――花が、咲いている。
拠点から町側を監視する兵士たちは、苦々しい顔つきでその巨大な花を仰ぎ見る。
不気味なほど青い空を覆う、巨大な花だ。ただし花弁に色はない。わかりやすいため花と呼称しているだけで、実際はそうではなく、たわみ広がる水面の波紋をそこに留めおいたような、空気の波ともいえる何かがあるのだ。
オーロラのように揺らめく非実体の層が幾重にも重なり、同質のものが数えきれないほどに町の上空を覆うさまは、そう、あたかもガラス細工の花が咲いているかのように見える。
これがどういった性質のものか、緊急招集された学者たちにも見当がつかないというのだから、一介の兵士たちに何がわかろうというものか。ただはっきりとしているのは、あれこそが空爆の痕跡であること。作戦失敗の証拠ともいえた。
拠点内外にいくつか存在する監視塔で町の方向を見つめていた兵士たちは、悄然とした拠点にいっそう重たい静けさが忍び寄ってくる寒気を肌で感じていた。
双眼鏡から目を離し、監視塔から身を乗り出して地上を確認する兵士は一人や二人ではなかった。
町側、つまり隔離領域から生還した一団がある。
彼らは互いを庇いながら重傷者や遺体を運び、辛くも拠点にたどり着いたのだった。観測拠点に待機する者たちは例外なく、固唾をのんでその一団を迎え入れた。
誰に指示されるでもなく、犠牲者を運ぶ彼らを目にした者は自然と道を開けていった。
監視塔に立つ兵士は狭い塔の中をぐるっと回って、拠点の中ほどまで進んだところで倒れ込んだ彼らを見た。決死隊のメンバーは出発時から幾人か欠けている。遺体と思しきものを合わせても数が合わなかった。
周囲には立ち竦む兵士たち。だが、誰一人として駆け寄ろうとしない。彼らの足は恐怖に凍っている。
間もなく、仮設の研究所から飛び出して来た者たちが帰還した決死隊に合流すると、ただ黙って見ていた兵士たちの何人かがおずおずと手伝い始める。みなが口を閉ざし、顔を伏せ、新たな犠牲者を搬送する。
――この軍事封鎖された一帯の観測拠点では、各地から招集された学者たちと軍医によって、例外はありつつもおおむねこのようにして新たに収容された遺体を検分していた。
今回は、無謀にもデッドラインを超えた撮影クルーの遺体だった。
これまでのどの遺体もそうであったように、新たな遺体はすべて奇形になり果てていた。肉体が変異しているのだ。人の原型を留めていないもの、かろうじて人の姿を保ちつつも、明らかに別の性質に変貌してしまったもの。毒々しく美しい花が咲いていたり複数種の動植物が交じり合った形になっていたりと、とても遺族に見せられる状況ではなかった。
帰還した兵士たちの内、体の一部が汚染域を通過してしまった者たちは苦肉の策として手足を切り落とされたが、それでも徐々に断面から変異が進行していた。彼らは名誉ある死を遂げる。つまり、事実上の献体であった。
また変異過程においては精神汚染も凄まじく、人が人でなくなっていくさまを直視する者たちの中には、それこそ心を病んでしまう者も少なくない。だが脱落は許されなかった。……少なくとも記録上、作戦行動中の脱落者は認められていない。
彼らはじりじりと封鎖区域を拡大しつつ、ときおり少数の犠牲を出しながら観測拠点ごと後退し続けている。なすすべもない敗走だ。階級や役職の別なく誰も彼もが疲労の色濃く、表情に乏しい。誰もが最悪の事態を想像しながらもけして口にはしない。言ってしまった瞬間、それが本当に現実になってしまう気がしているからだ。
士気も低下の一途を辿っているが、奇妙なことに暴動やパニックに発展する気配はない。人々は徘徊するゾンビのように生気がなく、どことなく目も虚ろで、拠点は不気味な静けさに包まれている。汚染領域の中心部にあるあの町に生気が吸い取られているかのようだった。
ふと、監視塔の後方から、さざ波のようなざわめきが聞こえてきた。
まただ、と監視塔の誰かが言う。あるいは誰もが噂する。今度は誰が犠牲になったのか。死んだのならまだマシだ。へたに生き残ってしまったらと、想像するだに恐ろしい。
監視塔の兵士たちはうんざりとして無視する。
しかし次の瞬間、大きなどよめきが観測拠点を突き上げた。
携帯食をかじっていた兵士がぎょっとして振り返る。外を巡回していた者たちも騒ぎに気づいた。天幕から飛び出してきた者たちは訳が分からずきょろきょろしている。地上にさっと目を走らせた監視塔の彼らは、うろたえている兵士が皆、空を見上げているのに気づく。
自然、視線を追って空を見上げる。
「……なんだ、あれ」
誰かがぼう然と呟いた。
監視塔の兵士の手から携帯食がぽろっと落ちる。
蛇が、空を泳いでいた。
違う、あれは蛇ではない。
遠方から信じられない速さで近づいてくるその巨体。
よく見れば角が生え、鬣もある。四肢に鋭い鉤爪、ぎょろりとした眼光。異形というスケールをはるかに超えた存在が、おどろおどろしい雲を身にまとい迫る。
兵士の誰かが、いや誰もが慄然と立ち竦む。
あれはなんだ。わからないが、きっと恐ろしいものに違いない。しかもそれがどんどん近づいてくる。汚染領域を背にする観測拠点の面々は戦慄した。
「落ち着け!! 使者だ!!」
一報が入ったか、施設から血相を変えて飛び出してきた指揮官らが現場の兵士たちに向かって叫ぶ。インカム越しに遠方の兵士にまでその声が伝わった。そう、聞こえただけだ。理解はできなかった。
多くの者にとって、あの怪物は、あたかも汚染領域が生み出した地獄の使者のように見えていた。
疲弊し、麻痺していたが故にギリギリの均衡を保っていた精神に亀裂が入る。
一人が怪物に背を向けて走り出したのを皮切りに、最悪のタイミングでパニックが起きてしまった。逃げ場などどこにもないと言うのに我先に逃げ出す者、ぶつかりあって殴りあう者たち、その場で腰を抜かす者、ついには誰かが空に発砲した。
「――やめろ!!」
指揮官の必死の声がむなしく響く。
決壊だ。発砲はあちこちで発生した。個性の無断使用も頻発し、観測拠点はあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図となり果てる。
錯乱して境界線に向かって駆け出してしまった者まで現れた。
「ダメだ、そっちに行くな!!」
監視塔の兵士は地上の狂気と物理的な距離があったため、いくらか冷静さを保っていた。正気を失った仲間が汚染領域に駆け込んでいく。叫び声も届かない。一人、二人、三人……と立て続いて、「監視塔! 足を狙え! むざむざ死なせてなるものか、狙撃しろ!」とインカムから指揮官の怒号が迸る。
監視塔の面々はそれぞれアイコンタクトをして頷きあい、脂汗をにじませ祈りながら狙撃を開始する。
「み、味方を撃つんですか……ッ!?」
「助ける方法が他にない」
言った男がまさにこの瞬間、汚染領域に足を踏み入れようとした兵士を狙撃した。放っておけば己の手を汚すことはないが彼らは確実に死ぬ。しかし当たり所が悪ければ殺すことになり、運が良ければ助けることができる。トリガーはかつてなく重い。
年若い兵士などはすっかり腰を抜かし、銃を抱えたまま立ち上がれない。
ふと、辺りが急に暗くなった。
小便を漏らしそうになっていた若い兵士が恐る恐る顔を上げる。
大蛇の腹が見えた。
ひい、と悲鳴を上げたその兵士は気を失った。
地上の一切を一顧だにせず、巨大な生物が監視塔の直上を通り過ぎていく。猛烈な勢いで空を引き裂き泳ぎ切る風圧が監視塔を襲った。
強風に狙撃中止を余儀なくされた幾人かが身を屈め、慎重に怪物を観察する。観測拠点に大きな影を落とした巨体は、悠然と汚染領域に突入し一直線に町へと飛来した。
そして、鼻先から真っ逆さまに地表へ落ちて行き、怪物の巨体は頭から地面に吸い込まれるように消えていったのだった。
ヒーローが存在しない世界は存在する。
人々は皮肉を込めてその国境を
それは、いつになく暑い日だった。
――スラム街、過激派の根城となった一角にて。
幹部らが一堂に会する礼拝堂跡は常とは違った緊迫感に張りつめていた。
一階、中央部では旅行者を装った男女が両手をあげて地面に跪く。彼らを取り囲む面々は多くが武装しているが、徒手で構える者もそれなりに多い。いくつもの敵意という銃口が彼らに集中していた。
正体不明の二名を取り囲む敵意の中から進み出たのは隻腕の男。彼は手早く二名の懐を漁った。
胸もとに手を突っ込まれ視線を上げた女が息を呑む。隻腕の男の顔面にはむごい拷問の痕が刻まれていた。服の下にはより凄惨な過去を負う。
「偽物だ」
隻腕の男は民族語で吐き捨て、二人ぶんのIDを地面に投げた。不審者たちの懐から出てきたのはタバコ、ガム、携帯端末、ナイフ、ハンドガン、いくらかの現金。隻腕の男は二台の携帯端末を持って離れると、壁際で待機していた盲人に手渡す。
盲人は端末をそれぞれ撫でた。ひとつは衛星電話だった。
一分ほどかけて吟味した後、「目的はあなたのようです」と隻腕の男と同じ民族語で呟く。彼女の濁った両目は目の前の男を見ているようでもあったが、さらに向こう、集団から離れて一人崩れた台座に腰かける人物をひたと見つめていた。
動揺がさざ波のように集団を駆け抜けたあと、より緊張感が高まった。警戒ではなく明確な殺意が跪いたままの二人に突き刺さる。
「――アメリカ人がなんの用だ」
奥から響く低いかすれ声は間違いなく英語だった。
はっと顔を上げた男女は、自然と割れた人垣の向こうに有角の男を見た。男は家畜の肉を加工した保存食をかじっている。
「カイドウ」
跪く男が英語のアクセントで呼ぶ。武装した人々は侮蔑も露に男を見下ろした。冷ややかな眼差しでようすを見ていた隻腕の男がカイドウのそば近くに侍り、何事かを耳打ちする。カイドウはかったるそうに頷き、保存食を食べ終えると膝に頬杖をつく。
「お前らを始末したいようだ」
「頼む、は、話を聞いてほしい!」
跪く男が命乞いをする。
カイドウは金棒を持って無言で立ち上がった。
周囲を囲む男たちはそれぞれ銃を下ろして後退し彼に道を譲る。
金棒を引きずる音は死神の足音のよう。カイドウの目には侮蔑も敵意もない。ただ凪いでいる。それがいっそう恐ろしく、末端の兵士のみならずいきり立っていた幹部らまでもが固唾をのんで成り行きを見守った。
一方、ゆっくりと、しかし確実にカイドウとの距離が縮まるほど、捕らえられた男の顔には脂汗とともに苦悶の表情が浮かぶ。
「断じて!! 敵対の意思はない! この内戦にアメリカが介入することもない!」
「ああ、だろうさ。――偽のID、衛星電話、変装。お前の現地語は見事だったと聞く。髪は入国前に染めたか? 白けるんだよ、お前らのやり口は」
「あなたに会うためだけにここに来た! 本当だ!! 今ここで指令に確認を……っ私の記憶を見てもらっても構わない!!」
この怪物に交渉は無意味と知りながら男は必死に叫び、びっしょりと汗をかいて釈明した。あと五歩の距離、それが彼らの寿命になるかもしれないのだから。
「この国での工作活動は死罪――石打ちだ。ジョン・ドゥ」
男はうめいた。これは何かの間違いなのではないか、もしかしたらカイドウの気が変わるのではないか。その一心で、哀れにも目で追いすがる男だったが、ついに己の命運が尽きたことを悟り、がっくりとうなだれた。
「……せめて、この子は国へ帰してくれないか」
「はなから小便臭ぇ小娘に興味はねえ」
ほっと男が息を吐く。俯く鼻筋からしたたり落ちた汗が地面にシミをつくった。
「私が巻き込んでしまった。一般市民だ。彼女だけは無事にアメリカへ」
「……なに、言ってるの」
恐怖で硬直していた女がまともに口をきいた。ヘーゼルブラウンの瞳が真っ直ぐに男の横顔を見つめている。
「ここまで来て、あなたが死ぬのを知りながらのうのうと私だけアメリカへ帰って、家族にただいまのハグとキスをしろって、あなたは言うの」
「キャシー」
男がなだめるように呼ぶ。それが女の気に障った。
「この人たちが私だけを素直に帰してくれると思う? 本当に? あなたを見殺しにするくらいなら私も戦う。私ならできる。戦ってここから」
「キャスリーン!」
女の肩が震えた。男は必死の形相で彼女を睨んでいる。
「理解しろ。重要なのは私の命ではない」
「……わからない。わかりたくないよ」
気丈に振る舞ってみせたものの、虚勢は長続きしなかったようだ。彼女の涙声とカイドウのため息が重なる。
「痴話げんかは終わったか」
束の間の言い争いを見物していたカイドウが冷淡に言う。キャスリーンと呼ばれていた女が涙目で彼を睨みつけた。ヘーゼルの瞳が夕陽のように燃えて輝いている。
「――取引だ」
立場も弁えぬ、明瞭かつ力強い女の言葉だった。傍らの男は言葉にならぬ声であえぐ。瞬きの後にキャスリーンがミンチになっている姿を見ていられずに、彼は目を閉じる。しかしそうはならなかった。
「続けろ」
意外な返答にぱっと男が顔を上げると、カイドウが隻腕の男の進言を完全に黙殺したところだった。
「私は将来、あなたを倒し得る」
傍らではらはらと見守っている男も、英語を理解する隻腕の男も目をむいてキャスリーンを黙らせようとしたが、それは他ならぬカイドウが止めた。隻腕の男はカイドウの意図をはかりかねて困惑している。
「あなたが噂されるほどの力を持ちながら、どうしてこんなことをしているのか私には理解できない。……でも、本物のあなたにこうして会ってみて、少しだけわかった気がする。つまらないんでしょう。本当は対等な相手が欲しいんじゃない? なら、なってみせる、この私が」
周囲では片言程度に英語を理解する者が他の仲間にこそこそとやりとりを伝え、そうして伝達が一周する頃になると集団は混乱を隠しきれなかった。
「それを証明するために、私も一度だけ一緒に戦う」
「キャシー、だめだ」
「でも、人は殺さない。殺させない。絶対に」
「それで、どう貢献しようってんだ」
「救助活動。――敵味方、関係なく。誰も救えなかったら私を殺せ」
カイドウは鼻で笑った。隻腕の男が仲間たちに正確に通訳すると、彼らは奇異なものを見る目でキャスリーンを見た。鼻白む者、蔑む者、これは傑作だと笑う者もあった。
「だけどあなたが納得するだけの人を救えて、私が生き残れたら、彼の話をちゃんと聞いて」
「キャシー、やめてくれ、君は帰るんだ」
キャスリーンは男の懇願にも聞く耳をもたなかった。こうなっては梃子でも動かない、そういう意志の強さが瞳の輝きに見てとれた。
キャスリーンの隣で男は力なく首を振る。
「……男は人質だ。収容所に入れろ。女は連れて行く。その貧相なナリをどうにかしてやれ」
あっけなくカイドウの裁可が下され、ものの数秒で二人は引き裂かれた。キャスリーンは引きずるように立たされても無抵抗かつ冷静だったが、男のほうは数人がかりで引き離されるのに全力で抵抗した。
「キャシー!!」
「――生きて帰る。約束よ」
隻腕の男がさっと背後にまわり、騒ぐ男の後ろ首を銃床で殴りつけた。がっくり意識を失った男に思わず体が動いたキャスリーンは、一歩踏み出しただけで向けられる銃口の数に顔を顰める。
「一方が逃げれば一方を殺す」
金棒を担ぎ上げたカイドウが宣告する。
「さて、小娘がいつまで意地を通せるか」
キャスリーンに向けられたのは退屈な眼差し。生意気な小娘の鼻っ柱を折ってやろうという意図すら感じられない。結末が知れている陳腐な映画を眺めるようなもので、彼女はカイドウにとって娯楽にすらなりえないのだろう。
キャスリーンはぐっと白い拳を握りしめ、涙のかわいたヘーゼルの瞳でカイドウを見据えた。
「……マスターならどんな窮地でも諦めない」
「マスター? ……どこの馬骨だ」
関心などないくせに聞いてくる。これはカイドウなりの手向けかもしれない。キャスリーンはゆっくりと息を吸って、そして笑ってみせた。
「世界一、偉大なヒーローさ」
直後、事が起こった。
爆発のような轟音と衝撃。ダンプトラックが突っ込んで来た、鉄球を使ったミンチ解体が突然始まった、そういった類の破壊力でもって礼拝堂が破壊されたのだ。たった一人の突撃によって。
人為的であるのは明らかだが、生身の人間による破壊だとキャスリーンが気づく前、破壊とほぼ同時に彼女の左半身がべっとりと濡れる。左側からバケツで大量の水を浴びたようなありさまだった。
「あ……」
怒号、銃声、激しく交戦する人々。今まさに戦闘が始まった。そのただなかにおいて、キャスリーンは状況を理解できずに立ち竦む。己の両手を見下ろし、左腕――半身が、濡れているのだとようやく自覚する。
濡れた衣服が重い。
耳鳴りがした。
戦闘音が途端に遠のき、眩暈がする。
その水は、赤く、粘り気があって、鉄錆の生臭さが鼻をついた。液体だけでなく明らかな固形物もいくらかまじっている。手の甲に付着した小さな固形物はぶよぶよしたやわらかいものがついた、鋭いガラス片のような形状をしている。拭うと白い。骨片だ。
「ああ……あ……」
見てはならないと本能が警告する中、それでもキャスリーンは確かめずにはいられない。彼女が左を向くと、カイドウがちょうど地面から金棒を引き抜いたところだった。
深く、一点に陥没した地面。その穴から何者かの両脚が生えている。大きな足だ。蹄のある太い二本足で、硬く分厚い皮膚の持ち主だった。上半身は地面と一体化している。特に頭部は見る影もなく吹き飛んでいた。
「あああああっ!」
絶叫とともに、キャスリーンの耳に戦場の轟音が戻ってくる。
五感に洪水のごとく飛び込んでくるあらゆる情報。硝煙、血、におい、悲鳴、憎しみの協奏。
半狂乱でとうに絶命している何者かに駆け寄ろうとするキャスリーンの首根っこを掴んだカイドウが、そのまま彼女を後方に投げ捨てた。
敵味方入り乱れるどさくさに被弾しこと切れた盲人を看取った隻腕の男は、投げ込まれたキャスリーンが壁にぶつかってうめくのを横目にカイドウを振り返る。
「生きるも死ぬも、好きにさせろ」
隻腕の男は一度だけ頷き、有無を言わせぬ力でキャスリーンを叩き起こすと彼女を引きずるようにして礼拝堂から脱出する。
壁際を走り去るとき、盲人の無残な亡骸が目に飛び込んできた。思わず身をかたくするキャスリーンだが、隻腕とは思えぬ力で腕が抜けそうなほど引っ張られる。立ち止まることは許されなかった。
彼女はなんとか首を回し、これまで旅を共にした男の姿を探す。一瞬の出来事だったが、それぞれの陣営が散り散りになっていく中でカイドウの手の者に連れ去られていくのを辛うじて確認する。
礼拝堂を出てすぐ銃撃にあった。
遮蔽物に逃げ隠れた二人は、瓦礫の内側でしゃがみ込む。何が何だかわからずに、ただ隻腕の男に引きずり込まれただけのキャスリーンは、左腕にやけどの痛みを感じて腕をこすった。
「いた……っ!」
思いのほか深い痛みにぎょっとする。服が破けて血がしみていた。銃弾がかすめたらしい。その痛みが彼女を正気に戻す。痺れて冷たくなった手足の指先に血が通うような感覚だった。
次に襲ってきたのは吐き気。胃が引き攣るように痛んだ。膝を吐しゃ物で濡らしながら、無駄だとわかっていても乾きはじめた左半身のあちこちを拭う。
頭を掻き毟ると爪先にかたいものを感じた。髪に絡んでいるようだ。なにかと思ってほぐしてみると、大きな奥歯だった。あのとき左半身に浴びた、爆散した人体の一部だろう。
再び嘔吐するキャスリーンの隣で、隻腕の男がハンドガンを握り瓦礫の向こうのようすをうかがっている。
銃撃が止んだ一帯は奇妙なほど静まり返っていた。不気味な静けさだ。
スラム街にはゲリラの他にも住民がいるはずだ。キャスリーンは連れ去られる前に見かけた子供たちの姿を思い起こす。彼らは無事だろうか。
何をするにも疲れてしまい、彼女はぐったりと瓦礫に凭れた。
そこで初めて、傍らの死体に気づく。
一人や二人ではすまない。礼拝堂から飛び出したところを無慈悲に狙い撃ちされたのだろう。死屍累々たるありさまだった。見える範囲ではあの男の姿がないことが唯一の救いだった。彼は、この国で唯一キャスリーンが知るアメリカとの繋がりだ。
空を見上げる。
この青さだけは地元の空とさして変わらない。
目を瞑る。
――目覚ましが鳴って、もう少し寝ていたいなあと思っているとキッチンからコーヒーのにおいがする。妹を起こしてダイニングルームへ。スーツに着替えたパパとママが朝のニュースをチェックしている。おはようのキスをして、ミルクとフレークの朝食で今日の予定を話す。本当なら、今頃はスクールバスに乗っている時間だろう。
じわりと目元が湿った。瞬きをすると涙が頬を濡らす。
自分がいなくなった後の家族を思うと胸が痛い。妹はきっとわけもわからず泣いているはず。両親はキャスリーンの安否を案じて昼も夜もないだろう。アンバーアラートが発令されて町じゅう大騒ぎのはずだ。今週末はお隣のスーザンおばさんとクッキーを作るって約束したのに。
どうしてこんなことになってしまったのか。なぜ、ここにいるんだろうか。それはあの男とアクション映画のような、刺激的な出会いを果たしてしまったからだろう。なによりも彼女が強情で、無鉄砲で、正義感が人一倍強いためだった。
キャスリーンは涙を拭った。
家族のもとへ無事に帰れるかどうかは、これからの行動にかかっている。覚悟を決めなくてはならない。
「……餓狼どもが」
彼女は隻腕の男が何事かを呟くのを聞いた。民族語がわからない彼女にも、それが罵倒であることくらい伝わった。
隻腕の男が見たところ、正規軍はすでに一帯に展開しておりゲリラの逃走経路は潰されている。遮蔽物に身を隠したはいいが、ここも長くはもたない。
より深刻なのは、カイドウに近すぎることだった。
「……ひとつでいい。弾を貸して」
白い手が隻腕の男に差し出される。労働も血生臭い戦いも知らない女の手だった。
「何をする気だ」
詰問も同然の英語で返され、彼女は肩をすくめる。生々しい拷問の傷痕で歪んだ男の顔をまっすぐ見つめる目に、もう怯えの色はない。
「……気休めかな」
会話の最中も正規軍の動きを注視していた隻腕の男が、ようやく振り向いた。彼は青ざめた女の顔をじっと見つめた後、疑りながらも貴重な弾をひとつだけ手渡した。
キャスリーンはてのひらの弾丸を握りしめ、その拳をこつんと額に押し当てる。じろじろと観察する男が説明を求めているのは百も承知だが、彼女も余裕がなかった。
「成功、するといいけれど」
広げたてのひらの上、弾丸がひとつ。
キャスリーンは息を吸い、
『――弾丸』
告げる。
『これより弾丸は、人体に当たらない』
隻腕の男はすぐさま弾丸を奪い返した。
観光客め、と彼女を面罵した男は目の前の女の異変に気づく。
キャスリーンの、間違いなく成人年齢に達していただろう肉体が縮んでいく。彼女の体は見る見るうちに少女然とした体つきに変貌していった。丸みを帯びた頬、大きな瞳、ひょろっと細長い手足、だぼついた服に着られる少女は真剣な眼差しでズボンの裾と服の袖を捲り、ベルトを絞る。
「お前……」
「行こう!」
少女――キャスリーンは果敢にも瓦礫から飛び出した。あまりにも突飛な行動のはずだが、隻腕の男は一切の迷いなくすぐさま後を追う。
普通に考えれば自殺行為だ。
彼女の行動にもっとも混乱したのは迎撃する側、正面に展開する正規軍の兵士たちだろう。礼拝堂から出てきた人間を無力化するのが第一の任務であり、現在はゲリラの幹部、それもカイドウの右腕と目される隻腕の男と白人女を仕留めるはずが、いたいけな少女が飛び出してきたのだから。
僅か、トリガーを引く指に迷いが生じた兵士たちだが、間髪入れず隻腕の男が飛び出して来たのを見てとると少女もろとも銃弾を浴びせた。おびただしい空の薬莢が地面を打つ音は、さながら雨のようである。
しかし、彼らは倒れない。
二人は弾丸の雨の中を真っ直ぐに突き進んだ。ありえないことだった。まるで銃弾が意思をもって二人を避けているかのようだ。
まさしく神懸った光景は兵士たちを動揺させるには十分である。
――まず、唖然とする兵士の一人が気を失う。左右隣の兵士は気絶した仲間に気づきもしないが、隻腕の男だけが走り去るほんの数秒間で察知した。
そして――うまくいった! 生き残りの芽を見たキャスリーンは揚々と浮つく心を引き締め、次の瞬間には膝から崩れ落ちる。
隻腕の男の行動は早かった。
なんの前触れもなく一瞬で意識を刈り取られた少女が地面に倒れ込むところを、たった一本しかない腕で胴を引き上げ担いで走る。
途端、銃弾が頬や足をかすめた。
舌打ちをし、建物の陰に滑り込もうとした彼が見たのは、ばたばたと見えない力によってなぎ倒され意識を失う兵士たちの姿だ。
ぞっとするような悪寒と礼拝堂から聞こえる戦闘音が男の背中を押し、正面突破を敢行する。
不具の男は正規軍が展開する路地に入った。
あちこちで気絶している兵士を踏みつけ、とにかく走る。兵士の中にはかろうじて立っている者も何人かいたものの、意識が朦朧としているため、男が横を走り抜けただけで倒れてしまう。再び起き上がってくる者はいなかった。
正規軍といえば聞こえはいいが、一部の例外を除いて彼らの実態はゲリラとそう変わらない。ありあわせの装備は不揃いで練度もまちまち、夜盗や追い剥ぎと大差ない部隊も珍しくなかった。そういった輩がカイドウの存在に耐えられるはずもない。
町の中心部は奇襲された礼拝堂跡よりも更に輪をかけてひどい状態だった。
そこここで黒煙が上っている。悲鳴と銃声、破壊音。子供の泣き叫ぶ声。民間人が逃げ惑い、正規軍とゲリラも入り乱れてあちこちで衝突と混乱が起きていた。完全なパニックだ。
隻腕の男はすぐさま路地に入った。逃げ遅れた民間人二名の遺体を跨ぎ、民家のドアに次々体当たりしたが、どれもたてつけが悪いせいか封じているせいか、いずれにせよ家屋に避難することはできなかった。
「うう……っ」
キャスリーンのうめき声を耳にするとすぐさま彼女を下ろした男は、己もまた壁に背を預けて深呼吸をする。立ち止まった瞬間、どっと滝のような汗が頭から流れてきた。
「いったい、何が……っ」
起き上がろうとしてよろめいたキャスリーンが、片手で壁に手をつくと腹を押さえた。意識がない間、ずっと肩に担がれていたので痛むのだろう。
町のいたるところで発砲音や怒号が飛び交う中、束の間、二人は路地の暗がりでじっと息を潜めながら無言で息を整えた。
奇跡的な時間は一分も続かなかった。
路地の先、広場のバザーに何かが墜落したのだ。
粉塵にまかれた二人は咳き込み、隻腕の男は当然逆方向へ後退しようとしたがキャスリーンは広場のほうへ歩き出した。ぎょっと目をむいた男は咄嗟に彼女の細腕を掴んだ。
「何をしてる!」
「声が……子供の声が聞こえた!」
彼女は猛然と男の手を振り払い広場に向かう。
呆気にとられた男の歪んだ容貌に一瞬だけ心理的葛藤が表出した。一本のみ残された腕で汗を拭い再びハンドガンを手にする。苛立ち、銃床でごつごつと額を叩いた彼もまた、キャスリーンを追って走り出した。
広場は破壊された屋台や雑貨やフルーツなどが散乱していた。民間人が数人、血を流して倒れている。破壊されたテントの支柱に絡みついたカラフルな布が風でばたばたとはためいている。
「どこ!! どこにいるのっ!!」
広場のバザーで髪を振り乱し動き回る白い肌の少女は大変目立った。血が乾いてどす黒く染まった左半身だけでなく、両手も新たに血まみれになっている。生死を確かめるため倒れ伏す人々に触れてまわったのだろう。少女の手にしたたる血を見てぎくりとした隻腕の男は竦んだ己に舌打ちをし、格好の的となっているキャスリーンに駆け寄った。
「返事をして、お願い!」
「おい、――おい!」
肩を掴み振り向かせた男とキャスリーンの視線が交わる。
そのとき、キャスリーンは銃声と共に沈む男を見た。
撃たれた男のほうが信じられないという顔をして、己のミスに腹を立てているようですらあった。
がっくりと倒れる彼の腕を掴んでともに地面に崩れたキャスリーンは、腿を押さえる男に言葉もない。彼女には彼の肩越しに兵士三人が近づいて来ているのが見えていたが、ここから立ち去る気にはなれないのだった。
「……私、私、ごめんなさい、ごめんなさい」
絞りだされた言葉もそんなものであったから、隻腕の男はこの少女を哀れにすら思った。彼は仕方なく銃創から手を離し、彼女の肩を突き放すように押す。
「いやだ、だめ」
キャスリーンは肩を押されながら彼に代わって傷口を押さえた。
抵抗する彼女を動かしたのは背後に回った兵士だ。後ろから羽交い絞めにされ、こめかみには銃口。残り二人の兵士も隻腕の男に銃口を向けていた。
「……手品はもうネタ切れか」
額に銃口を押しつけられた隻腕の男は兵士を睨みつけながらも、皮肉っぽい英語を喋った。キャスリーンだけが正しく意味を理解して首を振る。兵士たちは互いに目を見合わせてから男を殴りつけた。
「――だめ!!」
誰も少女の悲鳴など取り合わない。
隻腕の男は血交じりの唾を吐いて顔を上げる。彼は笑っていた。傷痕で歪んだ顔つきが更に歪に変容するほどの満面の笑みである。
気が触れたかと嘲笑する兵士たちの頭上がふっと暗くなる。広場だけではない。町一帯に影が差していた。
――空に、山のように巨大な蛇が浮かんでいる。
うねる巨体に炎のごとき雲を纏う長大な存在はあまりにも忽然と現れたので、キャスリーンは最初自分が白昼夢を見ているのではないかと思った。
巨体にふさわしい太く鋭い角、波打つ鬣と四肢、細長いひげ。鋭いのは角ばかりではなく、その爪と牙もだ。
ぎょろりとした眼が見下ろすのは敵前逃亡した兵士たちではない。
バザーの中心部が突如として盛り上がる。現れたのは異形型の人間。こちらも飽きれるほどの巨体だが、頭上の蛇と比べればアリと象に等しい。
蛇の顎が大きく開かれた。真っ赤な口の前方に火球が生じる。恐るべき速度で巨大化した火球はまるで、……まるでもうひとつの太陽だ。地上にまでその熱が届いた。凝縮されたエネルギーの輝きで蛇の牙がぬらりと光る。
風が背後からやってきた。あの太陽に向かって吹いているのだ。キャスリーンと隻腕の男はそれぞれ蛇が生み出す太陽を見上げていた。逃げる時間はなかった。
広場から音が消えた瞬間。
――異形型の人間が飛び上がる。性別も、出自も、どうして今こうして立ち向かっているかすらわからない。とうてい勝ち目のない勝負に挑み続けてきただろう人間が、渾身の力で蛇の顎を殴打する。
殴られた方角へ蛇の首が曲がり――。
太陽は東の乾燥地帯へ沈み、瞬後、炸裂した。
異形型の人間はスラムの方角へ落ちていく。ぼう然とするキャスリーンの隣で、よたよたと隻腕の男が立ち上がる。
大規模爆発によって東の空にきのこ雲が発生し、空を突き抜ける火柱に火山雷のような現象すら見てとれた。
キャスリーンは自分の覚悟に何の意味もないことを、このバカげた現実でもってようやく思い知ったのだった。
けれど。
けれども、声が聞こえるのだ。
助けを求める小さな声が。
察知した隻腕の男が彼女の手を掴む。
「……行って。お願い」
一刻の猶予もなかった。
爆心地からは衝撃波、そして爆風が襲ってくる。
少女と男は数秒見つめあい、それぞれ別々に動き出す。男は足を引きずりながらも路地へ、少女はバザーの向こうへ。
キャスリーンは死に物狂いで広場を駆けた。瓦礫を考慮すると彼女の体格では破壊されたバザーを突っ切るより回り込むほうが早く、しかしながらその距離が歯がゆいほどに遠い。
転がったフルーツに足を取られ転び、強か顎を打ったが歯を食いしばって立ち上がる。
子供の声はどんどん小さくなっていった。
待って。
今、今そこに行くから。
お願い、間に合って。
ついに、広場の反対側で崩れた屋台の下敷きになった幼児を見つける。キャスリーンは駆け寄って幼児の手を握り、頰を撫でた。反応がある。弱っているけれど生きている。
顔を上げると、凄まじい爆風が津波となって町に押し寄せくるのが見えた。舞い上がった粉塵は町で一番高い建造物を優に超える。広場に到達するまでもういくらもない。
『私は、強い。強い。つよ、い、ぃ』
単純で、滑稽な、祈りの言葉。強さのイメージは常にただ一人。マスターのようになりたかった。あの人のような人間になりたい。どんなに絶望的な状況でも、たった一人やって来るだけで皆がほっと安心するようなヒーローに。ただ今は、この子を助けたい。
キャスリーンは奥歯が割れるほど食いしばり、折り重なって破壊された屋台を持ち上げる。僅かな隙間ができた。
爆風が迫る。
刹那、脳裏にパパとママ、妹のことが過る。
ぶるぶる震える細腕で屋台を持ち上げながら口から血の泡を吹き、下敷きになっていた幼児を引きずり出した。
やったと思ったときにはもう遅い。
爆風は眼前。
キャスリーンは本能的に幼児を抱きしめ、爆風に背を向けた。
意識が保つ限り己の力を信じてひたすらに絶叫した。家に帰りたかった。同じくらい、腕の中に抱いた子を助けたい。
実際には爆風に巻き込まれた瞬間、すべてが霧散した。
――そして、暗転。
目が覚めたとき、彼女はそこが死後の世界であるかどうか確かめる必要があった。
かすむ目をこらして見えてきたのはずらりと地面に横たえられた人々。いずれも申し訳程度の布切れを敷いた上に寝かされ、治療中のようだ。負傷者を診てまわる数人が忙しそうに行ったり来たりしている。
饐えた臭いがした。
あちこちで人を診ていた女がこちらにやって来て背を向けると隣にしゃがんだ。横にいる誰かに、腕が腐り始めている、というようなことを話していたが、キャスリーンは現地語がわからない。ただ説明をされた人がむせび泣いているのを見て心が痛む。
体の節々が痛いし、喉はガラガラ、特に腕と胸の痛みがひどい。
最悪な気分だが、最悪の状況ではないようだ。
幸運だった。
左腕は添え木がされていて、胸にはきつく包帯を巻かれていた。体じゅう傷だらけだったが、ここではガーゼの一枚も惜しいようで、よほど重傷でなければ生傷をさらしたままだ。
ようやくこの場所が死後の世界ではないことを認めたキャスリーンは、ただ起き上がるだけに全身全霊の力をかけた。彼女の能力はほとんどガス欠のようで、完全に筋力のみで起き上がらなければならない。
「あの、すみません」
穴の開いた天幕の中で患者を診る人々はキャスリーンに目もくれない。一人だけ立ち止まってくれた人がいたが、立ち上がる力があれば治療は不要なのだから、さっさと出ていけと言わんばかりに睨まれてしまう。
追い出されるようにして天幕から出たキャスリーンは、外の暗さに目が慣れず立ち止まる。そのまま行こうとしたが思い止まって振り返った。
「――助けてくれて、ありがとうございました」
誰にともなくお礼を言う。
言葉を発するたびに胸に鋭い痛みが走った。
天幕の中にいる誰もキャスリーンを気にもしなかったが、それでよかった。
暗がりの中、ぼんやり明るいところを目指して休憩をはさみながらふらふら歩き、話がわかる誰かを探す。ここは野営地のようで、みんな静かに過ごしている。大体がこそこそ話しているか酒を飲んでいた。最後の一人以外はキャスリーンを面倒ごとの種と見なして鬱陶しそうに追い払った。
岩に凭れてぼうっとしていたその人はゲリラの中では珍しい女で、こめかみから唇にかけてむごたらしい縫い痕がある。シケモクをつまむ指も何本か欠けていた。その姿にこの地に来て何度目かわからない衝撃を受けつつも、キャスリーンは幼児の行方を尋ねた。
女はキャスリーンの話を黙って聞いていた。
幼児のおおよその特徴と、その子の安否を確かめたいこと。英語が通じているようすもないので、なんとか身振り手振りで説明する。
その人はシケモクをギリギリまで吸って、そのへんに捨てると、キャスリーンの目を見てある天幕を指差した。
意図は通じたようで、彼女はぱっと笑ってお礼を言い立ち去った。
その天幕は一際明るく、野営地のどこよりも人が集まっていた。
期待に胸を膨らませるキャスリーンは、痛みを押して小走りで駆け寄る。だが、どうも天幕の雰囲気が変だ。静かすぎる。
中から出てきた人がむせび泣いているのを見つけて、足取りがどんどん重くなる。
天幕の前に立つ頃には、まるで鉛の塊を飲んだような酷い気分だった。
――そこは、安置所だ。
遺体は天幕の外にまであふれている。
慄然と立ちすくみ、体の痛みが遠のくほどに血の気が引いた。足ががくがく震えて動けない。そのうち恐怖で歯の根が合わないほどガタガタと震え出した。
これまでキャスリーンが感じてきた恐怖は、さまざまあった。親に内緒で国から離れる恐怖、見知らぬ土地での驚くべき体験に伴う恐怖、無残な人の死、己の命の危機。
だが、これは。
こんなことは、あまりにもむごい。
キャスリーンはその場でへたり込んだ。
妹よりも小さな子供を助けられなかった現実に直面する恐怖は、これまでのあらゆる恐怖を凌駕した。
「キャシー?」
その声が、それこそ現実味を失わせた。
「君なのかっ?」
天幕の中から現れた男は、キャスリーンと似たり寄ったりのケガをしていた。ここでは珍しい白人、ブラウンの頭髪。唯一の、祖国との繋がり。
彼は生きていた――。
キャスリーンは気丈にも溢れそうになった涙を飲み込んだ。駆け寄ってきて肩を掴み、ケガの具合を確認する男に縋る。
「子供、……小さな子を、探してるの。お、お願い、私には、私、で、で、できない」
か細い声に事情を察した男は沈痛な面持ちで頷くと、子供のおおよその特徴を聞いて天幕の中に引き返したが、戻ってくるまでさほど時間はかからなかった。
口元に手を当てた彼は深刻な面持ちでキャスリーンの前にしゃがみ込む。今見てきたことを伝えようとして、それで失敗する。ただ、キャスリーンの目を見て首を振る。
キャスリーンはぼけっと男を見つめた。
まだ、あの子の泣く声が、おそらくは親を呼ぶ声が耳に残っている。あの子は必死に生きようとしていた。最後に見たときは確かに生きていた。抱きしめると温かかったのに。
「……いやだ、やだよう」
憧れのマスターならどんな窮地も諦めない。そのはずだ。けれども、これはどうすればいい。どうすればいいのだ。あの子は死んでしまった。広場に倒れていた人たちも、キャスリーンが駆け寄った時にはもう遅かった。ゲリラも兵士も、みんな、みんな、あっさりと死んでしまった。
キャスリーンはオールマイトになれない。
彼女は誰も救えない。
わああ、とついに泣きわめく彼女を抱きしめ、男はその背中をさする。
「キャシー、ここから離れよう」
キャスリーンは素直に頷いた。
二人は支え合いながら野営地の端に向かい、誰かが熾した焚火のそばに座り込む。日中はあれほど暑かったのに夜はとても寒かった。
「……毛布と、それから何か飲み物を探してくるよ」
「いい。ここにいて」
受け答えはしていたが、彼女は心ここにあらずで焚火を眺めている。男は彼女の隣に慎重に腰を下ろした。暫くの間、二人は無言で焚火を見つめた。
「……あのね」
先に口を開いたのはキャスリーンだった。
いやに幼い声に不安を募らせながらも男は頷く。
「先生が養成プログラムに推薦してくれたの。
学校の話だった。
膝を抱える少女の青ざめた頬を焚火の灯りがぼんやりと照らしている。ぱちぱちと爆ぜる炎の揺らめきがヘーゼルの瞳の中で踊っていた。
「キャスリーン・ベイトは世界一のうぬぼれ屋だった」
「……君の力は、遅かれ早かれ国に管理されるほどのものになるよ」
「嘘ばっかり」
「キャシー」
男は涙に濡れる少女の頬を拭った。
「もう何も聞きたくない!!」
両耳を塞ぐ手を引きはがされる。いやだ、と逃げを打つ。
「キャスリーン」
男の気迫にただならぬものを感じて、キャスリーンは思わず彼を見つめた。横顔を篝火に照らされた彼の目は怖いくらいに真剣そのものだった。
どんっと衝撃があった。
え、と下を見たキャスリーンは、己の腹に深々と刺さるナイフと慈悲深く微笑む男を、この現実を理解しきれなかった。
「……えっ?」
「本当にすまない」
どうして、という疑問は言葉にならなかった。
素早くナイフが引き抜かれ、腹から火が噴いたかと思うほどに熱い。キャスリーンは腹を押さえながら横倒しに倒れた。痛みは遅れてやってくる。
すっと立ち上がった男がもだえ苦しむ彼女を見下ろしている。
『あ、わ、私の、傷、は……塞が、る』
「……惜しいな。君が世界一のヒーローになるのを見てみたかった」
キャスリーンの眦から涙がこぼれる。
そのままとどめを刺されるかと思われたが、ふと男が背後を振り返った。暗闇に向かって誰かと聞くまでもない。この重量物を引きずる独特の音は。その人物こそは。
「カイドウ」
彼は友人のような気安さでその名を呼んだ。
「……造血は」
カイドウが更に背後へと問いかけた。同じ暗がりから現れたのは杖をついた隻腕の男だった。彼は血を流して倒れるキャスリーンを一瞥し、淡々とカイドウに報告する。
「保って一回、やれば奴も命が危ぶまれます」
「なら本望だろう」
「ええ」
隻腕の男が二歩下がり、カイドウが無造作に金棒を握りなおす。
「――満足か」
怪物の両目は人間の底を見透かしているようだった。
相対する男は肩をすくめてみせた。
カイドウがゆっくりと金棒を持ちあげる。
キャスリーンは悲鳴を上げることも、目を瞑ることさえもできずに、その瞬間を見届けた。
彼女は、最後まで無力だった。
思いつきで書いてみた話。ニューオーダーに老化付与まであるか不明だけど、少女のキャシーにとってはバフになるから上限いっぱいだったはず。一話にまとめたかったのですが書いてみたら長かったので分割、後編に続く。