その2つの選択肢のどちらでも自分は後悔する。それを月夜美は分かっていた。
もっとも、初めて会った時に告白まがいのことを言ったことを彼女は覚えていないが。
彼女が何を言おうと、進の印象は『この人は俺のことが少なからず好きである』というものになるだろう。
月夜美はたっぷりと悩んだ末に、赤くなった目で彼を見てこう言う。
「大好きです。世界中の誰より、きっと」
思ったよりも正直に来たな。進は再び面食らいつつ、この人には敵わないなと笑う。
「そっか」
「……ごめんなさいっ……こんなんじゃ、不合格……ですよね……」
泣きながら言う月夜美を見て、進は少しだけ黙った後に、彼女の肩に手を乗せ、軽くしゃがんで目線を合わせる。
「俺をどう思おうが、それはキミの勝手だよ」
「……えっ?」
「面接的な言い方をすると、それは選考基準には入らない……好きにするといい」
月夜美は、よく分からないがどうやら許してくれそうな雰囲気を出している進に、これまたよく分からないまま抱きつく。
しゃがんでいるので、月夜美は進の肩に頬をうずめて、未だ出続ける涙を少し、彼のエプロンとその下のTシャツにこぼしながら。
これで元気になるならと、進は背中を撫でて質問を続ける。面接中だとは到底考えられない絵面だが。
「キミは、俺の所でどうやって働きたい?」
「……管理人さんみたいな困っている人を、笑顔にしたい。そして、店長さんの手となり足となり……一緒に、そんな店を続けていきたいです」
たどたどしく答える月夜美の言葉に、嘘はなかった。
少し揺さぶってみるか、と進は少しだけの冗談を交ぜて彼女に聞いてみる。
「俺がいなくなっても、店は続けてくれる?」
月夜美は息をのみ、進を抱きしめる腕の力を強める。彼がいなくなると考えた瞬間、彼女の薔薇色の海の中に、ヘドロのような色の水が入れられたような気分になった。
進が、この世からいなくなるなんて、月夜美は今まで考えていなかった。彼との優しく暖かい日々しか考えていなかった彼女にとって、その言葉そのものが衝撃で。
「意地悪な質問だったかな」
「いえ……その……」
「ん?」
しかし、彼女はそれでも、いつでも、どこまでも前向きであった。
彼女の脳裏には、彼を看取るまでの年齢まで、歳をとった進と月夜美のふたりの情景。進の車椅子を押してあげる未来の月夜美の顔は、これ以上なく安らかで。
「店長さんが命を全うするまで、一緒にいられるって考えると……その後も、頑張れる気がして」
そんな素直な気持ちを、夢見心地のまま口にすると、進は大声をあげて笑う。
「なっ、ちょ! 真剣に考えたんですよ!」
「ははっ! いや……ふふ、すまないね。キミ、本当にめげないね」
「ふん……」
少し拗ねながらもすすり泣く彼女の背中を撫でながら、進は言う。
「この店が続くか、キミの賃金が上がるか、業務内容が変わるか、修理の修行を受けることになるか……そして、俺がキミを好きになるか」
「!!」
「それもこれも、今後のキミ次第だ。頑張れるかい」
月夜美は持ち前の声量をフルに使って返す。
「何でもやりますッ!!」
髪の毛がぶわっと流されるような勢いに圧される彼は、この子になら任せてもいいと、心から思えた。
好きだとか何だとか、そういう気持ちが仕事のモチベーションになるのなら、いくらでも好いてくれて構わない。そして、それなりの好意は返すつもりだと、進は彼女から手を放して、肩に手を置いて言う。
「合格だ。月夜美」
「!! ……店長っ!!!」
しゃがんだ状態から、うずうずと震えたかと思えば、ロケットのように思い切りジャンプして喜ぶ。
「やったーっ!! 店長、店長!!」
「ふふ、何だい」
「大好き!!!」
進はハイライトを取り出し、彼女にくわえさせ、自分もくわえて火をつける。
火のついた先の部分を、彼女のタバコの先につけ、火を分けてやる。手持ち花火のように、ポッキーゲームのように。
「んっ……」
「……乾杯、なんてな」
「もうっ、祝杯なら管理人室にまだまだ余ってますからっ!」
心臓に悪いことをしてくる進に少し慌てながらも、彼女の心の中は、暖かい感情で満たされていた。
ああ、大好き! そう心の中で何度も叫びながら、彼女はタバコをくわえたまま彼の腕に抱きつき、皆の待つパンダハウスまで帰っていった。
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「あの人たち、サラッと出ていきましたわね」
「どこに行ったんでしょう……ああっ、管理人さん、泣かないで」
「……泣かせてやりましょうよ。十数年分」
「月夜美ちゃんたちも、しっかりやっているといいのだけれど」
「大丈夫さ。振られたら、またみんなで飲むだけだから」
「僕、もう飲めそうにないんだけど……」