「はぁ…………」
教室の空気は暖房でぬるくて、なんとなく眠い。ぼんやりとした灰色の空が、ガラス越しに静かに広がっている。
ノートは開いているけれど、いつものようにほとんど何も書いていない。授業が終わっても、そのまま席を立つ気になれなくて、ペンだけが指のあいだでゆっくり転がっている。
引退しなくてもいいのかもなぁ。
そんな考えが、自然に浮かんできてしまう。
最近はトレーニングもない。休みの日にゆっくり起きてもいいし、トレーナー室に行っても、走りに行く必要はない。あったかい部屋の中でぬいぐるみとクッションに囲まれている。
そしてトレーナーさんが、時間を見つけてはマッサージをしてくれるし、終わればゲームにも付き合ってくれる。その時間が、思っていたよりもずっと心地よくて。
……甘やかされている、のかもしれない。
もしかして、有馬記念に出ないほうがいいのかな。
そうすれば、このまま、ゆるくて温かい時間が続く。朝もゆっくりで、トレーニングもなくて、たまにマッサージしてもらって、そのあとにゲームをして、適当に過ごして。
そんな日が、ずっと続く。……気がする。
でも、レースに出ないウマ娘にトレーナーさんは世話を焼いてくれるのかな?
今みたいに、隣にいてくれるのかな。別の子のトレーナーになって、そっちに行ってしまうんじゃないか。そう思うと、少しだけ胸の奥がざわつく。
「有馬記念、やめようかな…………」
また、小さく息が漏れる。自分でも、何を言っているのかよくわからない。
その日のお昼寝の時間、キングちゃんの膝に横になったとき、きちんと走りなさいと叱られてしまった。私があなたのライバルになってあげるから、とも言われた。
いつもみたいに言い方は強かったけれど、不思議と突き放す感じではなかった。
そのとき、ふと頭を撫でられる。叱られている最中なのに、やけに優しい手つきだった。
見上げたキングちゃんの表情は、怒っているというより、少しだけ悲しそうで。ああいう顔をさせたのは、多分、私だ。そう思うと、ちょっと申し訳ない気がした。
そんな考えをうまく整理できないまま。結局そのまま脇に置いて、毎日をなんとなく過ごしていた。
授業を受けて、昼寝して、トレーナー室に行って。少し話して、少し笑って。
決めなきゃいけないことは、ずっと先送りにしたまま。気がつけば、あっという間に有馬記念の当日になっていた。
ここ一週間は一応、軽く走ってはいる。
それでも、なんとなく体が重い気がする。脚そのものが痛いわけじゃない。ただ、どこか鈍くて、反応が遅れる感じがある。具体的にはお腹がちょっと揺れているような…………。
……カレーパーティー、ちょっとやりすぎたかもしれない。スぺちゃんと一緒に、怪我からのリハビリを進めているスズカさんを元気づけるためだった。
だけど、勢いよく食べているスぺちゃんを見ていると、なんとなくこちらも食べないといけない気がしてくる。結局、いつもの倍以上食べていた気がする。
スぺちゃんならそれでいいけど、普通に食べ過ぎだ。
それだけじゃなくて、最近はアイスとかみかんとかついつい手が出てしまう。
…………そう思うとちょっと勝負服がきついような…………。
それは置いておいて、今回のメンバーは、見知った顔ばかりだ。
グラスちゃんにキングちゃん、セイちゃん。ステイ先輩とエアグルーヴ先輩。ブライトさんにドーベルさん。さらに、フクキタル様までいる。
こうして並べてみると、いつの間にか知り合いが増えていたんだな、と思う。
みんなと同じレースで走るのは、少しだけ楽しい。できればこんな寒い中のレースじゃなくて、みんなで部屋の中でゲームをしたいんだけどなぁ。
……でも。
結局、引退をやめるって話は、トレーナーさんにできなかった。
「今年最初の京成杯からこの一年ですごくすごく強くなった。最後のレースだから、頑張ってこい。」
みたいなことを言われたときも、どこかうわのそらで、ちゃんと返事ができなかった気がする。
言おうと思えば、言えたはずなのに。
「やっぱり、もう少し走ります」って。
でも、その一言が出なかった。
ふとガラスに映った私の姿を見る。
何度も着てきた勝負服。最初に袖を通したのは、たぶん一年前くらい。
トレーナーさんが用意してくれた、この服を着るのも…………これが最後かもしれない。
そう思うと、少しだけ胸の奥が沈む。
けれど、もう一年、同じようにトレーニングを続けるのは、正直きつい。できれば、このまま、もっとだらっと過ごしていたい。
トレーナーさんで暖をとりながら、そんなことを考えていたらいつの間にかレースの時間が迫っていた。
ターフのほうに向かっていると、偶然地下道であったマルゼンスキーさんから楽しんできてねと応援される…………それにしても、不思議な目をしていた。どこか遠くを見るような目だったなぁ。
アナウンスに導かれてターフに入ると、空気がすっと変わる。
さっきまでのぬるい室内とは違って、頬に当たる風がはっきりと冷たい。
どこか張りつめているような気もするけれど、……うーん、単に冬だから寒いだけかもしれない。
「ウィーちゃん、今日こそあなたに勝ちます」
そこで真っ先に声をかけてきたのはグラスちゃんだった。いつも通り落ち着いた口調だけど、その奥にある静かな闘志は隠れていない。音を立てずに張り詰めている弦みたいな、触れればすぐに弾ける気配だ。
なんとなく、そのままの流れで手を差し出しかけて、途中で止まる。…………というか、そっと制される。伸びかけた手は宙に残ったまま、行き場を失う。
そのまま軽く首を振られて、静かに告げられる。それは、いまではない、と。
「私と一緒に走る権利をあげるわ。だから、私と一緒に走りなさい!」
続いて、キングちゃん。相変わらずの言い方で、腕を組んでこちらを見ている。一緒に走るのも、なんだか久しぶりな気がする。一緒に走るのも最後だと思うとちょっと寂しい。
「私は今日もまったりいかせてもらうよー」
一転して、気の抜けた声。セイちゃんがひらひらと手を振る。この間の菊花賞ではなんかすごい速かったらしい。流石はお昼寝マスターのセイちゃんだ。
ステイ先輩にはいつも通り軽く頭を叩かれ、それをエアグルーヴ先輩が制止する。
その流れで、ブライトさんとドーベルさん、メジロ家の二人にも挨拶する。どちらも落ち着いていて、空気がやわらかい。けれど、その内側にあるものは、やっぱり静かに強い。
そして気合の入っているフクキタル様とも無言で挨拶を交わす。
さあ、レース開始だ