血まみれ病院に捕まった千舞は、シズカという眼帯をつけた少女と出会った。
彼女達は、院長が人間を手術で化け物に変えるという恐ろしい病院に閉じ込められていた。
千舞は友達を助けるために手術室に行く決意をし、シズカは彼女を助けるために協力する。
一方、カズハはシズカと一緒に行き、
千舞の大切な魂絡繰、リリー人形を取り戻す任務を引き受ける。
そして、彼女達は倉庫から飛び出し、それぞれの任務に向かうのだった。
目が覚めると、キクノは手術室にいた。
不気味な赤い照明が、天井からぼんやりと部屋を照らしている。
息をするたびに、消毒液のにおいがツーンとキクノの鼻を突いた。
診察室で「手術が必要だ」と言われて、キクノは泣き叫んだ。
無理矢理ここに連れてこられて、あまりの恐怖で、気を失ったのだ。
しかし、目が覚めた今も、キクノはまだ頭を花に変えられていない。
あれからどれくらい時間が経ったのかは分からない。
キクノは手術台にベルトで固定されていて、首しか動かす事ができない。
しかし、たとえ固定されていなかったとしても、
キクノは怖くて身じろぎすらできなかっただろう。
何故なら、何かが手術室の中を動き回っているからだ。
天井だけを見つめているキクノの視界の端で、
黒い影がゆらゆらと動いて、何かを探しているようだった。
カチ、カチ、カチ、カチと、その影が動くたびに、金属が床を叩くような音がする。
キクノは見るのが怖いが、見ないでいるのも耐えられず、そっと首を回した。
その、目の前に。
ギザギザの歯を剥き出しにした、目のない怪物の顔があって、
キクノは耐え切れずに悲鳴を上げた。
「きゃああああああぁ!」
「ギィイイイアッァアアァ!」
キクノが叫ぶと、怪物も手術室全体が震えるような叫び声を上げる。
大きく仰け反り、ひっくり返って、手術室中を暴れ回る様子は、
キクノの悲鳴に驚いて慌てているように見えた。
その怪物は、異様に長い手足で、体を吊り下げるようにして床を這い回っていた。
ユウレイグモというクモを、キクノは何となく思い出した。
体の何倍も長い手足で、小さな体をぶら下げるようにして、ユラユラ歩く小さなクモだ。
ただ、この化け物の手足はクモと違って二本ずつしかないし、
腕の先についている手は人間そっくりで、爪は全てメスのように鋭い。
その姿をはっきりと見た瞬間、キクノはもう、悲鳴を上げる事もできなくなってしまった。
怪物は爪の先端をカチカチ言わせながら、手術室を這い回っている。
少しでも動いてベルトの金具をカチャカチャ言わせたり、
手術台を軋ませたりしたら、気づかれるだろう。
そう思うと、キクノは息をするのも怖くなった。
キクノは浅く、小さく息をする。
それでも、怪物は少しずつキクノに近づいてきた。
怪物の顔が、キクノの顔にぐっと近づく。
彼女のすぐ耳元で、大きく、深く息を吸い込むのが分かった。
怪物の生温かい息が頬にかかって、キクノは涙が溢れていく。
お守りは、ジャージのズボンのポケットの中だ。
(わたしはここにいない、わたしはここにいない、わたしはここにいない)
キクノは必死に頭の中で、何度も何度もそう唱えたが……。
「ここにいる?」
囁き声が聞こえた。
男の人の声でもない、女の人の声でもない。
機械で作った、合成音声のような声だった。
しかし、まぎれもない人間の言葉だ。
「ここにいる……? ここに首……ある?」
怪物が、手術台をまたぐように、キクノに覆いかぶさってくる。
キクノが諦めかけた、その時だ。
―ガン、ガン、ガン!
手術室の外で、大きな音がした。
そのとたん、キクノに覆いかぶさっていた怪物が、
エサに寄っていく虫のように、手術室の外に飛び出していく。
「――キクノちゃん、キクノちゃん」
キクノが混乱していると、千舞の声が耳元で聞こえて、全身からどっと力が抜けた。
「しぃ! キクノちゃん、喋っちゃダメ」
そう言って、千舞はキクノに、手のひらにあるあのお守りを見せてくれた。
千舞の声は今、お守りの力で化け物には聞こえない。
キクノが頷くと、千舞は壁ぎわの薬品棚の上にある、壁にぽっかり開いた四角い穴を指差した。
ダクトだ。
空気を入れ替えたり、火事のときに煙を外に逃がしたりするための穴である。
「ベルトを外したら、あそこに走るよ。できる?」
キクノはまた頷く。
「このお守りが、どこまで音を隠せるか分からないの。
わたしの声や足音は大丈夫でも、ベルトを外す音はダメかもしれない。
だから、ゆっくり外すよ……できるだけ音を立てないように」
キクノが頷くと、千舞はキクノの右手のベルトに手をかけた。
音を立てないように、少しずつ、金具からベルトを引き抜いていく。
右手が自由になって、キクノはほっとした。
長い時間横になっていたせいで、体を動かすと少し痛いが、
キクノは我慢して体を捻って、左手のベルトをゆっくり外す。
その間に、千舞が腰のベルトを外してくれた。
あとは足のベルトだけだ。
その時だ。
「キクノちゃん、止まって!」
千舞の鋭い指示で、キクノはぴたりと動きを止めた。
そして、千舞が見つめているものを見る。
怪物が、じっと、千舞達の方を見ていた。
見ているというより、聞いている。
キクノが震えていると、千舞はそっと靴を脱いだ。
その靴を、部屋のすみに置いてある金属バケツに投げつける。
ガン! と大きな音がして、怪物はそれに飛びついた。
「今のうちに外して! 走るよキクノちゃん!」
キクノが左足のベルトを、千舞が右足のベルトを外して、キクノは手術台から転がり落ちた。
キクノは一気に棚をよじ登って、千舞に手を差しのべた。
椅子や、踏み台を用意している余裕はない。
「掴んで、引っ張り上げるから!」
「うん!」
キクノは千舞の手を掴むと、全力で棚の上に引っ張り上げた。
だが怪物が、キクノの声に反応して、彼女達に突っ込んでくる。
「――キクノちゃん! 見て、これ、倒せるかも!」
千舞達がよじ登った薬品棚は、壁に固定するための金具が錆びてゆるゆるになっている。
何度か力を込めて蹴ったら、簡単に倒れそうだった。
「わたしがやる! ちぃ、中に入ってて!」
「でも……!」
「わたしの方が、足は鍛えてるから!」
キクノは千舞をダクトの奥に押しやった。
ダクトの入り口に深くすわって、天井に手を突っ張って、
思い切り薬品棚を蹴り倒すと、鋭い音がして、壁に棚を固定していた金具が弾けとんだ。
勢いよく倒れた薬品棚は、今まさに千舞達を捕まえようとしていた怪物を押し潰して、
その動きを止めてくれる。
さらに薬品棚から落ちて割れた色々な薬品がかかって、
怪物は細い手足を滅茶苦茶に振り回して、じきに動かなくなった。
急に、辺りがしんと静かになる。
「……凄い、倒しちゃった」
背後で千舞がそう言った。
キクノは千舞に振り向いて、その体を思い切り抱きしめる。
「ありがとう……来てくれてありがとう……」
「うん。遅くなってごめんね。一人で怖かったよね」
千舞の優しい声を聞くと、急に全身が震えてきて、
キクノはしばらく、千舞と抱き合って、ダクトの中でわんわんと泣き続けた。