久美子、秀一、麗奈が高校卒業して10年後、とある料亭にて。
あの夏のように、気温はぐんぐんと上昇している。
母校の北宇治高校へ赴任してから、気が付けば六年が経過していた。
私が顧問としてタクトを振る今年の北宇治高校吹奏楽部は先日、往年の快進撃を彷彿とさせるように全国大会へ駒を進めた。名前を呼ばれた瞬間、生徒の咆哮と共に見せる笑顔や涙を見て、私はほっと一息吐いた。抱き合う彼らの姿を見て、去年の卒業生の姿がフラッシュバックした。
去年の関西大会、自由曲に『ブリュッセル・レクイエム』を擁して挑んだ本番では、彼らは会心の演奏を果たした。当時副顧問としてタクトを振った私も、指揮台で手を止めた瞬間の高揚感と、達成感に満ちあふれた卒業生達の顔を見て確信めいたものがあった。
しかしそれでも、全国の壁は高かった。
金賞は獲得したものの、関西代表の発表で名前を告げられることはなかった。
無情に告げられる結果に膝を抱えて号泣する副部長。それでも部長は常に凜としていた。『強豪 北宇治高校』の看板がそうさせていたのかもしれない。彼女は強かった。しかし鉄仮面すぎる一面もあった。彼女だって人間で、ただ一介の女子高生だ。悔しくないはずがない。
去年の会場は奇しくもあの時の関西大会と同じロームシアターだった。
会場の中庭に聳える大樹の下で、部長は「最高の演奏をした、前を向いて帰ろう」と部員を鼓舞した。あの時の優子先輩を彷彿とさせる名演説だった。優子先輩も強かった。先輩が涙を見せる素振りを一切見せなかったように、彼女もその一端を受け継いでいた。
学校へ戻った私は、部長をこっそりと職員室へ呼んで、これまでの活動を労った。カモミールティーを一口啜った部長は、私以外いない応接室で初めて涙を見せた。高校生は高校生らしくあるべきだ。大人になんか、どうせいつかはなってしまうのだから。その涙は、いましか流せないよと、私は心の中で彼女に告げた。
彼らは、コンクールのためにあるのではない。彼らは高校生であり、子供だ。その儚く短い三年間に人生を凝縮してほしくはなかった。勿論、結果を求められる環境に身を置くことは、今後の間違いなく人生の財産となるであろう。
私は常日頃からコンクールが全てではないと教育していた。そして、吹奏楽部にいるならば最後まで楽しく楽器を吹いてほしい。たとえ全国に行けなくたっていい。その経験が財産になるのなら。
その考えに至ってから、私は『ダメ金』という言葉を使うことを辞めた。
関西大会から数日後、麗奈がアメリカから帰国した。
ニューヨークの音大から麗奈は、以降アメリカを拠点に活動していた。それでも半年に一度帰国する際は必ず会っていた。タイミングが合えば吹部の練習に顔を出して貰う機会もあった。周囲は麗奈と知り合いだということに色眼鏡で見てくることもあった。でも、私は彼女との関係に得も言われぬ安心感があった。
今夜は全国出場のお祝いをかねて、秀一が予約してくれたお店で麗奈と食事会をすることとなっていた。
午後六時、太陽は沈んでも空はオレンジと青を混ぜた彩りを見せる。マジックアワーとはこの時間帯を言うらしい。そんなお洒落な言葉とは裏腹に、じっとりとした湿気を纏った空気は快適とは程遠かった。
地下鉄の出口で待っていると、他の人とは明らかに違うオーラを漂わせた麗奈が現れた。肩口で切りそろえられた髪、ナチュラルメイクを施した表情に妖艶な印象を抱いた。
「麗奈! 久しぶり」
私と秀一を視認した麗奈は、綻んだ表情を見せて駆け寄ってくる。
「久美子、それに塚本も久しぶりね」
「ああ、長旅疲れたろ」
「こんなの平気よ。流石に慣れたわ」
流石、毎年世界を飛び回っているだけある。私だったら一ヶ月で音を上げてしまうかもしれない。
高校生の頃から容姿端麗だった麗奈は、大人になってからその美貌に磨きが掛かっていた。「それにしても今年はツアーが長かったから、一年も帰ってこれなかったから本当に久しぶりね」
「そうだよ、この前は麗奈すぐアメリカに帰っちゃうんだもん。空港に送りに行くことも出来なかった」
「う・・・・・・悪かったと思ってるわよ。あの後ちゃんと謝ったじゃない」
「まあまあ、とりあえず店入ろうぜ」
今日の夕食には秀一も同席している。麗奈と二人でも良かったけど、秀一も北宇治の全国出場を祝いたいとのことだ。
「マスター、こんばんは」
「お、塚本くんじゃないか! それに奥さんも、いらっしゃい!」
「こんばんは。お邪魔します」
丸顔に薄く整った、如何にもシェフのような格好の店長にぺこりとお辞儀をする。このお店は秀一が仕事先で使っているお店だった。いたく気に入ったようで、私とも何度か訪れている内に挨拶する間柄となった。ちなみに店長は、趣味でトランペットを吹いているようで、吹奏楽トークでも盛り上がっていた。
「今日はお連れさん・・・・・・ちょ、ちょっと! もしかして高坂麗奈、さん?」
麗奈の顔を見た店長さんは、驚きを隠そうともせず秀一を問い詰めた。
「え、マスター知ってるんですか?」
「当たり前じゃん! こんな有名人。えー、なんで言ってくれなかったのさ!」
「同級生なんすよ。中学高校と一緒に楽器吹いてました」
店長の勢いに麗奈は圧倒されている。大人になって少しは人との付き合い方に慣れたと思っていたけれど、その姿を見るに道のりは長そうだ。
「は、初めまして。高坂麗奈です」
「ご丁寧にすみません。ごめんなさいね、取り乱しちゃって。狭い店だけど、今日は気が済むまで寛いでいってください」
その後は店長が機転を利かせてお店を貸し切りにしてくれた。
「麗奈、ビール飲めるの?」
「あまり量は飲めないけど。久美子は飲めるの?」
「うん、秀一に付き合ってたら段々とね」
「・・・・・・ふーん」
「・・・・・・なんだよ」
麗奈が秀一にジトっとした視線を向ける。やや不満なのだろうか。
「別に。久美子が塚本に染まってるのが気に入らないだけ」
「子供か! てか、結婚してんだし別にいいだろ」
「いいんじゃない? ね、久美子」
「そこで私に話を振らないでよ。プロポースされたって連絡したらあんなに喜んでたじゃん」
「そりゃ、親友の結婚よ。それに高校でも大学でも、あんな不安定な恋愛してた二人がゴールインしたともなれば、嬉しいものよ」
「誰目線?」
「親友として、よ」
蛇が蛙を舌鼓するような表情を秀一に向けた。そういえば、昔から秀一は麗奈のこの顔が苦手だった。
「私もビールで良いわよ」
「え、いいの? じゃあ、注文お願いしまーす」
乾杯の飲み物と、和食メインのメニューからお酒に合いそうな料理をいくつか注文した。
料亭で修行し、独立してこのお店を開いたという店長の腕前は確かなもので、どの料理も溜息が出るほど美味しかった。
麗奈も日本での食事は久方振りで、その味にほっとしたのか行儀良く寛いでいた。誘った手前、それが嬉しかったのは言うまでもない。
話はお互いの身の上話や、同級生の現在に至っていた。なあなあで過ごす関係が嫌いと言っていた麗奈でも、高校三年間を過ごした戦友達の現在は気になる様子だった。麗奈の話はとにかくスケールが大きかった。京都の狭い盆地で人生を過ごす身からしたら、毎日世界を相手にトランペットを吹く日常は激動と言っても良いかもしれない。ワールドワイドな話とは裏腹に、ワルシャワの音楽堂で鎧塚先輩と撮ったツーショットを見せられた時には世間の狭さに仰け反った。
「で、二人の子供はまだなの?」
二杯目、三杯目と進んだお酒の影響か、麗奈の目は段々と据わってきて何度か爆弾発言を繰り返していた。その爆弾が、遂に私達に炸裂した。秀一は持っていたお猪口を卓に落とし、私はあからさまに動揺した。
「だって二人も結婚してもうすぐ三年でしょ。久美子だって、適齢期ってものがあるんじゃないの?」
それは麗奈だって、とは口が裂けても言えなかった。私はである。でも、隣に座ってるバカは違う。
「そう言う高坂はどうなんだよ」
秀一の反撃。さあ、麗奈からどんなお言葉が下るのか。私は願った。その口撃が全て秀一に向くことに。
「・・・・・・知らないわよ。だって、滝先生以外に恋したこと、無いんだし」
そっちに行ったか~・・・・・・。私は心の中で頭を抱えた。こうなった麗奈はちょっと面倒くさい。
滝先生への想いは卒業を期に違うベクトルへ進化した。生徒と教師という関係性でなくなってから、幾度となくアプローチをかけた彼女は、やれ家に誘うだの、ご飯に誘うなどを繰り返したが、結局高坂先生の娘という立ち位置から脱却出来なかった。その度に私のスマートフォンには長文の反省文が送られてくる始末で、その行く末には暗雲が立ちこめていた。しかしそれも、音大に通ってた頃の話だ。
「でもね、最近思うの。滝先生のことは今でも好きよ。でも、脈があるとかないとか、そういう事は考えないようにしてるの」
私の人間関係において、絶世の美女とも呼べる麗奈の澄んだ表情は、呼吸を止めてしまうほど美しかった。それでね、と彼女は続ける。
「滝先生、あの三年間で、きっと生きる糧を手にしたのよ。それが教師であり、吹奏楽部の顧問をすること。だから私の一存で、その時間を奪うことはしたくない」
生きる糧、言われて私にも心当たりがあった。最後のコンクール。全国金賞を獲得した時に滝先生は涙を流した。それまで、どんな結果にも動じなかった人が見せた涙に、私達は驚いた。それと同時に、三年間の努力が人の心を動かしたという事実に胸を熱くした。
高校一年生の頃、麗奈が打ち明けてくれた滝先生へのラブな気持ちは、きっと恋することから、その人を愛する気持ちに心が移ろいだのだ。この表現が正しいのかは分からないが、その想いを口にした麗奈は、大人だった。
秀一はぽかんと口を開けている。私はと言えば、そんな麗奈の心変わりを見て、辞書に聖母という言葉の意味に麗奈のことを書き加えたくなった。
「それに、来月にはボストンに飛ばなきゃいけないんだし、そんなスケジュールに滝先生を巻き込めないわよ。だからいいの。京都で、健やかに過ごしてくれさえすれば」
麗奈は世界各地を身一つで忙しなく飛び回っている。全国大会が目前の私もそうであるように、今しか向き合えないこともある。だが、それで良いのだ。
「麗奈、私は麗奈が選んだ人なら、きっと幸せになれると思ってるよ」
私の言葉に、僅かに笑みを浮かべる。アルコールで紅潮した頬に、個室の間接照明が当たって艶めかしい。ちょっとドキッとする。
「ありがとう、久美子、塚本」
その言葉に私達は安堵の溜息を漏らした。
「まあ子供は置いといて、今のうちは全国を控えてるし当分は忙しいよ。滝先生も異動されてから新任の副顧問の先生にも教えることは沢山あるし」
「久美子があの北宇治の正顧問とはな。滝先生から引き継いだ時、寂しさ半分嬉しさ半分だったんだろ」
「まあ、ね。離任式では吹部の子達もみんな泣いてたし、OBの人たちも何人か見に来てたよ」
「盛大だったな~。というか、あの日の飲み会の記憶が強いけど」
「あの時の麗奈、可愛かったね」
「久美子のバカ」
離任式の後、北宇治OBで企画して滝先生への送別会が行われた。最初の滝先生世代である小笠原先輩、香織先輩を始め、優子先輩や夏紀先輩、加部ちゃん先輩に後藤先輩夫妻など、多くの滝先生の教え子達が参加した。映像会社に勤める求くんと、こうした事に機転が利くさっちゃんが制作した滝先生の功績を讃えたビデオは好評を博した。ただ、お酒が回った麗奈が、退店間際に滝先生の腕を離さなくて大変だった。しかも帰りに、失態の自己嫌悪と滝先生への想いが爆発して、近所の公園で泣き出してしまった。麗奈の介抱を仰せつかった私は、気が済むまで彼女を慰めた。結局その日は麗奈の家に泊めてもらい、翌朝ボロボロのメイクで土下座されたのは二人だけの秘密になっている。
「酷い夜だったわ。久美子には申し訳ないと思ってるわよ」
自分の失態を悔いるように、麗奈は頭を抱えて項垂れた。こんな姿の彼女は非常にレアだが、その姿でさえ様になっているから美人は狡い。
まあ、飲めよと徳利を差し出した秀一が麗奈のお猪口に日本酒を注ぐ。
「でも、みんな思い知ったんだよ。高坂があそこまで滝先生を想ってんだなって。誰も茶化そうとする人は居なかっただろ」
「・・・・・・塚本、ちょっと面白がってるでしょ」
「別に、そういう訳じゃねえよ。ただ、あのドラムメジャーがあんなに感情を曝け出したことが、みんな嬉しかったんじゃないの?」
高校三年生。私達はそれぞれ役職を持った。私は部長。秀一は副部長。麗奈はドラムメジャーとして采配を振るった。三人とも北中出身で、優子先輩世代の幹部が南中政権と影で言われていたように、私達もどこかで北中政権と呼ばれていたことは耳にしていた。
「滝先生も一入だったんじゃね? あの頃は悲願の全国金賞だった訳だしさ。まあ、久美子も高坂も必死だったろうけど」
高校三年生の吹部で一番に想起される記憶。それは三人とも共通して、全国大会前に行われたオーディションだ。私と真由ちゃんが麗奈とのソリを賭けて、全員参加の再オーディションに挑んだ。結果は、麗奈の一票により僅差で真由ちゃんが勝ち取った。進路に迷っていた私は、音大に行かないと決断した直後だった。今思えば些細な出来事。それでも、麗奈と音を介して本気になれる最後のチャンスを、私は逃した。
私は真由ちゃんと、正々堂々と勝負をして勝ちたかった。若気の至りだ。あの夏があったから、私は本気で挑んだことに誇りを持つことが出来た。でも。
「やっぱり麗奈には私を選んで欲しかったな~」
あの頃を思い出すと、心臓が早鐘を打つ。強烈な経験だった。お酒が回ってる尚のこと顔が熱くなる。余計に回る口に気が付いたのは、麗奈が怪訝な表情を向けたときだった。
「冗談、よね?」
「じょ、冗談だよ。あはは」
しまった。地雷を踏んだ。
大吉山で号泣し合ったあの日。麗奈は何度も私に謝った。どうして謝る必要があるのか。オーディションに落ちたのは私で、麗奈は全国金賞を獲れる最善の選択をしただけ。そのことを、私は誇りに思っていた。
麗奈があの時謝った理由、大人になった今なら分かる。分かってて引導を渡すのは気持ちの良いことではない。麗奈は、音楽を裏切らなかった。たとえ、親友が負けることになっても。
あの時の私は結果をすんなりと受け入れた。だって、真由ちゃんが音楽に向き合うには、その方法しか思い浮かばなかったから。
「そういえば、塚本は久美子の音、分かったの?」
「そりゃあ、ね。というか、関西のオーディションで落ちた時も、それまで別に久美子の音が悪いとも思っていなかったしな」
「え、私達の音って、そんなに分かるもんだった?」
「久美子の音って、私と吹くときに熱が籠もるのよ。それが黒江さんとの明確な違い。今だから言うけど、響かせ方の違いだから音の映え方が変わってくる、特にソリだとね」
自覚したことなかった。練習でも、そうでない時も何度も麗奈と音を合わせた。麗奈に対する想いが、そうさせたのだろうか。
「私は消去法だったわよ。黒江さんが吹いた時の、私を乗せてくれるみたいな置きに行った音を聴いて、ああ、久美子じゃないなって」
そう言われると、なんかムカつく。だから意地の悪い言葉を投げかけた。
「麗奈は滝先生に金賞獲って欲しかったんだもんね。だから真由ちゃんを選んだんでしょ」
「ちょ、お前」
秀一が咄嗟に制してきた。何よ、こういう時だけ。
「そんな言い方ないでしょ! 私がどんな想いで選んだか知らない癖に!」
「分かるよ! 私が同じ立場ならって何千回も想像したよ! 麗奈を選ばない事に心が痛まない筈がないでしょ」
小さなお店に私と麗奈の叫び声がこだまする。驚いた店長さんがのれん越しに覗いてきて、秀一が謝るついでにお冷を三つ頼んだ。
「お前ら、いい加減にしろ」
私達を交互に睨む秀一に、頭に上った血が一気に冷めていく感覚がする。
「・・・・・・ごめん、麗奈」
「いえ、私の方こそごめんなさい」
バツが悪くなった私達は、仏の副部長の雷によって制止した。秀一は、私と結婚してから強くなった。お姉ちゃんからも言われたことがある。アンタは我が儘が故に損しそう、と。今になって思い起こすと、中学から今までかなり面倒臭い癇癪をよく起こしていた。それだけではない。高校二年生の時、私は一方的に秀一に別れを言い出した。しかも、部活が終わった後に気持ちが変わっていなかったら、また告白してくれなんて言って。なんと虫の良いことか。あの当時のことを思うと、今でも秀一に申し訳ないことをしたと良心の呵責に苛まれる。
秀一は昔から優しさと気遣いがあった。部活を引退して再び付き合いだしてからも、何度も癇癪を起こした。その度に秀一は私の棘も槍も雷も受け止めていた。だから喧嘩をしても、ただでは折れなくなった気がした。
頼んでいたお冷が届いて口に含む。適度に冷やされたミネラルウォーターが喉元を過ぎると、からからに乾いていた喉が潤された。
私はふう、と一息ついて、麗奈と向き合った。
「麗奈。前にも言ったことがあるけど、私は後悔してないよ。もちろん麗奈の下した判断にも納得してる。麗奈の判断に誇りを持てるようになったよ。あの時、私たちは『特別』になれた。音に誠実でいた麗奈の判断が、今でも私の心の支えになってるの」
歯が浮くような言葉だった。秀一が横で聞いているが、結婚に至る前に麗奈との関係を打ち明けたことで、私の言葉の意味に疑問を抱いている様子はなかった。
目の前の麗奈は、先程の据わったような瞳から優しい眼差しに変わっていた。
「知ってる。だって、裏切ったら殺すんだからね」
いやいや、そこ!? なんで不敵に笑うのよ! 麗奈!
「お前らって、そういう・・・・・・」
「あーもう! 邪推すんな! バカ秀一!」
そんな有様だから、麗奈と秀一は二人して笑った。腹立たしかったけど、なんだか可笑しくなって私も吹き出した。
秀一がお会計の合図を店長さんに送る。気が付けば終電が迫っているような時刻だった。ずっと貸切にしてしまった麗奈がお礼をしたいと申し出て、私達は麗奈と店長さんのツーショットと、サインを書いたら? と提案した。麗奈は快諾すると、色紙にサインと、短いメッセージを認めた。私と秀一はその手際の良さを見て、プロの腕前と感激した。
「うちも書いて貰って飾っとくか」
「何言ってんの」
秀一のくだらない発言に麗奈はクスリと笑った。
「いつでも遊びに行ってあげるわよ」
高校三年間、あの時が一番音楽に本気だった。麗奈がいたから本気になれた。秀一がいたから躓いても前に進むことができた。私は二人に、何かを与えることが出来ただろうか。
いや、それも烏滸がましい。そんな大人みたいな考えは、あの時は思ってもいなかった。きっとみんな、思っていなかった。それでいいのだ。なぜなら、みんな一つの目標に向かって必死だったから。最後まで私に付いてきてくれたことが、何よりの誇りだ。
地下鉄の駅で麗奈と別れた。次、こうして麗奈とゆっくり話せるのは何年後だろうか。それを思うと、麗奈が滝先生の送別会で抱いた気持ちに少しだけ寄り添うことが出来た。寂しい、と公園のブランコで泣きながら小さく呟いた。その時、聞こえない振りをした私はきっと麗奈に性格が悪いと言われるだろう。だから私も麗奈に言わなかった。
「それじゃあ、またね」
「うん、またね」
改札を通ってホームに姿が消えるまで彼女の背中を見送った。
秀一が手を引くまで、その場を離れることが出来なかったのは名残惜しさがあるから。明日からまた日常が始まる。だから私達は大人になれたのだ。
鴨川の河川敷を家まで歩いて帰る。左京区の賃貸マンションまでは十五分ほどで到着する。酔い覚ましには丁度良い距離だ。
全国金賞を獲得した世代は、現役の吹奏楽部からも伝説扱いされている。そんな大仰な話に発展しているとは露知らず、赴任した当初は「生き証人が来た」などと持て囃された。
当時のコンクールメンバーで、その時間だけ濃密とも言える関係だった一人の女の子のことが、頭に浮かんでは消えずにいた。
「真由ちゃん、元気にしてるかな」
「黒江? 東京の大学に行ったんだっけ」
「うん。卒業してから、一度も連絡取ってない」
「そっか、家族も京都から引っ越しちゃったんだよな。成人式、来てなかったし」
真由ちゃんの家族は転勤族なのは、本人から聞いた話だ。ただ、真由ちゃんは東京の大学を進路先に選んでいた。卒業式の日に一言挨拶を交わして以来、一度も連絡は取っていなかった。
「会って何か言うつもりなのかよ」
「いや、そうじゃないんだけど・・・・・・」
「あのオーディションの前にしっかり話付けたんなら、何も蒸し返すようなことはないと思うけどな」
秀一の言う通りだ。今更再オーディションについて話そうものなら、真由ちゃんを困らせるだけだ。
「いいから前を向こうぜ。忘れても良い。それも思い出として残るだろ」
「・・・・・・うん!」
あの時よりも彫りが深くなった右手。秀一も色んな経験や苦労を経て、私にプロポーズをした。その手が導いてくれるなら、どこまでも一緒に付いていこうと思える。
私は両手をぐっと頭の上に持って行って伸びをした。
「明日からまた練習か~」
「頑張れよ、伝説の部長」
「茶化すな」
それを言うなら秀一こそ、私の伝説の副部長だ。
あの頃の同級生の中でも、こうして定期的に会っているのは片手で数えるほどの人数になってしまった。しかし、それに悲観することはない。人間関係なんて、それが当たり前なのだ。
今年、全国の舞台で胸を張れるような報告が出来るよう、今は生徒達に全てを賭けても良い。滝先生達のように、私もそうなりたかった。
最高に楽しい3ヶ月間でした。