ヒュダトスミュトス   作:ㅤ ْ

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七節

 その日も家事や手伝いを終えた後、図書館に寄り、湖の(ほとり)まで歩いて行って、ナイアスは一つ祈りを捧げると、木陰に座って膝の上で本を開いた。

 

 しかし、ナイアスは本に眼を落とさずに、茫とした眼をキラキラと陽光を反射して煌めく湖面に向けていた。

 

 暫くして瞠目し、周囲の自然の音に聞き入った。鳥の(さえず)り。木の梢の葉同士が擦れ合うサラサラとした音。チャポン、と澄んだ水音もした。湖で魚が跳ねたのかも知れない。

 

 そして足音。

 

 「ナイアス」

 

 声をかけられて、ナイアスはゆっくりと目を開く。声の主人はセクアナだった。

 

 「なぁに?」

 

 「何って、聞いたでしょう、今年の贄の事」

 

 セクアナは声に焦燥感を滲ませて、明らかに狼狽していた。一言も発してないが側にはアイテルもいた。

 

 「うん」

 

 ナイアスは頷いて言った。

 

 「テミス……だったね」

 

 「ど、うしよう。どうしたら……」

 

 「どうしたいの?」

 

 「どうしたい、じゃないでしょう!どうして貴女はこんな時にまで達観して……」

 

 「落ち着け、セクアナ」

 

 激昂しかけているセクアナに、アイテルが横から静止する。

 

 「気持ちは分かるがナイアスに当たってもしょうがないだろう」

 

 「だから、アイテルもなんでそんな落ち着いて……」

 

 いいかけてセクアナは何とか言葉を飲み込む。両眼の間を指でつまんで揉みほぐしつつ大きく息を吐き、何とか気持ちを落ち着かせる。

 

 「……全く、貴方達といると自分が歳上として情けなくなってくるじゃない」

 

 「無理もないよ」

 

 「……俺も姉さんの事に関しては冷静さは保てても、平常心とは正直言えない」

 

 ぼやくように言ったセクアナに、二人もそう返す。

 

 「ねぇ、どうしたらいいの。テミスが、死んじゃう」

 

 何とか落ち着きを保つように、呻くように、セクアナは言う。

 

 「テミスには死んで欲しくない、ね」

 

 「あぁ、俺もだ」

 

 三人の心情は一致していた。

 

 「なら……」

 

 「()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ナイアスはそう問いかけた。

 

 ぐっ、とセクアナは言葉に詰まる。

 

 「セクアナ、自分の心情を正直に言っていい。俺もナイアスもちゃんと聞く」

 

 どうして?

 

 どうして、あの人を失う事になってるのに、この二人はこんな冷静に話が出来るのか。

 

 その事への複雑な感情を抱きつつも、セクアナもそれに殉じなければならないと自制して口を開く。

 

 「テミスが助かるなら……」

 

 「テミスを助ける為に、神様との誓約を破る?」

 

 「あ……」

 

 まず、前提として村全体の取り決めに逆らってそんな事出来っこない。

 

 もし出来たとして、村人全ての命の為に行った神との誓約をただ一人の命を助ける為に破るのか? ナイアスはそう問いかけていた。

 

 それが正しい。などとはセクアナは言えなかった。否、何が正しいのかも分からない。

 

 「どうして……どうして大切な人の命を秤にかけるような事をしなくちゃいけないの……?」

 

 「うん」

 

 震える声で涙を一筋流しながら言うセクアナに、ナイアスは目を伏せて答えた。

 

 「辛いね」

 

 「あぁ、辛い」

 

 それにアイテルも追認する。

 

 「それでも考えなくちゃいけないと思う。考えても納得なんて出来ないと分かっているけれど」

 

 「……どうして」

 

 アイテルの投げかけた問いに、一つ間を置いてナイアスは答えた。

 

 「何も考えずに納得も出来ずに失うよりは……考えた末に納得出来ずに失うほうが、後から後悔が少ないと、そう思うの」

 

 「……俺も同じだ、考えたい」

 

 アイテルもそう言った。

 

 「せめて考えてみよう。三人で」

 

 「……そうだ、ね」

 

 ぐし、と涙を拭ってセクアナは考える事にした。

 

 「テミス以外の誰かに変わってもらうって無理、なのかな」

 

 「現実的ではないだろう。もう今年度はテミスだと知れ渡ってしまった。そこからやっぱり違う人ですとはいかないだろう。そもそも誰が代わりたがるんだという話でもある」

 

 セクアナの提案に、アイテルは冷静に反論した。

 

 「それに、仮にそれが可能だとしても私は、それはしちゃいけないような気がする」

 

 「……どうして?」

 

 「代わりになる誰かだって、テミスと同じだから」

 

 ナイアスは、遠くを見るように静かな湖面に眼を向けて言った。

 

 「テミスが死んじゃったら他の人では代わりが聞かないように、その誰かだってかけがえのない人なんだよ」

 

 「私達がテミスにいなくなって欲しくないように、その人だって家族もいるし、その人を大切に思っている人が必ずいる」

 

 なのに、とナイアスは続けた。

 

 「私達はテミスを失わなくて済むかも知れない。でも代わりに別の人達からかけがえのない人を奪う事になる」

 

 「私達さえ良ければ……人から奪ってもいいのというのは違うと、私は思う」

 

 それにセクアナは鼻白んで、何かを言おうと口を開きかけてつぐみ、それでも考えて言った。

 

 「確かにそれは、そうなんだけど、いい訳はないんだけど……それでもテミスが犠牲になるのは、正しい事なの?」 

 

 「姉さんが変えの効かないかけがえのない人で、同じように他の人だってかけがえのない人ならば……姉さんの役目は姉さんがやる以外になくなってしまう、な」

 

 姉さんの役目も変えが効かないのだから。とアイテル。

 

 それでも、とセクアナは色々考えつく限り代替案を出す。

 

 それに対してナイアスとアイテルは意見を述べる。

 

 三人は話し合った。話し合いつつ本当は分かってはいた。

 

 テミスを助ける事など出来ないのだと。

 

 テミスを死なせずに済むのなら、過去の四人も死なずに済んでいるはずなのだ。

 

 彼女達とて、望まれて人身御供になどなったわけではない。沢山の人の嘆きと悲哀の中、身を投げていったのだ。

 

 どうにも出来ない。そう三人は無力感に包まれていつしか言葉もなくなっていった。

 

 「皆んなして、暗い顔してどうしたのかしら?」

 

 そんな時、いつの間にか歩み寄ってきていた人物が声をかけてきた。皆、周囲の気配に気付かない程に沈み込んでいたらしい。

 

 「お通夜にはまだ少し早いわよ」

 

 そう、ブラックジョークを言いつつ普段通り柔らかく笑っていたのは話の渦中の人物のテミスだった。

 

 「姉さん……」

 

 アイテルは何かをいいかけて、辞めた。かける言葉が見つからない。

 

 「綺麗ね、ナイアスがこの湖が好きなのも分かるわ」

 

 眩い湖面を見て、目を細めてテミスは言った。

 

 「ここが私の……最後の場所」

 

 神の御座す湖。自らが身を捧げる水面を前にして彼女はあくまで穏やかだった。  

 

 「……」

 

 「そんな腫れ物を扱うみたいにして欲しくないな。お姉さんは最後まで、いつも通りの皆と居たいわ」

 

 何も言えない三人に、テミスは何の(てら)いもなくそう言う。

 

 「テミス、いつ?」

 

 「明後日の早朝だって」

 

 気を取り直して身を捧げる日を問いかけるナイアスに、テミスは答える。今日を入れても実質後二日程度か。

 

 「そんな直ぐ!?」

 

 「今までも大体そのくらいだよ」

 

 焦りを口に出すセクアナに、ナイアスは冷静に指摘する。確かにこれまでも正式に発表されてから儀までの猶予はそんなものだった。

 

 「この立場になって分かったけど結構考えられていると思うわ」

 

 そうテミスは言った。

 

 「だって、人身御供になってもらうって告げられてから、役目を果たす日が一週間もあったらちょっと耐えられないと思うわ。一週間の間、逃れられない死の恐怖に晒され続けるのよ」

 

 それなら決定したらすぐにその日が来た方が気は楽よ。とテミス。

 

 「とはいえ、お別れを済ませたりの準備は必要。そういう意味でちょうど良い猶予だと思うわ」

 

 「テミス、やっぱり怖い?」

 

 セクアナはそう素朴な問いを投げた。

 

 「それは勿論怖いわ。そうは見えないかも知れないけれど」

 

 案外いざとなると腹は括れるものね、とテミス。

 

 「それに怖いのもそうだけど、何より無念ね。お父さんも死んで、お母さんも飢饉で死んじゃって、それでもと生き抜いたのに、ここまでなのね」

 

 結構頑張ったのにね。とテミスは寂しげに言った。

 

 「姉さんの頑張りは、無駄なんかじゃないよ」

 

 「そうね、私もそう思いたい。ありがとう、アイテル」

 

 「なら、もし……今から別の人に役目を変えてもらえるとしたら?」

 

 セクアナは先程の対話での提案を直接テミスにもぶつけてみた。

 

 「それは……もし出来るとしても私は変わってもらいたくないわ」

 

 「どうして?」

 

 「私じゃなくて、別の誰かになったとしても同じだと思うの。その子も死にたくなんてない。そしてその子を大事に想っている人達がいる」

 

 それは奇しくもナイアスと同じ見方をしていた。

 

 「その点、人身御供なんて誰がやっても同じ」

 

 なら、とテミスは続けた。

 

 「私に決まったのなら、私がやるわ」

 

 静かな、でも強い眼をしてテミスは言った。

 

 「いや、だよ……」

 

 セクアナは堪え切れずに震える声で言った。瞳から透明な涙が零れて頬を伝った。

 

 「置いていかれるのは……嫌だよ。私は、テミスみたいに強くないんだよ……」

 

 泣きながら、セクアナはテミスの胸にすがりついた。

 

 「貴女はいつまで経っても泣き虫ね」

 

 テミスはそう言って、優しくあやすようにセクアナを抱きしめた。

 

 「大丈夫よ貴女は強いわ、セクアナ」

 

 抱きしめたセクアナを撫でながら、言い含めるように言った。

 

 「だって、ナイアスやアイテルのような友達がいるんだもの。貴女は大丈夫よ」

 

 大丈夫、大丈夫、と優しく言い聞かせながら、テミスは母のようにセクアナを掻き抱いた。

 

 そして、テミスはナイアスとアイテルの二人と視線を交わす。二人は無言で頷いた。

 

 「人間、大事な事に気付くのはいつだっておそいのね」

 

 「……貴方達のような素敵な人達にこんなにも想われて、私は幸福だって、やっと気付けたみたい」

 

 そう、セクアナを撫でながら瞠目して、優しく微笑んでテミスは言った。

 

 「テミス……」

 

 泣き顔を上げてテミスの顔を見るセクアナに微笑み返して続けた。

 

 「私、神様に自慢するわ。こんなに素晴らしい友達がいるって」

 

 「そして、私はそこで貴方達の幸福を祈り続けるの」

 

 そう言って、テミスはその一言に万の意味をこめて言った。

 

 「ありがとう」

 

………

……

 

 

 翌日の夜。テミスは儀式の衣装に身を包んでいた。花嫁衣装にも似た華美な衣服だった。

 

 しかし、同時にそれは死装束。

 

 村の議場にも使われる家屋で、テミスは尋ねてくる世話になった村人達と最後の別れを交わしていた。

 

 村人達は各々、テミスとの最後を惜しんだ。言葉を尽くして悲しみを伝える者。ただ、目を真っ直ぐに見て一言の感謝を伝えるだけの者。涙を流しながらテミスを抱きしめるもの、様々だった。

 

 テミスの側には旅人が控えていた。元はこの村の者だったという彼。皆の邪魔をしないように静かに待機している。

 

 彼が、テミスを夜中の内に湖まで案内し、そして、水底へと身を投げるのを見届ける事となる。テミスにとっては今生で最後を共にする人間だ。

 

 夜半を過ぎて、テミスは旅人に促されて、家屋を出る。

 

 周囲には村人達が広がり、進みでたテミスは衣装と相俟(あいま)って、何処か神秘的なこの世のものではないような、ただならぬ美しさであった。

 

 テミスの先には若者が三人。ナイアス、セクアナ、アイテルだった。

 

 「もう一度、言わせてもらうわ」

 

 「ありがとう、皆」

 

 あぁ、この感謝をどうしたら直接伝えられるのだろう。

 

 言葉にした途端に、それは私の感情から離れていってしまう。

 

 「テ、ミス」

 

 ナイアスが口を開いた。

 

 「私も、ありが、とう」

 

 ナイアスの海に良く似た色の瞳から、涙が止めどなく溢れていた。

 

 「貴女が私の前で涙を見せるのは初めてね」

 

 そう言って、テミスはナイアスを抱きしめた。

 

 「そんなに悲しまないで」

 

 「私はこの役割をそんなに悪い事だと思っていないの」

 

 だって、ほら。と自らの姿を誇示する。彼女は今、間違いなく女性として最も輝いていた。

 

 「私は、神様の所にお嫁に行くのよ」

 

 だから、とテミスは続けた。

 

 「貴女は幸せになってね、ナイアス」

 

 「何も引け目に感じる事はないの」

 

 それは、今までナイアスを見ていたテミスが伝えたかった言葉なのだろう。

 

 そして、とセクアナとナイアスの顔も見て、言った。

 

 「いつか、海を見てね」

 

 そういうとテミスは三人から離れそして言った。

 

 「生まれてきて、本当に良かったわ」

 

 それが皆が聞いたテミスの最後の言葉。

 

 テミスは、旅人に先導されて湖への道を歩いて行った。

 

 明朝、誰よりも美しく、母のように優しかった女性は、水の泡と消えていった——

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