翌朝、二人は変わらず行動を共にする。されど会話が減っていた。いや正確には明から話しかけることがあっても直から声をかけることはない。
確実に昨日の一件が影響しており、彼女の顔は常に俯き加減。話せば話すほど、自分が選んだ道は間違っているのと同時に、まだ引き返せてしまう状況であることを認識してしまい、昨夜指摘された通りに迷っている。しかし自分が御刀を握る理由は他でもなく復讐――むしろ他の事由では握る力すら湧かないのだ。
逡巡を繰り返す後輩の心情を知ってか知らずか、明は呑気に話しかけ続ける。もうすぐ町の祭りがあるだとか、明日は子どもらと夜中山に登って流れ星を見に行くだとか、希望溢れる予定を口にするがどれも反応しない。未だに自問自答を繰り返して現実に戻ってこれない直の様子に、先輩は巡回のルートを変更していく――目指すは町全体を眺望できる見晴らしのいい丘。
ここ数日間で通った道とは違う方向へ向かい出したことにより、直は現実に戻る。けれど進路を変えたことによる疑問や反論は口にしない。普遍的な質問を浮かべたところで、理解に及ぶことはできないと諦観しているからだ。
何せ彼女にはいくつものの顔がある。子どもらと遊ぶ無邪気な顔、真剣に荒魂と対峙する相好、穏やかにこちらを見つめる面持ち。どれが元来の彼女だと呼べるのかと探る方が馬鹿馬鹿しくなるぐらい、非常に多彩な表情を持ち合わせており、依然として思考の一片すら読み取れたことはない。
雑談が生まれないまま歩き続けてしばらく、二人は見晴らしのいい丘に辿り着く。どこまでも青い天に、人の営みがあることを証明するような豊かな土地が調和して、見事に田舎町の平和な風景を生み出している。
丘から眺める壮大な景色に感嘆の声をあげる明。彼女の隣でやや暗い顔で場景を見つめる直。それぞれが見えている色は少し違う。
気の迷いや悩みごとのない明は夏の日中を目にしているのだが、まだ答えを見つけられない直にはどこか重たい影が差し込んでいるように見えた。つと空を見上げれば、遠くでもどっしりと立ちそびえる入道雲がゆっくりと流れていく。雨が降る気配はない。
つと黒瞳が先輩の横顔を映す。当然、一番惹かれるのは左頬に走る横一文字の傷。「あの……気になっていたのですが」好奇心に負けて、ようやく彼女が口を開く。「その頬の傷って、御刀で傷つけられてたものですよね?」あまりにも唐突な問いに、明は驚きつつ質問者と顔を合わせる――仏頂面ではあるものの少しだけ興味深げな眼差しを向けていた。
彼女の問いに首肯してから話し始める。「ちょっと前に反折神家の刀使さんと戦うことなってね」死闘の記憶を思い返し、左手で頬を軽くかきながら苦笑い。「清国を弾き飛ばされたときに突きを入れられて」折神家に乗り込んできた舞草の刀使――衛藤可奈美、十条姫和、柳瀬舞衣、糸見沙耶香、古波蔵エレン、益子薫の六傑を折神紫の下へ辿り着かせるための攪乱部隊の一員――と対峙し、折神紫に対して浅からぬ因縁を持っていた彼女の猛攻に文字通り手も足も出なかった。
「避けた際についたものですか……」後輩の推察に、もう一度明は頷く。最終的には仲間の手助けもあり、清国を再度握り直して無理矢理相討ちにすることで止めることができた。しかし自分が弱いことを今一度強く認識する苦い記憶の一つになる。
ただ本音は違う。「切磋琢磨するためじゃなくて、命のやりとりで立ち合うのはもう嫌だなー」後頭部に手を組んで青空を見上げながら吐露。聞き慣れない苦々しい口調に直は目を見開く。
だが同時に直は安心もしていた。正義感こそ強いが、だからといって争いが好きではないことを。「……でも、どうしてあなたは立ち向かうのですか?」愚問だと知りながらも、あえて彼女は言問う。
「誰かが間違った道に行っちゃったとき、止めなくちゃいけないからだよ」
真っ直ぐに町を見据えて、明は答える。「友達だったらさ、余計に」むしろ友達だからこそ止めなければならないと責任感さえ感じていた。「って言っても、私が言えたことじゃないんだけどね」最後は直の方に顔を向けて、自嘲混じりの苦笑を零す。
冷静に後輩が続きを促すと、彼女は事の経緯を説明する。
実は折神紫はタギツヒメと呼ばれる大荒魂に取り憑かれていたため、彼女の救出及びタギツヒメの討伐を目的とした舞草の部隊が本拠地に乗り込んだのだ。結果的にタギツヒメは討伐された――けれど、六傑が祓うまでの間に明は赤羽刀の調査を目的としていたはずの部隊と交戦し、その中で親友と望まぬ形で再会する。彼女から真実を知らされるも、あえて折神家側につくことを選んだ。
真っ直ぐな親友が嘘をつくはずがない、されど伝聞が間違っている可能性だってある。自問自答を繰り返し、友と刃を交えることを決意。本当に間違いだった場合、止める人間がいなければ取り返しがつかないことになる――最も恐れる事態を想定してのことだった。
「あ、この話は内緒にしてね」話を終えると、明は苦笑しながら頼む。「そこそこ出回っていると思うけど、まだ知らない子もいるからさ」
「内密にするのはいいのですが……」直は躊躇いがちに言う。「加守さんは後悔していないのですか?」
「後悔はしていないよ」
今までの中で一番力強く告げる。「そりゃ自分がやってきたことが間違いだったのはショックだったけど……」眉尻は下がるが、かといって悲観的にはならない。「友達が間違った道に進んでなくて良かったって方が大きいかな」夏の清々しい青空に負けない笑顔を浮かべて言い切った。
「友達が間違っていない方に……」あまりにも真率な言葉に、直はもう一度瞼を持ち上げていく。どこまでも他人を強く想える情の深さに衝撃を受けるとともに、少しだけ暗澹とした心に光が差し込む。
大倶利迦羅の前の持ち主が間違っていないことを――いや、彼女が懸命に刀使の使命に全うしようとしたことを否定してはいけない。裡からはっきりと聞こえた声に、直は拒絶できなかった。きっと大倶利迦羅が自分を選んだ理由は親友の遺志を継げる人物だと感じ、自分が御刀を握る理由は彼女の生き方を否定しないためなのかもしれないとわずかに思い始める。
だが、直情を復讐の二文字で抑え込む。否、あくまで親友を殺したあれを殺すのが自身にとっての使命、それ以外に何もないだろうと強く理性的にあろうとした。
丘から降りて、元の巡回コースへと戻る二人。先程と比べて会話は生まれた。きっかけは清国の鞘についているお守り――何気なく揺れている年季の入ったお守りを目にし、直がすぐに興味を持って訊ねる。「鞘についているお守りも伯母さんのものですか?」
「あーうん、ちょっと違うかな」
緩く否定して、明は言葉を継ぐ。「元々お姉さんのものだったけど、ご利益がありそうだからってお母さんにあげたらしいんだ」
「素敵な方ですね」ふと自身の姉を思い出して、彼女にもお世話になりっぱなしだったなと省みながら簡潔な所感を漏らす。
「でもちょっと訳があるっぽいんだよね」
少しばかり明が悩ましそうに眉根を寄せていく。「元々お姉さんが友達からもらったものらしくて……」聞いた話から見知らぬ身内の豪放さに当惑しながら続ける。「いらないからってお母さんにあげたみたい」何度考えても“素敵”とは程遠いものぐさな理由には、苦笑いで誤魔化すしかなかった。
直も前言撤回というほどではないが、流石に困惑する。目の前にいる自由奔放な先輩よりも放胆な言動を聞いて、妹想いの良き姉という第一印象を打ち消してしまう。自分の姉とは大違いだ――つと思い返して呟く。「姉さん、か……」
「あれスグちゃん、お姉さんいたの?」興味深げに明は訊ねる。
こくりと首肯してから直は答えた。「年はかなり離れた姉がいます」明が見た中で最も年相応な笑顔を湛えながら彼女は続けていく。「今、刀剣類管理局で仕事をしています」
「へー」素直に感嘆を漏らす明。「すごいね、スグちゃんのお姉さん」
「はい、自慢の姉です」
誇らしげに直は言葉を継ぐ。「荒魂と戦うのは刀使だけじゃないと、姉を見ていつも身が引き締まる思いをします」すぐさま生真面目な相好になるも、灰色がかった黒瞳は微かに揺れる。真っ当に使命を果たそうとしている彼女に対して、自分は自身の役割を全うしようとしない――顔向けはできないということを、口にして改めて実感した。
「お姉さんって、機動隊?」悩める後輩の心情を知ってか知らずか、明はさらに質問を投げかける。
「いえ、参謀部所属です」悟られぬように直は今まで通りの沈着な口調で返答。「情報分析官として、様々な情報を精査し色んな方々の手助けをしています」相手は相変わらず感心した様子だった。
質問されてばかりだった反動――というわけではないが直もつい興味が湧いて問い返す。「加守さんは、ご兄弟やご姉妹はいらっしゃるのですか?」
「うん、いるよ」笑いながら先輩は答える。「一個下の妹がね」現在離ればなれになってしまった彼女の顔を浮かべ、「妹も刀使やってるんだー」厳しい現場に回されても実力的には大丈夫だろうと楽観しながら続けた。うん、実力は問題ない、実生活の方は……。
「やっぱり姉妹揃って同じ道を歩むんですね」話を聞いて、感慨深げに直が呟く。
「あーそういえばそうかも」明は自分らや母親たちのことを振り返って納得する。ふと妹が何故刀使になることを選んだ理由――もちろん御刀に選ばれたのはあるのだろうが――を知らないなと思い返しつつ。
「……姉の背中を追って、人の役に立ちたかったのですが……」我が身の振り方を省みて、俯き加減で直がぽつりと呟く。生真面目な性格だからこその無念さと苦悩が込められていた。
「今からでも大丈夫だよ」
実に能天気なことを明は言い放つ。「スグちゃんの御刀は、きっとスグちゃんのやりたいことを分かってるはずだから」彼女の方に顔を向けて、屈託のない笑みを浮かべる。
己のやりたいこと――復讐の二文字を前にしてずっと揺らぎ続ける灰色かがった黒の双眸。ずっと溢れ出しそうな想いを堪えて横一文字に閉じられた口。直の本心は理性の閂を今度こそ破壊しようとしていた――目の前の明るさに後ろめたさを感じたくないからか。
日も傾き始め、空にオレンジ色が滲み出した頃――二人は神社に訪れる。しかし神を祀っている場所としてはあまりにも寂れ、朽ちていた。苔や雑草は際限なく生え、石階段や石畳の道は傷んでボロボロになり、社は柱が腐っては一部が崩壊しているという有様。
「ここは一体……?」凄惨たる光景を目の当たりにして、直は動揺を呟く。
「神社だよ」対して明は全く無感動な口調で返答。「正確には神社だった場所かな」しかし眼差しはもの悲しげ。「おじさんたちが言うには、昔ノロを祀っていたみたいなんだけど」一呼吸置いたあと、彼女は語り始めた。
かつてノロを祀っていた唯一の神社は、神主が流行り病で早世してしまい、彼の妻も身体が弱くお務めができる状態ではない。元気な一人娘に至ってはまだ幼く、後を継ぐまでは時間がかかりすぎる。町で話し合った結果、ノロを折神家に奉納することにし、神社を廃することになり今日に至る。
経緯を知って、直は納得した。ノロという危険物を扱っている以上は、神職に就いている者が管理した方がいい。町の人もノロがどういったものか知っているとは思うが、詳しい知識はないが故の過ちを起こす可能性は捨てきれないのは確か。
だから、折神家に奉納するのが最善だった――もっとも今度は折神家にノロが集まりすぎて、漏出問題が起きたわけだが――と言えるだろう。己の結論を出してからもう一度境内を見渡すと、やはり神がいないのが理解できるほど廃れている。もう町からは全く関心のない廃屋と化していたというのが読み取れた。
役目を無くした社に対し感傷に浸っていると、ふと奥の方で人影が見えた。子どもたちが遊んでいる姿が見える。注視すれば、普段明と遊んでいる活発な少年少女たちがかくれんぼなのか、鬼ごっこなのか見分けがつかない遊びをして楽しんでいる様子。
つと隣を見やると、いつの間にか明の姿がなくなっていた。もう一度子どもたちの方へ目を向けると既に交えて遊んでいる――先程の真面目な話はどこへ消えたのやら、呆れて力が抜けていく。
彼女と子どもらが遊んでいる姿を眺めること、しばらくして――不意に明の足が止まる。聞き慣れた電子音が彼女の制服から鳴り、持ち主はポケットにしまっていたスマートフォンを取り出す。画面を見た直後「あ、ごめん、スグちゃん出といて」直に放り投げては子どもたちのところへ戻っていく。
無造作に宙へ放られたスマートフォンを落とさぬよう、直は慌ててキャッチ。素早く画面を操作し、相手が誰なのかも確認しないまま自身の名を名乗る。
『何で加守の携帯から支倉の声が聞こえるんだ?』当然、相手は困惑していた。
「えーっと、加守さんは今お取り込み中のようでして……」声の主が本部長であることだとすぐに察しながら、直は持ち主の現状を一瞥して答える。子どもたちとの遊びに夢中になっているとは言えない。
かけた先がどんな人物か把握しているためか、スピーカーから盛大な呆れのため息が聞こえてくる。自由奔放にもほどがあるのは同感と直も内心首肯していた。
まあいい、お前ならと話が切り換わり、本部長が本題を切り出す。『昨日の晩に襲ってきた奴の調査が終わった』直後、全身に緊張が走る。『詳細はお前の姉から話す』次にやってきたのは驚愕だった。
何故姉が? 普段なら過去の事件を追っている暇なんてないのに。疑問が尽きることないまま、違う人物の声が耳に届く――直?
とても聞き慣れた穏やかな声音、少しだけ感涙してしまいそうになるが気を持ち直して呼びかけに応じる。はい、私です。どうして姉さんが? 続けて言問う。
丁度手が空いたタイミングで本部長に頼まれたの。直の姉――
『結論から言うと、あなたたちに襲ってきた者は荒魂よ』
予想はしていた答え。驚きはしないが、自然と拳を握ってしまう。『ただその正体が……』姉は躊躇うも、すぐに言葉を継ぐ。『元は長船女学園の生徒さんだったの』今度は流石に驚嘆を声に出してしまった。
死物にノロが取り憑いて荒魂と化すことはあると、直も知っている。だがまさか本当に元は人間だったものだとは思わなかった。ある意味、明の見当は当たりだったとも言えよう。
だからと言って、今さら温情が芽生えるわけではない。正体がどうであれ、親友の命を奪ったことには変わりないのだから情けは無用だ。
即座に冷静さを取り戻して、姉から経歴を聞く。曰く、元は今直らがいる神社の跡取り娘だった――かつての神が住まう社を甦らせるべく長船女学園の神職科に入学して勉学に励んでいたとのこと。もちろん本部長であり当校の学長である真庭紗南も彼女のことは知っていた。
半年前、研修という名目で鎌府女学院の研究施設に足を運ぶ――神職課程の彼女が基本的に赴くことのない場所だが、ノロを祀る上で性質をより深く理解する必要があるために訪れることに。だが運悪いことにその日に悲劇が起きた。
研究施設内の爆発事故によりノロが大量漏洩漏出してしまい荒魂が多量に発生する二次災害まで起き、避難することもできずに彼女は荒魂に殺されたと多数の報告が挙がっている。つまりは死物と化したものを取り込んで、人の身体を借りた荒ぶる魂の化身となったのだということ。
しかし何故彼女が死んだと確認が取れたのか――監視カメラが捉えていたらしく、映像データも残っていた。凄惨という言葉だけでは足りないほどの生々しく、恐怖に満ち足りた数分間が彼女の存在証明となっている。
直は思い返す。半年前といえば、丁度友人が目の前で斬り殺されたときと同じ時期――いや確か、自分たちが出動していた事件と起きたのと同一だった気がする。鎌府女学院が管理している研究施設で原因不明の爆発事故が発生したことから、刀使である彼女や警邏科の自分が周辺地域に住む一般人を避難させるために出動していた。
彼女の中で分かれていた線が一つにまとまる。親友を斬り殺したのは、荒魂に殺されて取り込まれて荒人神になってしまった長船の生徒だったのではないか、と。
今まで揺れ続けていた復讐心の揺れ幅が大きくなる。人であった、彼女までをも恨むのか。違う、かけがえのない友を殺したのは、荒魂だ――本当に鎮めることができるのか、己の心さえも。
『あのね、直』
話を聞いてからずっと無言の妹へ姉は落ち着いた声音で呼びかける。『私、あなたの身に起きたこと、本部長に聞くまで知らなかったの』地面を見つめる灰色がかった瞳は今まで以上に暗い。『だからあなたがどういう気持ちなのかは、きちんと理解はできていない』同情しない姉の正直さに、少しだけ心が軽くなった。
でもね、と彼女の話は続く。『もう一度だけ考えてみて欲しい』相変わらず姉の声は冷静であり、感情の揺れ動きは感じない。『相手のことも自分自身のことも』今見えてしまった問題を改めて突きつけられ、つい「分かっていますよ」と直は声を荒げてしまう。
『……そうね、あなたなら分かっているわよね』スピーカーの向こうは申し訳なさそうな口調で返す。『ごめんなさい、余計なお世話だったわ』謝罪を聞いて、妹は自身の未熟さに自己嫌悪する――八つ当たりして姉を困らせている、ということが理解できてしまうほど彼女は聡明だった。
『最後にこれだけは伝えておくわね』一拍置いたあと、
『お前には難しいことかもしれないが、私から一つ頼みたいことがある』
真摯な口調が耳に届く。『彼女を救って欲しい』学長らしい願いを、直は拒まない。『加守にも、そう伝えてくれ』一切話を聞いていない人物にも言及し、電話は切れた。
全て、ということではないが事のあらましは理解できた――できればもう少し愚直でありたかった、後悔できるほどに。何せ、志があった少女で今現在いる神社の跡取り娘だった者が、荒魂と化して村に戻ってきている。だからといって、親友を殺した相手には変わりなく復讐は果たせねばならない。
今まで以上に彼女は揺れ動いていた。情が実に邪魔をしている、同情する必要なんてあるわけがないと繰り返し思考しても確実に憐れみを感じている。
ではどうすれば、いいのだろうか? 分からない、暗中を手探っている感覚で答えなぞ到底見つかりそうもない。復讐したい、けど助けたい――相反する気持ちが存在していることが方針を狂わせていた。
逡巡を繰り返しながら迷える自分の姿を映したスマートフォンの画面を眺め続けていると、ようやく持ち主が戻ってくる。「何だったの?」聞く予定だった話を当人が聞いていない、冷静に状況を考えれば呆れの嘆息が零れているだろうが、今の直には余裕がなかった。「あとでお話しします」まだ近くで遊んでいる子どもらを一瞥して、彼女は強張った笑みを微かに浮かべて返す。
後輩の様子を見て、明は神妙な表情で首肯する。それ以上は特に何も言わず、踵を返して少年少女たちのもとへ戻っていく。直は未だに一歩も踏み出せないまま、遊びに夢中な彼女たちを見つめていた――間もなく聞き慣れた夕刻を知らせるメロディーが流れた。
同時刻――人ならざる人影は町全体を眺望できる見晴らしの良い丘に佇む。既に荒ぶる魂を宿した黄色の瞳は、どこか悲しげに揺らめく。見つめているのは、かつて己が復興しようと意気込んでいた神の社だ。
人の身体を保った異形は微かに残る元となった人間の記憶を巡る。地域の人たちと一緒に神社で年明けを祝ったこと、父親とともに境内の掃除やお参りにやって来る人たちへの案内をしたこと、父亡きあとに後継者がいなくなって祀っていたノロを折神家に回収されたこと。
神社は彼女にとってなくてはならない縁結びの場所だった。けれど、今は誰も残らない朽ち果てるだけの廃屋。帰る場所はもうなくなったのと同然である。
異形はそれでも神社を注視していた――何も目的を持たない中での唯一の指標だから。やがて日が山の裏に隠れると、怪異は宵の中に消えていく。荒々しい眼光を放つ双眸はもう何の感情も込められていなかった。
場所を変えて、刀剣類管理局――本部長が険しい表情を作ってディスプレイを眺める。というのも、明たちを襲った怪異はスペクトラムファインダーに反応していなかったのだ。原因を究明するため、過去のデータを手の空いているオペレーターたちに洗い出してもらい、事故直後からの記録を遡ることに。
事故直後は大小様々な荒魂が跋扈していたが故に混乱を極めており、誤認識も多い。当時のパッケージの許容範囲を超していたという点から、精密なデータは読み取ることはできないだろう。ならばそれ以降で明の目の前に現れるまでの間を調べるのみ。
しかし、それに関する観測記録は一切出てこない。と、なれば考えられる可能性は一つ――隠世に身を潜めていたか。人を取り込み、それなりの知性を獲得していれば可能な選択肢、今まで出現していなかったことに説明がつく。
では何故、今頃姿を現したのだろうか。「恐らく鎌倉特別危険廃棄物漏出問題の影響からだと思われます」彼女の疑問を察したかのように、答えが聞こえた。声がした方に顔を向ければ、先程まで助力してくれた支倉
「私も気になって、色々と調べてみました」分析官は手元のタブレットを操作して、本部長が見つめていたディスプレイにデータを表示させながら言葉を続けていく。「関東一円に降り注いだノロを求めて、今まで出現していなかった個体まで観測されているという情報があるということから――」
「そいつも、ノロを求めて姿を現したということか」納得したように本部長が継いだ。「姿を消した理由の方は……」
「憶測……いや希望なのですが」
「……そうだな」やや間を空けて、長船女学院の学長は首肯する。かつての生徒が荒魂に呑まれた――悲嘆はできないが、閉口する時間を要するぐらいの影は落ちていた。彼女も願わずにはいられないのだ、まだ人であったことを。
「あの……一つだけよろしいでしょうか」
感傷に浸る学長を気遣うように、恐る恐る実は口を開く。現実に戻った本部長が促すと、彼女は続けた。「どうして、すぐにスペクトラムファインダーの修正パッチを作成しなかったのでしょう?」ディスプレイを見やれば、確かに最新のバージョンにアップデートするまで一年以上の期間が空いてしまっている。「当時のプログラムでは対応できなかったのが判明しているのにも関わらず」応急的な処置を行うことさえしていなかったのは、怠慢なのかそれとも――
「隠蔽工作、か」辟易した表情で本部長が告げる。しかし、分析官は首を横に振った。
「事故のことを隠したかったにしては、証拠隠滅の方法が雑すぎます」
もし仮に当事者である鎌府の研究員が隠すなら、そもそも事故のそのものを闇に葬ろうとするはず。彼女は気づく。「いえ、もしかしたら――」
「穢れがない個体になったってことか」
続きを察した本部長が再び後の言葉を口にする。「確かに元は人を襲う荒魂だったものが守護獣になるケースはある」自身の生徒を一人思い浮かべてみるが「だとしても、時間が短すぎる」現在に至る年月を考慮すればするほど首肯できない。
「……あまりにも突飛な発想でありますが」眉間に気難しい皺を生み出しながら分析官は実に不信的な口調で推測を述べる。「穢れを隠すことができる個体なのかもしれません」
「あり得るかもしれないな」確証はなくても可能性を信じて、本部長は頷く。「多少の知性と依り代があれば――」途中まで口にして、目の前の女性と目を合わせた。「今すぐすな――こほん、支倉隊員や加守隊員に連絡をします!」気づきを得た彼女はすぐさま手持ちの端末を操作していく。
「ああ、頼む!」通信を任せた本部長は呟く。「……こいつは厄介な一山になりそうだ……!」憎らしげに呻き、歯噛みした。