彼女と最初に走ったのは、デビューの次のレース、アイビーステークスでした。
あのとき、私が知ったのは敗北でした。
力の差は、言葉にするまでもありませんでした。追いつけるとも、並べるとも思えない。ただ、見せつけられるだけの差。
そして年末の朝日杯。そこで私は、さらにはっきりと理解することになります。
私は、勝ち負けの相手ですらない。
ええ、認めましょう。
あのときの私は、確かにその舞台に立つ資格すらありませんでした。
おそらく…………誰もがそうだったのでしょう。あの時点では、彼女にとって「競う相手」など、存在していなかった。
それが変わったのは、エルと戦ったNHKマイルカップ。あのレースのあと、彼女は初めて、エルに握手を求めました。
それは単なる礼儀ではない。どんな形であれ、ライバルとして認めた証。
そしてダービーでは、スぺちゃんたち三人に対しても、同じようにそれを示していました。
ええ、仕方ありません。あのときの私は、怪我から完全に回復できてはいませんでしたから。
それでも。それでも!!
私は、あの舞台から降りるつもりはありませんでした。気が付けば私は少々強引に、彼女との再戦の約束を取りつけていました。
そして、復帰戦として選んだ毎日王冠。
本来であれば、その主役は私であるべきでした。少なくとも、そうあるべきだと…………そう私は思っていました。
ですが、現実は違いました。
その舞台に立っていたのは、私でも、エルでもない。
サイレンススズカ。
春に、大逃げで連勝を重ねてきた存在。
怪物、ええ、もはやその言葉は、私ではなくスズカ先輩にこそふさわしい。
あのレースは、私の復帰戦などではなかった。
二つの怪物がぶつかり合う、その舞台でしかなかったのです。
そう認識されていた。そして、それは正しかった。
結果は、言うまでもありません。不甲斐ない、という言葉すら軽いほどに。
彼女は、スズカ先輩とだけ握手を交わし、そのままターフを去っていきました。
その背中を、私はただ見ていることしかできませんでした。
そして、年末の大レース、有馬記念。
作戦は一つ。彼女の背後に位置取り、決して振り落とされずにマークし続け、勝負は最後の直線にかける。
彼女の強さは明白です。序盤から中盤にかけての巡航速度、そして一度ギアが入ったあとの加速は、同世代の中でも突出している。正面から張り合えば、そこで脚を削られ、直線を迎える前に勝負が終わる。それは私にも分かります。
だから、勝負のその時まで意識されてはいけないのです。
さらに、2500mという距離は彼女にとって初めてのはず。2400mとの差は100mとはいえ、直線の短い中山レース場と東京レース場でのペース配分は別物。そこの未熟さを突けば、私にもわずかな勝ち筋が残されている…………。
そんな考えは、レースが始まって間もなく、ほとんど意味を持たなくなったと言っていいでしょうし、少なくとも私が組み立てていた勝ち筋というものは、あまりにも簡単に、その前提ごと崩されてしまったのです。
序盤、私は意図した通り前目につけていました。先行集団の中で呼吸と脚のリズムを保ちながら、あくまで無理をせず、それでいて決して離されない距離を維持できていました。
視界の先には当然のように彼女がいて、その背中を基準にペースを測ることができていた以上、ここまでは完全に私の想定内のレース運びだったと断言できます。
ですが、その直後に起きた現象は、私の中にあるどの理屈にも適合しないものでした。
正面スタンド前に差し掛かった瞬間、彼女は明確な意思をもって、極端に脚を緩めたのです。
単なるペース配分の修正ではありません、先行のリスクを避けるために一列下げる、そういった常識的な判断とも違います。もっと急激で、もっと深く潜り込むような減速でした。
気づいたときには私の視界から完全に消え去り、さらには気配すら感じ取れない位置まで沈んでいったのです。
ここで初めて、私は自分の作戦が成立しなくなったことを理解しました。
マークする対象が消えた以上、距離感による制御も、仕掛けのタイミングも、すべての基準が失われることになります。
それでもレースそのものは続いていますから、私は即座に思考を切り替え、先頭との差と全体の流れだけを基準に再構築を試みましたが、その判断が間違っていたとは思いませんし、少なくともその時点で取り得る最善ではあったはずです。
問題は、その次に起きたことでした。
四コーナーに差し掛かる頃、外から明らかに異質な速度で接近してくる存在を感じ取りました。ええ、彼女です。
彼女は大外を回りながら、しかもコーナーという減速を強いられる局面において、バ群を一頭ずつではなく、まとまりごと処理するかのように抜き去っていきました。
距離のロスは確実に発生しているはずであり、内側を回る私たちと比較すれば、その消耗は無視できないはずです。少なくとも直線に入る時点で脚色が鈍るに違いありません。
だからこそ私は、あの時点でもまだ勝機は残っていると考えました。
しかし、その結論に到達した直後、私は自分の身体の制御を一瞬だけ失いました。
視界が暗転するわけではありませんが、色彩や距離感が曖昧になりました。脚に込めていた力が意図とは無関係に抜け落ち、闘志そのものが空っぽにされていきます。そう、なにかが内側から削られていくような感覚に襲われたのです。
暖かい何かに包まれながら、すべてが赦されたような、もう競う必要はないと思えるような。そう耳元で囁かれるような気分でした。
それは外的な衝撃ではなく、むしろ内的な同期のズレに近いものでした。ペースメーカーを強制的に狂わされたかのような、極めて短時間の異常です。
ですが、レースにおいて一瞬の遅れは致命的です。
次に感覚が戻ったときには、私のリズムは完全に崩されていました。
そして彼女はすでにそこにいませんでした。
はるか前方、競うことすら許されないような、手の届かない位置で、レースは終わっていたのです。
レースが終わって振り返った彼女、その瞳に私が映っていたのかどうかは分かりません。少なくとも私は、その瞬間に手を差し出すことすらできませんでした。
ただ、自分の横を通り過ぎていく彼女の軌跡を、静かに見送ることしかできなかったのです。
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グラスちゃん難しいな…
そろそろ更新ゆっくりになります。