――違う。君はすごい力を持っているんだ、キャシー。
目を開ける。
瞬きをする。
水中のように不明瞭な視界が急速に像を結ぶ。
キャスリーン・ベイト。
ヒーローに憧れる今どきの女の子。
――でも、ちっともこの力のことがわからないのに?
――キャシー、オールマイトだって君くらいの年頃はただの洟垂れ小僧さ。
――ええっ? ほんとう?
――多分だけど、きっとそうだ。子供の頃から力を使いこなせる奴なんていないよ。少なくとも私は見たことがない。
――そうかなあ。
首を傾げるキャスリーン・ベイトの丸々としたヘーゼルの瞳に、私の姿が映り込んでいる。白い肌、ブラウンの髪。いや、違う。これは……記憶だ。
――私の力のほうがずっと地味だよ。
――え! そんなことない。記憶を共有できるなんて、何だかとってもロマンチック!
――うーん、あんまりステキな使い道が思い浮かばないんだけどなあ。
あはは、とキャスリーン・ベイトが屈託なく笑う。
ああ、そうだ、これは彼の記憶だった。
――本当にすまないと思っている。君をこんなことに巻き込むつもりはなかった。必ず無事に家まで帰すから。
――いいの。自分で決めたことだし。
次の記憶は空港だ。つんと大人ぶってすましたキャスリーンは、未来で待ち構える己の運命を知りもしない。
記憶とともに感情が流れ込んでくる。葛藤、後悔、覚悟、憐憫。パレットにぶちまけた絵具のように複雑に入り乱れる。
薄暗い密室で、三つのファイルを持った女が彼を冷酷に見つめている。
――通称カイドウ。今回のターゲットの名前。
男は半信半疑で一つ目のファイルを受け取った。
中には写真が入っている。二本の角を有した男の後ろ姿、写真におさまりきらない巨大生物の影、最後の一枚は手振れが激しいためはっきりとせず、男の角が四本生えているようにも見える。
――冗談だろ?
彼はすぐさまファイルをテーブルに投げた。壁に凭れた女は人差し指にぽっと点けた火でタバコを吸う。彼の嫌いなメンソールだ。
――本名、実年齢ともに不詳。異形型……と便宜上定義されているけれど、近年アレをホモ・サピエンスにカテゴライズすることに疑義すら生じている。
――おい、この話続ける気か?
女は男を一瞥するとテーブルに手を伸ばして巨大生物の写真を取った。しげしげと眺めて細い眉を片方だけついと吊り上げる。
――鈍足らしい獣型でも平均時速およそ五五〇マイルで飛行可能。任意で発露される謎のプレッシャーは、過酷な訓練を経たパイロットの意識すら刈り取る。奴の戦場で空軍が目立たない理由はこれね。未確認だけれど、口から放射された熱線が山を消し飛ばしたとか、海を割ったとか。
男は無言で席を立った。
――どこへ行く。退出許可は出していない。
――失礼、必要なのはバケモノ退治の専門家だろうと思ってね。
――早とちりしないで。あなたの任務はカイドウの殺害ではなく、誘導。
男はため息をつくとイスに座りなおし、女は写真をテーブルに戻した。
――真に注目すべきは奴の耐久力。適応力といってもいい。かつて身ひとつでエベレストへ飛んだ理由が、カルデラの溶岩湖に落とされて暑かったから。某国では公式に否定されているけれど核ミサイルの直撃からも生き残った。
――……本当に同じ人間なのか。
――言ったでしょう。疑義がある、と。一方ではミッシング・リンクでありオリジンでもあると論じる学説もある。我々ミュータントの起源が何であれ、まあそれは枝葉末節ね。ところで、今朝のニュースはチェックした?
男は眉を顰めた。
――南部の事件なら知っている。工場から化学物質が漏洩したと。つまり、原因は別にあるということだな?
女は無言で二つ目のファイルを寄こした。
一つ目の資料より分厚く科学的な専門用語を多分に含んだ難解な内容は、南部のある小さな町で起きた悲劇について語っている。当該地域の遠景写真がいくつかと、衛星写真。
――……個性特異点って知っている?
女は資料を読み進めるにつれ顔色を失う男の後ろへまわり、視界から消える。おそらくはドアに背を預けた女が吐いた煙が背後から広がった。
――昔、日本のある医師が提唱した終末論よ。当時は荒唐無稽な主張だと退けられたけど、後年、我が国は秘密裏に同研究を進めた。
男は資料をめくる。
事態が発覚するまでに死亡した犠牲者の数、封鎖後も及ぶ影響について。町丸ごと含む一帯の地域が軍事封鎖されるに至った背景と、回収された犠牲者の夥しい遺体、その異常性。解剖の所見。
――予想より早すぎたけれど、これは、特異点を過ぎてしまった一つの事例。
――……爆心地付近には市長や警察署長もいたはずだろう。病院の前でセレモニーがあった。彼らは今朝、記者会見に出ていたじゃないか。
――苦肉の延命処置でね。幸い、彼らはきれいに死んだほうだから。退避勧告が出た近隣住民や国民に化学物質の漏洩という尤もらしい説明で納得してもらうため、その説得力を持たせるため、市長と警察署長の会見が必要だった。二人ともさっき死んだわ。
――汚染は……今も広がっているのか……。
――全方位にゆっくりと浸潤している。地中の汚染はそれほど進んでいないけど、地上の遮蔽物は無意味。このままのペースだと三ヶ月後には南部全体に広がる。もちろんできる限りの対策は立てているけれど、現状科学チームもお手上げ。原因を直接排除しないことにはね。でも誰も爆心地に近づけない。
――……原因の直接排除だと?
ファイルを置いて大きくため息をついた彼は、思いきり顔を顰めると指で鼻の付け根を揉んだ。
――誘導か。なるほど。つまりあの化け物をこの国に呼び寄せるって? それで汚れ仕事を押しつけようって魂胆か。バカげている!
――空爆で浄化を計るまで猶予はある。といっても、現代の重火器で滅殺できる確証はない。より困難かつ確実性のある方法を、今ならまだ選べる。
女は、というより彼女の背後にある組織は、男の意見を黙殺した。
最後に三つ目のファイルが後ろから肩口に差し出され、男は舌打ちをしながらむしり取った。
それは、キャスリーン・ベイトの資料だった。
――なんだこれは。
――もう一人のターゲット。
今度こそ男はファイルを床に叩きつけ、イスを引き倒す勢いで立ち上がった。女は携帯灰皿でタバコを始末しているところだった。
――子供だ。
――そう。
――子供だぞっ!!
――明白ね。
ファイルを拾い上げた女は、それを男の胸に押しつけた。彼女は対面のイスに足を組んで座り、怒り心頭で震える男を忌々しいほど冷静に見上げている。
――あなたは事の深刻さを理解していない。
――しているとも! 嫌というほどな!!
ファイルが歪むほど握りしめ、彼はうったえる。
――いいえ、まだ不十分よ。例えば半年後、汚染域はどれほど拡大していると思う? 一年後、三年後、五年後は?
女は首を振った。少し疲れたようすには、初めて人間らしい機微が垣間見える。
――この問題はアメリカ国内だけに留まらない。
彼は反論できず、ちょっとの間うろついてからどかりとイスに座った。首を振り頭を抱え、長考の末に女の冷徹な目を見る。
――これは危急存亡の
――そうは思えない。彼女である必要性がないだろう。
キャスリーン・ベイトのファイルをテーブルに置いた男が、写真の中の少女を指差し説得を試みる。
――あの怪物に交渉は通じない。けれど戦いと強者に執着している。だから、この少女を連れて行くの。才能が開花すれば世界を塗り替えるであろう逸材。カイドウにとってもまったくの未知、多少の興味は引かれるはず。
――なら、この子の成長を待てば。
――代わりにこの子が問題を解決してくれるって? それまでどれほどの被害が出るかしら。いったい誰がそれを許すと思う。
男は再び黙り込んだ。
――あなたの言うとおり、これは生贄。尤もらしい理由を説明したけれど、釣り餌は必ずしも彼女である必要はない。
――なら。
――比類なき力であるが故に、この子はパワー・ゲームに巻き込まれた。いずれナンバーワンの立場を脅かす逸材の誕生。これを喜ぶ誰かがいれば、都合が悪い誰かもいるってこと。残念ね。彼女の命はすでに、あなたの手から離れたところにあるってわけ。
男は拳を握りしめていた。広げた掌には血が滲む。
――……これが、最後の任務だ。そうだな? 俺はもう、抜ける。
――ええ、そうね、あなたは十分に貢献してくれた。だから我々もあなたに見返りを与えた。奥さんはお元気?
男は女を睨みつけた。仇を見るような目であった。
――そう興奮しないで。大事な最後の任務なんだから、冷静にね。
――非常に重大な二重任務をどうも。表はカイドウの説得、およびアメリカ本国への招致。裏はキャスリーン・ベイト暗殺。くそったれめ。
――少女を連れ出すためのストーリーはアドリブで任せます。……上はこうも言っている。我がアメリカ合衆国は対個人として異例の、そして世界初の不可侵条約を締結する用意がある、と。
男は鼻で笑った。
――危急存亡の
――あなたにも相応の報酬が約束されています。
――……どうして俺なんだ。
――今更それを聞くのね。わかっているでしょう。諜報に必要なのは腕っぷしばかりじゃない。
女の物言いに彼は鼻白む。
客観的に評価したとき、これまでの実績から優秀な人材であることは男自身も認めるところである。とは言っても、これほどの重大任務ならば他にも候補はいるはずだ。より適性のある人物も何人か思い浮かぶ。共同任務となってもおかしくないだろう。しかし単独で遂行しろという。間違いなく裏がある、という直感があった。
――最後だ。これが、本当に。
疑念をおくびにも見せず、決別の意志を固くした男が席を立つ。その背中へ、女は最後の会話を投げかけた。
――ペンタゴンの中枢部には寝たきりの患者がいる。
――はっ?
思わず振り返った男の目に映る女は、二本目のタバコに火を点けていた。
――噂、聞いたことない?
――……衛星レベルの目を持った男の話か。あんなもの、くだらない作り話だろう。
――どうかしら。あなたは実際にあの場所へ行って、噂話の正体を確かめたことがある?
――……仕事は、完璧にこなすさ。脅すだけ無駄だ。
――そう。頑張ってね。
紫煙に覆われて、女の顔が見えなくなった。
瞬きのように場面が移り変わる。今度はバスルームだ。男は鏡の中の己を睨みつけている。
彼は突然、鏡を殴りつけた。
何度も何度も鏡を殴る。
拳が裂けて、鏡が粉々になってようやく止まり、肩で息をした。
――くそ、くそ、くそぉっ。
彼はたった一人だ。
――これが、本当に最後の仕事になるの?
――ああ、本当だよ。
そこは病室だった。
やせ細った女性が心配そうに彼を見つめている。握った手の力は弱々しく、彼女からは病人特有のにおいがした。もう長くないことは互いに理解していたが、どちらもそれを口にしなかった。
――もし、戻らなかったら。
――やめて。そんな話聞きたくない。
――いいかい、僕の昔の友人たちに話をしてある。彼らがきっと君を守ってくれる。
――だめよ、どうして、こんなこと。
――すまない。
彼は思いどまるよう説得する彼女に、彼女と初めて出会った時の記憶を共有した。そしてそれに続く束の間の幸せな記憶を。
めまぐるしく移り変わる場面転換はまるでジェットコースターに乗っているかのようだった。
そこはどこかのカフェテラスだ。向かいの席にはくすんだ水色の肌をした男が座っている。ぎょろっと飛び出た目と、ピーナッツのように発達した頭部が特徴的な異形型だった。例えば、宇宙人がいたとしたらこんなふうな見た目だろうか、と連想される外見である。
――我々の未熟を無念に思う。つくづく、すまないことをした。
――アグパーさん、約束してくれるんですね。
――誓おう。彼女の身の安全は保証する。だがまず、君こそが必ず生きて帰ってくれたまえ。
男は返事をしなかった。
……地面が見える。
瞬きをすると、眼前にカイドウが鎮座していた。
突き立つ瓦礫がまるで玉座のようだ。
男は捕らえられ、両腕を縛られた上で地面にうつ伏せの状態で降伏していた。口の中の砂利と血をぺっと吐き出して、首をめいっぱい伸ばしカイドウを睨んでいる。
――あの子はどこだっ!?
にじり寄ろうとすると誰かが背中を強烈に踏みつけて、たびたび視界が激しく揺れた。咳き込む男を見下ろすカイドウは非常に珍しく茫として物思いに耽っているようすだった。
――とんだ奇縁があったもんだ。
カイドウの呟きは英語でも現地語でもない言語だ。日本語だった。
注意深く窺っていると、何を思ったか、カイドウは視線ひとつで人払いを済ませ、そして完全に二人きりになってから再び口を開いたのだった。
――ガキの頃はそれこそ血眼でお前を探したぜ。
彼は、もはや言葉もなくカイドウを食い入るように見つめていた。
――俺は時を逸した。今更だ。怨んじゃいねえよ。だがのこのことやって来たからには、首を差し出すのが礼儀ってもんだろう。
――……まさか、気づいて、いたのか。なら、どうして。
カイドウはため息をついて腰を上げる。問答の余地は残されていないようだ。男はもがきながら自力で起き上がり、膝立ちとなった。
彼らは暫し無言で見つめあう。
――小娘は約束を果たした。
冷淡なカイドウの言葉は吉報であるのに、鋭い痛みとなって男の胸を突き刺した。無事なのかと聞くのもおこがましい。無事であるはずがない。どれほどの傷を心身に負ったことか。この期に及んで彼女の無事を祈る性根も腐り果てている。この男こそが無垢な少女を地獄に突き落とした張本人なのだから。
――……生きて、いるのか。
――ああ。
キャスリーン、と祈るように呟く男が縛られた両手をぎゅっと握りしめる。
――記憶を明け渡す。条件は身体の接触だ。
男は自ら進み出てカイドウの眼前に跪いた。
――その記憶が捏造されていない保証は。
――ない。
男は臆さずカイドウを見上げる。
――最後に、あの子に会わせてくれないか。
――いいだろう。
カイドウの手が頭上に迫る。
彼は殉教者のごとく頭を垂れ、ゆっくりと目を瞑った。
そこは夜だった。
隠れ家でキャスリーン・ベイトの他愛ない話に耳を傾け、彼女が寝つくまで見守っていた男は、外の空気を吸いに屋外へ出ていた。この国の星空はアメリカの国立公園や保護区と同じくらいに美しく、こんな仕事の最中でなければゆっくりと心行くまま堪能していただろう。
一服しようかと懐に手を突っ込んだとき、衛星電話が鳴った。
――アグパーさん? どうしてこの番号が……。
努めて冷静であろうと振る舞う男の声はしかし、動揺を隠しきれていなかった。彼はきょろきょろと周囲を確認して、なるべく通信を邪魔しない範囲で身を隠す場所を選んだ。
――通話は危険です。
――君に知らせるべきではないと承知している。だが、知るべきだ。
――……。
――彼女は逝ってしまった。
彼は長いこと沈黙した。
呼吸がだんだんと早まり、滲む視界を乱暴に拭う。
「そんなはずはない」と言いかけ、口を噤む。何度も何事かを言いかけて失敗し、ひたすら長い沈黙が続く中で片手で頭を抱え、頭部を掻き毟り、壁を殴った。
――頼むよ、嘘だと言ってくれ。
懇願だった。
藁にも縋る思いで、アグパーに頼み込む。どうか嘘だと言ってくれ。これは質の悪い冗談だって言ってくれ。
――そう言えたら、どんなにいいか。本当に残念だ。
彼は壁を背にずるずると座り込み、衛星電話を両手で持って額に押しつけた。
――彼女は。
男は衛星電話を耳元に当てなおし、何度もつっかえながら何とかアグパーに聞いた。
――彼女は、苦しんだのか。
――いいや、眠るように穏やかだったよ。
ついに嗚咽する彼を、アグパーはそれなりの時間をかけてじっと黙って待っていた。しかし悲しみに暮れる時間すら彼らには残されていなかったのだ。
――迎えを準備している。今すぐそこから離脱しろ。
男は首を振って涙を拭った。
――聞くんだ。なぜ、この任務に抜擢されたのか、どうしても腑に落ちないと言っていただろう。君の勘は正しかったよ。
――私の……最初の任務のことは知っています。
アグパーが息を呑む気配が電話越しにも伝わる。
その一言だけで、もう説得が意味を成さないのだと悟ったようだった。
――出国してすぐ、共通の友人から連絡がありました。当時、エスカレーションを招いたのは間違いなく現地の人々だ。ただ私は少しその背中を押して、私の仕事をやりやすくしただけ。それだけだった。……思いもしませんでしたよ。あの革命に巻き込まれたペットがカイドウだなんて。はは、確かに……面影はある。
――……君は殺される。カイドウ……いや、我が国によって。
男はにっこりと笑って満天の夜空を見上げた。涙でにじむ星はきらきらと輝いている。
――アグパーさん、私みたいなのはアメリカの瑕疵なんです。
――何を言う。
――妻がいない世界を生きていくなんて耐えられない。結局、私は彼女の願いを何ひとつ叶えられなかった。こんなクズでも、せめて、最後はいいことをしたいって思うんですよ。
男は立ち上がった。もう一度濡れた顔を拭い深呼吸をする。
――ペンタゴンの眼を欺く必要があります。
――……あの亡霊も生身の人間だ。内部の協力者によればすでに活動限界を大幅に超過しているから、おおよその目的が達成されたと判断された時点で次の運用までシャットダウンされるだろうという見込みらしい。今回の最重要リストはキャスリーン・ベイト暗殺とカイドウ。次点で君の死亡確認だ。
アグパーはもう友人の命を惜しむ言葉を口にしなかった。であれば、目下の課題はキャスリーン・ベイトである。頭の痛いことに、少女にとってこの紛争地帯よりもアメリカ本国のほうがよっぽど危険なのだった。
――世界の滅亡と一人の女の子を天秤にかけるとはね。
――キャスリーン・ベイトの家族は私の保護下にある。しかしそれも、いつまで持つか……。
――……僅かでもいいんです。時間を稼いでください。
――何か策があるのか。
――カイドウです。
即答する男にアグパーが思わず聞き返した。
――なんだと。
――この最悪な状況を変えられるとしたら、奴しかいない。
――何を言っているのかわかっているのか。それこそ山を動かすような話だぞ。
――当初の目的通り奴を誘導します。世界が自分以外の手で滅亡するとなったら奴も黙っていないはずだ。それに、きっと奴はキャスリーンを無視できない。
――君の自殺に付き合えるほど私の罪も軽くはないが、根拠はあるのだろうな。
男はかすかに笑う。
――……似ているんです。目が。
――目? いったい何の話をしている。
――改めて思い出しただけですよ。自分を哀れむ時間は一秒だってないってことをね。
――……これが、最後の通話になるだろう。君を……、君たち夫婦を誇りに思う。
男は僅か口ごもった。
手痛い不意打ちをくらったかのように面食らっているようだった。
――……先生、どうかキャシーを、アメリカを頼みます。
やっとの思いで、ただその一言をしぼり出したのだった。
――すべては賭けだった。
これは……ゲリラに捕らわれる直前の記憶だ。窓の形と壁の飾りが最後の隠れ家と同じだった。彼の半身は朝日に照らされていて、真面目くさった顔で隠れ家にあった手鏡に語りかけていた。
――キャシー、君が生き残っていると信じて記憶を遺す。私は許されないことをした。君を頭から騙していたんだ。君は全てが終わった後に私が何に賭けたかを知るだろう。そのとき君は、憎む相手を失っている。君は質問もできず、反論もできない。もはや糾弾すら不可能だ。これがどれほど残酷な仕打ちか、私はよく……理解しているつもりだ。できれば君に生涯をかけて償いたかった。
鏡の中の男は微笑んだ。
――君は人一倍正義感が強く、驚くほどに強情で向こう見ず。それに、家族思いの心優しい子だ。私のような人間にもまだ良心があるのだと信じさせてくれた。そんな君だから、きっとあらゆる理不尽に立ち向かっていくのだろう。
――なにしろ『ストーリーはアドリブで』任されているから、不安要素ばかりだ。最後まで君と離れ離れになるのは避けたいが、恐らくそうもいかない。
――ペンタゴンの亡霊については私も多くを知らない。奴が現時点でどれほど消耗しているのかもわからない。カイドウがどう出るかも……。一生分の幸運を使い果たして、それでも望む結果を得られるかどうかは……賭けなんだ。
――君は、私の力をロマンチックだと言ったね。
クリスマスプレゼントを開ける子供のように、彼の顔がほころびる。
――今までろくな使い方をしてこなかったよ。唯一、妻の気持ちを慰めることに使ったのが、僅かな善行だった。でも確かに、君が言ったように、そうかもしれないと思えた。そう、ロマンチックだ。私は現在――
記憶が波紋状に歪みエコーがかかる。
映像が激しく歪み入り乱れている。一瞬映り込んだのは幼少期の思い出か。彼は父親とキャッチボールをしていた。
記憶は飛び飛びになり、さまざまな出会いと別れの経験が通り過ぎていく。また、あるとき、彼はどこかの国の混乱に乗じて暗躍していた。目的はとある人物の暗殺だったが、まずい現場を女に目撃されてしまう。印象的なヘーゼルの瞳が驚きと恐怖に見開かれていた。
彼は女を追いかけた。
追いかけて、そして今度は……。
角の生えた子供が彼の罪を見た。
銃声、爆発音、悲鳴、血塗られた道。苛烈な異形廃絶運動。革命と正義の名の下に殺人さえ正当化した人々。紛争。男が関与したあらゆる任務が走馬灯となって走り抜ける。あちこちから数多の人々の声が響く。轟音だ。歴史の表裏ですり潰されていったものたちの、人間性の断末魔が。
そこに、ゲリラに襲撃されキャスリーン・ベイトと共に礼拝堂跡へ連れ去られる記憶も混ざっていた。
――彼女だけは無事にアメリカへ。
音が反響している。俯く鼻筋からしたたり落ちた汗が地面にシミをつくった。その映像に焦点が合う。
――理解しろ。重要なのは私の命ではない。
今度こそはっきりと、その声が聞こえた。キャスリーン・ベイトの大きく見開かれたヘーゼルの瞳から、涙がこぼれる。
記憶が再び大きく歪んでわんわんとエコーがかかった。
一際大きい物音がした。
手鏡に話しかけていた彼は腰を浮かして部屋の外を窺う。ハンドガンを握って息を殺していると、向こうの部屋から寝ぼけ眼のキャスリーンが現れた。
――どうしたの?
彼はため息をついてハンドガンをしまう。
――どうしたもこうしたも、さっきの物音はなんだ。
――床に落ちたみたい。首痛い。
――まったく、大物だよ君は。いったい何の夢を見たんだか。
――せっかくマスターと共闘していたのに……。
やれやれと苦笑する男は半ば舟をこいでいるキャスリーンを寝床に促した。
――もう少し寝ていなさい。時間になったら起こそう。
うーんと返事をしたキャスリーンが戻っていく。
――キャシー。
――うん?
――なれよ。ナンバーワン。
少女はうにゃうにゃと呟いてガッツポーズをとった。
はっと気がつくと辺りは真っ暗闇だった。
分厚い闇がキャスリーンを覆っていてうまく動けない。それに何か嫌な臭いがした。生ごみのような変な臭いだ。
パニックになりかけたとき、その闇の正体が単なる布切れだと気づく。顔にかかる布のせいでとても息苦しく、キャスリーンは遮二無二暴れて体を覆う布切れを剥いだ。
背後からさす光源に照らされて、ずらりと並んだ遺体のようすが浮かび上がる。キャスリーンはそこに寝かされていた。
すうっと血が冷えていく感覚があった。
腹の傷は手当されているようだったが、己の両手を見下ろしても生きている実感がない。
ぼう然としていると、ざくざくと音が聞こえてきた。のろのろと振り返れば焚火の向こうで男たちが数人がかりで墓穴を掘っている。キャスリーンは手前の焚火のそばに座っている男を見た。
「――あと少しでも起きるのが遅ければ、一緒に埋めてやろうと思っていた」
隻腕の男は火を見つめながら焚火に枯れ枝をくべた。独り言のようだったがその言葉はきちんとキャスリーンに向けられ、彼は顎をしゃくって対面を指した。
キャスリーンの視線がそちらへ吸い寄せられる。
焚火を挟んだ向こうに横たわる何者かはぴくりとも動かない。キャスリーンはふらふらと覚束ない足取りで近づいて、上半身を襤褸布で覆われた遺体を見下ろした。
何か……形が変だ。布で覆われて見えない部分の盛り上がりかたが、人の形としては妙だった。あるべきものがないような、本来の形から大きくひしゃげてしまったような、そんな印象を受けた。
ぺたんとへたり込んだ少女は、呆けたような顔をして遺体を揺り起こそうとした。めくって中を確認する勇気がない。だから起き上がってほしい。一緒にアメリカへ帰ろうって、なんてことない顔をして言ってほしい。けれど、何度揺すっても結果は変わらない。すでに死後硬直が始まっている。
「腹の傷は見かけほど悪くない。主要な臓器も傷ついていないそうだ。角度がよかったのか、見事な手際だった」
隻腕の男は何らかの競技を見物する観客のように評した。キャスリーンは手当された腹の傷を押さえる。男たちは汗だくになって一心不乱にざくざくと墓を掘り続けていた。
彼女は突然、振り上げた握り拳で腹の傷を殴りつけた。
痛みは当然あった。それでも二回、三回と、何度も拳を傷に叩きつけた。冷たい涙を流しながら、声も上げずに、傷口から血が滲みはじめても、ただひたすらに。
男たちは少女の狂態には目もくれず、ざくざくと墓を掘る。もしかしたら明日には自分たちが入っているかもしれない穴を。
その細い腕を掴んだのは、隻腕の男だった。
「
ふと隻腕の男を見た少女の顔からは感情がそぎ落とされている。
「……どうして、私は生かされている」
この命は、とてつもない幸運と犠牲の上に成り立っているのだとキャスリーンは理解していた。それだけに奇跡が骨身に応える。己の命とはそれほどに価値のあるものだったのか。彼らの献身に相応しいものだったか。
「お前が口先だけの役立たずではないと証明したからだ」
「……誰も救えなかった。誰も、誰一人」
男の腕を振りほどこうとする拳がぶるぶると震えている。
「子供を助けた」
今、一番聞きたくない話だった。キャスリーンは添え木が当てられた腕も使って抵抗したが、簡単に抑え込まれてしまう。
「あの子供の父親を見たか」
彼女は駄々をこねる幼児のように首を振る。
「どうなんだッ!!」
男は声を荒げてキャスリーンに迫った。
彼女は完全に竦み、隻腕の男の気迫に呑まれた。途端に委縮してしまった少女を見下ろす男は、一瞬だけばつが悪そうに顔を歪める。
「……結果的に子供は死んだ。だが、お前は親子にいくらか会話の猶予をくれてやった。きれいな体で戻って来た子供の死に目に会えるということが、……この国でどれほどの幸運かわかるか」
雷に打たれたような衝撃がキャスリーンの心身を打ちすえた。
悲しいなんて言葉では到底彼らの痛みには届かない。どのような国のどんな言葉でさえ足りない。キャスリーンでさえ魂が引き裂かれるような思いをしている。そんな悲劇が、石ころのようにそこかしこに転がって、この国の大地となっている。
体の力が抜けていく。
すると隻腕の男はそっと手を離して、足を引きずりながら後ろへさがった。
「……どうして、みんな」
「――殺しあうかって?」
ズバリ言い当てられ、ぎくりとする。男はため息をついてその場で腰を据えた。足のケガが響くのか、顔を顰めた男が時間をかけてぎこちなく座るのを、キャスリーンはじっと見ていた。
「……ごめんなさい」
腕も足も不自由になった男はチラッと少女を一瞥する。
「最初は水と土地だった。ばあさんからはそう聞いている。次に超常の混乱が起きて分断が加速し、今じゃ殺しあうことが目的だ」
「どうして、あなたはカイドウに従うの。あんな……、あんなのって……」
いまだ脳裏に焼きついて離れない、あの炸裂した太陽。人を超えた力だ。あんなものがこの世界に存在しているという事実が恐ろしい。
「質問ばかりだな」
遺体のそばで俯くキャスリーンにため息声が届く。涙のあとを拭って顔を上げると、彼は焚火のずっと向こうの暗がりを見つめていた。ただそこには雑木林がまばらに広がっている。
「――俺は死に損なった。あの人はそれがおもしろいと言っていた」
キャスリーンには何がおもしろいのか全く理解できなかったが、彼の頬が奇妙に歪んだ。笑っているのだ。ふふ、と声に出してまで笑うのだから、いっそう理解しがたく不気味に見えた。
「あの人は……コインで決めたんだ。その場でどの勢力につくかをな。そして俺に戦場を与えてくれた」
男は語りながら、ぎゅっと、二の腕の半ばから先のない腕を握る。
「この国の平均寿命は短い。世代交代の早さと淘汰によって異能の深化が加速し、複雑化している。……だからあの人はここに留まって、待っているんだ」
「待ってるって、なにを」
「……俺たちが望むのと同じものを」
「それって……」
言いかけて、彼女ははっとした。
遠く空からヘリの音が響いてきた。まさかと思った。カイドウのせいで国境付近から空路は断たれていると聞いていたし、実際、それらしい音や影をこれまで一度たりとも見聞きしなかった。
だが、気のせいではない。どんどん音が近づいてくる。
思わず空を見上げた。雑木林の向こうの空にヘリの影が見えた。辺りがあまりにも暗く感じられたのはキャスリーンの目が曇っていたからであって、空はすでに白ずみつつある。
「迎えが来たようだ」
信じられない思いで隻腕の男を振り返る。
非常に音が近い。地響きのような重低音だ。墓穴掘りをしていた男たちもこの異常事態には手を止め、揃って空を見上げていた。
「さっさと国へ帰って、ここで起きたことは忘れてしまえ」
隻腕の男がぞんざいに言い捨てる。
けれどもキャスリーンは忘れていないのだ。この傷だらけの、片腕しかない男が、礼拝堂跡から逃げ出す最中になぜか気を失ったキャスリーンを担いで逃げてくれたことを。それも、自分の命も危ういだろうという只中で。
彼は汗をびっしょりかいて、必死そのものだった。
無謀にも駆けだすのを引き留めてくれた。町の広場では見捨てたっていいのに、わざわざ追いかけて一緒に逃げようとしてくれた。撃たれたときも恨み言ひとつ言わずに、キャスリーンには逃げるよう突き放した。
「あなたは……」
続く言葉が見つからない。
思えば、この醜く顔が歪んでしまった男は、間違いなく今傍らで冷たくなってしまった人の死を黙認したはずだ。そして、彼はキャスリーンの命の恩人でもある。もしこの人が私を助けてくれたように彼も助けてくれていたら、と思わずにいられない。
キャスリーンは自分を殴りつけていた手を握りしめる。
胸の中に渦巻く思いを、どう言葉にしたらよいのかわからなかった。感謝していたし、怨んでもいた。けれども、そのどちらの言葉もキャスリーンの心情を示すには足りない。
黙り込んでいると、隻腕の男が雑木林の奥から現れた数人に気づいてゆっくりと立ち上がる。つられて見た彼女があっと声を上げた。
「……アグパーさん」
その名前が自然と口をついて出た。
先頭を歩くのは特徴的な異形の男。会ったこともないのにずいぶん昔から知っている気がする。その彼を完全武装した男らがごく少数で護衛している。遠目にキャスリーンを確認した彼らが駆け足でやって来た。
帰れるんだ、やっと。
――ねえ、帰れるよ。
キャスリーンは言葉にせず傍らの遺体に語りかける。
彼と出会ったとき、運命的な出会いをしたと思った。彼は追われていて、たまたま出くわしたキャスリーンが巻き込まれる形になったけれど、まるで自分が映画の登場人物になったかのようで、不謹慎だけれどドキドキしたものだ。一瞬だけ、ヒーローの気分を味わえた。
今になってみれば、それらは全部この人の仕込みだったわけだけれども。世界の危機が迫っていて、それを阻止しにいくっていうのだから、それはもちろん地の果てまでもついて行こうというものだ。うまいことキャスリーンは利用された。
でも、ぜんぶがぜんぶ、嘘ではなかった。
彼は本当のことを死ぬまで話せなかっただけで、心の底からキャスリーンを案じていた。とりわけ、今後予想されうる彼女の困難な未来を。
帰れるかもしれないという段になって、ふと、本当にこのまま帰っていいのだろうかという不安が胸の奥からわいてくる。キャスリーンは家に帰れるらしい。だが隻腕の男は? 戦いに明け暮れるこの人たちは? 家や、愛する人を失ってしまった多くの人々は、どこへ帰れるというのだろう。
――ねえ、私、帰っていいのかな。
かたく冷たい脚に手を置いて待ってみるが、当然、遺体は何も語らない。アグパーならこの物言わぬ彼にどんな言葉をかけるだろうか。
彼らはすぐ目の前まで来ている。キャスリーンはよろつきながら立ち上がった。節々が信じられないほど痛い。とても無事とはいえないありさまだけれど、キャスリーンは生きている。痛みを握りしめ、せめて、自分の足で立って彼らを迎えたい。
そのとき、隻腕の男が呟いたのだった。
「……娘が生きていたら、お前くらいの年頃だった」
初めて聞く、優しく懐かしむ声色だった。
隻腕の男はどんな顔でそう言って、どんな眼差しを向けていたのか、キャスリーンが知ることはない。振り向く前にアグパーたちが到着したからだった。
「――キャスリーン・ベイトだね」
異形の男は険しい表情ながら、迷いなくキャスリーンの目の前にやって来た。こうしてみると思ったより小柄だ。ぎょろっとした目で、記憶の中で見たのと同じ姿、同じ肌の色。こみあげてくるものがあって、はい、と返事をしようとしたのになかなか声が出てこず、彼女はただ頷いた。
「何があっても君を家に送り届けよう。ご家族は君の帰りを待っているよ」
彼の両目に、佇まいに、決意が表れている。彼はうんうんと頷く少女の肩にそっと手を置いて、それから周囲の男たちに目配せをする。一人が心得たように進み出てキャスリーンに挨拶した。
「ヘリまで彼が案内する。さあ、行きなさい」
アグパーはそれ以上キャスリーンに話しかけなかった。彼は残る二人と共に近くの遺体に近づく。
銃を携えた男にうながされ歩き出したキャスリーンは、一度だけ後ろを振り返った。
アグパーは地面に膝をついて遺体の布をめくり上げていた。キャスリーンには遺体のようすは見えなかったが、アグパーは何度か頷き、布をかけなおしている。何かを語りかけているようだった。そして、遺体の胸のあたりに手を置いて目を瞑ったきり口を閉ざす。
彼らを見物するのはこちらに背を向けた隻腕の男と、アグパーの護衛たちを警戒する墓掘り人たち。遠くに見えるのは一時的な拠点となっている野営地だ。そこに生き残った人々が身を寄せあっている。
彼女はその光景を目に焼きつけた。
やがて前を向いて歩きだす。
そして二度と振り返ることはなかった。
雑木林を抜けた先は何とかヘリが一台着陸できる程度にひらかれている。待機中のパイロットと戦闘員一名が、ヘリから離れた崖に立って払暁を望むカイドウを警戒しつつもメンテナンスをしていた。
そのままヘリへ誘導されたキャスリーンだったが、断ってカイドウに近づいた。
「――片腕に気に入られたようだな」
あと数歩で隣に並ぼうかというとき、カイドウが言った。この男の背には目があるようだ。それどころか、まるで今までのやりとりをすぐそばで見聞きしていたかのような……えたいの知れない、空恐ろしさがある。
「だが奴も近いうちに死ぬ」
「……彼に、何があったの」
キャスリーンは隣に立って荒涼とした景色を眺めた。この国のありさまは、まさにあの隻腕の男のようではないか。
「業突く張りどもが。知ってどうなる。衣食住足りて、その上なにを望む」
カイドウは唸った。
戦場にひょっこり現れた部外者が横やりを入れたことを、この男も多少は苦々しく感じているのだった。この部外者たちは好き勝手やったあげくに、自国から仲間を呼んで逃げていく。
キャスリーンは眩く輝く地平線を睨んだ。
「平和。――よりよい明日」
少女の決意表明に違いなかったが、カイドウはこれを一笑に付する。
「礼拝堂跡に盲人がいただろう」
突然そう言われて、キャスリーンは怪訝に思う。脳裏を過る盲人の最期の姿から目をそらし、うんと頷いた。
隻腕の男に連れ出されるときに見た惨たらしい遺体。
俯くキャスリーンを横目に見て、カイドウは告げた。
「――奴の母親だ」
キャスリーンは絶句した。
「奴が敵対勢力の拷問で顔を潰され、腕を落とされ、そして去勢されたことは野営地にいる誰もが知っている」
「……去、勢」
それは本来、犬猫などに処置されるはずのものなので、キャスリーンも言葉だけなら知っている。
「遊びでやるのさ。お前はまんまと娯楽にならずに逃げ果せるが、奴の妻子は瀕死の奴の目の前で遊ばれた。以来、あいつは名前を捨てた。九死に一生を得たのが珍しいというだけで、同じような目に遭った連中は五万といる。それこそ敵味方関係なく。当然そいつらは土の下だ」
渇き切ったと思ったはずの涙が溢れてくる。
おそらくは骨折しているだろう胸が苦しいほどに痛む。だがこれは肉体的な痛みではない。苦痛にあえぎながらも、キャスリーンはどうにかこうにか膝から崩れ落ちずにいる。これは意地だった。
「連中は族滅の瀬戸際に自ら突き進んでいる。わかるような気がするぜ。この肥溜めで、選べる自由は無いに等しい」
「どうしたら……あの人たちを止められるんだろう」
「連中はもう殺しあうしかねえんだ。そしてお前は指をくわえて見ているしか能がねえ。死に方も選べねえ弱者は淘汰される運命だ」
キャスリーンは唇を噛んだ。
それは弱肉強食の自然界に生きる動物の理論だ。適者生存。全く正しい。だがキャスリーンは動物ではなく人の社会に生きる人間で、彼女の目にもカイドウは人間に見えた。死んでしまった彼も、隻腕の男も、この国の人々は姿かたちや敵味方関係なく人間だ。
「……たくさん、人が死んだ。妹より小さい子供が死んだ。……私たちが、殺した」
カイドウの視線がキャスリーンを射抜く。
キャスリーンはどうしてもこの地で誰かを救えたとは思えない。むしろ逆だ。彼女は盲目で、何も知らなかった。激流に翻弄される木の葉のように、ただ流されていただけ。たくさんのものを取りこぼしてしまった。何もかも間に合わなかった。
「あなたの、力を……」
こう言ったって何もならない。そうと知った上で、血を吐くような思いでカイドウにうったえる。
「誰かを救うことに、使えたら……世界だって変えられるはずなのに」
目の前に、世界をひっくり返せるほどの力を持った存在がいる。
「悔しい……。あなたを……許せない」
羨むような、責めるような声色が絞り出された。
この戦場でキャスリーンが喉から手が出るほどに欲したものを、カイドウはすでに持っている。しかもカイドウはそれをただ握りしめ、拳として奮うのだ。だが今回ばかりはその拳こそがアメリカに必要だという。つまり何かを壊しにいくのだ。あるいは誰かを。
どうすればいいかわからない。
心の置きどころがぐらぐら揺れて崩れ去っていくような……。
更にやる瀬ないのは、人々が自ら進んで破滅へ向かおうとしていることだった。敵も味方も誰もかれもが死にすぎている。まるで相手を道連れに自殺しようとしているかのよう。
中でも異形型は目に見えて少ない。あからさまに一定以上の年齢層から排除されているのだ。その傾向はゲリラに一層強く見られた。正規軍でも異形型は少数で、いても若い世代だけ。
そういうことなのだ、とキャスリーンは薄々気づいていた。かつてアメリカでも起きた混乱の比ではない。この国でどれほど苛烈な粛清が吹き荒れたか。わずかな生き残りも最前線で自ら命を擲つようにしてカイドウに挑み散っていった。
――連中はもう殺しあうしかねえのさ。
カイドウは言った。
明日生きているかもわからない、殺しあいが目的となった社会。まさしくカイドウはこの地に望まれてやって来たのかもしれない。
助けられなかった子供の泣き声が今でも聞こえる。出口のない深い迷宮に迷い込んでしまったかのようで、激しい眩暈と吐き気がした。
「……でも、一番許せないのは、私自身」
次から次へと溢れてくる涙を止められない。
仇敵ともいえるカイドウに告白したのはなぜだろうか。
たとえばアグパーに心情を吐露すれば、彼は大いに慰めてくれたことだろう。失った者同士、お互いを慰撫できるかもしれない。両親に話せば大いに彼らを悩ませる。あるいはカウンセラーに相談すれば、もっともらしい部外者の言葉で冷静になれたかもしれない。
「……あの男は無様に命乞いをしなかった」
カイドウは少女の涙など黙殺し、ちらっと後ろを見やった。遺体を運んでやって来た男たちを目で追う。その遺体が三人がかりでヘリに乗せられるところだった。キャスリーンも振り返って彼らを眺めた。
ヘリに乗り込む彼らを見送って立ち止まり、二人の後ろ姿を見つめていたアグパーが二人の視線に気づく。
「口先だけの奴は大勢見てきたが、自ら死に場所を選ぶ潔さは本物だ。名を聞いておこう」
殺した相手を称賛する、カイドウのその精神性がキャスリーンを余計に苦しめる。
気絶してしまったほうが、いくらか楽だったろう。彼女は今、意志の力のみで立っている。疲労と痛みと自己嫌悪、極度のストレスで朦朧とした頭に、激しく釘打ちされたかのような痛みが走る。
理解したくなかった。お前だろう。お前のせいだろうと、糾弾できたらどれほど楽か。
けれどもキャスリーンは、何も知らなかった頃には戻れない。
カイドウにとってあの男がどういう存在か。彼の過去の行状を直視してその事実から目をそらすことは、なにより死んでしまった彼に対する侮辱だった。
カイドウも失っているのだ。
キャスリーンのように無力感を味わっただろう。
記憶の中の、角の生えた子供の目。あの目が忘れられない。手に取るようにわかってしまったのだ。あの子供がどのような苦悩に苛まれたかを。
カイドウはキャスリーンにとって仇に違いないが、自己嫌悪すらするほどの、怪物に対するシンパシーの萌芽だった。
でも――それでも、私刑が正当化されていいわけがない。
彼はアメリカへ帰るべきだったし、生きて罪を裁かれるべきだった。生きていてほしかった。殺さないでほしかった。カイドウを止められなかった自分が何を言う資格もない。
「……記憶を、見たはずでしょ」
涙を拭い、彼女は呟く。
「ああ」
頷くカイドウを見て、はたと気づく。
キャスリーンはそこにあの人の意志を感じた。
……カイドウは、彼の命を奪えても名前までは奪えなかったのだ。あの男は妻に呼ばれるたび嬉しそうに笑っていたから、その名前を惜しんで記憶の中に巧妙に隠したのかもしれない。
「……教えるもんか」
キャスリーンは微笑んだ。
「あなたには教えない。あの人の名前も一緒に、故郷へ連れて帰る」
片眉を上げたカイドウがふんと鼻を鳴らすのを横目に、払暁のしずくを眺める。
「私は……無力だった」
思いあがっていたと言ってもいい。
「そんなこと、私よりあなたのほうが理解していたはず。なのに、どうして最初に会ったとき、話を聞いてくれたの」
カイドウは沈黙をもって答えた。彼女もまともな返答は期待していなかったので、潔く諦めてヘリへ向かおうとする。
そのとき、カイドウの目に、燃えるようなヘーゼルブラウンの瞳の輝きが飛び込んで来たのだった。
払暁が映り込むその目。血と皮脂と泥であちこちかたまって乱れた髪。青白く、一晩でげっそりとこけた頬に残る涙のあと。
「……昔」
ヘーゼルブラウンの瞳をじっと見つめながらカイドウは呟く。
キャスリーンは息を呑んで立ち止まり、一言一句を聞き逃さぬよう全身全霊を傾け、カイドウの一挙手一投足に注目した。
「俺を檻から出した女がいた」
ただ静かに凪いだ目で彼は語る。
「……でかい借りだ。だが、もう返すあてがない。だからお前にくれてやることにした」
キャスリーンは何事かを言いかけたように口を開いたが、思いつめた顔をして黙り込む。そして重々しく頷いた。
「――私は」
その少女の目。
涙で濡れいっそう輝く瞳に宿る決然たる意志。
「アメリカ一の、いえ、世界一のヒーローになる」
この期に及んでヒーローの夢を語るキャスリーンに、カイドウは呆れているようだった。
「だからあなたには、今の私を覚えておいてほしい」
そう言って、彼女はカイドウに背を向けた。待機させていた護衛と共に進み出て迎えたのはアグパーだ。彼は少女を護衛に託して見送り、一人カイドウのそばに残る。
「――カイドウ」
「お前の話を聞く気はない。腹は決まった」
「では……」
ちらりとキャスリーンの背中を一瞥し、アグパーが含みを持たせた視線でカイドウに問う。
「……好きにしろ」
「ありがとう」
うんざりとしたカイドウと、厳かに謝辞を述べたアグパーだった。
「――小娘はお前たちを怨むだろう」
「それもこれも承知の上さ」
離陸の準備をしはじめたヘリを眺めつつ、二人は束の間言葉を交わす。
今回の件で、当事者であるキャスリーン・ベイトにはあえて知らされていない事柄がいくつかある。彼女はとうてい納得しないだろうが、保護にあたってアグパーがカイドウの名を利用することは、もはや決定事項だ。
「――ペンタゴンの亡霊」
はっとしてアグパーはカイドウを見上げた。身長差のため、間近にいるとほとんど真上を見上げるような形となる。
「放っておくつもりか」
「なぜ……、いや……記憶か……」
「というより、あれほど熱心に監視されれば嫌でも気づく。あれは目がいいだけの素人だ」
アグパーは冷や汗をかいた。冗談だろうと思う。視線というが、直線距離でアメリカとどれほど離れていると思っている。これがカイドウでなければ笑い飛ばしていただろう。
「彼も、犠牲者だ。できるだけ早く解放してやりたい」
言うほど簡単にいかないことはアグパーも重々承知していた。だがやらなければならない。あの少女を守るために、これからのアメリカのためには、気の遠くなるほどの難題が山積している。
「……はっきり言って、私は最後まで懐疑的だったよ。まさか君のような男が世界を救う気になるとは」
「……せいぜいネズミに感謝しておけ」
「はっ? ネズミ?」
アグパーのぎょろついた目がぱちぱちと瞬く。
冗談なのか皮肉なのか、いまいちよく実体を掴めない話だった。
まさか世界一有名な日本のネズミと目の前の男に接点があるだなんて、このときのアグパーは想像もしなかったのである。そしてカイドウはアグパーの疑問に答える気はさらさらないらしい。
「国境までは付き合ってやる」
戦闘直後で国軍も疲弊している。カイドウがこの国を離れるならば今しかなかった。
「すまない。……本当に申し訳なく思う。本来、こんなことは一個人に付託すべきではない。だが我々にも、他に方法がなかったことは理解してほしい」
カイドウは小柄なアグパーを物珍しそうにしげしげと眺めた。
「国のために仇に頭を下げるか。奇特な男だ」
「……彼の死は私の責任でもある。私はただ、己の無力を呪う」
苦々しい思いを率直に吐露するアグパーに対し、カイドウは暫し沈黙した。
ヘリのローターがにわかに回転し始める。搭乗した操縦士がアグパーにハンドサインを飛ばし、護衛一名が付き添いに降りて来た。
「……空爆の話はどうなっている」
ローターの回転音が響く中、カイドウの低くかすれた声は大声でもないのに不思議とよく通った。
「もう無理だ」
アグパーは声を張った。
「すでに無機物まで汚染されている」
ヘリから吹き下ろされるダウンウォッシュに煽られて、小柄な体がよろめいた。慌てて駆けつけた護衛が彼の肩をがっしりと掴む。
「君に……我々の命運を託す」
カイドウはついに興味が失せたようにふいと地平線を見つめ、いとも簡単に崖から飛び降りた。
ぎょっとしたアグパーが思わずしゃがみ崖の下を覗き込もうと顔を出したそのとき、龍の巨体が天を昇っていった。凄まじい風圧に吹き飛ばされそうになるアグパーを護衛が後ろから支える。
焔のごとき雲をまとい天を駆け上った龍は空に留まる。実際に見れば見るほど現実感を失う巨大さだった。
うねる龍は夜明けを背にした。朝日を浴びた鬣が燃えるように揺らめき、青い鱗が水に濡れたような輝きを放つ。
アグパーたちは、――ヘリに乗り込んだ者たちも、その威容に目を奪われる。この龍がカイドウであり、また暴虐の化身である事実を一時忘れさせてしまうほどに神秘的な光景だった。
こうして目の当たりしてさえ、アグパーはいまだに信じられない思いで何度も龍を振り仰ぎ、護衛に支えられながらヘリに乗り込んだ。すでに着座しているキャスリーンは意識がなく、聞けばヘリに乗り込んだ途端昏倒してしまったのだという。
アグパーは速やかに離陸の指示を出した。
やがて飛び立つヘリを追って龍が空を泳ぎ出す。
野営地に留まる人々は龍とヘリが去って行くのを見つめていた。物珍しい他国のヘリとカイドウは大変目立つので、視線がつい空へ吸い寄せられたのだった。
時を忘れたように見入っていた彼らだが、龍の姿が小さくなっていくにつれ次第にそれぞれの仕事へ戻っていく。
ただ隻腕の男だけが最後まで空を見上げていた。
ヘリの影が空にとけ、龍が彼方へ消えて見えなくなっても、ずっと。
――かくして、アメリカに龍が降り立ったのである。
己の存在ひとつで米軍の観測拠点が崩壊しかかっているのも意に介さず、龍から人の姿になったカイドウは両足で大地を踏みしめる。頭上に広がる花のような層状の波紋を眺め、件の町を見やった。
毒々しい青空とどこまでも広がる平原の中にある田舎町だった。遠方には山岳。町の北側には森があり、放牧地では牛の姿がちらほらと見える。大半が死に絶えたようだが、生き残った牛は野に倒れた牛を共食いしていた。なるほど、奇怪な様相である。
歩き始めて間もなく、カイドウは眉を顰めた。
空気がいやに粘っこい。
一歩一歩がどことなく重く、まるで水の中を歩いているかのような……。
途端、記憶の底にこびりついた糞尿まじりの汚水の悪臭が蘇る。
今度こそはっきりと不快感に顔を顰めたカイドウだったが、足元から雪を踏み抜いたかのような音がしてそちらに気をとられた。見下ろし、右足をやや引く。しゃり、と音がした。しゃがんで土を手に取ってみると雪の結晶のようなものが土に交じっている。握ると砕け、微細な破片となって散っていった。
土の異変だけではなく、町に向かって歩いている途中で何度か奇妙なものを目にした。
たとえば腐敗が進んで腸が露出した牛の死体があった。が、そのとけた腸が明らかに人間の腕部の連なりに見えた。組みあって腸のように絡まる手も腐敗が進行し、骨が露出している。牛のでろりと舌が垂れ下がった口には牙が生えている。
車道に目を向ければ異様な速さで植物による侵食が進んでいた。
植生も狂っているようだ。本来は火山地帯や塩性湿地に見られるようなものがあちこちで生え、しかも胞子のようなものを飛ばしている。細かな胞子が風に乗り、陽光によって虹色に輝く。悪い夢に出てくるような光景で、この胞子は霧のように薄っすらと町を覆っている。
ときたま、蔓を伸ばした植物が足首に絡んでくるのを引きちぎり、ついにカイドウは町に到達した。
事が起きてからそれほど日は経っていないはずだが、町の中と外とでは別世界といえるほどに深刻なほど侵食が進み、もはや怪異の様相を呈していた。
昼日中、しかし辺りは暗い。濃霧のようだが、これが本当にただの霧なのかカイドウには判断がつかなかった。吸い込んでも害はない。少なくともカイドウには。ただ町の外を覆う胞子とはまた別の何からしく、肌にまとわりつく感覚が実に不快である。
道端にはそこここに人だったものが倒れている。多くが原型を留めておらず外で見たものと同様に変貌し、町と一体化しつつあった。
郵便局だったのだろう、蠢く苔に覆われた建物の陰から人と鹿が混じった醜悪な生き物が飛び出して来た。それはカイドウに気づくと人間の子供の声で絶叫し、走り去って行く。
視線で追うと、道路を挟んだ向かいにダイナーが目に入った。よくあるダイナーだった。カイドウは何となく近づき外観を観察する。
手書きのメニューが出入り口に立てかけられている。建物はカビのような真菌類に侵され、メニューボードなどは少し触れただけでぼろぼろと崩れ落ちていった。中を覗き込めば店員や客だったものが巨大な真菌類の塊となって沈黙している。
「――こんにちは」
ダイナーを見物していたカイドウに横合いから声がかかった。
居場所は把握していたので驚きはしなかった。しかしそれにしても奇妙な声だ。奇妙といえばこの町すべてが奇妙なのだがその中でも飛び抜けている。古いラジオのように音割れした声。
その男は、半身に女の体が接合されている。いや、融合しているのか。半身ずつ男女に分かれているのではなく、男として確立した個が半身に女の体をくっつけている、といった状態だった。右足は女の左足と完全に融合し、素足には八本の指がある。女の左腕は彼の首に巻きつく形で癒着していた。
冷静沈着なカイドウを前に男は頷き、女のほうは虚ろな目で涎を垂らして笑っている。女は裸体だった。また虫とも植物ともいえぬ何かによって、腹部を食い破られ寄生されているようだ。
「一度、君と話をしてみたくてね。道中退屈だろう。道連れにどうかな」
男は腕を広げ、二人は同時に口を開いて喋った。耳障りな声だ。
「生憎と、人形相手に喋る趣味はねえな」
「……なるほどねえ」
男は無表情となり女がけたけたと笑い痙攣する。
「非礼を詫びよう」
淡々とした声は男の方から。寄生生物がもたらす苦痛にうめいた女が吐血した。男は胸に手を当て、にこりと笑う。
「さすがの僕も
彼らの肉体の変化からそう長くはないだろうとあたりをつけたカイドウは、黙殺しつつも殺すことはせず歩き出した。彼らは当然のように後を追ってくる。
「しかし、見れば見るほど驚異的な肉体だ。隔絶している」
抑揚のないひび割れた声は感情が伝わりにくいが、ただ一人、心身ともに確固たる個を維持し続けるカイドウに感心しているのだった。
おそらく意識だけを投射しているのだろう。この肉体依存の異能か、はたまたここにはいない本人の異能か。どちらにせよ、カイドウの知覚外となれば相当の遠距離かつ手練れ。本人はアメリカにいない可能性すらある。
これはカイドウの経験則だ。過去、カイドウは類似の異能を駆使する者と対峙した経験がある。共通点は執念とも呼べる用心深さ、そして狡猾さ。いずれも強敵であった。
黎明期ならばいざ知らず、過渡期にあって異能が氾濫した時代で唯一無二の異能というのはめったにない。それこそ
「――見たまえよ。この変わり果てた町を」
ひょこひょこと三本の足でついてくる男は、女のほうから汚染を拡大する寄生生物に侵食されつつあった。額や頬などに顕著で、皮膚の下で触手が蠢いている。
「美しいと思わないか? 生命は平等に淘汰され、環境に適応した者こそが生き残る。まさに、世界をも自在とする素晴らしい力じゃないか」
よく喋る奴だった。
「それだけに惜しいことをした。僕に君ほどの肉体強度があれば、……
町を見まわし好き勝手に語る男の傍ら、沈黙する女の食い破られた腹部を中心に人体から芽が出はじめていた。
カイドウは警察署の前で一塊の肉塊となった人体を見つける。
元々別人だった数人が融合したのか、それとも増殖したのか、団子状の肉塊は、あちこちから飛び出した手足で地面を這いずりいくつかある口から毛玉を吐き出している。みゃあみゃあと猫の声で鳴き、空から落ちてきた鳥を貪っていた。
「……君は利用されている」
異様な生命体には目もくれず、崩れかけた警察署を一瞥し男は吐き捨てた。
「僕はね、憤りすらしたよ。正義だヒーローだと舞い上がりながら、結局のところ社会は君一人に罪と責任を押しつける。しかも世界中の人間はその事実をほとんど誰も知りもしない」
爆心地だという病院が見えてきた。町全体が変わり果ててしまった中で、その病院だけがかつての面影を残している。しかしよく見れば時間を早送りしたかのように老朽化し、建物全体が激しく傷んでいた。
「いったいどの面下げて、生後間もない赤ん坊を殺すよう君に頼んだのかな」
カイドウは初めて足を止め、男を見た。
にたりと笑う男の頬が裂け、そこから芽が生えてくる。半身が融合した女の体はとうに芽吹いた植物によって食い尽くされ、人の形をした植物状のなにかとなり果てている。血肉を吸って急成長した生き物は毒々しい赤い花を咲かせていた。
「ああ、勘違いしないでほしい。僕はこれでも、君にとても感謝しているんだ。なにしろ君は、正真正銘、世界を救うヒーローなのだから」
カイドウは振り返り、その男と向き合った。
「何が言いたい」
「自明の理だ。君は、そっち側じゃ生きられない」
笑う男の体のあちこちから別個の生命が芽吹き、急速に肉体の主導権を奪っていく。足はすでに地面に根づき、身動きが取れなくなっていた。強烈な草のにおいがする血を吐く男の口だけがかろうじて動いている。
「我々が生命活動を維持するために食事をし、睡眠を必要とするように、君に……とっては、争いこそ、が生きる糧、だ」
男は断言し、語る合間にも右眼窩から突き出た芽が咲く。
「……キ、みが、この世界に、アきた、と、と、と、き……」
口からツタが這って出てきた。
「と、もに、……万、人の……ミ、らい、を……阻……」
それきり男は沈黙した。肉体が完全に乗っ取られ、皮と服がべりべりと剥がれ落ちていく。ここに、男女の形に見えなくもない植物のオブジェが完成した。
カイドウは物言わぬオブジェを眺めた。至る所に咲いた赤い花がひとりでに動き出し、やがて蝶の形となって飛び立っていく。次の苗床を探しに行くのだろう。
ひらひらと舞う蝶の一匹を握りつぶし、病院へ侵入する。
病院の中は外と大差なく、もはや見るべきものはない。
声が聞こえていた。音にならぬ声だ。その泣き声を頼りに上の階へ向かう。ひび割れた廊下を進み、ある病室にたどり着く。カイドウの気配を感じとったか、ぴたりと声が止んだ。
その赤子は、母らしき躯とともに病床にあった。
己もろとも飲み込む力によって小さな体の大部分が変異しているが、他とは違ってまともに生きて、成長している。万が一、この子供が歩き出したらどうなるか。
――キャスリーン・ベイトには知らされていない事柄がいくつかある。この赤子は、その最たるものだった。
手を伸ばすと赤子の両目がぎょろっと開眼した。大きな目の中に更に虹彩の色がそれぞれ違う目が複数。いずれもカイドウを凝視している。おぞましい見目ながら、純真無垢に慕う声が聞こえる。これは、同胞を見る目だった。
手が止まった。
ふと、場違いにも瓦礫の中で手を差し伸ばすネズミの姿が脳裏を過る。
「……悪いな」
生まれながらに到達した者。特異点。その業。赤子はカイドウにとっても数少ない同胞に違いなかった。
おぎゃあ、と初めて産声を上げた赤子の、生への欲求が迸る。産声を聞くことなく世を去った母の躯が塵となって消えた。変異が加速度的に進み、外界では汚染領域が拡大する。
――カイドウは彼女を苦しめなかった。
その町が砂粒のごとき細かな結晶となって崩れゆくさまを、いったい誰が目撃しただろうか。
観測拠点さえ最後のひと泣きで飲み込まれ、もろともに崩れ去ってゆく。
ダイヤモンドダストを思わせる無数のきらめきが舞う中から、龍が現れる。龍は天高く昇ると町の跡地上空でぐるりと旋回し、やがて去って行った。
時系列的には前話「まだこの世界に飽きていない」の少し前。
全く身に覚えのないところで徳ポイント積み上げる根津校長。アナイアレイション的な特異点が発生したら人類詰む。アグパーさんはミッションインポッシブルしていてほしいです。完。
ヒロアカのない本誌はさみしい……。