ヒュダトスミュトス   作:ㅤ ْ

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三節

 翌日、エルの埋葬が行われた。既に死後三日が立っていた為にいつまで土葬しないわけにもいかなかった。

 

 死体は有機物の為言うまでもなく時間経過で腐敗が進む。死んだ人間には自己防衛システムが働かない為に見かけ上問題なくても細菌やウイルスの温床となり、細菌感染源となる。

 

 あまり死体と接触する機会がない現代だと意外と知られてないが、火葬されるまで棺桶に安置されている故人に触れるのもすら程度はリスクがあり、死体は結構危険なのだ。

 

 まして、飢餓や精神的動揺で抵抗力の弱まっている母子の家に死体を長期間置けば、二人まで疾病に倒れる事にもなりかねない。

 

 村がこんな時なのであまり手の込んだ葬儀は勿論出来なかったが、それでも生前親交のあった村の者は皆疲弊しているにも関わらず、最後の別れに駆けつけた。

 

 しかし、埋葬は簡単には行かなかった。

 

 「エル!エルッ!彼を連れてかないでぇ!」

 

 「レーテちゃん!もう諦めるんだよ!」

 

 「そうだ、奴だってもう休ませてやらきゃならないだろ」

 

 レーテが完全に狂乱して、エルの死体に取りすがり、引き離そうとすると暴れる程なのだ。村人達は手を焼いた。無論死別による失意の程は分かっているつもりだったのだが、しかし殆ど狂気に陥っている程とは想定以上だったのだ。

 

 遺体を埋蔵する為レーテを必死に引きはなそうとする村人達との揉み合いに辺りは騒然となった。このままの状態だと無理矢理にでも引き離さないとレーテは死体が腐敗し液状化しても離れないかも知れない。そんな訳にもいかないのだ。

 

 ナイアスは少し離れた所で泣いていた。無論家族として、父親が死んでしまったのはナイアスもこの上なく悲しい。しかし、母はどうだろうか? いくら悲しいとはいっても度が過ぎていないか。

 

 あんなにも優しかった母、それが完全に心を病んでしまっている今、ナイアスは母が怖かった。

 

 そうやって泣いているナイアスに気がついた村人の一人はあんな姿の母親を見せるのは忍びないと、彼女の手を引いてその場から離れさせた。

 

 レーテと村人達の押し問答はかなり激化した、いくら説得しようとも聴く耳は持たず、強引に引き剥がそうとすると一体痩せ細った女の身体の何処にこんな力があるのかと言うほどの膂力で暴れて周囲の人間が振り回されてしまう程だった。

 

 しかし、激しい抵抗だったが体力も気力も無尽蔵とは行かない為、おおよそ三十分の揉み合いの末に、レーテは力尽き、糸が切れたかのように蹲って動かなくなってしまった。

 

 そうして、村人達は故人との別れもそこそこに今のうちだとばかりに、棺に納めたエルの遺体を穴に納めて埋蔵した。

 

 「みんな……私からエルを……奪っていく、ど、うして……」

 

 ただ、一人その光景を見るでもなく、レーテは俯いて蹲ったままぶつぶつと呟いていた。

 

 最早、乱心と言えるレーテの一連の言動に、彼女の事を昔からしる村人達ですら、彼女にかける声はなかった。

 

 励まそうにも叱責しようにも、全く伝わるとは思えなかった。今回のような事でもなければ基本的に長閑で牧歌的な村で狂気に陥るものなど滅多に出た事ないのだ。

 

 それでも、エルの埋葬が終わり墓石を立て花を手向けて弔いが終わると、隣近所の夫人がレーテに何とか声をかけて立たせて、家に送っていった。

 

 家でナイアスが迎えても、レーテは何も反応がなかった。結局放ってはおけないとその日は夫人が二人の部屋に泊まって様子を見てくれる事になった——

 

………

……

 

 その後、レーテの精神状態が回復する事はなかった。ただ、日がな一日中部屋でうずくまって、何かぶつぶつと譫言を言ったり頭を抱えたりしているばかりで、家の事も自分の事も出来なくなった。

 

 村人達はレーテの余りの嘆きぶりをみて早まった真似をしないかと真剣に心配したが、結論からいって夫の後を追う様な気力すらないのだ。実際、自害するというのはかなりのエネルギーがいるからどん底の人間は死ぬ事すら出来ない。

 

 往々にして自殺が多いのは、むしろどん底から少し気分が回復してきた辺りだろう。一見上向きになるから周囲も油断するタイミングなのだ。

 

 レーテが完全に使い物にならなくなってしまい、隣近所もなるべくは手を貸してくれた。しかし、今は村全体が危機であり、皆が飢餓で疲弊している状態なのだ。

 

 自分達の事で精一杯なのに、いつでもレーテとナイアスの事ばかり手助けする余裕もなかった。畢竟村人の手助けがない時は、ナイアスが幼いながらに食糧の調達や食事の用意、家の事など出来る範囲でやる事になった。

 

 そんな風に幼くも健気に頑張るナイアスに村人達は優しかった。ナイアスは父親を亡くして、母親も乱心してしまったばかりの自身の状況を嘆き悲しむ暇すらなく生きる事に必死になった。

 

 そしてそんな娘を尻目に日がなベッドから動かないレーテはナイアスが食事を用意しても殆ど手をつけなかった。良くて二口三口食べる程度。最早食事をとる気力もないのか。

 

 慢性的な飢餓は続き、村人は皆例外なくやつれていっていたが、しかしレーテのやつれ方は飛び抜けていた。殆ど骨と皮のようになり、まるで生気のない表情と合わせてまるで幽霊じみていた。

 

 もはや娘に似た有りし日の女盛りのレーテの美しさは見る影もなかった。そんな風体に成り果てた母親がナイアスはやはり怖かった。このまま飢え死にするのではないかとも思った。

 

 母の眼には自分は殆ど映っていない。実の母に無視され続ける悲しみ。しかし、稀に母の眼が自分を捉えてじっと凝視してくる事がある。言葉はない。だが、後ろ昏い視線に晒される恐怖。何故母は自分をあんな目で見るのか?

 

 そんな疑問も生きる為の懊悩の方に塗りつぶされていったのは幸いだったのだろうか? 生きる事のみに必死な人間は中々悩みなどしない。

 

 いや、あるいはナイアスはもう少し真剣に考えるべきであったのだろうか——

 

………

……

 

 エルの死から一ヵ月が経過した。

 

 村の食糧難は一向に解決の目処が立たない。村人達の飢餓と疲弊は今や極限に近かった。

 

 事実、元々痩せ型でエネルギーの蓄えに乏しかった者の中から既に体力が限界を迎えて事実上の餓死者が数人、村から出始めていた。

 

 このまま村の飢餓状態が続き臨界点に達すれば、飢饉における最悪の領域へと踏み入ってしまうだろう。僅かな食糧を巡って仲間内での争いになり、最後には互いの屍肉を喰らう文字通りの餓鬼道に村は堕ちて滅ぶ。

 

 一ヵ月前、エルが死んだ時や死んだ直後はまだ父母に村人達は助けの手を差し伸べたが、最早村全体に体力が尽きた今や、隣近所同時でもナイアスを積極的に助けるものも居なかった。

 

 こんな幼い娘一人を放っておくのは忍びない、本来暖かい村人達はそう考えるが、しかしもう、皆が自分や家族が生き残る事だけに必死でそれどころではなかったのだ。

 

 事実としてエルが先駆けとなってしまったが、飢饉のせいで、本来元気だった身内を亡くした一家はレーテ一家だけでは既にないのだ。

 

 しかし、最早生活能力を失ってしまったレーテの代わりに活動する幼いナイアスに村人は情けを失ったわけではなく、与えられる食糧は少しだが多めに割り振られた。これなどは怪我の巧妙だろうか。

 

 レーテの狂気は一ヵ月経っても回復する兆しはなかった。やはりたまに得られる食事はナイアスが用意しても、殆ど口をつけなかった。

 

 殆ど骸骨に皮は張り付いた様な異様な風貌になりつつあったが、既に村人に何人か出ている餓死者同様に飢え死にしてもおかしくなさそうなのに、彼女は死なないし意識も無くさなかった。

 

 まるで、この世にまだ執念、いや怨念でもあって死にきれないとでもいう風に。

 

 それどころか、時折レーテは夜中など唐突なタイミングで家を出て徘徊などし出すのだ、居なくなった夫の影を探して彷徨っているのかも知れないが、しかし餓死寸前の身体で一体何処にそんな体力があるのか不可解極まりない。

 

 ある意味では、常軌を逸した精神が肉体の限界を凌駕している例なのかも知れない。

 

 気が付いた時はナイアスが探して家に引っ張って共に帰らなければいけない。時には何処かで佇んでいるのを村人が見つけてわざわざ送ってきてもらう事もあった。

 

 そういう村人はレーテを放っておくわけにもいかなかったのだろうが、その飢餓と衰弱で落ち窪んだ眼に強い疲労を浮かべており、ナイアスは平謝りに頭を下げた。

 

 レーテも徘徊はしても、連れ戻そうとされて抵抗して暴れるような事がないのだけは助かった。まぁ、流石にそこまでの余力は残っていないのだろう。

 

 そうして、未だ正気を取り戻さない母親を抱えてナイアスは必死に生きていた——

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