エベレストの峰を抱くようにとぐろを巻く巨大な蛇を見た。
あれは白昼夢だったのではないか。本当に現実だったのか?
――とある登山家の手記より一部抜粋。
その日、真夜中の山深い研究施設にて世界変革の端緒が開かれた。
後世を生きるものたちに福音をもたらしたその変化は、第一に、施設外縁の防壁周囲をパトロールしていた警備スタッフ数名の突然の意識消失、第二に、防壁の崩壊、そして第三に、激しい揺れとともに堅牢な施設を強襲した。
施設内の中央監視室はだらけた平穏につかりきっていた。
こんな辺鄙な研究所なんぞいったいどこのどいつが狙うってんだと、毎度のことながら雑談に興じて監視映像に一瞥もくれない数名の尻がイスから飛び上がる。どかんと建物自体が激しく揺れた直後、けたたましい警報がそこらじゅうで鳴り響いた。
こんなことは、誰もが配属されて初めての経験だった。目を白黒させるスタッフの中には大地震かと机の下に潜り込むものまでいた。地震にしては揺れに持続性がない。おかしいぞと、そのうちの半数が初めてまともに監視映像をのぞきこんだ。
施設内各所では研究員や警備スタッフらが右往左往するさまが見られる。誰もが中央監視室に待機しているスタッフと同じく状況を把握していないが、実験室はいっそう堅固に造られているから、その中で作業中の研究員たちは比較的冷静なようだ。
現場から内線で状況の説明を求められたが、肝心の外郭監視カメラが途絶しているので彼らにも答えようがない。
しばらく電話越しに現場責任者からの叱責を浴びていた一番のベテランが、まだ生きているカメラを探して角度を調節した。
中央監視室にいた誰もが言葉を失う。
外壁が崩壊し、主要施設北側の広範囲に大きな穴が開いている。今にも崩壊しそうだ。爆弾か、そうでなければ隕石が衝突したか。スタッフにそう思わせるほど非現実的かつ甚大な被害だった。
映像をフルスクリーン表示にしたスタッフが「おい、あれ……」と粉塵と瓦礫が降り注ぐ映像を指さす。不気味な異形の影が映り込んだ。長い尾があるのはわかる。角のようなものも。明らかに人間の形から逸脱しているが、それは直立の二本足で立っている。
誰かが内蔵マイクをオンにした。同時に銃声。北側施設から出てきた警備員三名がアサルトライフルで異形を迎え撃つ。カメラ側からは不明瞭だが警備員はしっかりと襲撃者を目視している。感知の異能だ。
異形は倒れない。それどころか一歩も退かず微動だにしない。煙の中でゆらりと動く尾の影が見えるので死んですらいない。
じわじわ前進しつつ素早くマガジンを交換する警備員らの顔は強張っている。中央監視室のスタッフたちにはこの男たちの額ににじむ冷や汗さえ見えるようだった。三人のうち二人が逃げ出すのにそう時間はかからなかった。
たった一人残された警備員がすぐ弾切れとなったアサルトライフルを投げ捨て、レッグホルスターからハンドガンを引き抜く。それすら弾切れとなり、ついにタクティカルナイフを抜いて構える。
土埃の中からぬらりと尾が伸びたかと思えば鞭のようにしなった。
映像の中で、警備員は車両に追突されたかのように吹っ飛んだ。瓦礫の中に突っ込んで、それからぴくりとも動かなくなる。
中央監視室は慄然と静まり返っていた。
もはや誰の耳にも、電話から響く怒号など聞こえていない。
尾の一振りで濃霧のような粉塵に切れ間ができていた。そこから垣間見えるのは紛うかたなき異形のすがたである。
天を衝く四本角、厳めしい形相に鋭い牙と爪、鱗の肌、獣脚類を思わせる両脚。長い尾にはたてがみ。その巨躯。
「化け物……」
誰かが呟いた。全員だったかもしれない。
ちょうどそのときになって、一体何事かとボイラー担当の夜勤スタッフが駆け込んできたが、一連の出来事を目撃した監視室のスタッフたちは彼を押しのけて我先にと逃げ出した。
ますます混乱する夜勤スタッフは通話中の内線に気づく。身が竦むような怒号だった。その声がおぞましい悲鳴に変わり、突然ぷつんと途切れる。恐々と視線を上げた先にいくつものディスプレイがある。リアルタイムに映り込む映像に施設内を蹂躙する暴虐の化身が映り込む。
冗談のような破壊力で床や天井がえぐられ、区画ごと遮断する防護壁はいとも簡単に次々と破られていった。逃げ惑う人々は綿の詰まった人形のように軽々しい。
化け物が拳や尾を振るうたび、中央監視室までもが揺れに襲われた。施設内の監視カメラが次々と遮断されていく。崩壊の音が近づいてきていた。
暴虐の手は例にもれなく実験室にも届いた。というより、この怪物の狙いははなからここにある。怪物は施設北側から一直線にこの実験室に到達していたのだ。
爆散した壁に巻き込まれてまず幾人かが無力化される。粉塵による視界不明瞭もものともせず、尾の一振りで手近にいた研究員を更に一人仕留めた。
作動したスプリンクラーによって粉塵が晴れていく。
破損した数多の機材から火花が散っていた。ぐるりとあたりを見回した怪物は手近な機械を異形の足で踏み潰す。奇怪な機械は今や粉々だ。白い床は瓦礫と血で塗り替えられ、牢獄のような壁という壁は屈強な個によって踏破された。
怪物は、実験台の下でうずくまっている小さな影を見逃さない。
突き出た鼻、小さな耳、薄汚れた白い被毛にひょろっとした尾。ネズミというには大きすぎ、人というには小さすぎる。幼児ほどの小さなナリだ。何よりもつぶらな瞳が印象的だった。くりっとしていて黒々とした瞳には理知の輝きが宿っている。眼窩を中心に右顔面を縦断する深い裂傷は受傷から日にちが浅いようで、右目は塞がってまわりの毛が血でかたまっていた。
「お前の声だったか」
ふんと彼は鼻を鳴らした。
ネズミは未曽有の危機に半ば恐慌状態にあった。
「――少しは気骨のある奴がいるかと思えば、たかがネズミ一匹」
怪物の興味がまだ意識のあった研究員に移る。這って逃げようとしている。太く長い尾がぞろりと床を舐めるように叩き、胴体を捕らえて軽々持ち上げた。わずかな筋と皮で繋がっている状態の左足がぶらぶら揺れる。宙吊りとなった研究員は悲鳴を上げたが、この怪物を前にして抵抗の虚しさを理解しているのか、暴れるようすはない。ただ血の気の失せた顔で命乞いをする。
「許して……! いやだぁ、お腹の子だけは……っ」
返答は低くおぞましい唸り声である。
「命を弄びながら腹の子を惜しむとはバカな女だ」
ぐっと尾に力を込めれば絞められた鶏のように鳴いた。
「待ってくれ!!」
必死の叫びは背後から。
懸命な子供の声にも聞こえた。
研究されるほどに貴重な生き物だとして、それが何だというのか。このネズミもまた怪物の機嫌ひとつ、尾の一振りで血煙と化すだろう。目の前の女もまた、尾をあと少ししぼれば弾ける水風船だ。
「待って……」
ネズミがよたよたと義侠心を拠り所に立ち上がる。
――揺れている。怪物には手に取るようにその感情の揺れが理解できた。その目にまざまざと見えるのだ、と言ってもいいだろう。憎悪と復讐心、人間がゴミのように蹴散らされている現状に痛快さすら感じている獣心。にもかかわらず相反する深い憐憫の情の発露がネズミ自身を戸惑わせている。
大シケの夜の海にぽつんと取り残された小舟のような心だ。それを、ヴェールのように覆う本能的恐怖が見てとれる。それら感情の揺れを怪物はつぶさに観察する。なんとも、はるかにちっぽけな命だ。弱いがゆえに弄ばれ死ぬような無意味。けれども怪物はたんなる気まぐれで、捕らえていた女を見逃した。ネズミごときが何をどうするのか、少々の興味がわいたのだった。
正しく化け物である彼と真正面から対峙し、ネズミはごくりと唾をのんだ。
「これから、僕は……、私は! 世界を変える! この……クソみたいな世界を!」
スプリンクラーが切れた。ネズミは瓦礫と血の海を越えて一歩一歩と怪物に近づく。
「今ここから、私がひっくり返してやるのさ!」
片目の奥に黒々と燃える憎悪と信念。
怪物の尾がネズミの首に狙いを定めてずるりと持ち上がる。生命の終わりが目前に迫っている。瞬きのあとには二度と目覚めることはない。その瀬戸際、ネズミはさらに一歩を踏み出す。
「……なんのつもりだ」
声は太く低い。地響きのようでもあり雷鳴のようでもあった。
怪物は、己に向かって真っ直ぐ差し伸べられた手を見下ろす。その視線にはわずかな困惑があった。
「君も、一緒に」
崩壊する施設のただなかで、怪物は差し出された小さな手をじっと見下ろす。
勇気ある小さきもの。ずぶ濡れの体はいっそう小さい。見ろ、肉球のある四本指が震えているではないか。当然だ。生物の本能として、この怪物に逆らえる道理がない。尻尾を巻いて逃げるか恭順か、生き残った生物はおおよそ二択を迫られる。雨が天から降るように、川は上から下へ流れていくように、これが抗いがたい自然の摂理なのだ。
「正気とは思えねえな」
不吉な響きが小動物の本能を打ち据える。一瞬竦んだネズミだが、ゆっくりと手を下すと拳を握った。大きく肩で息をする、その全身が震えている。
「……正気? 正気か……。そんなもの、まだ残っているものか。私も自分が何をしているのかわからない。人間が憎い。どうして私は、あんな人間を助けてしまったんだろうか」
化け物は俯くネズミの話をじっと黙って聞いていた。
「もっと、思い知らせたかったはずなのに」
「……急げよ」
「え?」
「この世界をひっくり返すんだろう」
途端、立っていられないほどの突風がネズミを襲う。ころころと壁際に吹き飛ばされ轟音に縮こまっていると奇妙な静けさがやってくる。恐る恐る顔を上げたネズミが見たものは、はたして夢か幻か。
天井がない。夜空が見える。ネズミがどれほどこの空を恋しく思ったことか。彼が呪い続けた檻は今や完全に破壊されていた。だというのに今は感慨もない。それは、夜空さえ覆う長大な存在がネズミを睥睨しているためだろう。
蛇、――いや龍だ。全長はどれほどかと考えるのもばかばかしい巨大な龍。ネズミは状況も忘れてポカンと口を開け龍を見上げる。龍もまたネズミを見下ろしていた。
「――俺がこの世に飽きるのが先か、お前がくたばるのが先か」
声が降る。天啓のごとき声が。
ネズミは雷に打たれたかのように動けない。
この、途方もない存在がこの世界に飽きたとき。それは滅亡を意味するのではないか。
龍はおもむろに雲を掴むと東へ向かう。雲を掴むというのは比喩ではなく実際に起こった出来事だ。
大いなる自然の脅威そのものの威容が夜空の闇夜にとけてゆく。巨大な影が完全に彼方へ消えて見えなくなったころ、瓦礫の山の真ん中で、ネズミはこてんと仰向けにひっくり返った。
「……でっけー龍」
ネズミはしみじみと呟いた。
呆れた巨体とパワーだ。あの大きさでは空さえも窮屈だろう。
くふっと腹の底からおかしさがこみあげてきた。
ネズミなのか犬なのか熊なのか、ただの動物にもなれず人間にもなれない。どの世界からも爪はじきにされる超高知能の異能。あげく、多勢に無勢で捕らえられオモチャにされて、はるかに知能の低い人間たちを蔑み憎悪した。近い将来必ず人間社会に報復してやると綿密な計画まで立てて。
それがどうだ。
あのどでかい存在の前では、世を呪う憎しみすらカゲロウのごとき儚さだ。
ネズミの笑い声はずいぶん長い間、真夜中の山間にこだましていた。
「ところで君は、神サマを信じるかい?」
「は?」
飲みかけの緑茶を持っていることも忘れて、八木俊典の目が点になる。唐突な話題だった。イスの上から窓の外を眺めていた根津が振り返って、八木はようやく湯呑の熱さを思い出す。あちち、と慌ててテーブルに置いた。
「私は会ったことがある。といっても、当時そのような超自然的な存在に思えた、というだけのことさ。今もそうだが、昔の私は青かった。……ヒーローは、時に神のように思えるもの。人生を救われたのなら、なおさらに」
「……先生にとっての、ヒーローのお話ですか」
「ま、国際指名手配の超凶悪なヴィランなんだけどネ!」
根津は両手の小さい指で「ぶいっ!」とおちゃめにピースする。
「やっばいヤツじゃないスか!」
「冗談は置いといて」
どこからどこまで冗談かわかったものではない。浮かせた腰をどっしり落ち着かせてから、八木は納得のいかない顔つきで頭を掻いた。
このネズミのような犬のような熊のような先生は、このように会話そのものを楽しむきらいがあって、彼、もしくは彼らはしばしばこうして振り回されるのであった。
「さて、話は戻るが少しずつ賛同者が増えてきた。まだまだ、目指す社会には程遠いけれど、一歩ずつ確実に進んでいるのさ。これも君を筆頭としたヒーローたちの功績さ」
「……個性差別解消法、ですね」
「是が非でも禁止規定に個性も盛り込みたい。それでようやくスタートラインだ」
「遠大な計画です。私の世代で成せるかどうか……」
「法改正自体は、比較的早くに成立する見込みさ。けれどね、実社会がそのようになるかといえば十中八九、不可能だろう」
ほっとするようなかわいい声で根津はぐさりと事実を述べる。八木は黙り込み、湯呑に立った茶柱を見下ろしていた。そうしていると根津はキャスター付きのイスごとくるくる回りながらやってきて、向かいのソファにうまいこと近づいて乗り換えた。
「今がダメでも次の世代、その世代でもダメならまた次だ。私が生きている間の達成はこだわっていない。早いに越したことはないけれど、いつか成ればそれでいい。社会運動の肝は非暴力、対話、そして継承さ」
「先生はいつか教科書に載りますよ」
「一介の教師に政治運動は荷が重いぜ」
「またまたァ~」
根津との出会いは路上トラブルがきっかけだった。根津が公然と大人たちにリンチされているところを八木が助けに入ったのだった。
てっきり動物虐待かと思い込んでいた八木は、そこいらの大人顔負けの知的さで理路整然と喋る根津に面食らい、事態の深刻さを思い知ったのである。
根津のほうも「世界一有名なネズミ」を知らない八木にたいへん驚いていた。当時の八木は家族をなくした混乱から、世情にやや疎いという事情があった。
今でこそ、根津はこの中学校で非常勤として働いているが、一昔前は教員免許どころか、人権を認め教育を受ける権利がネズミにあるかどうかという問題でおおいに紛糾していたという。半ば罪人扱いされ、その日を凌ぐのもやっとでゴミを漁り、木の根をかじり、生きるか死ぬかの状態で無免許の青空教室を開催し住民から石を投げられたこともあったとか。その小さな賢人が今や地元の代議士とパイプを持つところまで這い上がってきた。
が、問題はいまだ根深い。根津は心あるごく少数の支援者と強烈な自立心によって、かろうじて生活を繋いでいる。非常勤として雇用されてはいるが賃金はまともに生活もできないレベルで、生徒に授業をすることもできない。実態は飼い殺しの雑用係だった。
「ま、社会を変えるには根っこから。つまりは教育さ。生まれてくる子供たちには、より良い明日を生きてほしいものだ」
「……言っておきますけど、私は教師に向いていませんよ」
「バレバレだね!」
アハ! と悪びれなく笑う根津。
オールマイトというネームバリューを利用して人間の耳目を集めたい、あわよくば教員として引き込みたいという思惑をあけすけに話す根津はにこやかだ。人間ほどはっきりとはわからないがこれは笑顔といっていいだろう。
元が動物のため表情がわかりにくいせいで本心が読めない、というのも根津を排斥したがる勢力の動機のひとつだった。なにを考えているかわからない異形を人は恐れる。それが普通である。
「まだ、奴との決着もついていません」
「でも、いつかさ。いつかきっと、今より平和な時代がくる。何しろ君がいるんだから。きっと実現するぜ! ヒーローが飽和する社会、なんてね。そのとき君は衰えているだろう。君でさえ後継者に託すときがくる。そうしたら、教師になってみるのもいいだろう」
「そうですねえ……、今は実感がないかな」
過日、奇しくも八木が帰国したタイミングで都市部が大災害に見舞われた。ひところは、被災者救出の動画をテレビで見ない日はなかった。それほど彼のヒーローデビューは強烈だったのだ。
世間に衝撃をもって迎えられたヒーローも渡米前は無名の少年だった。あの時代を生きていたものならばありふれた、家族を失った無力で無学な少年。目の前にはただのネズミ。少しでもボタンを掛け違えていたのなら、こうして話すこともなかっただろう二人だった。
窓の外から子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。窓のカーテンがふわっと風に揺れる。外に目を向けるとジャージ姿の生徒たちがグラウンドを走り回っている。はしゃぎすぎた何人かが教師の注意を受けていた。
ジャージは見るからにサイズの合わないお古だったりつぎはぎの布をあてていたり、ほとんど全員それぞれ色も統一感がない。そもそも私服の子もいる。社会の混乱の爪痕は整備しきれていないグラウンドや子供たちの衣服に見える。けれども子供はそんなこと気にもしないで元気いっぱいだ。
二人はしばらくの間、空に届く笑い声に耳をすませる。
「君らの世代には申し訳なく思う」
いつの間にか目を閉じて子供たちの声に聞き入っていた八木は、はたとして根津の横顔を見た。
「ほとんど学校どころじゃなかっただろう」
「まあ、それも思い出です。それに荒んだ世情は先生の責任ではありませんよ」
「あれ、そう? 社会をかき乱した原因のひとつである自覚があるんだけれど」
「それは我々が未熟で――」
「言わせるなよ。単純に、人と違うのは恐ろしい。そうだろ?」
違うとは言わせない、という気迫があった。
八木は日本とアメリカで、異形型の個性を持って生まれた人々が迫害されているのをその目で見てきた。多くは社会から爪弾きにされひっそりと息を潜めるように暮らしているが、異形型は社会や肉親に差別されやすく、まともな教育も受けられないせいで犯罪に手を染めるケースが多発し、より差別が加速するという悪循環にあった。
またコミュニティによっては異形型の逸脱した姿そのものが信教と密接に関連し、誅することこそ正義であると信じて疑わない人々も存在する。時として信仰の対象そのものとして祀られたり生贄に選ばれたりすることもある。阻止して改善できたケースもあれば、すでに手遅れだったケースもある。
「苦々しい現実さ。人間たちの本能に蓋はできない。なにしろ私という存在はあらゆる哺乳類に個性が発現する可能性を示唆しているのだからね。つまり私は生存圏を脅かす潜在的な脅威なのさ。民衆に君のような高潔さを求めるのは酷だぜ。というかね、君こそが人類の外れ値なのさ!」
「先生も人です。……あなたも跳びぬけて変わっていらっしゃる」
「うふふ、褒め言葉として受け取っておくよ」
お茶を飲んで一息ついた根津はおもむろに顔を上げる。
「……ところで、私の古馴染みが中南米の旅から帰国したらしいんだけど、今、本土のどのあたりにいるのかわからないんだ。そこで、オールマイト、君に頼みがある」
「はい」
真剣な眼差しにただごとではない事情を察し襟を正す。
「もし! ケンカを売られても絶っ対に買わないように!」
着座する八木は器用にもずっこけそうになった。きりっとした根津はいたって真面目である。
「ケンカって、あのー」
「絶対!」
バンッとテーブルを小さな両手で叩き、ずいっと身を乗り出して念を押してくる。びくっと肩を揺らした八木はあまりの剣幕に圧されつい頷いてしまう。根津はしばらくじっとりと八木を睨みつけて、「くれぐれも頼んだよ」と呟きため息をついてソファに座りなおした。
出会い頭にケンカを売るような、血の気の多い人物と根津とはちぐはぐな組み合わせだ。しかも日本もまだまだ安全とはいえない治安レベルだというのに、行方知れずの友人の身を案じたところがない。冗談を真に受けてからかわれるパターンかとも勘ぐったが、根津はちゃかしたりごまかしたりせずに真剣だ。
とすると、よほど強い御仁なのだろうと八木は結論付けた。
「その、どういったお友達ですか?」
「……恩人さ」
八木はピンときた。
ほとんど冗談のように思われた先ほどの会話から、今ようやく話が繋がった、と思った。根津にとって神のようにも思えるヒーロー。これは確信に近かったが、確認するのは野暮だろうとあえて相槌だけに留める。
「でもね、関わらずに生きられるのなら、それに越したことはない」
「……先生が警告をするほどの人物、ですか」
「会えばわかるさ。厳冬期の冬山みたいなヤツだから」
「なるほど……?」
比喩にしてもスケールが大きくていまいちよくわからなかった。少なくとも見た目の話ではあるまい。
「あ、君ね、修善寺くんにはちゃんと顔見せたのかい」
「うっ!!」
ちゃっかり話をそらされても、目上の教師陣には特に頭が上がらない八木であった。
頃合いを見て、なるべく人目を避けて校舎の裏口から去ることにした。見送りは根津一人だ。職場の人間の多くに疎まれている彼はいつも一人ぽっちだが、そんなことは毛ほども気にしたところがない。八木は門扉の前に立つ小さな根津を何度も振り返り頭を下げ、大きく手を振った。
「……冬山のようなヤツ、か」
先生がああいうからにはそれ相応の人物なのだろう。純粋に興味がわくものの、注意が必要なのは理解できる。問題は脅威度だが、厳冬期ときた。死と同義である。
軽く跳躍して廃ビルの屋上へ着地した八木は天を仰ぐ。遠く雷鳴が聞こえる。今にも雨が降りそうな天気だった。
「なぁーんか、ああ言われるとワクワクしちゃうなー」
仁の道に生きる八木ではあるが、まだまだ遊び心も忘れない純朴な青年である。
しかし、ちょっとニヤついて軽口を叩いた直後、はっとして気を引き締める。
やや浮ついた気持ちが先走ると決まって学生時代の先生が脳裏を過るのだ。八木には過剰なほど厳しかったもう一人の師匠は、青二才が生言ってんじゃねえ、といつも心のなかで睨みをきかせている。
八木は己の拳を見下ろした。
――その棒切れ一本で勝つつもりだったのか?
やや冷ややかな声は今でも、いつでもはっきりと思い出せる。
「行きます、お師匠」
己の拳に語りかけるやいなや、異変を察知した方角へ飛び出す。再開発中の地区を真っ直ぐ飛ぶように疾走した。全盛期への上り坂を駆け上がっていく若い肉体が躍動し、一陣の風となって目標地点まで数秒とかからず到着する。
商店街のちょっとした小競り合いが本格的な暴力事件に発展する前に介入。騒ぎの中心人物二人はすでに何らかの異能を発現していた。まず周囲の市民の安全が最優先。幾人かケンカを止めようとしているのがかえって危険だ。彼らを離れた場所へ運ぶ。再建中の家屋が多いので建物への配慮も忘れてはならない。そして脅威の鎮圧。すべてはわずか一秒未満の間の出来事である。
「――ヘイヘイ! 君たち! ちょっと元気が過ぎるぜ」
八木は血の気の多い青年二人を取り押さえて笑った。
「なっ、なんで……」
「え? なに?」
「あれっ、へ? なんで俺ここに」
「ちょっと、あれって――」
「めっちゃ笑ってた動画の人じゃん!!」
「オールマイト!?」
今、間違いなく日本で最も有名な男の登場だ。商店街はにわかに沸き立った。八木に取り押さえられた青年たちも目を輝かせる。ファンです、と臆面もなく主張する青年たちに苦笑し、とりあえず脅威は去ったとみて解放する。
途端、わっと群がる人々に笑顔で応えて、握手をし、ちょっとした撮影会まで始まった。もちろん八木は笑顔で快諾した。
アメリカではこういった対応力もずいぶん鍛えられたものだ。日本でも新人アイドルだと揶揄されることもある。それで人々に笑顔が戻るのなら上等じゃないか。全力でアイドルやってやるぜ、とまで覚悟したものだった。しかし度が過ぎれば近隣住民や警察の迷惑になってしまうだろう。
冷たい風が吹いた。
ぐんと気圧が下がり、暗雲が垂れ込める空の彼方から雷鳴が近づいてくる。
そろそろ切り上げるタイミングを見計らっていると、人垣の向こうで通行人が突然倒れた。本当に糸が切れたかのように何の前触れもなくぱたんと倒れたのだ。
「ちょっと失礼!」
人々にけがをさせないよう素早く移動する。
後方に取り残された人々は常人離れした八木の身のこなしに再び興奮しどよめいた。
「大丈夫ですか! 聞こえますか!」
声かけしながら外傷の有無をさっと確認する。完全に意識を失っているが呼吸に異常はないし原因がわからない。
「今、救急車を――」
前方の曲がり角から姿が見えたばかりの老人が倒れた。腰を浮かした八木の左手で、ちょうど八木に気づいて駆け寄って来ようとした少年が倒れる。彼らだけではない、個々に駆け寄る間も与えられず、無情にも商店街の東側から人々が次々と昏倒していく。
予感が、冷や汗のように八木の背筋を伝う。
「走れ!! 逃げるんだ!!」
八木を見物していた人々もようやく異変に気づく。それでも動画撮影をしている者が大半で、残りはぼけっと立ち竦んでいる。少数はうろたえてどうしようかと足踏みしていた。
避難をうながすよりも、直接回収して移動させたほうが早いと判断した八木が振り返ったそのときであった。
おぞけが走るほど冷たい風が背中に吹きつけた。
八木の肌が粟立ち、全本能がうったえる。
逃げろ、と。
つい先ほどまで笑顔で握手を求め写真を撮っていた人々までもが、不可知の力にさらされて折り重なるようにして気絶していく。たった一人、八木だけがその場で踏み止まっていた。
やがて背後から、ゆっくりと重量のあるものを引きずる音が近づいてくる。足音は一人分だ。吹きつけるプレッシャーはまるで山おろしの暴風雪。これほどのプレッシャーはかつて経験したことがない。こめかみの冷や汗が凍りそうだぜ、と八木は不敵に笑う。
「耐えたか。なら、お前がオールマイトだな」
低くかすれた声は思いのほか若い。
八木は慎重にゆっくりと振り返った。
「やあ! 君のこと、根津先生から聞いたばっかりなんだけど。タイミングよすぎじゃない?」
男は、――根津の旧友は顎を軽く引いて頷くだけの相槌を打つ。全体的に粗野な印象の男だ。平均からみれば大柄で鍛えられた体つきをしているが八木より一回りは小さく、はだしで襤褸をまとっている。鬱屈した眼、立派な二本角、黒々とした蓬髪、左手に身の丈ほどもある金砕棒。
「とりあえず」
チラッと金棒を見やる。
重量で頭が地面に沈み、それを引きずって来たあとが道に残っている。
申し訳ありません、先生。
八木は心の中で根津に深く謝罪した。道のいたるところで倒れ伏す市民の姿が、八木に火を点けたのだ。
「ここは手狭だ」
言うが早いか、瞬時に背後に回り込む。まさに神速。パワー、スピード、タフネス。どれをとっても人類の頂点に手が届く距離。世界広しといえども、今やサシで八木と渡り合えるのは数えるほどしかいない。それこそ彼を上回る相手は宿敵のAFOをおいて他にないはずだった。
だが。
刹那のはざま。
振り向いた男と、目が合う。
「――同感だぜ」
はじめてニヤリと男が笑う。倦んだ世界で久しぶりにおもしろいものを見つけた、と言わんばかりのあくどい笑みであった。
ぞわっと悪寒が走り抜ける。
回避は間に合わない。八木は咄嗟に腕を構えて首から上をガードした。
瞬間、右腕に激痛。同時にすさまじい衝撃が全身を襲う。腰を低く重心を落としてどっしり構えていても受け止めきれない。
八木は宙を舞っていた。一瞬意識が飛び、はっと気づいたときには曇天を見上げている。鼻血が玉となって飛び散っているのがスローモーションで見えた。空中で身をひねることで追撃を避け、着地と同時に跳ぶ。軽々建造物を飛び越える八木だが、金棒を持った男も当然のように追って来る。
とにかく人のいない場所に連れて行くしかない。
幸か不幸か、このあたりはまだ再開発が遅れている地区が多く、犯罪者も寄り付かないほど空虚なゴーストタウンとなってしまった場所もある。八木はそこに襲撃者を誘導した。
「――
八木は、崩れかけたビルの上で相対した男の顔をまじまじと見た。彼の言葉に感傷はなく、ただ淡々と事実を述べているだけだった。
「どうして市民を巻き込んだ。彼らは無事なのか!」
男は鼻血を拭う八木を不思議そうに見てくる。
「気絶させただけだが、始末したほうが後腐れなかったか」
「……笑えないジョークだぜ」
「みろ、お前が俺を殺す動機には手っ取り早いだろうが」
狂猛な笑み。蓬髪がたてがみのように見えた。
この男は何を言っている?
八木は僅か、たじろいだ。
「殺す気なんてない」
「ならお前が死ぬだけさ」
薄暗い空に稲光が走る。
ドーン! 至近に落雷。二人が降り立ったビルも大きく揺れ、ついに崩落しはじめる。
崩れ落ちるビルの屋上で先に動いたのは八木。振りかぶった拳に殺意はない。しかし生中な攻撃は目の前の男に通用しないだろうという確信もあった。だから本気で、殺さず殴る。
放たれた拳の威力は並の敵ならば原型を留めず爆散する暴力。
対する有角の男はまったくの無防備。
顔に、胸に、腹に突き刺さった拳は衝撃波を発生させるほどの威力だったが、八木の表情はかたい。有角の男にこたえたところが全くといっていいほどなく、それどころか冷然と八木の挙動を観察しているからだった。
ビル崩壊直前、互いに別々の足場へと跳躍する。
十数メートル先を注視する八木は、たしかに有角の男のため息を聞いた。
雷雲と瓦礫、粉塵に不吉な風。悪条件が重なる中なぜだか男の姿が明瞭だ。己の心臓の音がやけに大きく聞こえ、時の流れがゆるやかに感じられる。ついさっき飛び散る鼻血を見たときと似ている。この状況ともっとも酷似しているのは、そう、決死の師匠の背中に手を伸ばした、あのとき。時間が圧縮される感覚。
八木は目撃した。
稲妻のごとく迸る莫大な力がその金棒に宿る瞬間を。
風が逆巻く。天が裂けんばかりの稲光と雷鳴の轟音。地面が割れた。地から天へ、幾橋もの雷が走る。
一個の存在が放つエネルギーそのものが天と地を狂わせる。これこそは力の極北、その一端。
「……雷鳴八卦」
低くかすれた声は重く、終幕を告げる帳となって場を支配した。
後に知る。この男こそ、アメリカ合衆国が対個人として世界初の不可侵条約を締結した相手であることを。陸海空、生きとし生けるすべてのものたちの中で最強の生物と呼ばれる怪物。根津をして天災だと言わしめた力の神髄。
ここに、全生物の天敵が降臨する。
ふむと一人頷いて空を仰ぐと、根津はとことこ校内を歩いて屋上に出た。
施錠も抜かりなく、屋根の外でじっと空を見つめる。
そうしていると徐々に空が暗くなりはじめ、冷たい風が吹いた。やがて雷鳴が聞こえだす。間もなく黒く重たい雲間に稲妻が走った。
――いる。
生物としての全本能が叫んでいる。あの雲の中に天敵がいる。わくわくと期待する気持ちとは裏腹に全身の毛が逆立ち、足元から震えが走る。
それは東より現れた。
雷光激しい雲影に信じられないほど巨大な姿が一瞬だけ影となって映し出される。
ひときわ激しい稲妻と雷鳴の激震が校舎を打ちすえた。地上では、グラウンドで授業を受けている生徒たちが「屋上に雷が落ちた!」と騒いでいる。
屋上に落ちたのが雷でないことは根津だけが知っている。彼は校舎の補修費用を計算しつつ背中で両手を組んで煙が晴れるのを待った。もくもくと立ち上る煙の中にうずくまる人影がゆらりと立ち上がる。その人物がわずらわしげに手を払うと一気に煙が晴れた。
「や!」
と、片手を上げて気軽に迎えた根津だったが、旧友の負傷した姿に度肝を抜かれる。しかもただのけがではない。やや顔色の悪い男は脇腹を押さえている。そこから滴るほどの血が彼の足元を濡らしているではないか。根津でさえ血の気が引く思いをする大けがだ。
「――まさか!」
根津の被毛が逆立った。頭脳明晰な彼は瞬時に答えを導き出した。
「オールマイトはっ!? 彼は無事なのかっ!」
「どてっ腹に風穴空いた俺が見えていないようだな」
金棒を肩に担ぎ、場違いにも笑うこの男こそが根津の恩人にして天敵、動乱の世にあまねく知られた名はカイドウである。
カイドウは根津にオールマイトのおおまかな位置を教えながら襤褸をちぎって包帯と見立て、腹にきつく巻いて傷口を絞った。ぶしゅ、と血が噴き出るさまに苦悶の表情を浮かべたのは根津である。
根津はカイドウの雑な止血を見守りつつ、すぐさま修善寺や少数の協力者に連絡を取った。当然どういうわけかと説明を求められたが、とにかく時間がないからと説き伏せて至急オールマイト救出に向かわせた。
「腹が減った」
やや焦れる根津を尻目にこの男はのんきである。
たしかに、カイドウの腹は物理的に減っているが。
「冗談がうまくなったね」
「何でもいい。何か食わせろ」
「……とにかく、見つかる前に移動しよう」
やけに足取りの軽いカイドウを不気味に思いつつ、根津はとりあえず無人の用務員室へ彼を招待した。普通、あからさまな不審者を連れた根津が校内をこそこそ動き回るのはかなりリスキーなのだが、もちろんカイドウの察知能力で第三者との接触を未然に防ぐことができた。
興味深げに室内を眺めるカイドウをパイプイスに座らせ、無造作に金棒が立てかけられた床が嫌な音を立てるのを横目に、冷蔵庫から自分の弁当といくらかの備蓄、非常食のカップラーメンなどを手早く用意する。
「相変わらず小せえな。そう怒るなよ」
「……怒りもするさ。何より迂闊な自分自身にね」
へえ? とカイドウが片眉を吊り上げた。
「安心しろ。殺したつもりはない」
「そういう問題じゃないだろ」
「ご苦労なこった。ちまちまと世界中の不幸を数えては、自分の責任だとめそめそしやがる。つまらねえ連中だよ、ヒーローってもんは」
小ばかにしたような感心したようなふうで皮肉ると、カイドウはまだ湯を入れて三〇秒も経っていないカップラーメンをかき込む。海外生活のほうが長い彼だが箸の使い方は忘れなかったらしい。ばりばりと麺を嚙み砕き、熱々のスープというよりはただの熱湯を一息に飲み干す。
「まあね、君のように何でも破壊するだけなら簡単さ」
見る人が見れば命知らずのネズミだと肝を冷やしたろうが、カイドウは「違いねえ」と豪快に笑った。
それから用務員室の備蓄をおやつにいたるまで食い尽くしたカイドウは、最後に根津が手渡した飴玉を噛み砕くと腹を締めていた血まみれの襤褸を取って捨てる。しかも、あろうことか穴の開いた腹をガリガリ掻いて「痒い」と言う。血の塊がかさぶたのようにぼろぼろ落ちた。腸に手を突っ込んでいるようにも見えるグロテスクな光景だ。
「治った」
しめに熱い茶を飲んでふうを息を吐く。
コミックじゃあるまいし治るわけあるかと根津は半ば腹立たしかったが、実際、腹の傷が塞がりかけている。こうして目の当たりにしても信じがたい、恐るべきタフネスだ。
用務員が隠し持っていたせんべいを勝手に探し出したカイドウが、もちろん何の断りもなくボリボリ貪りはじめた。その間も気が気でない根津にようやく第一報が入る。
いち早く現場に到着した協力者はひどく動揺していたが、オールマイトはなんとか生きているようだと。修善寺と合流して秘密裏に全力で治療にあたるが、事の顛末は絶対に説明してもらうと根津を脅して通話が切れた。
ようやく人心地ついた根津はカイドウを睨む。途端、カイドウは面倒くさそうな顔をする。
「手加減はした」
「知らないようだけど、君の手加減でたいていの生物は死ぬ」
「奴は生きているだろうが。あれはなかなか骨のある男だった」
根津はこれ見よがしに大仰なため息をついた。そうじゃないだろうと叱責したい気分だったが、カイドウなりの譲歩と称賛が見えて押し黙る。それに、落ち着いてみれば、たしかにこれは驚きであり偉業だった。
根津はカイドウが負傷する姿をほとんど初めて見た。
過去、カイドウは特に第二、第三世界で猛威をふるった。戦争犯罪人としてあらゆる国のあらゆる方法で死刑に処され、しかし当然のように生き残る。核ミサイルの直撃から生還し、カルデラの火口の底にある溶岩湖に沈められてなお五体満足。宇宙空間に放り出されたとして、まず間違いなく平然と帰還するだろう。
単騎で全世界を滅ぼす力を持つこの男が相手では、法も抑止力も、常識も、一切が形無しだ。カイドウという掛け値無しの怪物の登場によって、皮肉にも国際秩序が本来の姿を取り戻しつつあるほどに。
その男が流血を許すとは。
感動なのか恐れなのか、どちらともつかない感情が根津の全身をぶるっと震わせた。ちょこんとイスに座った膝の上、握りしめた拳が武者震いをしているようだ。
「いつか、オールマイトは君を倒すかな」
「無理だろう」
カイドウはにべもない。
「あの妙な力……、奴はそこらの人間に比べれば強ェがどこか甘い。人間の善性を信仰しているといってもいい。生粋のヒーローなんざ、どいつもこいつもそんなもんだ」
「でも、きっといい友達になれるさ」
「バカも休み休み言え」
「本気なんだけど」
自己申告通り、真っ黒な両目は真剣そのものだった。
根津の複雑怪奇な人生において大きな課題が二つある。
ひとつはもちろん、より平和な社会。もうひとつが目の前のこの男。幸いにも彼はまだこの世界に期待している。オールマイトにも多少の興味を示したのが良い例だ。なによりこうして根津と対話を試みている。このように小さな希望はいくつもあるのだが、後世に託すにはいかにも不安要素が多すぎた。
いうなれば、地球滅亡規模の時限爆弾だ。カイドウが自暴自棄になってしまったらと想像するだに恐ろしかった。そしておそらく、それはある日突然、なんの前触れもなく起こるのだろう。
打てる手は少なくどれも小手先の考えだった。それに、大前提として根津はカイドウの友人でありたい。ならばせめて誠実でいようと考えた。だから根津がカイドウのことを知ろうとしたのは当然の成り行きといえる。
ただ、根津が望んだようなことはカイドウ本人の口から語られることはなかった。堂々と「君のことを調べるからね」と宣言したときは、さすがのカイドウも面食らっていたが。
――カイドウには戸籍がない。日本で生まれたのは確からしいが、混迷期のもっとも荒んだ時代の情報は途絶しているものが多く、それらしい話を組み立てておおよその筋書きを理解する以上は想像に過ぎない。
カイドウは少なくとも幼児期の言語獲得ごろまでは日本にいたようだ。当時の社会情勢からすれば無理解にさらされた子供が身内や社会からどのような扱いを受けていたのか、想像に難くない。
やがて特異な容姿と怪力から人さらいによって各地に売り飛ばされた彼の人生は、とある国の民主化運動から始まる。体制側の珍獣として飼われていたカイドウは、武力闘争による政権崩壊後の内戦で頭角を現した。当時、年端もいかないその少年はどの組織にも与せず、末期は彼の力を恐れた民衆によって処刑される。
命からがら隣国に逃げおおせたカイドウだったが、彼はまたしても戦火に身を投じた。
紛争、内戦、戦争に次ぐ戦争によって彼は生きのびたといえる。哀れな境遇とは思うまい、と根津は己を律していた。なぜなら彼は望んで戦火に身を投じてきたからだ。それは、あたかも泳ぎ続けなければ死んでしまう遊泳性のサメのように。
血生臭い戦地においてのみ活路を見出し、殺し合いの中で研磨され続けた彼の人格も力も、やがては取り返しがつかないほど破滅的なものへと進化していった。
当時を知るものはほとんど死に絶え、国もカイドウについては公的な記録を残したがらなかった。根津でさえ真偽を確かめるのは不可能だ。カイドウがどのような地獄を生きてきたか、真の意味で知るものは彼本人のみである。
そういう怪物が中学校の小ぢんまりとした用務員室で茶を飲んでいるというのは、実にシュールな光景である。
「それで」
せんべいを食べ終え、湯呑を置いたカイドウがじっと見つめてくる。
「世界はひっくり返せたか、根津」
「手厳しいね」
「遅えよ」
「……教育は治水と同じでさ」
カイドウは腕を組んで唸る。
平和なんぞ毛ほども興味のない彼が根津の酔狂に付き合う。これは、正真正銘カイドウの気まぐれなのだ。カイドウは根津の信念に共感もなく理解もないのだから、道楽以外のなにものでもない。一匹のネズミが世界を変えられるかどうか、ただそれのみに関心がある。
「……ネズミはのろい、新人ヒーローは甘っちょろい。潮時だな」
「君ねえ、さんざん暴れておいて後片付けを押しつける癖、省みたほうがいいよ」
ちくりと言っても席を立ったカイドウは振り返りもしない。金棒を担いで窓から飛び降りたカイドウを追いかけた根津は、窓の下にイスを置くとそこに立ち、窓枠に身を乗り出した。
「また、どこかへ戦いにいくのかい」
「見るべきものは見た。結局、この国も狭いままだ」
「君の場合、あちこちで領空侵犯するからね!」
外は小雨が降りだしていた。根津は、窓枠に頬杖をついて退屈そうに歩きだしたカイドウの広い背中を見送る。
人がいる限り争いは起こり続け、そこにこそカイドウの居場所がある。太平の世には生きる場所などないだろう男の背中をさみしく思う。根津はあと何度、この背中を見送ることができるだろうか。
「――気をつけて」
カイドウの足が一度だけ止まった。が、それだけで振り返らず去っていく。
根津は、すべてが始まったあの夜を昨日のことのように覚えている。差し伸べた手は握り返されなかったが、それは説得力がなかったからだと自省していた。今もまだ努力が足りない。
いつか、平和になった世界で、戦争だけが彼の居場所ではないと思ってくれたら。
願わくば、そうなるまで彼の気まぐれが少しでも長く続きますようにと、祈らずにはいられない根津であった。
天敵、ヒーロー、ともだち。
根津校長はヒロインだった……?
オルマイとカイドウ(偽)の交戦を発端とした協力者の造反や暗殺未遂を経験しつつ偉人になっていく未来の校長であった。なお暗殺成功した瞬間、カイドウ(偽)が暇人になってしまうので世界滅亡が決定する。
この世界のトゥルーエンドは根津校長と出会わないルートで、オルマイたちヒーローらと国家がAFOをはじめとした敵たちと手を組んでワールドエネミー・カイドウ(偽)の討伐に動くも失敗、カイドウ(偽)ハッピー自殺エンド。
根津と出会ったこのルートではカイドウさん(真)ほど希死念慮が強くないので比較的第一世界は平和になる。暇になったころ根津校長にそそのかされたカイドウ(偽)が雄英の専属農家に転身し各界に激震走る。妄想。完。