突如として響いた、この場の誰のものでもない声。得も言われぬ感覚を、危険な妖しさを抱かせるような、どこからか聞こえた言葉。…それは、彼女のものだった。最悪の精霊──時崎狂三のものだった。
「狂、三……?」
「〈ナイトメア〉…!」
地面に蟠っていた影が形を得るようにして、姿を現した黒髪の少女。今の折紙と同じように闇を思わせる…されど闇でありながらある種の「生」を感じさせる霊装。それを纏った狂三の登場に、士道は困惑の声を、真那は敵意に満ちた声を上げる。そして侑理は…反射的に、一歩前に出ていた。士道は勿論、今は到底戦える状態ではない真那も、両方自分が守る為に。
「ご機嫌よう、士道さん、真那さん、侑理さん。士道さんとは先々月、お二人とは先日振りですわね」
「狂三…どうして、ここに……」
にこりと笑みを浮かべる狂三。阿鼻叫喚のこの場に似つかわしくない笑みに、士道の声音は一層の困惑を孕み…直後、一条の光芒が狂三を掠める。
「なッ…真那…!?」
「ちっ…この距離ですら、外しちまうとは……」
放たれたのは、魔力の光。その光の起点にいたのは真那。瓦礫に背中を預けたままの真那は魔力砲展開状態の〈ヴォルフファング〉を持ち上げており…しかし今の真那の状態を示すように、その威力や口径は明らかに普段よりも低下していた。
そして砲撃が当たる直前、狂三は身を翻し躱していた。口径の低下が響いたか、それとも怪我が原因で砲撃までの所作を普段よりも隠せなかったのか…何れにせよ、もし万全な状態であれば、結果は違ったのかもしれない。
「あらあら、話の最中に横から撃つとは…士道さん、妹の躾がなってないのではありませんの?」
「し、躾って……」
「もしわたくしに任せて下さるのでしたら、立派なわんこに育て上げてみせますわよ?」
「ふ、ふざけんじゃ……」
「──ふざけんな、時崎狂三」
にぃ、と口角を釣り上げる狂三に対して、真那は言い返そうとする。その真那の前へともう一歩出て…侑理は狂三を睨め付ける。同時に〈オルムススケイル〉の銃口を向ける。…脅しではない。これ以上ふざけた事を言うようであれば、真那に変わって黙らせるのみ。
「…ふぅ、お二人共相変わらずですわねぇ。わたくしは士道さんに話があるんですの。邪魔をしないで下さいまし」
「それを、うち等が許すとでも?それ以前にまず、信じるとでも?」
「…いや、待ってくれ侑理。それに、真那も」
「え…士道にぃ…?」
「まさか、今の発言を信じるってんですか…?」
一蹴しようとした侑理を制する士道の言葉。当然侑理は真那と共に異を唱えるつもりだったが、士道からの真剣な眼差しに、言葉を返す事が出来なくなる。そして数秒後…納得は出来ないながらも、侑理はゆっくりと左腕を降ろす。
「流石は士道さん。話の通じない真那さんや、前に話した時より可愛げがなくなった侑理さんとは違いますわ」
「茶化さないでくれ…。…俺だって、今は…今ばっかりは、狂三と話してる場合なんかじゃないんだ」
「あら、ではどうしてお二人を止めたんですの?」
「…狂三には、その先々月の恩がある。だから…頭ごなしに否定したくなかったんだ。話があるっていう、その言葉を」
焦燥を表情へ馴染ませながらも理由を話す士道の言葉に、狂三は目を丸くする。それから小さく肩を竦め…嘆息。
「全く、相変わらずなのは士道さんもですわね。協力するのは利害の一致だと、初めに話した筈ですのに。…まあ、士道さんらしいといえば士道さんらしいのですけれど」
「…それで、話っていうのはなんなんだ?」
「単純な事ですわ。ここで真那さんを助けるなどという無駄な事はせず、もっと有益で有意義な事をしてほしいんですの」
再び狂三の表情に浮かんだ、小さく笑み。その発言に士道は目を見開き…侑理は、背を向ける。士道が言うのなら、一旦は黙って見ていよう…そう考えた自分が馬鹿だったと思いながら。
「行こう、士道にぃ。あいつと話してる時間が無駄だよ」
「い、いや…もう少しだけ待ってくれ。確かに今の言葉は、俺だって腹が立った。だけどこんな事、何か意図がなきゃ……」
「何か意図があったとしても、こんな事言う精霊と話す価値なんてないッ!今だって皆は戦ってるんだよ!?真那も、他の人も、今ならまだ助けられるかもしれないんだよ!?だから今、うち達がするべき事は……」
「本当に、そう思いまして?もし、わたくしが──折紙さんがああなった原因を、知っているとしても?」
『……──ッッ!?』
一度は向けた背。それを無理矢理振り向かせる、狂三の言葉。その言葉に、侑理達は全員が愕然とする。
「どういう事でいやがりますか、〈ナイトメア〉…!──ぐッ…」
「あ、ま、真那!?」
「どうもこうも、言葉通りの意味ですわ。…まぁ、もっと言ってしまえば、原因はわたくしでもあるんですけれど」
『はぁぁっ!?』
反射的に身体を動かしてしまった事で真那が表情を歪ませる中、更に狂三が発する衝撃の発言。あまりに予想外過ぎる自白に侑理は目を剥き…逆に予想通りの反応だとばかりに、狂三は左右不揃いなツインテールを揺らす。
「狂三が原因って…折紙に、何かしたのか…!?」
「えぇ。但しあくまで、わたくしは『間接的な』原因というだけ。直接的な原因については、わたくしにもさっぱり分かりませんわ」
「回りくどい言い方を…勿体ぶらねーで、さっさと話しやがれってんです……」
「その口振り、どうやらわたくしの言葉を信じて下さるんですのね」
「ちっ…私が言いてーのは、兄様の質問にきちんと答えろって事です…。誰が、お前の言葉なんか……」
不快そうに舌を打つ真那の反応へ対する、何とも愉快そうな狂三の表情。…が、それもほんの数秒の事であり…次の瞬間、ふっ…と狂三は真面目な顔付きへと変わる。
「…わたくしは、折紙さんに頼まれたのですわ。自分を、過去に送ってほしいと」
「過去…?何を言って……」
真剣な面持ちからの意味不明な言葉に、侑理は困惑。また茶化すつもりなのかと思う侑理だったが、真那と士道の反応は違う。
「…そうか、〈
「時間への干渉…撃った相手の時間を止められるってんなら、時間遡行も……」
「そういう事ですわ。そしてわたくしは、それに応じる…実際に
経緯を語り、一度言葉を切った狂三が次に浮かべたのは、憮然とした顔。まるでこうなった事が、頼みに応じて過去へ送ったという折紙が今の状態となってしまった事が、腹立たしくて仕方ないとでも言いたげな…これまで見た事もない表情。
「過去…五年前…まさか、折紙……」
「…やはり士道さんも、知っているんですのね」
「ああ。折紙は、自分の両親を助けようとしたんだろ?…けど、きっと助けられなかったんだ。だから……」
「それは分かりませんわ。いえ…わたくしはむしろ、そうとは思いませんわ」
「…どうしてだ?」
「どうしても何も、あの折紙さんですわよ?そこまでの関わりのないわたくしても、その不屈の精神が印象に残る程の彼女が、ただ助けられなかった…過去を『変えられなかった』だけで、あれ程にまでなると思いまして?」
「それは……」
言葉を詰まらせた士道は、侑理達を見る。その視線に、侑理は首を横に振る事で答える。侑理とて、折紙の事を深く知っている訳ではないが…それでも何となく、少なくとも一度や二度の失敗で諦め絶望してしまうとは、思えなかった。
「恐ろしく心の強い折紙さんですら折れてしまう程の何かがあった。その結果が今の、反転状態の彼女ですわ。士道さんは、そこから挽回出来るつもりですの?声が、思いが届くと思いますの?」
「……っ…だとしても、諦める訳にはいかねぇよ…!俺は折紙の事も、皆の事も…誰一人だって、諦めたくない…!…そしてそれは、真那も同じ事だ」
「兄様……」
拳を握り締め、士道は返す。それから真那の事を見る。侑理もそれに応じて頷く。真那を諦める選択肢など、初めから侑理の中にはなく…だがそのやり取りを見ていた狂三は、呆れたような素振りで嘆息。
「だから、言っているではありませんの。それは無駄だと」
「無駄なもんか…!そりゃ、確かに狂三にとって真那は嫌な相手なのかもしれねぇよ、だけど真那は……」
「いいえ、無駄ですわ。真那さんを助けるのも、ここから折紙さんを助けようとするのも、凡ゆる事が全て…
「……ッ!狂三!」
困ったような、小馬鹿にするような…或いは諦観が滲むような、やれやれと首を振る狂三の所作。そんな態度へ遂に耐えきれなくなったように、士道は目の前の狂三を睨み……されど今度は、侑理がそれを声で制す。
「…待って、士道にぃ。時崎狂三、貴女は何を考えているの?どうして今…今更って言葉を、強調するように言ったの?」
「それは勿論──わたくしは、士道さんに諦めろと言いに来た訳ではないからですわ」
その言葉に、士道が息を呑む。侑理も別に、狂三の言いたい事が分かっている訳ではない。ただ、狂三の天使の力が時間に関するものだと知り、折紙に想像絶するような何かがあったのだろうという話となって以降、ずっと考えていた。何の為に、狂三は自分達に接触してしたのかと。何故こうも、自分から情報を明かしてくれるのかと。
思えば前回遭遇した際もそうだった。狂三…数えきれない程の人を殺戮してきた最悪の精霊の割に、彼女は理性的で、あまりこういう評価はしたくないが、話の通じる相手だった。無論優しい訳ではなく、あくまで『取引』という選択肢を持っているというだけに過ぎないのだが…だからこそ、思ったのだ。まだこの話には、続きがある筈だと。それ何より、彼女自身が言っていたのだ。有益で有意義な事を『してほしい』と。
「どう足掻いても、もう折紙さんは助けられませんわ。手遅れですわ。勿論、士道さんがそれを認めるかどうかは自由ですけれど…死んでしまったものは、もう帰ってきませんわ。それが命であっても…心であっても」
「…狂三……?」
「…こほん。されど、蘇らせようとするのではなく、そもそも事実そのものを変えてしまえば、なかった事にすれば…それが出来れば、違う未来もあるかもしれませんわ。──それこそ、折紙さんが望んだように」
どこか遠くを見るような、どこか自分に向けて話しているような、狂三の瞳。そして、それに続ける形で狂三は言う。これからどうにかするのではなく…根本的に覆してしまえばという、可能性を。
「まさか、狂三…それは……」
士道の言葉に、返事はない。されど無言である事そのものが、何よりの答え。だからこそ士道も沈黙し…頭を、下げる。
「…頼む、狂三。こんな事をしても、狂三に良い事なんてないのかもしれない。だけど…お願いだ。折紙を…助けてやってくれ」
深く深く頭を下げての懇願。それを真那は止めようとするのでは?…と思い、ちらりと侑理は彼女の方を見るが、事が事だからか、真那は面白くなさそうな顔をしつつも口を挟んだりはしなかった。そして、士道からの真摯な頼みを受けた狂三は、柔らかく微笑み……言う。
「え、嫌ですわよ?」
『なんで!?』
あまりに予想の真逆をいく返しに、思わず三人で突っ込んでしまった。突っ込んでる場合ではないのだが…突っ込まずにはいられなかった。
「何故も何も、本当にわたくしにとってはハイリスクの割にリターンがほぼない事なんですのよ?…まぁ、思うところがないと言えば、嘘になりますけれど…だとしても、情だけで流されるわたくしではありませんもの」
「そ、それはそうかもしれねぇけど…!…だったらなんで、この話を俺達に……」
「──だから、士道さん。わたくしではなく、貴方が助けに行って下さいまし。その方がきっと…このどうしようもなく不愉快な結末を、変えられるですわ」
戯けた様子で拒否した十数秒前の姿がまるで嘘だったかのように、先の士道にも負けず劣らずの真摯な瞳を向ける狂三。…今ここにいる狂三は、何か変だった。これまで遭遇してきた彼女とは別人かと思う程…真剣だった。
救いを託すのではなく、自らが救う。その責任を、背負う。それは頼むよりも、遥かに重くのしかかる道であり…だが士道は、迷いなく頷く。
「…分かった。狂三、さっきの言葉を訂正する。俺を…過去に、送ってくれ」
「えぇ、えぇ、承りましたわ。それでは早速、準備を整えると致しましょう」
「ああ、頼…ぅぐ……ッ!?」
その言葉を待っていたとばかりに狂三が声を上げた直後、彼女の足元で揺らめいていた影が、士道の足元へと伸びる。
次の瞬間、歪む士道の表情。士道はふらりとバランスを崩し、そのまま膝を突いてしまう。
「なッ…〈ナイトメア〉、何を……ッ!」
「落ち着いて下さいまし。時間遡行は、膨大な霊力を必要とするもの。だから必要な分の霊力を確保する為に、士道さんから頂いているだけですわ」
「…その言葉、もし嘘なら……」
「その時はわたくしを撃ち抜くのでしょう?もし本当に嘘で、士道さんを騙して霊力を掠め取るのが目的であれば、貴女をそのままになど致しませんわよ」
疑わしい…とは思うものの、狂三の言う事は一理ある。嘘ではないと見せかけて…という可能性もなくはないが、いつ撃たれてもおかしくない状況というリスクを考えれば、やはり嘘ではないのだろう。
「うふふ、本当に士道さんは凄いですわ。初めてお会いした時にも相当な霊力だと思っていましたけれど、あれから、そして前回行動を共にしてから、更に増しているんですもの。やはり、わたくしの目に狂いはありませんでしたわ」
「お、おい…狂三……」
「安心して士道にぃ。時崎狂三が妙な真似をするようなら、その時点で蜂の巣にするから」
これは脅しではない。その意思を込めて侑理が狂三を見据えれば、狂三は冗談が通じないとばかりに肩を竦める。…実際、いつでも撃てるようにしている。一理あると思いはしたが、狂三を信じた訳ではないのだから。
だが、狂三はそれ以降、ふざける事も本当に妙な真似をする事もなかった。ただ影が、生き物の様に脈打ちながら士道の封印した霊力を吸い上げ続け…狂三は、ブーツの踵でアスファルトを打つ。
「さあ、さあ、〈
その声に答えるように、虚空から現れる巨大な文字盤。二つの針は長短二挺の古式銃となり、静かに狂三の両手へ収まる。そして更に、文字盤に描かれた数字の内二つから、靄の様な影が広がり…二挺の銃へと、装填される。
「…一応、確認しておきますわ。過去に飛んだからといって、この惨劇を覆せる保証はありませんわ。それどころか、士道さんの安全すら、わたくしは保証しかねますわ。そして…今ならまだ、未来を変える別の選択肢もありますわよ?」
「別の、選択肢…?」
「えぇ。折紙さんの後を追うのではなく、折紙さんが過去に飛ぶ前に時間遡行をし、そこで彼女を始末するという選択肢ですわ。……より多くの、罪も死なねばならない理由もない人々を救えるんですもの。その選択をしたとしても、わたくしは士道さんを許しますわ」
士道の足元に渦巻いていた影が消え、その代わりのように狂三は問う。静かに…ただ純粋に、答えを聞きたいかのように。そんな雰囲気は、士道にも伝わっていたようで…黙って頷いた士道は、狂三を見つめ返して言う。
「それも一つの選択肢だって事は理解出来る。けど…そんな選択、俺は御免だ。折紙はかなり個性的なやつだけど、何度も俺を助けようとしてくれたし、実際助けられた事もある。そんな折紙の、必死の思いを…どれだけ苦しんでも遂げようとしていた事を、そんな方法で潰すなんて、絶対に嫌だ。それじゃあ、結局…皆は助けられたとしても、折紙の心は救えないんだから」
返す言葉に、迷いはなかった。迷いはないと、侑理には感じられた。そして同時に、その言葉からは五河士道という人間の在り方が伝わってくるようで…聞いた狂三は、小さく笑う。
「それでこそ士道さんですわ。ならば、その甘く拙い理想を、実現させてみて下さいまし」
「任せろ。俺は絶対に…諦めない」
強い意思の籠った瞳で返した士道へ向けて、狂三は左手の短銃を向ける。銃口を向けられるという状況に、士道はぴくりと肩を揺らしたが、背を向ける事はなく…その視線を、真那へと向ける。
「ごめんな、真那。兄ちゃんの癖に、真那の事を優先してやれなくて」
「…何を言うかと思えば…気にしねーで下さい、兄様。私だって、折紙さんや琴里さん、それに皆の事を諦めたくはねーですし…今皆を助けられるとしたら…それは、兄様だけでいやがります」
「そっか。ほんと、俺は良い妹に恵まれてるよ」
「当然です。それに…もう
「……っ…!真那、それは……」
にっ、と笑い、大丈夫である事を示すように片手で力こぶを作る真那。だが…侑理には分かっていた。それが嘘であると。医療用ではない通常の
それだけではない。真那は確かに止血をしているが、それは
「……?侑理?」
「…うう、ん…何でもないよ、士道にぃ。真那の事はうちが見てるから…士道にぃは、士道にぃにしか出来ない事をして」
言いたかった。本当はもう、意識を保つのも難しい筈だと。悟らせないよう、真那は必死に耐えていたのだと。されどそれを行ってしまえば、士道はきっと足を止めてしまう。それは、真那が望んでいない。そして、もしその結果折紙も皆も救えなくなれば…必死に耐えてきた真那の思いすら、無駄になってしまう。だから侑理は気持ちを堪え、精一杯表情を取り繕って言葉を返す。心が締め付けられるのを感じながら、士道の背中を押す。
「…士道さん」
「…おう」
空気を読んでくれたのか、やり取りが終わったところで狂三は呼び掛ける。返事を受けてから、引き金へと指を掛け…次の瞬間、侑理に聞こえてきたのは微かな声。
「侑理。もし〈ナイトメア〉が噓を吐いていたら……」
「大丈夫、警戒はずっと解いてないよ」
いつでも撃てるよう魔力は充填済みであり、
「…狂三…?もしかして、何か問題でも……」
「いいえ、これで良いのですわ。そしてこれが、これこそが【
左の短銃に続いて向けられる、右の長銃。侑理にはそれが、震えているように見えた。あまりに大き過ぎる、規格外過ぎる力を無理矢理押し込めているような、今にもその力が溢れ出してしまいそうな…そんな振動。そして……
「さあ、士道さん。わたくし達の……」
「ああ。俺達の
撃ち放たれる、二発目の弾丸。宙に黒い軌跡を描きながら、漆黒の一撃が士道を撃ち抜く。先の一発と同様、弾丸は胸元へと吸い込まれるように消え…されどすぐに、士道の身体に異変が起き始める。──否、違う。異変などという、生易しいものではなく…士道という存在そのものが、歪み始める。
「ぅ……あ……っ……?」
呻きにも困惑の呟きにも聞こえる士道の声。それを発する間にも、更に士道の存在が歪んでいく。具体的にどう、と説明する事は出来ない。説明のしようがない。ただ、世界のルール、法則というものがあるのなら、それから逸脱し、凡ゆる頸木から解き放たれたような何かが士道へと起こり…そうして士道の姿は消える。まるで初めからいなかったかのように、その姿が完全に消えてしまう。
「……っ…何これ、
「当然ですわ。如何に貴女達
出来ると思ってもらっては困る、そんな声音で狂三は侑理へと返してくる。遠回しに自分との…自らが持つ力との差を示すような言葉でもあった為、侑理としては少し不服だったが、何も分からなかったのは純然たる事実。だから侑理は気持ちを飲み込み…膝を折って、真那の手へ触れる。
「…ごめん、真那…うちが、もっと早く真那の状態に気付いていれば……」
「多少早く気付いたところで、何も変わりゃしねーですよ…私はもう、兄様に賭けると決めました。だから、ここで力尽きたとしても……」
「馬鹿言わないでよ。もしそうなったらうち、真那の後を追わない自信いからね?」
「…全く冗談に聞こえねーのが、始末に負えないってんですよ……」
普段より冷たい真那の手を、温めるようにぎゅっと握る。…分かっている。もう手遅れだと。士道がこの今を変えてくれるのを待つしかないと。だとしても…渦巻く後悔は、止められなかった。
そして、侑理が真那に寄り添う中、不意に聞こえてきたのは一つの小さな声。
「──期待していますわよ、士道さん。過去を変える…その選択が、決して間違いではないと示してくれる事を」
一瞬誰のものか分からなかった、静かに願いを託すような声。それは、闇に塗り潰された空を…虚空で今も蹲るように膝を抱える折紙を見上げる、狂三の声だった。