ガラスの脚系TSナマケモノ娘   作:ヤキブタアゴニスト

60 / 73
wikipedes ウィトルムペデス

ウィトルムペデス


このページでは旧年齢表記が用いられています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。

 

 

ウィトルムペデス(欧字名:vitrum pedes、1995年3月22日 - 1998年11月29日)は、日本の競走馬。

 

1997年に中央競馬(JRA)でデビュー。デビュー戦となった9月の新馬戦からいきなりの大差勝ちを収める。短い間隔でOP戦を連勝、年末の朝日杯3歳ステークスで勝利を収め6戦6勝でこの年を終える。1998年も年明けから連勝を続け10戦10勝で皐月賞を迎える。無敗三冠すらささやかれる中でこれを快勝。NHKマイルカップ、ダービーと短期間でG1を連勝。無敗のまま休養に入る。秋は菊花賞には出ずに古馬戦線に進み、毎日王冠、天皇賞(秋)でサイレンススズカを破って現役最強馬に君臨する。しかし、ジャパンカップにおいて歴史的大差での勝利直後、ゴール板を過ぎたところで左右両脚を粉砕骨折、予後不良となり安楽死となった。17戦17勝。

 

 

生涯


誕生に至る経緯

母グラスステップ(父グリーングラス)は勝ち上がりまでに4戦を費やしたものの、その後OP馬にまで勝ち上がっている。ただし、重賞出走の前に脚部不安から引退に追い込まれている。その後、日高町の末松牧場で繁殖入りした。

OPまで勝ち上がったことから繁殖牝馬として期待されていたため、初年度から当時ブレイクを果たしつつあったサンデーサイレンスが付けられ、一度で受胎した。

 

誕生・デビューまで

ウィトルムペデスは母グラスステップにとって最初の出産であり、平均よりかなり小さく誕生した。お産自体は安産であり母体に影響はなかったものの、生まれたウィトルムペデスは全く立ち上がる気配を見せなかった。また、暫くすると動かなくなったため牧場関係者は心配したものの、獣医師によって寝ているだけであったことが確認された。その後、母グラスステップが促すと、初めてとは思えない安定感で何事もなかったかのように立ち上がった。

ただし、ウィトルムペデスは一際小柄であり、競走馬としてのデビューができるかどうかはその時点においてはかなり心配されていた。さらに、ウィトルムペデスは他の馬に興味を示さず寝てばかりいたことから気性の点からもレースに不向きであると思われていた。

 

しかし、育成センターで馴致が始まり、実際に走らせるようになるとその能力は桁が違っており各課題をあっさりとクリアしてみせた。ただ、ここでも気性面は変化しておらず、気に入らなくなると指示を無視して横たわるといった有様であった。

 

育成センターから美浦トレーニングセンターの館嶋厩舎に入厩となったが、北海道からの長距離移動で激しく消耗していた。あまりの消耗ぶりに本来は7月デビューの予定であったが長距離の移動を避ける目的で、中山でのデビュー戦が始まるまで待つことになった。

 

競走馬時代


3歳(1997年)

9月6日、中山競馬場の芝1600メートルでデビュー、騎手は2年目の横尾明であったが調教の様子から1番人気に押される。レースではゲートから出た瞬間から掛かったかと思うほどの加速を見せた。そのまま道中では完全な一人旅となり800m地点で後ろと2秒ほどの差をつける大逃げに流石に失速するかと思われたが、4コーナーを越えてもそのままの速度で差を広げ続け新馬勝ちを飾った。勝ちタイムは1:32.1という3歳コースレコードであり、多くのレースが行われる中山芝1600mではあるが現在でもウィトルムペデス以外で3歳で1:32.5を切った例はない。翌日のスポーツ紙では大物現ると大々的に報じ、早くもクラシック有力候補へと名を連ねることになった。大差による勝利だったものの、レース後の様子からは疲れた様子がみられないこと、暴走気味でレースでの抑えた走りを覚える必要があること、調教を嫌がることが多かったことなどから陣営はレースを積極的に使う方針を固めた。なお、規定により5秒以上遅れてゴールした4着以下はタイムオーバー制度が適用されたが、適用頭数が10頭と多かったことから一部で議論を呼ぶこととなった。

 

次走は2週間後の芙蓉ステークス(OP)を選択、中山競馬場での芝1600mと新馬戦と同じコースでウィトルムペデスを慣れさせることになった。調教を嫌がったためぶっつけのレースになったものの、前走の期待感から圧倒的な1番人気に推される。レースでは抑えて前目につける戦法を試し、直線で末脚を爆発させると後続を引き離しての勝利を収めた。ただ、鞍上横尾は「馬体が小さく揉まれがちになる。馬の気質から言っても逃げのほうが向いているのでは」と先行策は不向きではないかと述べている。なお、レース後には脚を緩めずに引き上げようとしたため、横尾騎手が必死に手綱を引いて止める等、余力を残しての勝利であった。

 

3戦目は中2週でアイビーステークス(OP)東京芝1400mを選択。理由としてはレースでは走るものの、調教は拒否して馬房から出ないため仕方なく近いレースを選択したというもの。このレースには後にグランプリ3連覇を成し遂げたグラスワンダーが出走しており、人気を分け合うことになった。レースでははじめは横尾騎手が懸命に抑えるものの、第3コーナーに入るころには抑えきれずに暴走。しかし、失速することなくグラスワンダーの追撃を振り切り逃げ切り勝ちを収めた。

 

4戦目は中1週での東京競馬場芝1600のいちょうステークス(OP)。さすがにレースを使いすぎであるという声も上がるも、レースでは大逃げを打って大差での勝利を決める。なお、この直後に同じ東京競馬場での天皇賞秋では後に対戦するサイレンススズカが出走している。

 

5戦目は初めての重賞GⅢ東京スポーツ杯3歳ステークスに出走。このレースには後に高松宮記念を制するキングヘイローも出走していたが、無傷の4連勝ともあって1.5倍の1番人気に推される。レースではゲートでの反応が遅れ、3馬身ほど後ろからのレース展開となってしまう。前が塞がったため中団からのレースとなったが前が空く気配がなかったため、横尾騎手は脚を緩めて外に持ち出し直線で最後方から一気に前のキングヘイローを抜き去り重賞制覇を決めた。このパフォーマンスには陣営すらも驚きを隠しきれず、レースで別の馬に乗っていた騎手の中には三冠は持っていかれたと嘆く騎手もいたほどであった。

 

次走となった年末の朝日杯3歳ステークスでは1.4倍の圧倒的な支持を受けた。2番人気のグラスワンダーを除いて単勝が軒並み50倍を超えるという状態であった。レースは人気上位馬二頭による一騎打ちの様相を呈し、大逃げを打ったウィトルムペデスをグラスワンダーが単騎で追跡するというものであったが、ウィトルムペデスが逃げ切り勝ちを収めた。

 

1997年はこのレースで出走を終え、6戦6勝とした。また、翌1998年1月に発表されたJRA賞では最優秀3歳牡馬に選出された。デビュー戦から出走したレース全てで圧勝と呼べるほどの勝ち方をしており、シンボリルドルフ以来の無敗三冠の声も大きくなっていた。

 

4歳(1998年)

 

 

4歳時は京成杯からの始動。めぼしいライバルの不在と得意の中山芝1600mというのもあり当然の圧倒的な1番人気を背負う。ここを横綱相撲で勝ち切って重賞3連勝とすると、陣営は共同通信杯に向かうことを発表。世代の有力馬と見られていたエルコンドルパサーとの対戦となった。

 

迎えた共同通信杯は未明からの雪によって芝コースが使用不可だったため、ダートコースでの開催に急遽変更となった。このコース変更はダートで連勝してきたエルコンドルパサーに有利であるとみられ、ウィトルムペデスのファンの一部から多数の抗議の電話が寄せられることになる。レースでは出遅れた上に最初の直線で慣れない上に状態の悪いダートコースに苦戦するものの、他の馬との接触を避けてコーナーを大回りするという横尾騎手の奇策が決まる。最後の直線では外ラチに近いところを走るなど、大幅な距離のロスがあったものの2着のエルコンドルパサーに3馬身差で勝利した。経験の薄いダートでの勝利によってその実力を証明したものの、適性としてダートに向いているわけではないためこれ以降ダートを走ることはなかった。

 

次走は皐月賞トライアルのスプリングステークスに定めた。スペシャルウィークら有力馬が弥生賞に集まったことで当初はこちらへの出走も検討していたものの、共同通信杯以降の調子から間隔を取るためにスプリングステークスを選択した。レースでは他馬を全く寄せ付けない圧倒的な競馬で9戦9勝とした。このまま皐月賞へと直行すると思われていたものの、陣営は中1週でのクリスタルカップへの参戦を決めた。

 

クリスタルカップは芝1200mであり、そこから中1週での皐月賞は距離延長と疲労の面から無謀な出走と報じられた。また、三冠路線へと進む馬が短距離路線の重賞に出走するのは極めて稀であり、馬体への負担が心配された。しかし、陣営の証言によればウィトルムペデスは共同通信杯後に温度管理の為された専用の馬房から出ることを嫌がって満足に調教できず、結果としてスプリングステークスの時期には運動不足気味であり、レースへの出走はむしろ疲れさせて皐月賞での暴走を抑止するのが目的であった。ただ、調教師の館嶋は後年1200mでの疲労では運動不足を解消するには少々不足であったと述べている。

クリスタルカップでは道中少し控えて直線で抜け出すという形でレースを進め、直線では横尾騎手の合図に抜群の反応をみせた。結果的に直線で付けた差は1.2秒。短距離戦でのこの着差は異常とも言えるものであった。勝ちタイム1:07.3はレコードを1秒更新することになった。これは同コースで行われるスプリンターズステークスの当時のレコード1:07.1(サクラバクシンオーが記録)に肉薄するものであり、4歳馬が道中抑えた上で出してよいタイムではなかった。脚への負担を考えてレース後に精密検査が行われたものの問題はなく、皐月賞に出走することが決まった。

 

変則三冠路線へ

皐月賞では当然の1番人気であり、単勝1.2倍、複勝元返しという人気ぶりであった。クリスタルカップからの距離延長に関しても不安視する声は少なく、陣営も「勝つか負けるかよりもどう勝つかが問題」と自信をのぞかせていた。

当日は中山競馬場に9万人もの観客が集まるなどある種異様な盛り上がりを見せていたが、ウィトルムペデスの状態はレース前も非常に落ち着いていた。レースが始まると内枠で同じく逃げを打ったセイウンスカイと並ぶ形となり、2頭が並ぶ形で前半を走ることとなった。競り合いによって徐々にハイペースになっていったところでセイウンスカイが抑えたため、単独での逃げに変わり、向こう正面では5馬身程度のリードで進む。3コーナー付近からスペシャルウィークが進出して直線の入口で距離を縮めるものの、横尾騎手の合図に反応して一瞬で加速。スペシャルウィーク以下を置き去りにして、見事に最初の一冠を制覇することになる。

横尾騎手はレース後のインタビューで「余力を残しての勝利ということで今後のレースにつながる勝利。」と話しており、直後にNHKマイルカップへの出走が発表された。

 

 

NHKマイルカップには共同通信杯で対戦したエルコンドルパサーが参戦していたが、やはり単勝1.2倍を切るほどの人気であり勝利は間違いないとみられていた。また、皐月賞からの疲労に関しても陣営側からのコメントでは不安要素にはされなかった。

レースでは出足が付かず、馬群の内側に閉じ込められるようなコース取りとなる。荒れた内側は走りにくいかと思われたが、4コーナーで一気に加速して先行集団から抜け出すとエルコンドルパサーとのたたき合いを制した。

これでデビュー以来12連勝として同世代の有力馬を完全に抑え込んだことで、早くも同じく連勝街道を歩み得意距離が被っているサイレンススズカとの対決が期待されることとなった。一方で、レースでの思わぬ激走からダービーへの疲労が心配されることになった。

 

続く日本ダービーは大外枠と距離延長への不安、NHKマイルカップからの疲労を考慮されてか単勝1.4倍と少し人気を落とすことになった。レースでは大逃げを打つウィトルムペデスに対して競りかけるものがおらず、自由に逃げる展開となる。大きなリードを保ったまま4コーナーから直線に入るもののいつものように末脚が伸びず急激に失速。猛追するスペシャルウィークらに一旦は差されるものの、再度加速して差し返し半馬身差で二冠を達成した。急な失速については故障や距離適性、ゴール位置を間違えた等の様々な説が唱えられた。手綱を取っていた横尾騎手は勝利後のインタビューで、「ウィトルムペデスは普段のリラックスした状態からレースになるとスイッチが入ったかのように動きが良くなる。しかし、あの場面ではレース中にも関わらず一気に普段のリラックス状態に入ってしまったように感じる。彼にとってこの距離のレースは飽きてしまうほどに長かったのかもしれない。」と語っている。

 

夏の休養と古馬戦線

夏の期間は当初は故郷での放牧が予定されていたが、移動による消耗が心配されたためにトレセンでの休養に切り替えられた。体調面を考慮して厳しい調教を避けて、可能な限り室温が調節された馬房の中で休養とした。

 

秋初戦は菊花賞トライアルではなく古馬との初顔合わせとなる京成杯オータムハンデへ出走。ハンデ戦への出走ではあったものの、陣営は秋の連戦に向けて少しでも身体を作るための出走と位置づけていた。レースでは63kgという圧倒的なトップハンデを背負いつつもそれをものともせずに先頭に立つと、そのまま押し切り勝ちを決める。

 

そして、次走に定めたのがGⅡ毎日王冠であった。

 

 

毎日王冠

陣営は秋の目標を菊花賞ではなく天皇賞秋にすることを決断。これは夏の段階で長距離輸送に向けた訓練の結果が芳しくなかったことや、ダービーでの結果から距離の延長に不安があったためだった。輸送に関しては細かな輸送を繰り返して関西圏に移動する計画も練られたものの、ウィトルムペデスが慣れない厩舎に抵抗を示したため、複数回の移動が負担になると判断された。

毎日王冠は秋の天皇賞やマイルチャンピオンシップへと向かう馬にとって距離や時期がちょうどよいレースのため、古馬戦線の一流馬が集まりやすいハイレベルなレースになることが多い。そして、この年は秋の天皇賞を目指して連勝を続けるサイレンススズカが既に出走を予定しており、宝塚記念を勝利したばかりの古馬の頂点とのいきなりの対戦となった。頭数こそ少ないものの、エルコンドルパサーやグラスワンダーといった4歳の実力者も顔を揃えており、史上最高のGⅡと銘打たれた。

レース当日は東京競馬場には15万人以上の観客が押し寄せる異例の事態となった。古馬との対戦という事もあり、サイレンススズカがやや有利と見られ、サイレンススズカ1.6倍、ウィトルムペデス1.9倍と完全な二強体制となる。なお、これはウィトルムペデスにとって生涯唯一の2番人気であった。

 

レースではサイレンススズカとウィトルムペデスが序盤から両者大逃げを打つと、ウィトルムペデスがサイレンススズカの後ろにマークする形でレースを進める。4コーナーでは両者馬体を合わせる激しいレースを繰り広げるも、直線で二の足を繰り出してサイレンススズカを振り切った。

横尾騎手はインタビューで、「サイレンススズカがよいペースで逃げを打ってくれたので、4コーナーの段階でかなりの脚を残すことができたのが最大の勝因」と語っている。

 

この毎日王冠での勝利後、陣営は菊花賞を回避して天皇賞に出走することを発表。

無敗三冠がかかっている菊花賞に出走しないことは前代未聞であり、三冠を期待していたファンからの数多くの批判にさらされることになった。

 

天皇賞秋

サイレンススズカを筆頭にメジロブライトやステイゴールドなど古馬王道路線の有力馬が集結したものの、前走でのサイレンススズカに対する勝利から期待は大きく1番人気で支持された。調子を上げていたサイレンススズカに一時は1番人気を譲るものの、投票締め切りまでには再びウィトルムペデスが1番人気となった。

レースはサイレンススズカとウィトルムペデスの逃げあいになるかと思われたものの、ウィトルムペデスはゲートを出遅れる。場内が悲鳴に包まれ、サイレンススズカが単騎の逃げとなりハイペースで飛ばす中、横尾騎手はサイレンススズカを追うために向こう正面までに馬群を躱して2番手に進める。その後も3番手集団から20馬身ほど離して2頭の追い比べのようなレース展開となり、3コーナーまでさらに脚を使ってサイレンススズカに並びかける。4コーナーから直線に入ったところでサイレンススズカは失速しており、レース後の馬体検査でこの時既に左後脚を骨折していたことが明らかになる。失速するサイレンススズカを横目にウィトルムペデスはさらに加速して突き放し、天皇賞を制する。

レース後にはサイレンススズカの骨折と休養が発表される。一方で、ウィトルムペデスも馬体検査上は極めて健康ではあるものの、手根骨に力が過剰にかかりすぎるという骨格上の懸念が浮上していた。これを受けて陣営は春に目標にできるようなレースがないこと、種牡馬としての価値は十分であることなどから年末の有馬記念での引退を考え、ジャパンカップ後にその結果を受けて公表する予定であった。

 

一方で、天皇賞秋のころからウィトルムペデスが調教を嫌がらなくなってきており、館嶋調教師はこれを「ようやく精神が3歳馬くらいまで育ってきたのではないか」と評している。

 

ジャパンカップ

ジャパンカップには天皇賞秋に出走したメンバーの他に、エアグルーヴ、スペシャルウィーク、エルコンドルパサーらが出走。しかし、4歳馬の2頭は既にウィトルムペデスに敗れており、エアグルーヴも前走エリザベス女王杯でメジロドーベルに敗れていたことからウィトルムペデスの勝利は確実と見られていた。また、海外からの参戦馬についても慣れない環境なこともあり今のウィトルムペデスを下せるほどの実力はないとみられ、ウィトルムペデスの単勝は1.1倍という有様であった。また、陣営も自信を覗かせており、文字通り負ける要素が見当たらないというところであった。

 

レースが始まると、一際良いスタートを決めたウィトルムペデスはいつもの大逃げスタイルで後続を引きはがしていき、1コーナーの時点ですでに7馬身の差を付けていた。横尾騎手が抑えにかかるも全くペースが落ちず、その後もペースを維持もしくはさらに加速していき3コーナーでも20馬身以上の差を維持。4コーナーで後ろから続々とウィトルムペデスを捕まえに動くものの、さらに差が開いていった。あまりの圧勝劇にゴール前に早くも拍手が起きている中、ウィトルムペデスはさらに加速していきトップスピードでゴール板を通過。

しかし、その直後に右足を骨折、そのまま内ラチに馬体をぶつけて跳ね返り10歩ほど進んだところでバランスを崩して転倒した。その後、予後不良と診断され安楽死の処置がとられた。

 

ゴール板通過後の事故であったためゴールは認められており、その勝ちタイム2:20.0は当時のレコードを2.2秒更新するものであり、20年以上経った現在でも2400mの世界レコードとなっている。なお、タイムオーバー規定により一部の馬が有馬記念に出走出来なくなる可能性があったが、裁定委員の判断によって罰則は与えられなかった。

 

 

騎乗していた横尾騎手は転倒直前に放り出されて落馬、命に別状はなかったものの右前十字靭帯の断裂によって最終的に騎手を引退している。

 

 

 

 

 

 

競走成績


1997/09/06 中山   3歳新馬   1人 1着 芝1600m

1997/09/20 中山 OP 芙蓉ステークス  1人 1着 芝1600m

1997/10/12 東京 OP アイビーステークス  1人 1着 芝1400m

1997/10/26 東京 OP いちょうステークス  1人 1着 芝1600m

1997/11/15 東京 GⅢ 東京スポーツ杯3歳ステークス 1人 1着芝1800m

1997/12/07 中山 GⅠ 朝日杯3歳ステークス 1人 1着芝1600m

1998/01/11 中山 GⅢ 京成杯  1人 1着芝1600m

1998/02/15 東京 重賞 共同通信杯 1人 1着ダート1600m

1998/03/22 中山 GⅡ スプリングステークス  1人 1着芝1800m

1998/04/05 中山 GⅢ クリスタルカップ  1人 1着 芝1200m

1998/04/19 中山 GⅠ 皐月賞  1人 1着 芝2000m

1998/05/17 東京 GⅠ NHKマイルカップ  1人 1着 芝1600m

1998/06/07 東京 GⅠ 東京優駿 1人 1着芝2400m

1998/09/13 中山 GⅢ 京成杯オータムハンデ  1人 1着芝1600m

1998/10/11 東京 GⅡ 毎日王冠  2人 1着 芝1800m

1998/11/01 東京 GⅠ天皇賞秋  1人 1着芝2000m

1998/11/29 東京 GⅠ ジャパンカップ  1人 1着 芝2400m

 

 

死後


レース直後ということもあり、満員の観客の前での事故であったためラチを越えて芝コースに侵入しようとした観客が多数いたが全て取り押さえられている。

 

ゴール直後に脚が砕けた理由としてはゴール板付近でのあまりの速さに骨の強度が耐えきれなかったためである。これまでのレースでは十分に加速するまえにレースが終わっていたが、後続を無視して長い直線で加速し続けた結果、強度を越えるまで加速してしまったと考えられている。

 

20年後のジャパンカップでの勝ちタイム2:20.6まで2分21秒台で走り切った馬すらおらず、2:20.0というタイムは高速化が進む令和の競馬においても不滅のレコードとして越えるべき壁として認識されている。一方で、これ以上の高速化は競走馬の脚に回復不能なダメージを与えてしまうという限界説の代表例として挙げられることも多い。実際に、このタイムはレースへの勝利という観点からみるとセーフティーリードを取ってからさらに加速することで出されたタイムであり、ウィトルムペデスという馬の速さへの執念が生み出したレコードと言える。

 

競走馬としての特徴


身体面

現役時を通じて420kg前後と競走馬の中でも一段と小柄であり、実際周囲の馬とのフィジカルコンタクトでは不利になる場面が多かった。そのため、多数の馬が競り合う馬群を苦手としており、これが逃げや大逃げ戦法へとつながっている。

一方で、小柄ながら心肺機能に非常に優れており、大差勝ちを決めたレース直後にも息ひとつ乱れていない様子を見せている。この心肺機能からステイヤーとしても十分高い能力を発揮したと考える関係者は多く、全距離重賞制覇のためにステイヤーズステークスへの出走が検討されたこともあったという。心肺機能はウィトルムペデスに特徴的な最後の直線で強烈な末脚を使うことを可能にしており、トップスピードを長時間維持することができた。また、ウィトルムペデスはマイルの距離を短距離戦の速度で、中距離をマイル戦の速度で走っていたと言われるが、このペースの速度の速さは全身に酸素を効率よく届ける能力の高さあってこそである。

ゲートを出るタイミングを取るのが苦手であったものの、加速力には優れていたため出遅れても直ぐに巻き返すことが出来た。

 

精神面

館嶋調教師によると競走馬に向いていない馬であるという。競走馬は気性が荒い馬も多いものの、基本的には人間からの指示を受けて走るように訓練される。しかし、ウィトルムペデスは人間は指示を出す存在ではなく世話をしてくる存在と認識しており、調教などで指示をするとそのことに不快感を示す以上に驚いていたという。また、鞭で叩かれるとやる気をなくしてその場で寝ころんでしまうため、無理な調教をすることが難しく結果としてきちんと仕上げが出来たのはジャパンカップのみであった。幸いにしてレースでは視界に他の馬がいると、それが見えなくなるように抜きに行くため気性による逸走等はなかった。しかし、騎手の指示を受けてもあまり理解していないことが多く、抑えてもひたすらに暴走することが多かった。また、勝負に対する根性はないが、それを発揮する必要がなかったために問題にならなかったとも評されている。

 

 

 

 

エピソード


・夏場の熱さには弱く、馬房にクーラーが導入されて以降夏場の調教を極端に嫌がるようになった。そんな中で唯一反発が少なかったのがプール調教であったがこれも暫くすると飽きてしまっていた。

・調教嫌いで有名であり、特にレースに出走するようになってからはてこでも動かないということが増えた。しかし、レースではきちんと走る上に勝ってくるので馬の機嫌を損ねてまでの調教ができず、結果としてレースの出走で運動不足を解消していた。

・体を動かすことが極端に嫌いであり、放牧に出されても入口付近から動かないままで放牧を終えることも珍しくなかった。また、馬房内ですら動きたがらず、餌を持ってきた厩務員に対して口の前まで持ってくるように指示するかのようなジェスチャーをしていた。

 

 





wikipedia風でした。
いろいろ完成度は高くないけど許して。
ifルートはまだ時間かかりそうです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。