ヒュダトスミュトス   作:ㅤ ْ

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二幕 地上
一節


 『玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである』

 

 「ヨハネの黙示録」より——

 

 

 

 

 「ナイアスちゃん、おはよう」

 

 「おはようございます」

 

 ナイアスは台所で朝食の支度をしながら、養母である優しげで穏やかな空気を纏った初老の女性と挨拶を交わした。

 

 「朝食の用意してもらってありがとうね」

 

 「いえいえ、おじさんはどうしたんです?」

 

 「畑の手入れにいってるんだろうね。じきに帰ってくるさ」

 

 ナイアスの問いかけにのんびりとそう返しながら養母は食卓の席に着いた。

 

 ナイアスは鼻歌混じりにフルーツをナイフでカットする。

 

 ナイアスはあれから背も伸びて、同年代の女子としては一番背丈があった。繊細な蒼髪は艶やかに背中へ流したロングヘアとなり、母親の形見である蓮華の意匠に真ん中に真珠が据えらた髪飾りをしていた。

 

 母親はこの髪飾りを見せてくれた時に、この宝石は海で出来るのだと教えてくれて、いつかナイアスが大人になった時にくれると語った。

 

 成長した彼女の面立ちは、かつて飢饉の頃はやつれていたが、今は健康的な肉付きを取り戻し、昔の母親に似た端正で綺麗な目鼻立ち、色白のきめ細かい肌に透き通るような水色をしたアクアマリンのような瞳と合わさり何処か神秘的な美しさがある。

 

 そこに、まだあどけなさを残した可愛らしさもある綺麗な少女に育っていた。

 

 高めの身長に、足にも適度な肉が乗り、腰つきも女性らしい曲線を帯びてきたが、何故か胸だけは女性的発達に見放されたかの如くストンと平らだった。その体を涼しげな白いワンピースで包んでいた。

 

 養母、養父も自慢にする程の美しくも可愛らしく育ったナイアスは表情は穏やかな印象が強く、顔立ちこそ似通っていなくとも、そこは何処か養母に雰囲気が似ていたかも知れない。

 

 「ただいま」

 

 「おかえりなさい」

 

 「おかえりなさい、おじさん。ご飯丁度出来ましたよ」

 

 「おぉ、これはタイミングが良かった。ありがとうナイアス」

 

 そこに畑仕事から帰ってきた、初老の壮健な男性がナイアスと言葉を交わして食卓についた。

 

 支度が出来た食事をナイアスが皆に配り自らも席に着く。

 

 食事はミルクで似た燕麦を主食に、サラダにベーコンエッグ。コンソメスープにカットした果物がついていた。  

 

 「頂きます」

 

 恵みに感謝して、皆で手を合わせて食事を始める。

 

 「美味しい」

 

 「うん、美味いな」

 

 「……美味しいですね」

 

 美味しい。日々の食事を充分に取れるという当たり前の喜び、食べて生きられるという事への感謝。かつての飢饉を乗り切った村人達は例外なく、その事に気づいていた。

 

 それは病に倒れて初めて、ただ健康であるというだけで他に何もいらない程の有り難さに気付くように。

 

 日々を生きている中で、お腹が空けば食べられるという有り難さ。食べられる食糧もあり、食べられる元気な身体があるという歓喜。それだけでもう人は楽しみ幸福で居られるのだ。

 

 「ご馳走様でした」

 

 三人、その有り難みに感謝して両手を合わせて平らげ食事を終えた。率先してナイアスは立ち上がる。

 

 「食器片付けときますね」

 

 「えぇ、ありがとうね」

 

 「じゃあ、俺はもう一仕事してくるかな」

 

 続けて養父も席を立った。

 

 「食休みくらいしていったら?」

 

 「なに、腹ごなしに少し歩いていくさ」

 

 妻の言葉に養父は笑って答えると、軽く支度をしてまた家を出て行った。

 

 ナイアスは台所で食器を洗い、片付ける。それが終わると、軽く家の中の掃除をして回った。

 

 夫婦の部屋を掃き掃除して窓を開けて布団を干した。続けて自室もまた、軽く——と言っても物も少なく殆ど汚れていないが——掃除して布団を干す。

 

 その時、空を仰ぐと何処までも澄んだ青い空に薄くて小さな雲がうろこのように遠くから真上まで整然と綺麗に並んでいた、巻積雲という奴だ。その雲の向こうで眩く太陽が覗いていた。

 

 「綺麗な、お空」

 

 ナイアスは眼を細めて小さく呟いた。

 

 家事を一通り終えると、いつの間にか養母も何処かに出かけていたらしい、夫か、あるいは何処かの村人の仕事でも手伝いに行ったのかも知れない。

 

 ナイアスも一冊の本を片手に携えて家を出た。村人は皆顔見知りなので特に施錠する必要もなく、習慣もない。のどかな道を歩き、村人とすれ違う時にはナイアスは穏やかに微笑して挨拶を交わした。

 

 少し歩いて、村の中心に近い辺りに立つ家屋に辿り着く。ここも例によって施錠はされていない。村人なら誰でも立ち入れる事になっている。

 

 ナイアスは扉を潜り中に入る。最近は人の出入りがあまりないのか、中は埃っぽい。内装も簡素で本棚が立ち並び、机に椅子が何脚か置いてあるだけである。

 

 ここは村では図書館と言われている施設だった。といえど、村のものなのでさして広くはなく、蔵書量もたかが知れている。

 

 とはいえ、書物は村では貴重なものであるために、基本的に個人で書物を所有出来る者はあまり居なく、本を読みたければここに来る必要がある。

 

 娯楽の類は少ない村なので、割と貴重な本類は人気で暇な時に読みに来る者や借りて持ち出す者は多い。ナイアスも読書を好んでおり、ここにはよく訪れる。

 

 ナイアスは片手に持ってきた既に読み終えた本を元の本棚に収めると、同じ本棚から背表紙に指を横に走らせながら何やらぶつぶつと呟く。

 

 そして、一冊の書物を引き抜く。エジプト神話の本であった。

 

 彼女は置いてあるノートに、返却した本と借りていく本を書き込んだ。基本的に善意で充分成り立っているこの村であるが、流石に貴重な書物類は紛失防止の為に記録するというルールがあった。

 

 だが、各々の裁量に任せてその程度のルールで自由に本を持ち出せるのだから、やはり緩く皆、悪い事をするものはいないと言う事なのだろう。

 

 ナイアスは、持ち出した本を手に図書館を出た。すぐに読めてしまう本は、読むだけなら借りて行かずに図書館内で読んでしまうのも手だ。

 

 だが、彼女は基本的に専門的だったり重厚だったり、どちらかと言うと難書の類を好み、正直一読するだけでかかり切りでも平気で一週間かかる事もザラなので、到底図書館内でちょっと一読とはいかない。一応貸し出しから返却までの期間も定まっているのだ。

 

 ナイアスは一つ空を仰ぐと、また歩き出した。

 

 最近は、各地、各民族の神話を読み比べてみるのに凝っていた。人種や場所により、同じ神話と言えどそれぞれの種族の特色や考え方の違いが現れている。

 

 「私たちは生まれる前は何処にいたのだろう? 私たちは死んだ後に何処にいくのだろう?」

 

 最近、ナイアスはふとこんな事を疑問に思う。そしてこれは、おそらく人間が存在した時よりの最初の疑問の一つなのではないか?

 

 その疑問の一つの考えの産物がまず神話なのだろう。

 

 神話とは面白い。同じ疑問を神という原初で語るにしても、先の様に人種や場所柄の差異は勿論ある。

 

 だが、不思議と全く場所柄からいって関連のない地でほぼ同じ時期に、同じ筋の話が現れたりする。

 

 共時性(シンクロニティ)というそうだ。全くの偶然のように偶然でない事が起きる。

 

 例えば、ある少女は排泄物ではなく財宝を排泄した、村々の人々がその少女を気味悪がって殺して死体を分割して埋めてしまった。

 

 すると少女を埋めた場所から穀物などが育ち始めて、これが農耕文化の始まりとなり、少女は農耕の神となる。

 

 これはハイヌウェレ型神話と言われるもので、日本神話のオオゲツヒメ然りで、何故か全く関係のない民族の世界中の神話の中で類型の話がよく見られるのだ。

 

 以前ナイアスが読んだ何かの本によると、とある心理学者はそれをこう考えたらしい。人はまず意識があり、そして意識が捉えらない無意識領域がある。意識が行っているつもりの認識や認知、判断は実はこの無意識の影響が大きい。

 

 その無意識の更に深い所には、個人個人の無意識を超えた普遍的無意識というものが存在する。これは全人類が文字通り普遍的に共有している無意識である。

 

 つまり、個人は個人でありながら、全世界、全人類と底の底で繋がっているのである。

 

 その一つの根拠として神話がある。全く関係も関連もない地方、人種、あるいは年代にも関わらず、人間は共有したモチーフ、元型を持ち合わせていて、それが民族としての神話。あるいは神託、霊夢などに現れてくる。

 

 なんだか、素敵な考えだと思った。そしてナイアスはその考え方が腑に落ちた。

 

 「私達は同じ何処かから来て、同じ所へ去って行く」

 

 そういう、確信があった。

 

 暫く歩いて、ナイアスは村から少し離れた所。湖の(ほとり)まで来た。辺りには一面に蒼い可憐な矢車菊が咲き誇り青色の花畑になっている。(かたわら)には新緑の葉をつけた一本の木が立って、初夏の爽やかな風が矢車菊と木の葉を揺らした。

 

 ナイアスは空を見上げる。蒼穹の下に広がったうろこ雲。木の梢に止まった鳥達が鳴いていた。

 

 ナイアスは木陰に入って跪き、湖面に向かって両の手を合わせ瞠目し、泉に御座(おわ)す神への感謝。そして鎮魂を祈った。

 

 ふっ、と目を開けて己の姿を鑑みてふと思う。考えてみるとこれも奇妙なものだ、どんな人間でも自分を超えたモノに祈る姿は一緒だ、合掌する。

 

 ナイアスは改めて格好を崩して木に寄りかかって座り、本を開いた。少し色ずんだページの上に木漏れ日が落ちる。

 

 優しい風を感じながら、ページに紡がれた物語に没頭していく。人々が求めた原風景、神々の物語。

 

 物語を追いながら、やがて本を膝の上に開いたままナイアスは目を閉じる。

 

 とぷん、と水面を潜ると水色の水面下、そこから潜っていくと、水色から青色へと周囲が深化していく。潜っていく自分と行き違いにこぽりこぽりと泡が水面の方へと登っていった。

 

 更に青から藍色に、そして暗い、暗い、暗く、なっていく、沈むにつれてもう陽光が届かない漆黒へと、ここまで潜ると一体どっちが下で上か、左か右かも分からない。

 

 分からないのに更に潜る、その深き水の中に人々が共有する何かが蠢いている。

 

 「ナイアス」

 

 それに手を伸ばそうとした時に、彼女を呼ぶ声がして、ナイアスは目を開いた。

 

 「もう、なんでこんな所で寝てるのよ?」

 

 少女が、木陰で座るナイアスを覗き込むように立っていた。

 

 「……セクアナ」

 

 昔住んでいた隣近所の夫婦の娘、セクアナ。ナイアスより一つ年上の為に昔は彼女より背が高かったが、今となっては平均的な体格でナイアスの方が背が高くなっていた。

 

 濡れた様な艶のある黒髪はセミショートの長さで整えられている。くりっとした紫の虹彩をした大きな瞳が印象的な、素朴だが器量の良い顔立ちで肌の色も血色が良く、四肢も適度に肉付いていた。

 

 肩や胸元の出たやや大胆で活発そうでありながら、少女的な可愛らしさのある服装。その姿は何処か儚く、妖精のような美しさを感じさせるナイアスに比べ、現実的で健康的な可愛らしさを(かも)していた。

 

 「ありゃ、起きてたの?」

 

 そう問いかけるセクアナに、ナイアスは穏やかに微笑して眩しそうに目を細めた。

 

 村が飢饉に襲われてナイアスの両親の死から五年、村は平穏を取り戻していた——

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