火曜日、まだ開店する前の7時頃。青美堂のドアは叩かれた。
まだ寝ぼけ眼の俺は、目をこすって和室から店の中に出ると、ドアの向こうには見慣れた顔がいた。
まだオーバーホールしてから、はめきれていないパーツが並ぶ作業机を通り過ぎて、ドアを開ける。
「ごめんなさい。店長」
「どうしたんだ、急に」
そこには、やけにしょぼくれた顔の月夜美がいた。分かりやすく眉毛が下がっており、目を合わせようとしない。
まあ、入りなさいよ。俺は月夜美を、とりあえずではあるが店内に入れてみる。シフトは9時からだったんだがな、結構早い。
俺は彼女を連れ、奥の居間スペースである和室に行く。
「こころちゃんから聞いたんです。あの向かいの時計屋さんのこと……店長のことを」
そう言って彼女は、普段自分が休憩している和室に、なんだか遠慮がちに入ってくる。
彼女が襖を閉める。これで、この部屋には2人きり。いくらでも腹を割って話せるというわけだ。
「なんでだよ」
「遊んできた帰りに、こころちゃんとバッタリ会って……」
彼女よりも先に、俺の方が座布団に座った。彼女は、煎餅とルマンドの置かれたちゃぶ台を挟んで、向かい側に立つ。
「勝手に話すなよな〜」
聞いたって言うか、一方的に話されたんじゃあないか、それじゃあ。
彼女はそれを話すと、座らないままこちらに頭を下げる。
「……あのおじいちゃんの事、悪く言ってすみませんでした」
わざわざ早く来て、何を言いに来たかと思えば、そんなことか。図太いコイツらしくないが、ここら辺のラインは守れるんだと、俺は初めて知った。
俺は彼女に座ることを促しながら言う。
「いいんだよ、別に。あの人も不器用だからさ、そういう風に捉えられるのもよくある事だし」
彼女の渾身の謝罪を無下にするつもりはないが、このくらいで謝らなくとも、誤解されることくらいあの人だって慣れている。
客から『和服のじいさんの顔が怖い』というクレームが入ったことだって、一度や二度じゃあない。その話を聞いて笑っていたし、俺。笑うと決まっておやっさんには殴られるけど。
彼女は座るどころか、頭すら上げようとしない。何故だ。何故そんなにかしこまる月夜美。クイズ王が問題文をほぼほぼ聞かずにめちゃくちゃ早い段階で答えた時みたいな反応にもなるよ、そりゃあ。
月夜美は数分ほど頭を下げたままだった。
「おじいちゃんは、本当はすごい人だったんですね。よく、分かりました」
「……そうか」
「今日は、それを言いに来ました。じゃあ、これで」
そう言って彼女は、和室から出ていく。
いやいやいや。帰るつもりか、こいつ。というか、辞めるつもりか。
「また、機会があればよろしくお願いします」
辞めるつもりだ。間違いなく。
つかつかと歩く彼女の後ろについていく。なんかこいつ、今日はやけに動きがキビキビとしているな。ここに入る時の面接くらい。
俺は、ドアを掴んだところだった彼女の肩に手をのせる。咄嗟の行動だった。
「……辞めるのか?」
「えっ?」
俺の言葉を聞き、何を言っているんだといった風の反応をする月夜美。
「キミがどれだけ気にしているかは分かった。だが……その、辞めるほどのことでは……」
たまにシフトをド忘れするくらいにはおっちょこちょいで、部屋の隅の掃除が甘い彼女でも、俺にとっては立派な従業員のひとりで、大切な人だ。
俺は、必死に気恥しさを押し込め、言葉をひねり出す。
「俺、キミにレジ任せっぱなしだったよな」
「はい? え……まあ、そうですね?」
「この前、キミがいない日に久々に打った。したら、単純な操作に1分以上もかかっちゃったんだ。はは、なんだか……1人で店をやるのは、こういうことかって、改めて分かったよ」
彼女がいなければ、今の俺は店をやっていけないかもしれない。そんな思いで俺は、頭の後ろを掻き、慣れない言葉を紡ぐ。
彼女はなんだかポカンとした様子で、レアな俺の姿をずっと見ている。
誰がなんと言おうと、彼女はうちの立派な従業員だ。4年前、この店の門を叩いた日から、俺は彼女なしでは生きられなくなった。
「キミに辞められると、俺も結構困るんだよ。ほら、俺だけ店内にいると完全に
月夜美がいなくなったら、暇な時に誰と話せばいいんだ。誰とお茶菓子を食べればいいんだ。誰の胸を押し付けられればいいんだ。
俺は自分の非力を実感している。
それに、こんな俺が、従業員ひとり止められないようじゃあ、おやっさんに笑われちまう。
俺は先程の彼女よりも深深と頭を下げて、彼女に手を差し伸べる。
「まだこの店にいてください。青美堂には……俺には、あなたが必要なんです」
彼女の表情は見えないまま、数分。俺は半ば泣きそうな顔で、引き止めを決行したことを後悔しないように、必死に頭を下げ続ける。
何分経っただろうか。彼女は、「ん"〜〜……」と唸りながら、少し乱暴に俺の手を取る。
「!!」
「……な、何なんですか、店長らしくない。ほら、顔上げて。バイトに頭を下げてる店長、見てられませんから」
がばっと顔を上げると、彼女は顔を真っ赤にして俺の手をしかと握っていた。
俺は自分でも、急激に口角が上がるのが分かった。
「ほ、本当か! まだ居てくれるのかッ!」
「居ます! 居ますよ、なんですか急に、恥ずかしいっ! ……その、貴重な労働力なんでしょう? だったら傍にいますよ、できる限りは」
「いいや! 労働力だけじゃあないね! 店にとっても大切だが、キミは僕にとっても大切な人だ!」
「ぇえっ!?」
喉から絞り出したような声を上げる。そんなに驚くなよ、告白したみたいになるだろう。
彼女は頬をぽりぽりと掻きながら、俺と手を繋いだまま言う。
「ていうか、辞めるなんて一言も口にしてないじゃあないですか」
「え?」
いや、いやいや。俺は困惑しながらも、彼女に言う。
「だって今日、シフトあるだろ? でも帰るってことは、もう辞めるのかなって……」
「…………えっ??」
彼女はハッとしたような様子で、指折り計算を始める。やがて指折りよりもスマホを見た方が早いのか、ジーパンのポケットからスマホを取り出す。動揺しすぎだ。
先程も言ったが、月夜美は、たまにシフトを忘れることがある。と言っても、数ヶ月に1回程度だが。
うちのシフトも不定期だし、遅れて来る分には問題ないので、別に見逃しているが、まさかコイツ。
こんな誤解させるようなタイミングで、今日のシフトを忘れていたんじゃあないだろうな。
彼女はスマホをついついと触るうちに、ハッと気づいたように口を開ける。
「あ"〜〜〜〜〜っ!!?」
「……オイオイ。忘れてただけかよ、言い損だ」
俺はてっきり、キミが辞めるものかと思って、久しぶりにキミに敬語を使ったんだぞ。
深いため息をつき、俺は思わず座り込んでしまう。エプロンの端が床につく。
どうしてくれるんだ。今後ちょっと話しづらくなっちゃったじゃあないか。結果、マイナスだ。
「店長」
「何さ」
「……ダメ。なんか好きになっちゃいそう」
言ってる場合か。彼女は本気で頬を赤く染めている。ガチの照れだ。
こっちだって照れてるんだぞ。俺は両の頬を手のひらで触る。熱い。38度くらいはある。
あと、好きになりそうってなんだ。
「好きじゃなかったのかよ」
「!!?」
俺は半ば冗談交じりにこう言う。だって、だってさ。あの距離感で人として俺の事を好きじゃないなんて、嫌い及び無関心だなんて、時代が時代なら思わせぶり罪で打首だぞ。
もしくはギザギザした床に正座させられて、太ももにデカいブロックをドカンだぞ。
彼女の顔を見ると、恐らくではあるが、俺よりも真っ赤になっていた。頬をおさえて、あわあわと足踏みをしている。
俺は仕返しがてら、立ち上がって軽く見下し、微笑んでみせる。
「……そういう顔もするのか、キミは」
「へ……?」
「冗談だ。キミは反応が面白いからな」
「ッ……ひっど〜〜〜い!! 女の子を弄んで!!」
月夜美は、こちらに正面から、まるで兵役から帰ってきた父に飛びかかって抱きつく息子のように捕まる。
そして、俺の背中をぽこぽこと力なく叩いてくる。
「そうやって今まで何人も勘違いさせて泣かせてきたんだ!! あぁ〜〜あ!! せっかく好きになりそーだったのにー!!」
「まあまあ痛いし重いぞ」
「はぁ〜〜!? 店長の大大大だぁ〜い好きな私が!! こんなにデレてるんですよぉ〜〜!?」
「オフィスラブは好みじゃあない!」
俺は重いと言いつつも、そこまで持ち上げるには困らないような細さの彼女の腹あたりを掴んで、ひっぺがして下ろす。
月夜美は、頬を膨らませてこちらを見るが、少ししてまた何だかしおらしい顔になる。尋常ではない感情の乱高下に自分自身がついていけているのが不思議なくらいだ。
彼女は足をもじもじとさせながら、恥ずかしそうにこちらを見て言う。
「前からずっと好きですよ。店長」
俺の両手を取り、それを胸元まで持ってくる月夜美。こちらとしっかり目を合わせ、手を握る力を強める。そして足元を見ると、じりじりとにじり寄ってくるのが分かる。
何をするつもりだ。また抱きつくつもりか。それとも、それ以上のことか。
俺は29だぞ、と言いかけたところで、店のドアが開く。錆びた歯車のごとく、月夜美と共にギギギと首を動かすと、おやっさんが居た。
来る間隔短くなりました? と聞く前に、おやっさんが口を開く。
「じゃれ合うのは閉店してからにしろ」
「じゃれ合ってないッスよぉ?」
「いやあホント全然。イチャついたりとかしてないです」
おやっさんは組んでいた腕をほどき、こちらを指さす。
「どこがだッ、これのどこがイチャついていないというんだッ。しかもちょっと純情っぽいのが嫌」
「嫌とかいう話になってるじゃないすか」
感情論になっちゃってるじゃない。
「えへへ、気をつけま〜す。あっ、おじいさん、これ食べる〜?」
「……コイツは何故雇っているんだ」
「なんですってえ!? まだ業務時間じゃないからいいでしょっ!」
月夜美は俺と繋いでいた手を解き、おやっさんと目線を合わせる。俺より一回り身長が高いので、だいぶ首を上にして、見上げている状態だ。
割と頼りになるんだ、と言うのはちょっと恥ずかしい。前後の流れからして。
俺は先程彼女にああ言った手前、申し訳なさそうに、嘘では無いが本音を隠しておやっさんの質問に答える。
「存在感かな」
「……お前、暗いし影薄いもんなあ」
「ええっ、あなたまで……」
今まで言われたこと無かったぞ、そんなの。ずっと思ってたのかソレ。割とショックだ。
俺は疲れてしまい、作業机の前にどかっと座る。
「ていうか、前来たばかりじゃないですか」
「お前たちの騒いでいる声が聞こえてきたのだ」
「ああ、なるほど」
彼はいつもと比べると、少し表情が緩んでいるように見えた。俺らの店の雰囲気によるものだろうか。
しかし、すぐにまたいつも通り、手を組んでこちらを見る。
「お前はお前の思うままに進めばいい。俺は、それまでをも止めはしない」
「……おやっさん……」
「進坊。俺がいなくなる前に、安心させてみろ。そのくらいの店を作れ」
オーバーホールした弦巻さんの懐中時計の部品たちが、半分ほど散らばっている作業机を一瞥し、おやっさんは口角を上げる。
「お前の父ちゃんの願いも、きっと俺と同じはずだ」
この人の笑顔なんて久しぶりに見た。
「違いないッスね」
父は、この店をどんな風にしたいとは言っていなかった。ただ、好きなようにやればいい、それが色になる……と。
客は少しはいないと困るとは言っていたが。
親父。俺はまだまだだな。
隣で、足を揃え直す音がする。真面目な顔をした月夜美が、大真面目に敬礼をしていた。
「はいっ! アルバイト、死戻月夜美! 精一杯頑張りまーす!!」
少し絵面が面白くて笑いかけてしまうが、俺もつられて敬礼する。
「……店長、香月進。精一杯、頑張ります」
「ああ。頼んだぞ」
おやっさんは、仲良しに戻った俺たちを見て、「こういう店があったっていい」とつぶやき、去っていく。ドアが閉まってしばらくしてから、俺らは敬礼のポーズを解いた。
月夜美は、こちらに椅子を持ってきて、隣に座ってから言う。
「あんな柔らかい笑顔もできるんですね」
「接客で使えよってな」
「えっ、店にいる時もずっとアレなんですか?」
「ああ。だから俺、ビジネススマイルは教わってないの。独学」
俺は、客が来ない故にあまり使わない作り笑顔を見せる。おお〜、と月夜美は素直に拍手してくれる。なんだか恥ずかしい。
「うっわあ、そうなんだ……ま、でもあの人はあの顔の方が似合ってるかも」
「正直、俺も似合うと思う。職人みたいでカッコイイ」
おやっさんは、なんだかんだ言ってカッコイイと俺も思っている。でなければ、あんな無愛想で暴力的で見て盗め的な教え方についていかないさ。
ただ、あれでも別に感情が無いわけではない。現に俺は、親父の葬式で──
「おじい様! 涙を拭いて! あたしと笑顔になりましょうっ!」
「あっ、バカ! 騒ぐな! 聞こえるだろう!」
「そうだ! おじ様と月夜美と一緒に話しましょうよ! きっと笑顔になれるわ!」
弦巻さん特有の、よく通る大きな声と、珍しく慌てたような、水分を含んだおやっさんの声が、ドアを貫通して聞こえてくる。
うちは出入口方面の壁は、ドアも含めて一面ほぼガラスで作られているので、目の周りが赤くなったおやっさんと、それを引っ張る弦巻さんがハッキリ見える。
月夜美は、先程見直した的なことを言っておきながら、外に見える2人を見て大笑いしている。つくづく神経と太ももの図太いやつだ。
「アハハッ、アハッ、アハハ……」
「笑いすぎだろ」
そう言う俺も、可愛らしいところがあるじゃあないかと笑ってはいるのだが。
「ね〜ぇ、店長」
「ん?」
月夜美は、肩を組んできて言う。
「からかってやりましょ」
俺は思わず吹き出してしまう。そして、肩を組み返して笑う。
「賛成〜」