改変前の世界は『なかった』事となったが、何もかも消え去り、本当の意味で初めから存在していなかった事になった訳ではない。それを示すような、無自覚の内に反転精霊となってしまった折紙と士道によるデート…そしてその末での戦いと救いを果たしたあの日から、三日が経った。
あの戦いでは、高台の公園は勿論ボロボロとなり、周囲への被害も決して少なくはなかった…が、幸い死者はゼロとの事だった。それもこれも、皆で力を合わせたおかげ。誰かの力ではなく、皆で掴んだ結果と未来なのだと、侑理は噛み締めていた。…まあ、戦いが終わった後は、順風満帆…という訳でもなかったのだが。
「うん、二人共もう大丈夫そうだね」
「みてーですね」
「令音さん、ありがとうございます」
〈フラクシナス〉…は耐え抜いたとはいえ、反転精霊の攻撃から街を守るべく盾となり続けた結果、かなりの損傷を負い、ドック入りする事となった。その為内部の設備を使う事が出来ず、侑理は今、真那や令音と共に、〈ラタトスク〉が所有する地下施設の一つ、そこにある医務室にいた。
「真那、侑理、分かっているとは思うが、自分の身は大事にしなくてはいけないよ。君達の力を疑うつもりはない。あの戦いを、無傷で乗り切るなど困難な事だとは私も思っている。だとしても…君達の、いや人の命は、簡単に失われてしまうものなんだから」
落ち着いた、しかし重みを感じる令音の言葉。窘めるようなその言葉に、侑理は黙り…真那と共に、頷く。
今の今まで、侑理は真那と令音による診察を受けていた。と、いっても先日の戦闘の怪我は
「ああする他ねー状況だったとはいえ、令音さんの言う事は私達も分かっています。だから出来る範囲で、気を付けやがります」
「だね。怪我の事で士道にぃや琴里達にも心配させちゃっただろうし、そこは反省しないと」
「…私もだよ」
『え?』
「私も心配した。…というのは、変かな?」
「あ、いや、そんな事は……」
ない、と侑理は否定をし、真那も首を横に振る。思えば令音は侑理達の身体について調べてくれた…つまり今の状態を恐らく一番正確に把握している訳で、だからこそ気に掛けてくれていたのかもしれない。
そして、令音の声は、表情は、真剣だった。真っ直ぐな、本気の言葉で…この人にも、心配を掛けてはいけない。そう思う、侑理だった。
「…えと…ところで令音さん。他の皆さんの容態は……」
「知っての通り、十香達にせよ〈フラクシナス〉のクルーにせよ、君達程の怪我をした者はいないからね。それこそクルーに関しては揺れで頭をぶつけただとか、コンソールで突き指をしただとかの軽傷で済んでいるよ」
「それは良かったです。なら後は、折紙さんさえ問題なければ憂いは……」
「彼女なら、丁度今日…というより昨日の時点で検査を終えて、今は学校に行っているところだよ」
『え…!?』
それは初耳だ、と真那共々侑理は驚愕。確かに折紙は戦闘での怪我を負っておらず、加えて元の世界にせよ今の世界にせよ人間社会で当たり前に過ごし、更にASTとして人間から見た精霊の存在をよく知っている…即ち警戒される事も、色々と検査が必要である事も恐らくは十分理解出来ているであろう事を思えば、検査と経過観察が順調に進むのも理解は出来るが、だとしても「もう日常生活に戻っている」といきなり言われたら驚く他なかった。…まあ、悪い事ではないのだが。
「無論、まだ〈ラタトスク〉として注視はしている。折紙は常時反転していた、尚且つ平時は自身が精霊化した事に気付いていない…そして、改編前の世界と今の世界それぞれの記憶を有しているという、非常に特殊な精霊だからね」
「まあ、それは当然でいやがりますね。…だとしても、日常に戻る事が出来た。それは他でもねー、兄様の手柄ってもんです」
うんうん、と真那は腕を組んで頷く。まるで自分の事のように、自信満々の表情を見せる。その何とも真那らしい反応に、侑理は苦笑し…その通りだと、改めて思う。
精霊が普通の…といえるどうかは微妙だが…日常生活を送れるようにする核の部分は、士道の封印能力と、真摯な思いがあってこそ。されどそこまでのサポートも、封印してからのあれこれも、中核以外の多くは〈ラタトスク〉の存在があればこそ。精霊でこそないものの、侑理もまた士道に心を救われ、〈ラタトスク〉へお世話になっているのだから…やはり自分が提供出来る唯一のもの、
「さてと。それじゃあ令音さんからのお墨付きも貰った事でいやがりますし…軽く模擬戦といこうじゃねーですか、侑理」
「言うと思った。でも構わないよー、真那」
まだ治りたてなのだから、身体を酷使する事は…そう言われると思いきや、令音に止める気配はない。それ含めてもう大丈夫だという事なのだろう。或いは言っても聞かないと思われているのか…それはちょっと悲しいので、侑理は前者だと捉える事にした。
「…ふふ、本当に君達はいつも仲が良いね」
「勿論無論当然必然!」
「別に肯定するのは構わねーですけど、もうちょっと普通に言えねーんですかね侑理は……」
「だって、普通に肯定するだけじゃうち等の仲睦まじさを表現しきれないじゃん?」
「へーへーそうでいやがりますね」
適当極まりない生返事も、気の置けない間柄だからこそと思えば心地良いもの。そう思って侑理が頬を緩めていると、いつの間にか令音も小さく笑っていた。ぼうっとした表情や目の下のクマが印象的な令音だが、この時の彼女は本当に柔らかな笑みを浮かべていた。
その理由は分からない…が、自分と真那との仲を良いものだと思ってくれているのなら、悪い気はしない…というか、普通に良い気分というもの。だから侑理は自分がちょっぴりご機嫌になるのを感じながら、真那と医務室を後にする。…こうして話していると、どこか令音には親近感を抱く…そんな風にも、思いながら。
*
昼食を終えた、昼下がり。満腹感と薄っすらとした睡魔を感じながら、侑理が午後にやる事を考えていた時の事だった。
「わっ…」
突然スカートのポケットから鳴り出した音と振動に、一瞬驚いてしまう侑理。しかし、何の事はない。最近は縁遠くなってしまっていただけで、それ以前は日常の一部になっていたものが、今は侑理の下に戻ってきている…ただそれだけの事。故に侑理は驚いてしまった自分自身に苦笑をしつつ…ポケットから取り出した携帯を、耳に当たる。
「はいはーい」
「おう、侑理…だよな?」
「侑理だよ、士道にぃ」
念の為…という声音で尋ねてくる通話相手、士道へと侑理は答える。何故士道が訊いてきたか…それは、侑理の携帯が昨日使い始めたばかりのものだからである。
真那に連れて行かれる形で〈ラタトスク〉に保護された侑理は、ワイヤリングスーツ姿であった為、携帯電話を携帯していなかった。当然それは回収しに行ける訳がない為、これまで侑理は携帯無しの生活を送っていた。しかし、それでは何かと不便…それこそ元の世界で士道が音信不通になった際も、今の世界で来禅高校へ向かった際も、侑理は真那経由で話を受けるという状況であった為に、この度晴れて侑理も携帯を所持する事となったのだ。
だがこれは、単に便利か不便かだけで語れる事ではない。完全にDEMと決別した真那と違い、侑理は未だに…そして恐らくこれからもDEMに思い入れのある身。そんな侑理が手軽に外部と連絡を取れる手段を持つ事は、〈ラタトスク〉にとって紛れもないリスク。にも関わらず、侑理は所持が許された。それは即ち、〈ラタトスク〉から…琴里達から信用されているという事であり、その意味は決して小さくない。
「だよな、良かった。…っていうか…侑理、何か良い事でもあったのか?」
「んふふ、あったよー。だって、この携帯でする初めての通話相手が、士道にぃになったんだもん」
「そ、そうか…」
通話越しに感じる、士道からのなんとも言えなそうな雰囲気。因みに隣では、真那が呆れた目で侑理を見ていた。
「それで、士道にぃどうかしたの?」
「いや、どうかした…っていうか、伝言があるんだ」
「伝言?」
「ああ。折紙がな、侑理と話したいらしい」
「……っ…!」
気分良く話していた侑理。だがその瞬間、折紙の名前を聞いた瞬間、侑理は自分の肩が震えるのを感じた。恐れではない。緊張とも少し違う。強いて言うなら、臆するような…そんな気持ちが、侑理の中でじわりと渦巻く。
「え、っと…それは……」
「…話したくないなら、この件は聞かなかった事にしてくれていい…そうも言っていたよ。何の話なのかは…俺には、想像する事しか出来ないけどさ」
「そっか……」
短い返答の後、訪れる沈黙。ここで次に声を発するべきは侑理であり、言うべき内容は伝言に対する回答、或いはそれに関しての質問なのだが、侑理の中で答えは出てこない。
…いや、少し違う。はっきりした答えがないのは事実だが、答えを出すのに及び腰な時点で、相手に話したい意思があると分かっているのに答えへ躊躇ってしまっている時点で、思いは片方へ偏っているようなもの。士道もそれを察したのか、暫くの間は黙っていて…されど小さな息遣いの後、再び士道の声は聞こえてきた。
「…侑理。俺も無理強いする気はないし、気乗りしないって事なら、きっちり俺から断っておく。けど…もし出来るのなら、折紙と話してほしい」
「…それは、折紙さんの為?」
「勿論そうだ。けど、折紙の為だけじゃねぇ。これは俺の想像だけどよ、侑理の中にももう一度折紙とちゃんと話したい…って気持ちがあるんじゃないのか?もしそうだったとしたら…今ここで断っちまったら、折紙の方から歩み寄ろうとしたのに、自分はその機会を蹴った…って、侑理はずっと気にしちまうような気がするんだよ」
「…流石兄様、侑理の事をよく分かってるじゃねーですか」
だから、出来る事なら話してほしいと士道は言う。いつの間にか側に寄り、聞き耳を立てていた真那も士道の言葉にうんうんと頷く。
…侑理自身、そんな気がしていた。ここで蹴ってしまえば、蹴ってしまったという意識がしこりの様に残り続けるだろうし、自分から改めて切り出す事も多分出来ない…情けないが、きっと自分はそうなのだと。
であれば、これはまたとない機会。恐らく折紙も、一度断れば再度言ってくる事はないだろう。…なら……
「…ありがと、士道にぃ。じゃあ…折紙さんに伝えて。うちでよければ、いつでも…って」
「あいよ」
もう昼休みもあまりないから、と士道は言い、これにて通話は終了となった。相手が折紙である事を思えば、時間や場所はそう遠くない内に教えてくれるだろう。
「…ふぅ。折紙さんと話、か…。嫌じゃない…嫌じゃない、けど……」
「気乗りしねー、って顔ですね」
「正直気乗りはしないからね…。……折紙さんの事は、本気で憎んで、
敵意を向けて…殺し合った、仲だから」
もう過ぎた事…とは割り切れない。他でもない折紙自身が言っていたように、たとえそれが改変前の世界の出来事でも、『なかった』事にはならないのだから。
理由が理由だからか、真那は黙る。しかし先程の士道の様に、少しの間を経て、真那は再び口を開く。
「…けど、それを言ったら七罪さんと十香さん達も同じじゃねーですか?」
「…敵対…というか、七罪は皆に色々してきたけど、皆は七罪を受け入れたし、七罪も今は皆と一緒にいようとしている…って事?」
「そういう事です。それに…私達だって、一度は敵対したじゃねーですか。それが行き着くところまでいかなかったのは、勿論兄様のおかげでいやがりますが…単に運が良かったって部分もあるんじゃねーかと、私は思います」
「…それは…そう、かも……」
「けど、その上で私と侑理は元通りになる事が出来た。敵対しても、矛を向け合っても、人と人との関係はそれで終わりじゃない。そういう事なんじゃ、ねーでしょうか。…別に侑理は、今も憎んでる訳じゃねーんでしょう?」
じっと見つめる真那の瞳。状況も、経緯も、関係も違う…そう言って反論するのは簡単な事。しかし、真那の言葉だからか、それとも侑理の中に、折紙との関係をこのまま断ち切りたくないという思いが知らず知らずの内にあったのか…侑理自身その理由は分からないものの、真那の言葉は侑理の心にすとんと入り、落ち着いた。
「…そうだね。うん…ちょっとだけ、折紙さんと話すのに前向きになれたかも」
「それなら良かったです。私としても、
表情を緩めた真那に、こくりと頷く。それから真那の発した呼び方に、どこかほっとしたような思いを抱く。
正確な理由は分からない。ただ、折紙の霊力を封印した直後、真那達は過去の折紙の事…というより、改変前の世界の事を思い出していた。士道曰く、十香達については霊力の
これまでは殆ど士道としか共有出来なかった、元の世界の記憶。それを真那や皆とも共有出来る今の状況は、何となくほっとするのだ。
(…ちゃんと話そう。向こうから言ってきたから…じゃなくて、自分の事として)
決意という程大層なものではない。しかし、自分なりの心を、意思を決め、侑理はその日が来るのを待つのだった。
*
……というのは、意思を決めた直後の事。その時点で思っていた事。しかし、そうはならなかった。その日が来るのを待つ事など、必要なかった。何せ……それから数分後、再び士道から連絡があったかと思えば、「今日早速、放課後士道の家で」…という事になったからである。
「お、お邪魔しまーす…」
「お、おう」
「…………」
玄関を潜り、廊下を通り、おずおずと入ったリビング。そこにはこの家の住人たる士道(今はお茶を淹れている最中)と、これから侑理が話す事になる折紙がいた。士道は台所で肩を竦めていて…折紙はソファに座り、背筋を伸ばした状態から、首だけ動かしてこちらを見ていた。しかも三日間の間にばっさりと切ったのか、彼女の絹の様な長髪は、改変前の世界の折紙と同じ、肩を擽る位の長さへと変わっていた。
「え、えっと……(な、何この『ここに自分がいるのは当然の事』とばかりの雰囲気…!表情ほぼないのに、無言なのに、何故か滅茶苦茶伝わってくるのはなんで…!?)
訳の分からない理由で謎の圧倒をされる侑理。我ながら意味不明だが、本当に訳が分からないのだから仕方ない。
「あー、っと…と、取り敢えず茶だ」
「お、お茶菓子の方は私が……」
今折紙が座っているのとは別のソファに座った侑理の前へ、士道が湯呑みを置く。続けて折紙の前にも置き、侑理に同行してくれた真那はこの雰囲気を前に早々の撤退を選んだのか、ばっと台所の方へ向かってしまう。そして言葉通り、士道が用意していたお茶菓子を持ってきてくれた真那だったが、その後は士道共々、「後はお二人でごゆっくり〜」…とばかりに台所へと引っ込んでしまった。
これで実質、折紙と二人きり。彼女の視線はじっと侑理の事を見ていて、一瞬たりとも離さない。
(ど、どどどうしろと…!?折紙さんは、うちと話がしたいんだよね…!?そういう事だったんだよね…!?)
確かに侑理と折紙とは殺し合った仲。しかしそれを差し引いても、明らかにこれから話をしようという空気ではない。そんな状況では、侑理も話すに話せず…だが次の瞬間、不意に折紙の唇が震える。侑理の事を真っ直ぐと見つめたまま、折紙は口を開き……言う。
「──ごめんなさい、侑理」
「……へ…?」
それは、謝罪の言葉。折紙は、侑理へ向けてごめんなさいと言い…深く、頭を下げる。完璧なまでの、語先後礼で侑理に謝り…全く予想していなかったその言葉に、侑理はぽかんとなってしまった。
「色々と、考えていた。初めに貴女に言うべき事を。貴女に、言わなくてはいけない事を」
「…じゃあ、今まだ黙っていたのは……」
折紙は、小さく頷く。意図があっての沈黙ではなく、単に言葉を考えていただけ。それが分かった侑理は、更にぽかんとなり…そのあまりに拍子抜けな真実を知って、思わず脱力してしまう。
「私は、貴女に酷い事をした。凄く、凄く…酷い事を」
「…それは……」
緊張の解けた侑理ではあったが、折紙の表情は真剣そのもの。重ねるような折紙の口振りに、侑理は一瞬「そんな事はない」…と言いかけ…その言葉を、飲み込む。
「…うちは、折紙さんの事が嫌いじゃなかったです。ううん、好きか嫌いかで言えば、一緒に戦った事のある戦友として好きでしたし…DEMの
侑理は思い出す。時間や日数で見れば、決して長くない…だがきっと、いつまでも忘れる事のない、出来事と戦いの数々を。
今折紙へ語った言葉に、嘘偽りはない。全てが全て、本当の本心。そしてそれは…これから話す事、発する思いも…同じ事。
「──でも、それからの貴女は…鳶一折紙という精霊は、許せなかった。皆を傷付けた、沢山の人を手にかけた……きっとあのままなら真那の命も奪っていた、反転精霊を。うちは憎んだ、怨んだ、本気で心から……自分の復讐の為に、何もかも奪う未来を受容しようとした精霊を、滅ぼそうとした。…うちはそれを、間違ってたとは思わない。思わないし……きっとまだ、うちの中に折紙さんへの憎悪は残ってる」
偽らない。偽る事はしない。偽ってしまっては、上っ面だけの言葉で和解してしまっては…ここに来なかったのと、変わらないから。
こんな話をする事を、真那と士道はどう思っているのか。今、二人はどんな顔でこちらを見ているのか。気にはなかったが、侑理は確認しようとは思わなかった。それよりも今は、折紙の言葉を、答えを聞きたい。その思いの方が、ずっと強い。
「…私も、許せなかった。今も、許せない。私は…私自身を」
「…………」
「貴女の目を、よく覚えている。精霊となった私に銃を向ける貴女の目は…きっと、私がこれまで精霊に対して、お母さんとお父さんを奪った精霊に…未来の自分に対して向けていたのと同じ色をしていた。…私は、誓った筈なのに。もう自分と同じような思いをする人を、増やしたくないと。その為に戦っていた筈なのに、それは私にとって本心だった筈なのに──私が、貴女に同じ思いをさせていた。両親も、復讐も、自分が志してきたものも……何一つ、私は守れなかった」
胸の前で、折紙は拳を握る。目一杯の力で握り締められているのが一目で分かる程に、折紙の手は震えていた。そこには力だけでなく、怒りも…自分に対する、どうしようもない思いも込められているような気がした。
「だから、侑理。貴女は、私を恨む権利がある。私を憎む正当性がある。私自身その恨みを抱いて、それを理由に突き進んできたのだから、私にその思いを否定する事は出来ない」
「…うちが、この思いを堪えきれなくなったとしたら?」
「構わない。私には、撃たれる理由もあるから。…だけど、この命を差し出す事は出来ない。死んでしまえば、士道を守る事が出来ない。お母さんとお父さんが大切にしてくれた、この命は捨てられない。たとえ、更に罪を重ねる事になるとしても……貴女が私を滅ぼそうとするのなら、もう一度貴女を傷付けてでも、私は私の命を守る」
はっきりと、折紙は言い切る。強い意思の、決意の籠った声で、言い放つ。
それは、その言葉は、正しく折紙の…危うい程に真っ直ぐな、折紙らしい言葉だった。それを聞いてまず思い出したのが、五年前の世界での戦い…侑理が折紙を完全に、討つべき精霊として憎悪した時の事だった。──だが。
(あぁ、そっか…)
あの時抱いたのは、確かに憎悪。されど今、その感情が再燃する事はなかった。きっとまだ心の中で消えずに残る、憎しみの気持ちは眠ったままで…代わりに抱いたのは、どこかすっきりとするような納得感。
やっと分かった。漸く理解した。…折紙は、純粋なのだ。大切な人への思いがひたすら強くて、その思いだけでどこまでもいける、ひたすらに純粋な少女なのだ。だからこそ真っ直ぐなのであり、努力を惜しまない人間なのであり…その思いに歯止めなど利かないから、何でもやってしまう、やれてしまうのだ。ある意味それは、自己中心的という事で…士道に対し自らを『自分勝手』と評した折紙は、自分の性格の事を、よく理解しているのだろう。
そして折紙は、身勝手な程純粋な少女だが、他人を慮れない人間でもない。謝罪から入ったのがその証明であり…五年前の世界で、最後に折紙が侑理へと見せた、心をすり減らしたような声と瞳も、他者を思いやる気持ちがあればこそのもの。思いやれる優しさもあって、それでも純粋な自らの思いを止められない、貫く事しか出来ない…そんな、侑理がこれまで見てきた中で一番『不器用』なのかもしれないのが、折紙なのだ。
「…ちょっと、一方的過ぎると思います。恨む権利も、憎む正当性もあるって言っておきながら、うちがその思いを晴らそうとしても命を差し出すつもりはないなんて。折紙さんの言う、自分を許せない…って言うのも、結局は本当に自分自身への怒りであって、うちがどうこうって話でもないじゃないですか」
「…それは、その通り。申し訳ないとは思っている…けど、それが私。だから…命を差し出す事は出来ないけど、侑理がその気持ちを晴らしたいというのなら、好きなだけ殴ってくれていい。私はそれを、受け入れる」
「……うちが、そうやって殴り倒してさっぱりするような人間だと思います…?」
「…正直、分からない。言い切れる程、私は貴女を知らないから」
「…ほんっと、正直ですね折紙さんは…。…はぁ…あー、もう……」
ここは否定すれば丸く収まる…というか、こういう訊き方をしている時点で、実質的に否定しているようなものなのに、と侑理は呆れにも似た思いを抱きながら後頭部を掻く。純粋、真っ直ぐ、正直…どれも単体で見れば良い意味なのだが、正直こうなるとマイペースなだけな気もしてくる。しかもこれを、本人は大真面目に言っている雰囲気なのかまた、侑理の調子を狂わせて……気付けば侑理は、深い溜め息を漏らしていた。
「…反転した折紙さんが心を取り戻した時、うちはこう思いました。うちは、折紙さんの事を全然知らないんだって。知らないから、分からなくて、それなのに決め付けて怒りを抱いていた面もあったって…そう、気付きました。うちは、うちがやった事、やろうとした事を、間違っていたとは思いませんけど…きっとそのまま進んでいたら、後悔していたと思うんです。心にずっともやもやしたものが残っていたと思うんです。本当に、これで良かったのか…ううん、これしかなかったのか、って」
だから、士道が止めてくれて良かった。討たなくて良かった。…そうは言わなかった。何故なら確かに、最善最高ではなくとも、間違いではなかった筈だと思っているから。そして侑理は、そこで一度言葉を区切り、一度目を閉じ…ゆっくりと開いた瞳で折紙を見つめ、言う。
「知らないのは、うちも同じです。うちも折紙さんの事を、自分で思っている程知らないんです。だから…これからうちに、折紙さんの事を教えて下さい。うちも、折紙さんにうちの事を知ってもらえるようにしますから。言葉とか、説明とかだけじゃなくて…日々を過ごす中で、折紙さんって人の事を、感じさせて下さい」
「…それで、良いの…?」
「そうしたいんです。そうして知った先で、うちが折紙さんを心から受け入れられるか、やっぱり許せないと思うのかは、分かりませんけど……そうすればきっと、どうなったとしても、自分で自分に納得出来る気がしますから」
そう言って、侑理は笑う。笑ってから、自分は折紙へ向けた笑みを見せる事も出来るのだと気付く。
これは、単純な気持ちではない。昨日までより少しだけ折紙を知り、理解する事が出来たからだとか、憎んだとはいえ元々は仲間意識を持った相手だったからとか、過去が『なかった』事にはならないのと同じように、真那や皆と共にいる今が確かな『真実』であるからこそとか、理由は色々浮かんだが…折紙へ向けて、笑える事。侑理はそれを、嫌だとは思わなかった。
「…侑理がそうしたいと言うのであれば、それで良い。私も貴女に、私を知ってもらえるように努力する。…その方が良いと、私も思う」
「なら…色々ありましたけど、改めてこれから宜しくお願いしますね、折紙さん」
「こちらこそ宜しく、侑理」
自ら差し出した手。その手に折紙は応じ、侑理は折紙と握手を交わす。声こそ聞こえないが、真那と士道がこの決着へと行き着いた事にほっと胸を撫で下ろしているのではないだろうか。
(…いつか、エレンさんや第二執行部の皆とも、こうして話せる日が来るのかな……)
それも、分からない事。それが良い事なのかどうかも、今はまだ見えない事。…それでもそうしたいと、そうなりたいと、侑理は思う。
「…あ、ところで折紙さん。その髪型…もそうなんですけど、その…今の折紙さんっていうのは……」
「この世界の私が消えた訳ではない。あくまで一つになっただけ…だと思う」
「思う?」
「自分の事だから、逆に分からない」
訊きそびれていた、大きな疑問。今の折紙の人格は、一体どうなっているのかという問題。本人は、二つの精神が一つになっただけと言っているが…この様子だと、改変前の折紙がベースになって再構成されたとか、或いは改変前の自我が強過ぎて改変後の世界の折紙は半ば飲み込まれてしまった的な状態なのではないだろうか。侑理的には改変前の世界の折紙の方が馴染み深い為、その方が違和感もないのだが……なんというか、苦笑せざるを得ない状況だった。
ともかく、折紙と話した事で、侑理は折紙に対して少しだけ前へ進む事が出来た。和解した…とはまだ言えない。その言葉を簡単に使ってしまっては、本気で憎悪した侑理自身は勿論、自らを許せないと語った折紙もまた、納得出来ないような気がするから。だとしても、距離を空けていたままでは得られなかった、触れられなかったものが今の話の中にはあり、話がしたいと言ってくれた折紙に対して侑理は感謝を……
「──ここからは、別の話。侑理、貴女は真那の事が好き。それに間違いはない?」
「え?寸分の間違いもないですけど?」
「なら……真那が日本に来てからの話、私が見てきた真那のあれこれを、貴女に話すと言ったら?」
「……!お、教えてくれるんですかっ!?」
「勿論。但し、ただでとは言えない。話す代わりに、貴女も私に真那の事を教えてほしい。士道と血の繋がりのある妹の情報は、私にとっても貴重」
「…………」
「…………」
「…分かりました。ふっ……取り引き、成立ですね」
「ちょっ!?なに人の情報を勝手に取り引きしようとしやがってるんですかねぇッ!?」
がっちりと、今度は両手で握手を交わす侑理と折紙。Win-Winの関係を築ける、非常に良いビジネスの話が、今ここに締結したのだった。