空と君のあいだに   作:苗根杏

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9.守ってあげたい

 

「……そん、な……姉が……千果が……」

 

 途切れ途切れに呟く万実さん。その声は、震えながらも悲しみを帯びている。

 

「あなたと一緒にいた頃、玄関に大きな時計を欲しがっていたのを覚えていたんです。遊びに来た時に、見せてあげられるように置いていたとも言っていました」

「っ……」

 

 市ヶ谷さんも、東野さんの言葉で何かの歯車が噛み合ったのか、鳩がショットガンを食らったような、それを見て青ざめてしまったような、とにかくグロテスクなものでも見たような顔をしていた。

 

 確かに、この事実は市ヶ谷さんや万実さんにとっては酷がすぎる。

 

 何日前、もしくは何週前、あるいは何ヶ月前に千果さんが亡くなったのかは分からないが、どれだけ時間が経っても、千果さんに関する事実は、親族には重すぎる。

 

「……あなたの事も、よく妻から聞いていました。変に意地っ張りで、頑固で、でもそれは店のためを思っているからであって……」

 

 東野さんは、崩れ落ちた万実さんを見て、少しだけ黙ってしまうが、意を決したように掠れた声で言う。

 

「あの人は、あなたのために店を出ていったんです」

「!!」

「……なんで……だ……」

 

 疑問を口にする市ヶ谷さん。握り拳に力をこれでもかと込めて、下を向いて涙声で震えている。

 

「なんで、今この場で言うんだよ……」

「手紙が、出てきたのです」

 

 そう言うと、東野さんは胸ポケットから、質素な白い封筒を取り出す。そして、それを市ヶ谷さんに渡す。

 

「この事実を伝えるように……そして、『この時計を直すように』、と」

「えっ!?」

 

 月夜美は、それを聞いて大きな声で狼狽えたように驚く。

 

「ちょっ、待ってくださいよ! あ、私も時計屋の者なんですけども! 壊れたのってここに来てからって聞きましたよ!? なんで壊れる前から、直すようになんて書いたのか……!」

 

 確かにそうだ。その千果さんが亡くなったというのは、俺が依頼を受けるよりも前なのは確実だが、この時計が渡される前でもあっただろう。

 

「僕にも分からないんです。この時計をそちらの流星堂に引き渡す、つまり亡くなる何日も前に書かれたものでして……一応、晩年はボケも入っていたので、そちらのメモは気にとめてはいなかったのですが、どうやら壊れたとのことで……」

「……この時計がここに来ることは、知っていたんですね」

「は、はい。僕はこの時計が、義妹さんのために買われたものというのを知っていたので、元よりここに渡すつもりだったのですが、この手紙は……そうですね。僕を信頼しきって書かれたものなんですね」

 

 千果さんにとって、この流星堂に時計が渡されるまでは前提条件であったとして、故障することは知らなかったはず。なのに、その手紙には故障する旨が書かれている。

 

 東野さんは、あくまで冷静に述べる。しかし、その声色には少し、自分への怒りと後悔の念があるように思えた。そして、自分の状況を整理するようにもつぶやく。

 

「これじゃあ……まるで、壊れることを予言しているみたいじゃあないですか」

 

 意味不明なまでの予言の手紙を市ヶ谷さんから渡された万実さんは、それを見た瞬間、何故か涙が溢れて来てしまった。

 

 懐かしい筆跡を見たからであろうか、はたまた彼女が生きていたことそのものを証明するものを見てしまったからであろうか。ともかく、万実さんは手紙を見た後、うずくまって泣いてしまうのであった。

 

「ごめんなさいっ……姉さん……ごめんなさい…………」

 

 今更、遠いところにいても自分のことを思っていたことを知った彼女の痛みは、計り知れない。

 

 しかし、生前にもっと何かしてあげられたという無力感なら、俺も知っている。

 

 俺は、父の顔を思い浮かべながら、ドライバーと懐中電灯を持つ。

 

「突然、家族が先立つ気持ちは痛いほどに分かります」

 

 そして、立ち上がって深呼吸をし、時計の方に向く。

 

「何としてでも、直します。香月の名にかけて」

 

 そして、千果さんのためにも。

 

「! ……お願いしますッ、時計屋さん」

 

 俺は、その千果さんという方がどういう人物だったのかはおろか、顔すら知らない。

 

 しかし、万実さんと同じで、厳しくも優しく、彼女もまた流星堂を守ろうとした1人なのだろうというのは分かる。

 

 俺は月夜美に懐中電灯を渡す。

 

「月夜美、やるぞ」

「お、押忍……!」

 

 彼女はそれを受け取りながら、内八字立ちをする。

 

「ばあちゃん」

「っ……ぅ……」

 

 そこから時間が経ち、月夜美は明日の出勤があるからと帰った。大丈夫だ、1人でも修理くらいはできる。持ってきたバンダナを頭に巻き、懐中電灯をそこに差す。

 

 なかなか複雑な構造で、外す度に忘れないように一応とスマートフォンで写真を撮る手順がもどかしい。

 

 一刻も早く、東野さんのためにも、万実さんのためにも、そして何より亡くなった千果さんが修理してくれと言っているのだから、そのためにも俺は頑張らなくてはならない。

 

 月夜美が帰ってからまた時間が経った。1時間か、2時間。蔵の中は、12月の厳しい寒さが閉じこもって、寒さを極めている。

 

 丁度いい。このくらい寒い方が、眠らずに済む。

 

 そのうち、市ヶ谷さんが夕食を届けに来てくれた。簡易的なおにぎりだったが、頭も体もそこそこ使った今は、身体によく沁みるものだった。

 

 そうして夕食を終えて、また時間が経つ。一体どうして、こうもパーツを外し続けても終わらないのか。足元をふと見ると、歯車だけでも大小さまざまなものが100個以上置いてあった。

 

 俺はそこで、この時計『も』、この世の物ならざる不思議な時計であることを嫌でも認識せざるを得なかった。誰もいない、暗くて寒い蔵の中、俺は背筋がぞくっとする。

 

 こいつもまた、弦巻さんの懐中時計のような、何か特別な念を持ったものなのか。しかし、目的がなんであろうと、俺はこいつをやっつけなければならない。

 

 明日もまた客は来ないだろう。少しくらい夜更かししたって、月夜美のように寝ればいいさ。

 

 そうしてまた、何十分、あるいは何時間か経った時。蔵の門が開かれた。

 

「ふぁあ……ちょっ、香月さん!? えっ、昨日もう少しで終わるって……」

 

 声の主は市ヶ谷さんだった。

 

「終わらないんですよ、どれだけやっても」

「ええ……ずっと帰ってなかったんですか?」

「ずっと篭っています」

「寒くないですか? カイロとかありますけど……」

「暖かくなると眠くなるんです。お気持ちはありがたいのですが、今は結構です」

 

 彼女の方も向かずに、俺はひたすらにパーツを外す。そのどれもが何の変哲もないパーツで、ムーブメントはいくら経っても見えてこない。

 

「あの、せめて朝飯だけでも……」

 

 足元は、すでに動けないくらいに歯車やアンクルが積み重なっていた。いったい何層あるんだ。

 

「それに、ばあちゃん、そんなに無理して修理しても喜ばないと思いますし……」

 

 勝つ見込みのない戦いをさせられているようで、こんなことをやってもまた歯車はどこからか生えてくるのではないかと、我に返りそうな時もあった。

 

「……あのー、聞いてますか……?」

「…………」

「ちっ! ……もしもし? ああ、そうだ……ここにいる……」

 

 しかし、俺はこれを直すほかにここにいる資格も、時計屋をやる資格もない。親父だったら、そうする。どれだけ理不尽な状況でも、乗り越えると思うのだ。

 

「はあ!? いや、今かよ! ちょま……っ……ったくよぉ〜〜……!」

 

 そう、俺はあの人の息子で──

 

「いい加減にしてくれよっ!!」

「!?」

 

 叫んだのは、まだ蔵の入口にいた市ヶ谷さんだった。何を言う、俺はキミに頼まれてここに来たんだぞと言いたくなったが、彼女の方を見ると、そんな言葉は引っ込んでしまった。

 

「あーっ、もう! どいつもこいつも好き勝手動きやがって! 気づいたらずっと修理してるわ、アホほど白米おかわりするわ、千果さんを思い出して落ち込むわ、急に来たと思ったらよく分からない手紙読まされるわ!! 何なんだよッ、私の周りの人達は!! 人の意見を聞くと死ぬのか!?」

 

 なんだか、いつ地雷を踏んだのか分からないが、口から火を噴いている。目をかっ開いて、若干ヒステリック気味に叫んでいるのだ。

 

 かと思えば、彼女はスンと息切れもせずに大人しくなり、こちらに冷静に言う。

 

「なので、私も好き勝手やらせてもらいました」

「な……えっ……?」

 

 状況が飲み込めないまま、市ヶ谷さんはこちらに背中を向ける。かと思えば、こちらに向かってくる誰かとバトンタッチをして、去っていってしまう。

 

「後は頼んだぞ」

「ええ。連絡ありがとう、有咲」

「大事な人なんだろ。目を覚ましてやれ」

 

 そう言って、門から光が差し込む。朝になったのか、その人の後光なのかは分からない。

 

 しかし、俺にとってはそれが現実味のない出来事にしか思えず、すっかり人ならざる者の後光に思えてしまった。

 

 ただ、その光に透かされる金髪と、その暗闇でも輝く目を、俺は知っていた。つい先日まで、店に毎日来ていたからな。

 

 というか、あの懐中時計を直してからも週一で来ている。

 

「来たわよ、おじ様」

「……一応聞いておきましょうか。誰です?」

 

 彼女は自信満々に答える。

 

「サンタクロースよ」

 

 確かに、俺が真剣に修理をしている時、しょっちゅう様子を見に来るのは、最近では大体あなたでしたね。

 

「プレゼントを届けに来たの!」

「そうですか。慌てんぼうですね」

 

 律儀に赤い服──ただの私服だが、サンタクロースの概念コーデとでも言おうか──を着てきた彼女は、袋も何も持っていないのに、クリスマスの数日前にサンタを名乗っていた。

 

 弦巻さんは、門のところから叫ぶ。

 

「おじ様! 助けてあげるわ! なんでも指示をして!」

「そうですか! ではお願いします! 帰ってくれませんか!」

「無理っ!!」

「あなたという人はッ!!」

 

 元気なのは何よりだが、無理と言われても無理なものは無理だ。

 

 それでもなお、こちらに歩み寄ろうとしてくる弦巻さんは、何かに気づいて足を止める。俺から2mほど先で、足元を見て止まってしまったのだ。

 

「何……この歯車の山……」

「どれだけ外しても、終わらないんです」

 

 俺は至って冷静に、真剣に言うが、彼女は俺の言葉を聞いてにっこりと笑う。

 

「また、不思議な時計ね」

 

 弦巻さんは、その笑顔のままで俺に語りかける。

 

「でも、今は休むべきよ」

「俺はできる! できるはずなんだッ! 親父と同じように!」

 

 その瞬間、俺は自分の中の糸が切れたかのように叫んでしまう。

 

 どいつもこいつも、俺にはできないと思っているように思えてしまう。

 

 分かっている。10年ほどやっていると、修理中にこういうネガティブ思考に陥るのは休憩が必要な証拠だ。客観視はできている。

 

 問題は、ここでやめられるほど俺は大人では無いという事だ。中途半端にやめてしまったら、なんだか俺自身が中途半端になってしまう気がして。

 

 父の背中に、届かない気がしてしまって。

 

 俺は目を閉じて、父を思い出す。もう声も曖昧になってきている父のことを。

 

 あの人はこういう時、どうするのだろう。素直に修理をやめるのか、それとも。

 

「おじ様」

 

 ふと、悪魔の囁きが耳に入る。至近距離でだ。

 

 避ける暇もなく、俺は身動きが取れなくなる。抱きしめられたのだ。真正面から。

 

 赤のワンピースを着た弦巻さんは、抱きついたままこちらの顔を見上げる。

 

「おじ様は、おじ様のお父様にはなれないわ」

「ッ!!」

 

 ふと、もがきたくなった。自分にかけられた催眠のような何かが、解けるような気がして。長年価値基準にしてきたものが、壊れそうな気がして。

 

「お父様がおじ様になれないように。あたしがおじ様になれないように」

 

 そうだ。そんなことは分かっている。しかし、父は、かつての自分のような時計屋になってほしいに決まっている。きっと、そうだ。そうなんだ。

 

「違う、俺はただ」

 

 そこまで言いかけたところで、彼女は俺の両頬に手を添える。恋人がキスをするように。

 

 彼女の目に悪気はない。しかし、今の俺にとって彼女の囁きは悪魔、いや悪そのものであった。俺は、父のように『ならなければいけない』。

 

 これが最適解でなければ、ここまでの10年ほどが無駄になる気がしたのだ。

 

「あなたはお父様に縛られているの。そんなの、お父様は喜ばない。笑顔にならないわ」

「じゃあどうしたらいいんだ! 俺は……ッ」

「この世の何者かになる必要は無いの! おじ様は、この世に一人しかいないあなたになるのよ!」

 

 俺は、はたと目を開く。俺の顔を寄せて、弦巻さんは自分の顔の間近に持ってきていた。

 

 目が嫌でも合う距離。彼女の金糸雀色の目は、俺の目どころか、冷えた身体のすべてを焼いて、灼いて、焚き尽くしてしまいそうで。

 

 しかし、それでも目は離せなかった。

 

「俺が、オリジナル……」

 

 そうつぶやくと、彼女はにっこりとほほ笑みかける。

 

「おじ様。あなたは、あなたの好きなように進むのよ。あなたの人生なんだから……だから、やり直すことだってできる!」

「……だが……」

 

 俺は往生際悪く、目を細める。しかし、彼女はそんなことは意にも介さず、いや、ある意味では意に介しているのか、俺の頬にキスをする。

 

 俺は思わず、背筋が伸びる。後ずさってもしまう。

 

「あたしは、どんなおじ様でも好きよ」

 

 何が何だか分からず、俺は圧倒的な情報量の波で混乱する。

 

 ただ、ひとつ分かったのは、俺のこんな姿を見た父は『バカだな』と笑うだろうということだ。

 

 そして、後ずさった時、俺の手が時計に当たる。

 

 直後、俺の後頭部に重い衝撃。なにか、金属のようなものが当たったようだ。

 

 それは、もみじ屋のおやっさんのゲンコツにも似ていて、俺の目を覚ますには十分だった。そんな俺を見て、いや、俺の後ろの方を見て、弦巻さんは何やら目を輝かせていた。

 

 本物のサンタでも来たのだろうか。にしてもあわてんぼうだが。そう思って後ろを見ると、時計が歯車を吐き出していた。

 

「パーツが……」

「すごいわ! おじ様は手を使わなくても外せるのね!」

「言ってる場合ですか! 逃げてください!」

 

 波のように、俺らを押し出さんとする歯車たち。いや、押し出すどころか、蔵にある他の品物の隙間にも潜り込む。

 

「く……!」

 

 その場に留まろうとするも、歯車の歯が足を削ってくるように流れてくる。金属の海。小さな生き物くらいなら命すら奪いかねない。そう思った俺は、弦巻さんを外に逃がした。

 

 どういう仕組みなんだ。時計を見てみると、何やら奥の方が暗くてよく見えないが、まるでその暗いところに四次元空間があって、そこから泉のように湧いているようだ。歯車だけでなく、さまざまなパーツが溢れてきている。その数、およそ数百。

 

 数分の間、それらが流れて、蔵から出ようとした時、ふと流れが止まった。

 

 ズボンの下と靴がズタズタになりかけた。なんというきかん坊だ。少しのイラつきと、こんなに時計をバラバラにしてしまった千果さんへの罪悪感を感じながら、置き時計の方を見る。

 

 そこには、がらんどうになってしまった時計と、その中にひとつだけ、蔵に入る太陽の光を反射して輝く、おそらく動力となる部品があった。

 

 そして、光を反射しているのは、金属だからではなかった。

 

「あれは……!?」

「な、えっ……」

「……『凍ってる』わ……!」

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