「ガラスの脚」という言葉がある。
それは、競走バにとって、自分の脚がどこまで持つのか、どこで砕けてしまうのかを理解することが欠かせないということを意味している。
競走バはその生涯をかけて、速さと力を追求するが、その代償として脚の故障というリスクを常に抱えている。
どんなに素質があっても、どれだけ努力しても、ケガはその全てを一瞬で吹き飛ばしてしまう。
「無事これ名バ」とは、ケガによって名バになれなかった多くの素質あるウマ娘たちがいたことを示しているのである。
ここに一人の男がいた。
彼は生涯、特段何かに打ち込むことから逃げ続けてきた男だった。
幼少期から何かに集中することが苦手で、親が興味を持つようにと男に勧めた習い事も上達する前にその怠情によってどれ一つとして長続きするものは無かった。
ピアノ、水泳、絵画…興味が0な訳ではないが男の怠け癖はそれを大きく超えていた。
中学、高校時代も同様で、部活動には所属せず、帰宅部として過ごした。
だからといって勉強にも身が入らず、成績も平均以下。それでも彼は特に気にすることなく、ただ日々を過ごしていた。
彼の人生は、何も得ないが故に何も失わないという無気力なものだった。
周りの友人たちはそれぞれの目標に向かって努力し、時には失敗や挫折を経験していたが、彼には守りたいものも、取り返したいものもなかった。
なんとなく生きて、そしてなんとなく死んでいく。そんな人生を送っていた。
社会に出てからも彼の生き方は変わらなかった。
仕事も、最初はなけなしのやる気を持って取り組むが、怠け癖によって数か月後には退職することになった。
ニートになれるほどの余裕は家には無く、転々としたどの職場でも特に目立つこともなく、同僚との交流もほとんどなかった。
趣味らしい趣味もなく、休日は家でゴロゴロして過ごすことが多かった。
彼の人生には、何か特別なことが起こるわけでもなく、ただ日々が淡々と過ぎていく。
そんな彼が、ある日突然命を落とした。
特に原因があるわけでもなく、ただ静かに息を引き取ったのだ。
彼の死は、誰にも気づかれることなく、ただ静かに迎えられた。
その時、彼は何を思ったのだろうか。生きている間に何も成し遂げられなかったことへの後悔や、これからの人生への期待。彼の心の中に何があったのかは、誰にも分からない。
「またか……」
古代において、中世において、近世において、そこでの生は過酷であり、何もないなりに何かを求めていた。
何も知らなかったが、知らない故に見えない世界を頭の中に作り上げた。
翻って現代は平和な時代であり、豊かな時代である。
そしてそれらは安定したシステムが支え、個人の熱量はシステムに組み込まれていく中で重みを減じてきた。
そうして増えたのが彼のようなものである。全てを諦観して自暴自棄になるわけでもない、それなりの娯楽、それなりの満足。
明確な希望もなければ絶望もない。
「どうしたものか... 」
堕落というほどではないが、生の輝きや活力は確実に衰退していた。
「折角ここまで育てたものをもう一度作り直すのも考え物だ。それにこのままではまた次回も同じ失敗を繰り返すだけか...」
なにか執着するものを与える必要がある。
そして、それが当たり前でなくなったとき、そこに改めて執着するのである。
ならば、得させてやろう。中身が凡人であっても栄光を掴むに十分すぎる素質を。
そして、全速力で走ると壊れる脚を。
彼は、新たな人生を与えられることになったのだ。
気がついたらウマ娘になっていた。
明確に自覚したのは6歳になったころだっただろうか。
ふと自分の耳がウマの耳であり、尻尾が生えていることに違和感を持ったのだ。
その日から、俺、いや私は…特に変わらなかった。
前世と今世の性格が似ていたこともあり、人格はすぐに混ざり合い違和感はない。
今世の自分も怠け者であることに変わりはないようだ。
性別が変わったものの、この身体で数年間生きてきたので今更のことである。少しだけ周りの女の子をそういう目で見たくなるのは秘密だ。
ウマ娘というのは元来、走ることを好む種族だそうだが、私はあまりそうではなかった。
これが前世の影響なのか、単に元からそうなのかは分からない。
しかし、走れば速かった。
トレーニングやフォームの調整なんてものはしたことがないが、走り出せば身体が自然と最適化していった。
これが幼い身体からは想像もつかないほどの筋力と合わさり、すさまじい速力をだした。
これがウマ娘の脚力かと驚くものの、だからといって過ごし方が変わるものでもない。
インドア派である私の脚が誰かに注目されることは無かった。
私が真の意味で初めて自分の速さを理解したのは、小学校の運動会だった。
3年から追加された400m走ウマ娘の部で、私はいつもの通り気怠げな雰囲気で走った。
風を切る感覚、足元が地面を蹴る力強さ、それらを感じながらの400mは意外に短かった。
私の足は、他のウマ娘たちとすら明らかに違っていた。
半ばの力で走った私は一瞬でゴールテープを切り、周りの大人たちは驚きの声を上げた。
それからというもの、私の速さは学校中で有名になった。
先生たちや友達からは「期待の星だ」と言われ、注目の的になった。
しかし、私は特にそれを誇りに思うこともなく、ただ淡々と日々を過ごしていた。
前世の影響なのか、何かに対して情熱を持つことができなかった。
それよりも私はもっと卑近な娯楽を求めた。子供では手にしにくいゲームやマンガを両親にねだったのだ。
そんな私に両親は地元の大会への出場をゲームやマンガの交換条件として出した。
府中の東京レース場からほど近いという地域柄か、地元では小学生向けの大会が数多く開かれていたのだ。
距離は短いもので400 mから長いもので1000 m程度と子供向けのものであるが、想像以上に観客がいたのには驚いた。
前世とはレースに対する熱意が違うのだろう。
ペース配分など分からない私はとりあえず一番前を走っている娘についていき、残り100 m程度でちょっと脚を早めて抜くという単純な作業を繰り返した。
当時はそれがどういう結果をもたらすか考えてはいなかった。
それよりも翌週の少年誌や来月の新作RPGが気がかりだったのだ。
そんなこんなで欲しいゲームが出るたび、好きなマンガの単行本が出るたびに大会に出場し、有り余る小学生の時間をゲームに注ぎ込む日々を過ごしていたある日のことだった。
その日は朝から妙に両親が落ち着かない様子であった。
テーブルにはどこから出てきたのかテーブルクロスがひかれ、雑多なモノは全て空き部屋に放り込まれて施錠された。
ゲームの音が邪魔にならないようにと、最近買ってもらったウマ娘用のワイヤレスイヤホンを取り出していると両親が小洒落た服をもって来る。
どうやら私にも用がある来客らしい。
両親は怠け癖については諦めているようだが、私をどこに出しても恥ずかしい思いをしないようにとしつけについてはそれなりに厳しい。
前世の記憶によって最低限のマナーを身に着けた結果、それなりに分別のある怠け方をしているためか、来客の前に出してもよいとの判断なのだろう。
服に袖を通すと、次は髪や尻尾を梳かれる。これが案外気持ちいい。前世が短髪だったためにあまり経験は無かったが、されてみると悪い気がしない。
特に尻尾を丁寧に梳かれる気持ちよさはこのまま寝てしまいそうなほどだ。
とはいえ、このままではこのよくわからない事態に対応ができない。そう思って今日は何があるのかと聞くと、返ってきたのは両親のあきれ顔だった。
「ウィー? あなた・・・さては昨日私が言ったことを覚えてない・・・いや、そもそも聞いてなかったわね?」
そういう母の目は一切笑っていない。
ちなみにウィーとは私のことであり、ウマ娘としての名前「ウィトルムペデス」からの愛称である。
なかなか覚えにくく呼びにくいせいでクラスメイトや先生からも本名ではなく愛称で呼ばれる。レースに出たときにも何度か読み間違えられた。
そんな現実逃避をしていると父が助け舟とばかりに封筒を手渡してくる。
「ウィー、この手紙に書いてあっただろう?」
渡された手紙を見ると確かに見覚えがある。
トレセン学園の入学許可を伝える内容だったはずだ。
ざっと中をみても何やらそれっぽいことが書いてありそうだ。
前世でも中学に入るときに自治体から似たような手紙かなにかが来ていたような気がするし、ウマ娘の私にはトレセン学園からのそれが来たということだろう。
これが、どうしたというのだろう。
確かに同じ小学校の子は大半が地元の中学に行くだろうけど、ここいらでは盛んな中学受験みたいなのでも行く学校が変わるものだ。
両親は友達と離れることを心配でもしたのかもしれないが、な ぜ か 不思議なことにそこまで仲の良い友達はいないので違う学校にいくことには抵抗感はない。
もしや、今日は一緒にトレセン学園に通うことになる子との顔合わせかなにかだろうか。
元トレセン同級生のママ友が娘を連れてくるみたいなのはいかにもありそうだ。
それにしても、最近入手したイヤホンでUmatubeを流して、母には生返事をしていたのが悔やまれる。
おそらく、理解せぬまま返事をしていたのだろう。
ここは母の旧友説を採用で勝負を掛けるか?いや、それにしては手紙を読む私を見る両親の眼が真剣すぎる気がする。
まるで、ハリーに来た手紙を見たダーズリー一家のようだ。
いや、私も母もウマ娘なのは見たら分かる話だし、ホグワーツからの手紙程の驚きはないよ。どちらかと言ったら魔法族の家庭の反応をすべきだよ。どんな反応か知らないけど。
私の反応から無理解を察した母が口を開く・・・前に玄関のチャイムが鳴る。
「歓迎ッ!君のような素晴らしい才能をもったウマ娘がトレセン学園に入ってくれればこれ以上のことはない。」
なんかちっこいのが立っていた。
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