ヒュダトスミュトス   作:ㅤ ْ

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一幕 天空
一節


  『上善は水の(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、来人の(にく)む所に()る、故に道に(ちか)し。』

 

 「老子」より——

 

 

 

 

 「お願いします。どうか少しだけでも」

 

 一人の夫人が頭を下げる。質素な服に身を包んだ夫人は肌の張りなどを見るとまだ若く見え三十代の前半くらいだろうか。ただ、栄養状態が良くないのかやつれて、疲れ切った雰囲気で、本来女盛りの美しさを放っていてもおかしくない顔立ちながら大分魅力を減じていた。

 

 「家ではナイアスがお腹を空かせて。それに、夫はもう……食べ物がないと、このままじゃ」

 

 それに相対する中年の女もまた、弱った様子でやつれていた。

 

 「レーテちゃん。勿論それは分かっているんだけど、苦しいのは何処も同じなんだよ。ウチだってまだ息子も娘も小さいんだ」

 

 「もちろん分かってます……でも」

 

 だったらどうしたら、そうレーテと呼ばれた夫人の声が震える。何処へ行っても皆言う事は同じだった。分かっているのだ、村中が家族を守るのに必死なのだ。

 

 「分かったよ、ちょっと待ってな」

 

 その様子に同情心を打たれたか、中年の女性は一旦家の中に引込み、僅かばかりの燕麦の入った袋を取ってきてレーテに手渡した。

 

 「ほんの少しだけだけど持っていきな。ウチに出せるのはこれが精一杯なんだよ」

 

 「ありがとうございます!」

 

 その情けにレーテは精一杯頭を下げる。袋の中の量は三人では正直一食分にも満たない。だが何も得るものがないよりマシだ。

 

 その僅かな収穫を大事に持ってレーテは家に帰った。小屋のような慎ましい家の門戸を潜ると、不安そうにしている娘が出迎えてくれた。

 

 「おかえりなさい、お母さん。ご飯貰えた?……」

 

「ただいま、ナイアス。貰えたわよ」

 

 そう言ってレーテは小さな袋を掲げて、娘の前で気丈に笑った。

 

 ナイアスと呼ばれた娘は歳の頃は十になる程度の少女だった。身を包む服の生地は母のそれより上等そうだが、体躯は痩せっぽちだ。

 

 顔立ちは母親に良く似て整っており、綺麗で可愛らしい容姿をしていたが、やはり栄養状態が良くないのか顔色は悪く、アクアマリンのような眼も落ち窪んで見えて少し本来の魅力を減じていた。

 

 しかし、体躯や面立ちより一番彼女の中で眼を引くのはその綺麗な髪だった。背中へと流れる癖のない髪は、薄い色をした蒼髪。湖面のように静かで透き通った色で、一本一本が細くて水の様に繊細で柔らかい髪だ。慢性的な栄養失調が伺えるのに、この髪の美しさを犯す事は出来なかったようだ。

 

 「お父さんは大丈夫?」

 

 「寝てるみたいだけど……苦しそう」

 

 レーテは娘にそう尋ねると、母が不在の間父親の様子を見ていたナイアスはそう不安そうに答えた。

 

 レーテは手に入った食料をしまうと、自身の夫の寝ている寝室に向かう。そこでは、土気色の顔色をして頬の痩けた病身の男がベッドの上でうなされていた。

 

 「……あなた」

 

 「……レーテ、か?」

 

 レーテが夫の手を握ると、彼は極めて浅い眠りだったのだろう、目を覚まして妻に応じた。

 

 名をエルという彼は、身体さえ万全ならきっと働き盛りで精悍な顔立ちをした壮年の男だったろう。しかし、今その顔は単なる栄養失調だけではない、病魔に脅かされて不吉な黒い影がかかっていた。

 

 「しっかりして、今日は食べ物が手に入ったから」

 

 「すまない……くそ、どうしてよりにもよってこんな時に俺は」

 

 妻の励ましにエルは弱々しくも悔しげに歯噛みをした。

 

 彼は熱病にかかっていたが、医者の見立てによるとこれは本来命に関わる様なものではなかった。充分に滋養を摂って休息すれば自然治癒力で回復するような病だった。

 

 だが、その充分な滋養が今は取れないのだ。

 

 彼らの村は現代文明の恩恵からも害悪からもあまり関わらない、閉じた村の集落で生きる人々の集まりだった。村の皆が知り合いであり、ある種村全体が家族のような集落だ。

 

 しかし、このこの村は前年より深刻な雨不足が続き旱魃が起き、それにより作物の大凶作、川などの漁業にも大打撃を受けた。そして現在村は飢饉に陥っていた。

 

 雨さえ降れば、そう思いつつも雨不足は続き、村人達は慢性的な飢餓状態に陥っていた。皆で助け合いながら何とか僅かばかりの食糧を食い繋いでいるが、一体いつまで凌げばいいのか。

 

 既に体力のない老人や幼子などは、栄養失調を原因とした病に倒れて死んだものも出始めている。このまま進めば餓死者も次々と出て村は危機に陥るであろう。

 

 最悪を考えれば村の存続の危機にすらなり得るかも知れない。その前には村から出て外の社会に助けを求めるなり、何かしら手を考えねばならないだろう。

 

 しかし、今の所の方針は耐え忍ぶ。だった。早め早めに打てる手を打つべきなのかも知れないが、村の事を決定する老年の者達は、保守的な考え方にあり、後手へと回っていた。

 

 それは決して老人達が愚かというわけではなかった。長く生きた者達は村では賢者として尊敬されている。変化を嫌うのは老人達ではなく村の相違なのだ。事実今のところ、村を出るような事をする者は誰も出なかった。

 

 それを愚かと笑うのは現代文明人の傲慢であろう。村人達が村が滅びるなら村と共に殉じる。そう腹を括っているのなら、関係ないものがどうこういうのは筋違いというものだろう。

 

 しかし、勿論彼らとて滅びたい訳ではないだろう。しかし、現状皆じわじわと弱っていっているのが現実だ。そしてエルがその最たる例だ。

 

 確かに前述の様に既に飢餓に病が重なった事による死者は少数出ているが、飢饉の時期に妻と夫と娘の三人家族の中で本来一番体力のあるエルが病にかかってしまったのは最悪のタイミングであったろう。

 

 きっと平時ならもう治っているような病にも関わらず、殆ど栄養も取れずに回復の兆しどころか彼は段々弱っていった。幸いに皆に感染するような病ではなかったが、本来家族を率先して守らなければならないエルが足手纏いになっている現状が彼には悔しかった。

 

 毎日、自分自身もお腹を空かせているのに父親を心配して枕元で泣くナイアスにろくに強がる事も出来ない自分が情けなかった。

 

 「いいから、余計なことを考えないであなたは身体を治して。ご飯作るから」

 

 「すまん……ありがとうレーテ」

 

 夫を励まして、食事の用意の為に台所へと向かった。入れ替わりにナイアスが入ってきて父親の手を握る。

 

 「お父さん……早く治ってね」

 

 「あぁ、大丈夫だ。ナイアス」

 

 そう言ってエルは精一杯強がり、娘の蒼髪をくしゃくしゃに撫でた。

 

 その日の夜は、燕麦の薄い粥と、野菜屑の切れ端が少し入ったやはり薄いスープだった。量も少なく極めて粗末だが、素朴な味に仕上がっており、何よりお腹を空かせたナイアスががっつきそうになるのを、ゆっくりよく噛んで食べるようにレーテは言い含めた。

 

 もとより、飢餓状態が慢性化して弱った胃腸にいきなり食べ物を入れるのは体に悪いし、量から言ってよく噛んで食べた方が満腹感も得やすい。

 

 「どう、貴方。食べられそう?」

 

 「あぁ、ありがとう。頂くよ」

 

 エルもトレーに乗せた食事を妻に持ってきて貰ってそう礼を言った。回復する為に貴重な栄養源だった。 

 

 だが、飢餓状態にも関わらず、病で弱った彼は食事を前にしても一切食欲が湧いてこなかった。極めてまずい兆候だと自分でも理解していた。それでも食べない限り回復は見込みない。だからエルは全く味の感じられない粥とスープを気合いで完食した。

 

 食べてしまうと、もうやる事はなかった。皆疲弊しているし、村人達は身を清めると夜は早く寝て体力を温存するだけだった。

 

 もっとも何も食べられなかった日の夜など空腹が辛すぎて中々寝入れない事も多々あるが、この日の夜は少しだが食べられた事により、レーテもナイアスも寝付きは良かった。

 

 しかし、エルだけは別だった。彼はここ数日は熱に浮かされた最悪の体調の中で昼も夜もなく、浅い眠りと朦朧とした覚醒を繰り返してばかりだった。

 

 だが、この夜はそれだけではない。無理に腹の中に夕食を入れてから、ずっと胃の中で食べたものが異物感を放っていた。更に段々と胸のムカつきを覚え始めた。

 

 

 嘔吐感。冷汗。駄目だ。妻が頭を下げてまで持ってきてくれた大事な食糧だぞ。それをただ、何もせず横たわっていただけの奴に食わせてくれたのだ。そうエルは思った。

 

 そもそもこの貴重な栄養源を吸収出来なかったら、俺はどうやって回復するつもりなのだ。

 

 そう思い食物がさっさと胃の中を通過するまで堪えようとする。だが、思惑とは違い胃の中の異物感は中々消化はされずに幽門を通ろうとはしない。

 

 ぐっ、と歯を食いしばって決断すると、エルは妻子を起こさないように起き上がり、ふらつく足取りでトイレへと向かった。

 

 「ぐ、は」

 

 べしゃり、べしゃりと気づかれないように嗚咽しないように静かに便器に嘔吐した。消化は殆ど出来なかったのか、粥とスープは飲み込んだ時殆どそのまま戻ってきた。

 

 「あなた」

 

 苦悶しながら胃の中を空にしていると、彼の背中を撫でる手があった。不覚にも妻に気づかれてしまったらしい。

 

 「ごめんなさい、今度はもっと柔らかく煮るから」

 

 夫が食事を受け付けなかったのは自分が不手際。そう詫びる妻にエルは首を振った。

 

 「もういい」

 

 駄目だと、悟った。もう病の衰弱、そして飢饉で長期間ろくに食べずにいた事による胃腸の衰え。それらが重なりもう胃が機能を果たさないのだ。

 

 病で弱り切って、更に自分でものを食べられなくなってしまった生き物はもう命運が尽きてしまっている。

 

 「俺の食事はもういい。少しでも二人が食べてくれ」

 

 自分の命運を悟りエルはそう告げた。回復の見込みもなく、消化すら出来ない病人に貴重な食糧を割かせる訳には行かなかった。

 

 本来は率先して二人を守らなければいけない立場の自分が、こんな時にも関わらず穀潰しになるわけにはいかない。

 

 どうせ役に立たぬのなら自分さえいなければその分二人の食い扶持は増やす事が出来る、そう考えた。つまりは心が折れてしまったとも言えるが。

 

 「あなた!」

 

 レーテは咎める様に強い声を出した。

 

 「諦めない、でよ」

 

 その声は震えていた。

 

 「すまない……もういいんだ」

 

 もちろん諦めたくはない。常の状態なら二人を残して諦めたりしない。

 

 だが、自分が生存に執着すれば誰よりも愛する家族の生存を(おびや)かすとすれば、人はそれでも諦めずにいられるのか?

 

 「もう、寝る」

 

 エルは立ち上がって、ふらりとトイレを出ていった。

 

 「……おとうさん、どうしたの?」

 

 二人の気配で目が覚めてしまったのか、寝室で体を起こしたナイアスが不安げな声を出す。

 

 「なんでもないよ、ナイアス。おやすみ」

 

 エルは娘に極めて優しく声をかけると、自身もベッドの中に戻っていった。その時彼は熱病に浮かされているとは思えぬ程極めて平静だった。

 

 「あなた!あきらめないでよぉ」

 

 逆に慢性的飢餓以外に身体に異常のない母親の方が明らかに取り乱していた。

 

 「私は、あきらめてないからね!」

 

 エルは毛布をかぶったまま、妻に答えなかった。

 

 それを見たナイアスは、何か間違いが、決定的な間違いが始まったような、強い胸騒ぎを覚えた——

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