日が暮れた田舎町、子どもたちは帰宅していく。彼彼女らを家路まで送り届けた二人は、来た道を引き返して巡回に戻っていた。
「――と、本部から連絡がありました」
道すがら直は簡潔に先程の通話内容を伝える。神妙な面持ちで明は前を見ていた――やがてゆっくりと口を開く。「本当に荒魂、でいいのかな?」おもむろに零した言葉は思いもよらぬ驚嘆を生む。
予想していなかったのか、直は弾けたように彼女の横顔を見た。「だって、スペクトラムファインダーには反応がなかったんだよ?」驚愕の視線を向けられても明は気にせず疑問を吐き続けていく。「それっておかしくない?」思い返して、アラートを耳にしていなかったことに気づくと、直は顔を強張らせた。
まだ人間の可能性が残されているということだろう。スペクトラムファインダーが反応しなかったということは、荒魂ということではない証明になるのだから。しかし誰がどう見ても荒魂と見間違うはずもないし、報告書でも荒魂化していると記載があると聞いている――ましてや実直な姉が嘘をつくはずがない。
「加守さんは、これからどうするのですか?」刀使の力による人殺しは最も彼女が避けたいもの、反射的に訊ねる。
「止めるよ」あっさりと返答するが、明は珍しく渋面を作って俯く。「あとは、それから考える」焦げ茶の瞳は全く意志が固まっておらず、迷い続けていた。
直もそれ以上は言及することなく口を閉ざす。しかし彼女たちに黙考を続ける間を与えぬかのように、直の方のスマートフォンから着信音が鳴る。持ち主は手早く取り出し、明にも聞こえるようにスピーカーのボタンをタップした。
『支倉、加守、聞こえてるか』
電話の主は、本部長――それぞれが返事をしたあと、『件の奴について伝えたいことがある』緊迫した口調で彼女は続ける。『奴はもしかしたら穢れを隠せる個体なのかもしれない』
数秒、二人は驚嘆に呑まれて言葉を出せなかった。自分たちの常識、知識の範疇から外れた答えにまだ適応できるほどの経験はないからだ。
「……穢れを隠せる個体……それは実際に可能なのでしょうか?」何とか平静を取り戻した直が、未だに信じられないといった口ぶりで訊ねる。本部長からは然るべき人間が返答すると告げられ、解説役の女性が話し始めていく。
『隠世を利用している場合があるとすれば、可能性は十分にあるわ』
分析官の実は極めて落ち着いた口調で続けた。『もちろん、私たちが考えられる理屈や理論が通らない何かというのもあり得るけど……』最後の方はあまり確信めいた語気にならなかったのは、やはり荒魂という存在がまだ未知の生命体であることを示しているからだろう。
「どちらにせよ、斬り祓えばいいんですね?」話を静かに聞いていた明が固い声音で問いかける。
『……そうだな、加守』やや間を置いてから本部長は、重々しく肯定して言葉を継ぐ。『お前たちに酷なことを強いることになってしまったが……』
「気にしないでください」
既に目的が見えている直はきっぱりと言い切る。「私はあれを討つことができればいいですから」未だに迷いこそあるが、荒魂だと分かれば――いやではなくても親友を斬った仇であれば斬らない道理はない。
直の事情を理解している本部長は彼女の返事に納得し、『加守、お前は……』と言問う。しかし明はすぐに答えることができない。誰よりも刀使という力の使い道を知る少女だからこそ、本部長は長船女学園の学長として口を開く。
『本当なら私が自分の手で責任を取らなければならないんだがな』スピーカー越しに伝わる声は悔恨や自責の念が多分に含まれて重い。『彼女を――私の生徒を鎮めてくれないか?』愛する生徒が異形の身と化した今、鎮められるのは彼女たちしかいないと頭を下げた。
「……分かりました」当然、明は断らない。人間を斬ることは忌避しても、亡くなった彼女の魂が荒ぶるのであれば刀使として真っ当に鎮めなければならないのだから。
『すまない、二人ともありがとう』
若き刀使たちに対して礼を言ったあと、本部長は通話を切った。また自然豊かな音だけが流れる。
けれど湿り気のある静寂はすぐに破られた。「加守さん、いいのですか?」灰色がかった黒瞳が心配そうに暗い横顔を映す。今度は返事がない――己が引き受けた以上はやり遂げなければならない責任感とまだ人間である可能性も捨てきれない逡巡が、普段の明るさを潜めてさせている。
答えを待つ直は真っ直ぐに見つめ続けるだけ。実にどこまでも真っ当な刀使である加守明が人斬りなぞするはずもない。きっと異形の身も人間だと認めれば、助けに行くことになるのだろうと確信していた。
いつまでも続くかのような無言の間は、一通の電話で終わりを告げる。今度は明のスマートフォンから鳴り響き、彼女が取り出して操作。「おばあちゃん、どうしたの?」先程の険しい表情はどこへやら、いつもの明るい調子で話しかけていた。
だが次第に再び眉根が寄っていく。「分かった、探してくるよ」電話の相手を安心させるような言葉をさらに重ねてから電話を終える。間髪入れずに直が「どなたからの電話でした?」と訊ねた。
「駄菓子屋のおばあちゃんだよ」普段とは変わらない穏和な調子だが、相好は固い。「今、おばあちゃんとこの子が帰ってきてないって」えっと驚嘆する直をよそに、探しに行くと明は走り出す。彼女に置いていかれまいと後輩も後を追う。
夜が深くなっていく田舎町を刀使たちは駆け回る。だが子どもたちの遊び場、隠れられそう場所をしらみ潰しに探してみても見当たらない。「見つかりませんね」あとから追っている直が息を切らしながら呟く。
背後からの言葉を耳にしながら明は自身の足で得た情報を整理し直して推測する。町中ではないとすれば――「丘の方かな……」雄大な自然が映える方角を見据え、相方に息を整えさせる間もなく彼女はまた走り出す。先輩の常人離れしている体力に直は無言でついていくしかなかった。
山の麓に差しかかる頃、意中の人物は見つかった。安堵の嘆息を吐き、明は今までどこ行っていたのかと訊ねる。後ろからは肩で息をしている直が汗を拭いながら歩み寄っていく。
問われた子どもは来た道を振り返っては指さす。「今日の夜に虫を取りにいくから罠を作ってた」
「おばあちゃんとかお母さんはそのこと言った?」指し示した先へ一瞥し、明は優しく問う。
「ううん、言っていない」首を横に振って、少年は恐る恐る訊ねる。「もしかして怒ってる……?」
そりゃそうだよ、と小さな頭を軽く小突いてから告げていく。「ばあちゃん、中々帰ってこないって心配してたよ」電話越しに聞いた彼女の憂慮を思い出しつつ「さっ、今日は帰って――」促そうとした瞬間、スペクトラムファインダーが荒魂の出現を感知し、けたたましいアラートを響かせた。
画面を確認するよりも先に、明は目視で状況を確認する。山頂へ向かおうとする小道の先、赤く輝く不気味な何かを見つけ――彼を抱き寄せて横に飛んだ。直後、黒く巨大な物体が弾丸のように通り過ぎていく。
年数を重ねた巨木さえ揺れる強風、長年かけて作り上げた強靱な幹が折れ爆ぜた音、ぶつかれば木っ端微塵にされていただろうと思わせる衝撃。先日の黒影とは違う、尋常ならぬ怪異が現れたことを実感させる。
少年を庇いながら転がった明は、様々な痛みを堪えながら突進してきた物体の正体を焦げ茶の双眸に映す。黒く鋼のような毛並み――より正確なのは細かな尖岩が突き立っているというべきか――に加え、体中に走る溶岩のような禍々しい模様、イノシシと認識できそうな大きな牙と大型な体格を誇る四足動物――否、荒ぶる神の化身だ。
先に抜刀していた直が二人と怪物の間に割って入る。「時間は稼ぎます」正眼を構えて頤を引く彼女の双眸は冷静に相手を見定めていく。
「ごめん、ありがとう」急いで立ち上がった明は少年を抱えたまま町へ向かって走り出す。瞬間、鈍い音が背後から聞こえてきた。
振り返らずとも大倶利伽羅と荒魂が激突したのは分かる。しかし先程の一撃は並々ならぬもの、一刻も早く彼女の手助けもしなければならない。だから山を下る足は自由気ままに生えている根をものともせず加速していく。
引きつけ役を買って出た直は並外れた膂力を前に八幡力――筋力を強化する刀使特有の能力の一つ――を使用、歯がぎしぎしと軋むほど食いしばって腰を深く落とし踏ん張る。流すという選択肢は確実に明が少年を安全なところまで避難させてから。拮抗を可能な限りに保ち、機を窺う。
肩越しに一瞥している暇はないが、足音はもう聞こえない。彼女の身体能力なら時間はさほどかからないはず、信じて相手の動きを探り始める。まだものの怪は持ち前の力でゴリ押そうと圧をかけていた。
じりり、じりり。足が少しずつ動いていく。まだ、まだ引きつけよう。
じりじり、じりじり。動く幅が大きくなっていく。あともう一歩だけ。
じりっ! 大きく怪異が一歩を踏み出した瞬間、直は正対する力を逃がすように身体を捌く。急に均衡を解かれた力自慢は己の勢いを制御できず、体勢が崩れたまま突進する。
もう一度、巨木と衝突。今度もやはり揺れたが、万全の体勢ではなかったために木っ端微塵まで辿り着かなかった。されど気絶するほど軟でもない。
両者は向き合い、身体を撓ませながら腹を探り合う。いや思考を巡らせているのは直だけか――覿面する荒魂は自身のタイミングを計っているだけのように見える。一本槍というものは対策することが難しい、強力な突進は目に見えている問題だけに頭の痛い課題だ。
真正面で受け止めるのは消耗が激しいのは目に見えている、可能な限り最小限の動きで受け流すか躱すしかないのだろうか。いや自分から仕掛けて封じるという手もある。待て、焦るな、冷静に起りを見極めるのだ。
長く息を吐いて、直は双眸を少し細める。集中力を高め、些細な変化も見逃さぬように。失敗しても取り返せる、という余裕は現状ないのだから。
一瞬間だけ怪物に溜めが生まれた。すかさず直は地面を蹴り、迅移で間合いを踏破していく。大倶利伽羅広光の刀身が黒く硬い身に触れる。
刹那、憎悪の肉体はノロへと変貌。けれど踏み込みが甘く、完全に荒ぶる魂を断ち斬ることができなかった。中途半端な間合い、削がれた身体を気にせず荒魂が肉薄する。
華奢な身が受け止める直前、何とか迅移を用いて大きく横へ逃げた。勢いが十分ではないことが幸いしてか、怪異は直進して数メートルほどで止めて身を翻す。ぶるるっとエンジン音のような唸り声を立てて、無機質な瞳が刀使を見つめる――ただ純粋に標的を潰す、思考能力をあまり持たない動物らしい本能的な動作は一切の無駄がなく再び彼女へ突進していく。
顎を引いて待ち構える直、動きが単純なだけに糸口は見えやすい。だからこそ集中を切らさないように最大限に気を張って、機を窺う。しかし彼女にとっての僥倖が訪れる。
真っ直ぐに直へ向かっていた荒魂だが、突如として動きを止めた。否、もはやイノシシを模った魂が元あるべき姿に戻ったといった方が正しいか。上空から降り注いだ一筋の黒い影が鋼のような即身を見事に真っ二つにし、負の神性たる不純物へと還す。
突然の出来事に直は呆気にとられていたものの、すぐに平静さを取り戻して原因を注視する。頓着する気配のないボロボロのマントと右手から伸びている白刃――間違いなく、件の黒影と認めて睨む。討つならば今しかない、柄を握り直して一歩目を大きく踏み出した。
横手からの一閃を黒影は難なく躱して、距離を取る。続けて二撃目が迫っていく。悠々と飛び越えて回避し、黒影はノロの溜まり場に着地。
簡単にあしらわれている――自身の実力が足りないことを嫌でも実感し、直は親友の仇を取れないことに歯噛みしつつ振り返る。灰色がかった黒の双眸に映ったのは、片膝ついてノロを一滴も残さずに吸収する黒い影の姿。途端、穢れに反応したスペクトラムファインダーの警告音が鳴り響く。
今ようやく荒魂として認められた存在、もう迷うことはない。直は切っ先を宿敵に向けて睨めつける。今度こそは逃がさない、逃がすものか。
黒影は悠然と立ち上がり、構えた。両者の間に生まれる微かな木々の擦れる音さえ爆音に聞こえてしまうほどの静寂。どちらも機を窺う、熾烈な探り合いを繰り返し、互いに出した答えとは――。
一方、戦場を離脱していた明は少年を安全なところまで送り届けたあと、全力疾走で来た道を戻っていた。時間はさほどかかっていないとは思う、けれど一瞬が命取りになる戦いの最中、何が起きても不思議ではない。現にスペクトラムファインダーには新たな荒魂の出現を知らせていたのだから。
麓を下ったときよりも加速した足取りで山道を登る。ぶつかり合う鋼の甲高い音を頼りに、気ままな根っこたちを躱して向かう。辿り着いた先、こげ茶の双眸に映ったのは――何度も火花を散らす黒影と直の殺意溢れる輪舞だった。
しかし力量の差があり、直が次第に押し込まれ劣勢に。当然、見ているだけにいかないため、明も抜刀して怪異へ迫り立てる。
死角からの突進を察知した人ならざるものは互い違いに繰り出された一閃を軽々と躱し、彼女たちから大きく離れていく。遁走のためというよりも、彼女たちを誘導するかのような――もっと戦いやすい場所へ導きたいのだろう――距離の取り方。少女らは躊躇うことなくそれのあとを追った。
誘われるがままに二人が足を踏み入れたのは、夕方に訪れた神無き社の境内。廃屋を背に黒影が彼女たちを悠然と待ち構える。
灰色がかった黒瞳は覚悟を決めたように真っ直ぐそれを見つめ、こげ茶の双眼はやや迷いを残した揺らぎを見せていた。対して、黒影は無感情な眼差しを二人のことに向けるだけ。
三方の思惑がゆっくりと湿った空気に流れ込む。ゆったりとした風が緩やかに土埃を拾っていく。木枝が優しく揺れて、剣士たちを囃し立てる。
いつまでも続きそうな沈黙――最初に破ったのは、黒影。いざ尋常に勝負と言わんばかりに白刃を閃かせ、彼女達に迫った。
滞りなく決戦は始まる。怪異は真っ先に直を狙って肉薄する。対して、彼女は一度御刀を納刀して居合の構えのまま疾走していく。
正面を割ろうとする黒影の一閃を抜刀して受け流し、直は胴を裂こうと銀弧を薙ぐ。以前のような力みはなく、淡々と身を裂く一筋。当然、異形は得物を引き寄せて受け止める。
だがもう一人いたことを、それは忘却していた。明が間髪入れずに斬りかかっていく。彼女の気質か、それとも気の迷いか――さほど太刀筋に冴えはない。
人離れした身体能力を持つ怪異からすれば反応が遅れても問題はなく、身体を捌いて彼女たちの間合いからするりと抜け出す。二人の切っ先はピタリと遠のいた黒影に貼りつく。異形は明の方へ目を走らせ、正眼を構えた。
内心、明がまだ迷っているのだろうと直は察する。元から出だしで最高出力を出せないのはそれとなく承知していたが、それにしてもさっきの剣はいささか鈍すぎた。かと言って、自身も未だに己と決着がついたわけでもないが。
荒魂である、という事実は認めるべきであるし、斬ってもよいという許しを得たようなものだ。しかし身の上を多少なりとも知ってしまった以上は、妙に感情がしがらむ。同情をするほどの感受性はあるらしい、けれど今という復讐を果たせる絶好の機会においては邪魔でしかない。
さて、どう渦巻く激情を鎮めよう――彼女は気づく、切っ先に込める意味を。己の難解複雑な逡巡も、相手の荒ぶる魂も共に斬り祓い鎮めてしまおう、と。倶利伽羅という剣は、人の業、煩悩を斬り断つための力を有しているのだから。
己が斬るべきものを定めた彼女は、一寸の迷いもなく鋭い眼光を黒影へ向ける。相手が動きの鈍い明に狙いをつけているのは、明白。あとは機微を読み取るだけ。
しばしの硬直状態、解いたのは明だ。読み合いを得意としていない――いや全くする気のない――彼女が動き出すのは、予想通りだろう。
当然、怪異も地面を強く蹴り出して疾走する。けれど最も速かったのは、両者ではなかった。怪物の起りを察知した直が迅移で素早く間合いを詰め、既に一閃を奔らせたのだ。
黒影からすれば、予想外の出来事だったのだろう――完全に死角から迫る弧を完璧に対処することはできず、自身の身体能力に頼って躱すしか術がない。二人も相手しているのだから、もう一人にも気を配るべきなのだが、半端な知性による油断というものをしていただろうか。いずれにせよ、大倶利迦羅の切っ先は布きれ同然のマントを通り越して、それの身に触れた。
人の血かノロか、赤黒い飛沫が舞う。構わず直は二撃目を描く。しかし跳ね返される。
わずかな間隙を縫って、異形は彼女の腹部を力強く蹴りつけ、遠くへ飛ばす。防ぐ間もなく直の身体は痛みを伴って背後の大木に向かう。けれど明が間に入って受け止めたことにより幾分か背中の衝撃は和らいだ。
相手を気遣うやりとりを一言二言交わし、二人は正面を睨む。大倶利迦羅の身によって裂かれた黒布の先、異形の胴が彼女たちの瞳に映り――そして驚愕し、硬直する。
視線の先に見えたのは蠢きあう複数人の顔らしき形、耳を澄ませば微かに聞こえてきそう彼彼女らの恐怖、渇望、怨嗟、惨苦。年若の者に見せるには酷たらしい惨状だった。いや誰が対面しても目を背けたくなるだろう。
もはや復讐という枠組みを越えた
相方の明は己の愛刀に目を向けて問いかける。あれはもう人ではないのか。
同田貫清国は答えた。それはもう人ではない――いや人であった者たちの集合体。もはや我々にできるのは、苦しみから解放してやるのみ。
分かったと彼女は意を決して黒影を見据えながら、立つ。持ち主の覚悟に応えるかのように、清国が薄く輝く。刀使であることを全うしようとする強靱な意志が、やはり迷いを払ったのだ。
それぞれが腹を決めたのを見届けた荒魂は、無感情に迫る。疾風ではためく布きれ、変わらず蠢き続ける人面の身、直に向けて奔る銀狐。純粋に人を殺すだけの存在なのだと知らしめるかのごとく、実に淡泊な動作だった。
冷酷無比の一撃を受けたのは明。数の利を活かして、手隙の直は間合いを踏破して唐竹を割ろうと試みる。けれど異形は素早く身体を捌き、二人の太刀を流す。
身を崩すことなく、直はそれが辿り着く先へ大倶利伽羅を向かわせていく。怪異は思いも寄らぬ追撃に慌てることなく再びいなして、間合いを作る。後輩と入れ替わるように明は迅移で詰めて清国を振るうが、身軽な黒影にひらりと避けられ、すれ違いざまに首を刎ねられた。
当然、痛覚は働く。尋常であれば首を斬り落とされるということは死を意味する。つまりは写シは解け、刀使の意は削れて生身を晒すことになるのが必定。
――のはずだが、彼女は霊体を保ったまま真っ直ぐに突き進む。精神力さえ保てば、首をなくしても写シは維持できる。しかし普通の人間では到底あり得ないことだ。
もはや死の概念を飛び越えた何かを目の当たりにして、流石の荒魂も眼を見開いて驚愕。現状を理解できる知性があるが故の硬直が、それにとっての命取りとなった。直が常軌を逸した事態に目もくれずに銀弧を薙ぎ、首なしの突進に対して呆然とする怪異の身を二つに裂く。
大倶利伽羅の身が、悲憤立ち込める御霊を祓い鎮める。言葉もなく人の形を失う荒魂の瞳は、微かに細くなっていく。解放された喜び、祓ってくれた感謝、前向きな感情の表れだと思えば幾分かの救いになろうという最期。
決着はついた。大倶利伽羅をそれだったノロの塊へ突き刺し、再び荒ぶる魂に変貌することを防ぐ。これにて支倉直の復讐劇は閉幕――だが、彼女には達成感に浸る余裕なぞない。
境内の茂みへ一心不乱に覚束ない足取りで向かうと、ろくに手入れもされていない生い茂る緑の傍らで膝をつき、身体を二つに折って我慢を解く。単純に悪鬼ならば良かった、されど未来を望んでいた者たちの絶望や怨恨を内包した悲しき依り代を持つ文字通り荒魂だったのが現実。復讐ではあったが、もはや報復ではない心持ちだったからこそ、直は挫けてしまったのだ。
写シを解いた明は黒影が有していた御刀を悲しげにノロへと突き刺してから、彼女の傍に近寄って背中をさする。誰もが望んではいない披瀝は、普遍的な少女に対してあまりにも重すぎた。答えを見つけた先の光景だとすれば、なおさら。
「……すみません」ひと段落して、直は口元をハンカチで拭って謝意を言う。灰色かがった双眸は力なく自身の活力になれなかったものを見つめていた。
「もう大丈夫?」先輩は気遣う。「はい……でも正直、もう少し時間が欲しいです」後輩はまだ立ち直れない。
「のんびりしていこう」穏やかそうな、されど憂いを帯びた笑みを浮かべる明。「今、回収隊の方にも連絡するから」手慣れた様子でスマートフォンを操作し、報告と派遣要請を行った。
空を仰げば、薄い雲が月の前をゆっくりと通り過ぎていく。ふと一点の光が宙を漂うのを認める。仄かな蛍光、次第に数が増えていき大行進を始めていた。
出どころを探るため、明はそれらが向かう先とは正反対の方向へ顔を向けると、廃屋と化した社を何粒も光が越えていく。まだ座り込んでいる後輩へ気遣う一瞥を投げつつ、興味惹かれる方に足を進める。
神無き社の裏、自然溢れる茂みを掻き分けて歩けば、光溢れる池が見えた。目を凝らして観察――蛍が灯火を点して空に飛び上がっている。ああ、彼彼女らの無念も乗せて新しい未来へ繋がってくれないだろうか。
遅れてやってきた直は覚束ない足取りで明の隣に並び立つ。旅立つ蛍光を見つめる横顔、こげ茶の瞳は悲しげに揺れていた。
事件解決してから数日後、二人は落ち着きを取り戻した昼間の田舎町を見て回る。子どもたちは相変わらず元気に町中を駆け、大人たちはそれぞれの仕事に精を出す。荒魂の出現もなく、のどかな田舎風情が広がっていた。
あの夜、現場となった神社にも彼女たちは訪れる。相変わらず神は鎮座しておらず社は朽ち果てていた廃屋のまま。境内に穏やかな風が通り抜けていく。
「……加守さんは、後悔していますか?」終息してもなお、明の顔が晴れることはなかった。むしろずっと悔やんでいるかのような表情を見せることが多い。だから、あえて直は訊ねる。
「……分からない」少し間を置いて、彼女ばぽつりと零す。「後悔しているかさえも、今はまだ分からないよ」心の整理がつかない、加守明もまた人間だということを知って、直は心なしか安堵を覚えてしまった。いや真っ当な刀使だからこそ、己が振るう剣と斬ったものの意味を考えているのかもしれない。
「スグちゃんはこれからどうするの?」
何気なく明が問い返す。「……まだ分かりません」直もわずかな沈黙を経て答える。そっかーと緩やかな返答を耳にしながら、後輩は口を開く。「だから続けようと思います」何故、親友の御刀が自分の選んだのか。未だに自分を選び続けるのか。「いつか自分の迷いも断ち切れるように」復讐だけではない道が確かに見えていた。
これで実直の太刀は閉幕です。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。