ヒュダトスミュトス   作:ㅤ ْ

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第20話

 その少女の今まで決して誰にも出来なかった罪の告白に、旅人は何ら変わらぬ、深く静かな眼でコーヒーを啜ると、少女に沈黙をもって続きを促した。

 

 それで、暫く間をおいたナイアスは再び口を開く。

 

 「それから少しして、飢饉を収める為の人身御供が村の守り神様に捧げられると、村は飢饉を乗り越える事が出来ました」

 

 その儀式が今ここに繋がっているのは貴方も知っての通りです。とナイアスは続ける。

 

 「そして、村は傷跡を残しながらも徐々に普段の日々を取り戻していきました。ただ、私が負った傷跡は誰にも知られる訳にはいきませんでしたが」

 

 「戻ってきた日々は、とても豊かで穏やかで平穏な毎日でした」

 

 「両親を亡くした私は、村で子供のいなかった夫婦が引き取ってくれました。義理の両親はとても優しい人達で最初、沈み込んで誰にも心を開けなかった私を優しく辛抱強く接してくれました」

 

 「本当の意味で心を開く事は出来なかったけれど、七年間育ててくれた義理の両親は私が好きでした」

 

 「私は昨夜、これまでおじさん、おばさんとしか呼んでこなかった義理の両親を初めて実の親の様にお父さん、お母さんと呼びました」

 

 そこでナイアスはふっ、と一つ小さく自嘲するように息を吐いた。

 

 「……正直、私は実の両親の様には二人を思えなかったです。私の中では二人は家族ではなく他人でした」

 

 「ただ、恩返しのつもりでそう呼んだのです。そう言えば二人を感動させられると分かって、それで心にもない事をいいました」

 

 「私は最後までそういう人間でした」

 

 「友達も出来ました。明るくて元気なセクアナは、ともすれば沈み込みそうになる私をいつも元気に照らしてくれる太陽のような存在でした」

 

 「アイテルは、歳の割に老成して常に冷静で理知的で尊敬出来る人でした。穏やかで冴えた光を放つ月のような存在でした」

 

 「二人と何気ない、くだらない事を話しながら過ごす何気ない日々は幸福でした」

 

 「セクアナはアイテルの事が好きだったようですが、アイテルは何故か私に惹かれていたようでした。既に穢れた私はアイテルに答える事も出来ませんでしたが。そもそも人を愛する資格もなかったのです」

 

 「アイテルには、私などよりも純粋なセクアナに答えてあげて欲しい。私が居なくなれば必然そうなるとも思います」

 

 「貴方なら分かると思います。この穏やかで平穏で……そして孤独な日々」

 

 「私は誰にも私の罪を知られる訳にはいかず、誰にも私の罪を知ってもらえなかったから」

 

 その孤独は誰も彼女を愛さなかった故の孤独ではない。

 

 彼女を愛した数多の人達が、彼女の孤独に気付けなかったという、無謬の孤独だった。

 

 「私はあの日、私の血は穢されてしまいました。でも、そんな事よりも、その後私の魂を穢してしまいました。自分自身の手で」

 

 「血は……身体は穢されても生きていけます。……でも魂の穢れはどうしようもあまりせん」

 

 「何故なら、魂を穢せるのは自分自身だけだから、穢してしまったのは他でもない自分自身だから、誰かのせいには出来ません」

 

 「魂も水に還ればまた、綺麗になれるのかな」

 

 ナイアスは独白するようにポツリとそう言った。

 

 「分かるでしょうか? この七年間の幸福な日々は、同時に私には孤独と苦悩の日々だったのです。幸せであればあるほど、夜中に一人で苦悩と罪悪感に焼かれました」

 

 「……この七年で一つ気がついた事があります。昼間一緒に笑っていた愛する人が、夜になったら一人で泣いているかも、なんて誰一人考えないのです」

 

 ナイアスは寂しげに、独白のような話を続ける。それはおそらく七年の間、孤独の中で溜め込んだ澱なのだろう。

 

 「私は卑怯者です。こうして最後も、親友の為に身代わりを買って出た聖人のような少女として語られるような事をしています」

 

 「セクアナ達村の人はきっと私の事をそんな風に思う。本当は身勝手な理由に過ぎないのに」

 

 「私はただ、自分の穢れと孤独に耐え切れなかっただけなのです。でもただ死ぬ事も出来ず、親友のセクアナを利用したのです」

 

 「セクアナに役割が回ってくれば、私は綺麗に終われる。そんな期待を毎年していたのです」

 

 私は、と震える声でナイアスは続けた。

 

 「そんな風に……母を殺した時から変わらない、卑劣で身勝手な人間なのです」

 

 「貴方とお話していて一つ分かった事があります。先程、罪人が罪人足り得るのは自らの罪に自覚的故と言いました」

 

 「旅人さんは沢山人を殺して来たのでしょう。でも、貴方は私と違って罪人ではない……いえ、ごめんなさい。責めているんじゃないんです」

 

 「ただ、こう思いました。貴方みたいに人に優しくて、そして残忍になれたら、他人だけではなく、自分も幸せに出来たのかもって。もっと早く気がついていたらそうなれたのかもって」

 

 「今更ですが……後悔ばかりですね」

 

 ぱきり、と咥えた板チョコレートを一欠片食べてナイアスはそう呟いた。

 

 「でもこうも思います、大抵の人は、孤独の中。ただただ純粋に自分自身の為だけに生きていける程強くはないのです」

 

 「孤独が故に誰かの為に、誰かと共に生きる事しか、生きる術を知らないのです」

 

 「ただ、私は孤独の中、いつも偽りの自分としてしか愛する人々と接して生きる事しか出来なかった。それが偽りである以上いつだって自分本位な生き方しか出来なかった。それがもう限界なのです」

 

 静かに言い切ると、ナイアスはカップに残っていたコーヒーを飲み切って一息吐いた。

 

 「旅人さんに一つ聞きたい事があります。貴方は、この人身御供の儀を任される大事な役目を背負っています。それはもし、贄としての役割を果たせず逃げようとした娘に強制的に役目を果たさせる事もするのですか? ……その服の下、銃を持ってますよね」

 

 旅人はそれに答える。

 

 「そうですか……やはり村との約束としてはそういう事もする事になっているけれど……貴方は最初からそんな事する気はなかったのですね。何となく思っていました。この儀はその気なら逃げられるのではないかと」

 

 「でも、今まで逃げた娘は居ない……ですか。やっぱり皆凄い、なぁ」

 

 「もっとも、この場を逃げても何処にも行く場所はないのでしょうが……」

 

 意味のない仮定だが、もしも人身御供の立場から逃げて、何処か生きる事が出来る場所の当てがあるなら、自分の役割を放棄して逃げる娘も居たのかも知れない。

 

 例えば、この旅人が逃げても生きていける場所を用意してくれていたら、とまさに意味のない事をナイアスは思った。

 

 「でも貴方はずるい人ですね。村の死活問題であるこの儀式を任される立場なのに、自分の役目を果たそうとはしない、傍観者」

 

 「貴方はそういう人なのですね。逃げる手助けもしないし、役目を強要もしない。優しくもないし、厳しくもない、やっぱりずるい人」

 

 それに対して、旅人はさかしまに問う。

 

 「え? 私は、ですか? 私が貴方の立場だったなら?」

 

 「……分かりません。もしかしたら貴方の様にしているかも知れません。貴方の事、ずるいなんて言えませんね」

 

 「別に貴方の事を悪く言う気はないですが、権利は手放したくないけど、責任は果たしたくないみたいで」

 

 「でも、そんな私だから今、ここに居るんです。どんなにずるくなりたくても、逃げたくても、自分自身からは逃げられませんでした」

 

 「貴方は私を浅ましいと思うでしょうか? 罪と孤独に耐えきれず、親友を助けての死という美談として記憶に残ろうとする私を」

 

 そのナイアスの在り方は本物とは程遠い。彼女は自分が言う通り不純で浅ましく、紛れもない偽物だ。だが、往々に人々は真に迫ってみえる偽物に(なび)く。

 

 「でも、言い訳になりますが、私は死ねば助かる。なんて思っているわけではないのです。何故なら私が生きても、死んでも、私は私のやった罪からは逃れられないからです」

 

 「例えいくら自分の行いを他人からみて美しく見立てようと、私がやった事の真実は死のうと生きようと決して変わらないのです」

 

 「……私の罪もきっかけは七年前の飢饉に端を発します。あの飢饉では沢山の悲しみや苦しみが、溜まり溜まって澱となって、それがきっと私に(よど)んだんです」

 

 「だから、それを最後に返すのが私の役割なのかも知れません。傲慢な解釈かも知れませんが」

 

 「……もう一つ聞きたい事がありました。二年前に人身御供になった、テミスという人物を覚えているでしょうか?」

 

 旅人は肯首した。

 

 「あの人は、この儀式で最後はどんな様子でしたか? よければ教えて下さるでしょうか」

 

 特に隠す事でもないのか、旅人は少ない言葉で端的に聞かれた事に答えた。

 

 「……そうですか。なんだかとてもテミスらしいです。やっぱり凄い、な」

 

 そう、懐かしそうな寂しそうな顔をしてナイアスは言った。

 

 「もしテミスなら、テミスが全部知っていて、この場にいたら……怒られるかな、怒られたいなぁ」

 

 「一つ、お願いをしてもいいですか? 私の親友のセクアナの事です。セクアナは外の世界、広い世界へ出る事が夢なのです。良ければでいいので、セクアナに話だけでも聞いてあげて下さい」

 

 ふぅ、とナイアスは一息吐いた。ずっと喋りっぱなしで少し疲れたのだろう。だが、東の空が大分白み初めていた。これが彼女にとって初めて本心から自分の事を語れる機会なのだ。

 

 「沢山話して少し疲れました」

 

 「でも、まだ何か言葉が足りない気がします。今、初めて自分の事を話せているのです。まだ、話したい」

 

 「本当はずっと独りぼっちで寂しかったです。生きている事は辛かったです。それでも皆に感謝してます。私はこの世界が好きでした。お母さんのことも……」

 

 「もしも、お母さんに会えたのなら、お母さんはきっと聞いてくれないと思うけど、きっと聞きたくないと思うけど、それでも一言、謝りたい」

 

 「……そろそろ時間が迫ってきましたね。なんだか案外気持ちは安らいでいます。毎夜毎夜、後悔に焼かれていた時に比べたら」

 

 「……そうですね、人間には致命傷ってあると思うんです。それは身体の病や怪我などではなくて、致命傷は他人から与えられる事はありません。自らの魂を自傷する事で負うのです」

 

 「皆は、どんなに深く傷ついた人でも、きっと良くなる、回復すると言いますが、私はそんな事はないと知っています」

 

 「死に至る病があるように、もう助からない傷があるのです。あの日、私はお母さんを殺したこの手で、自分にも致命傷を与えてしまったのです」

 

 「出血を誤魔化して何とか生きてきましたが、もう駄目なのです。駄目だけど、助からないと分かっていましたけど、それでも頑張りました」

 

 「人は病に苦しんでも、いざ最後の時は苦しみもなくなるといいますが、本当ですね。なんだか今はスッキリして安らぎます。やっとここまでこれました」

 

 「……皆、存在するものは還る場所があるんです、私達、人間、動物、植物、神様でさえ。きっとそれは深い深い海の底のように、誰にも知られない場所なんです」

 

 「私はそこで祈ります。一人でも私のように苦しむ人が少なくなるように、もう誰も私のように間違いを犯さなくてすむように、ずっとずっと祈り続けます」

 

 「きっと、私の先に居た人達も沢山そこで私と同じように祈っていると思うんです。祈りは水の底で輝いていると思うんです」

 

 「だってこの七年間、私の周りの世界はあんなにも綺麗だったから——」

 

 透明な涙を流しながら、ナイアスはそう言い切って大きく息を吐いた。

 

 東の空から眩い曙光が差していた。

 

 「夜が明けましたね」

 

 「私も、もう逝かないといけません」

 

 「最後まで私の話を聞いてくださってありがとうございました。ずっと誰にも言えなかった事を言えて良かった。聞いてくれて嬉しかったです」

 

 そう言うと、ナイアスはずっと身につけていた蓮華の意匠の髪飾りを外すと、旅人に手渡した。

 

 「これを受け取って下さい。別に必要なければ捨てて下さっても構いません。ただ、私みたいな馬鹿な人間がいた事をたまに思い出して下さい」

 

 「そして、いつの日か忘れて下さい」

 

 「ありがとうございました。コーヒーとチョコレート美味しかったです。さようなら」

 

 そう言って、ナイアスは湖の中へと進んでいく。

 

 冷たい水に足が浸かり、歩を進めていくと段々と深くなっていった。

 

 ナイアスの心は穏やかだった——

 

………

……

 

 かみさま。

 

 わたしは……

 

 ちいさかったころ。

 

 まだおかあさんがやさしかったあのころ。

 

 わたしもきれいだったあのひのころ。

 

 りゆうもなく、なぜか、しあわせなみらいをしんじていました。

 

 どうかゆるしていただけるなら。やわらかくてやさしいみずのなかで、とわに。

 

 あのひのつづきを、こうふくなゆめをみさせてください。

 

………

……

 

 砂浜に、寄せては返す波の音が一定のリズムを奏でていた。

 

 涼やかな風が吹く海岸を旅人は歩いていた。

 

 海は何処までも幅広く、果てで空と混じり合っていた。

 

 旅人は暫く浜辺で海を眺めていたが、やがてポケットから髪飾りを取り出した。

 

 手の中の蓮華の意匠の髪飾りに旅人は眼を落としていたが、やがて腕を振るって髪飾りを海に向かって放った。

 

 ポチャリ、と浜辺から遠い所で髪飾りは海に沈んでいった。

 

 旅人は、少しの間立ち尽くしていた。

 

 やがて彼は踵を返して、去っていった——

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