思うに、ハードボイルドなどというものは虚勢なのだ。
大切なものを守るためだったり、途方もない夢を叶えるためだったり。そうした事を成す過程で、素直さを重荷と思ってしまう者の言い訳なのだ。
もちろん、中にはそれを重荷と思わずに成し遂げられる者もいるのだろう。だけど、実際には残酷な現実に折れて捨ててしまう者が大半のはずだ。
インクが白紙を染めるが如きその過程で、そうせざるを得なかった意味すら忘れ、屈折してしまう者もいるのだろう。
それほど素直さというのは価値あるモノなのだ。それこそ、染まってしまった者から見れば殊更に。
それを愛しいと思うべきか、懐かしいと思うべきか。
だからこそ、なのか。
見知らぬウマ娘に場所を譲り渡してくれたその優しさが。
共通の話題があるだけで身の上を話してくれた素直さが。
とても眩しくて暖かくて、『いい子だな』だなんて、思ってしまって―――。
あれはただの偶然だった。
だけど、その偶然が続くだなんて思っていなかった。
彼の素直さと優しさはそのままで、あの日に感じた眩しさと温かさはそのままで。
私の夢を叶えるには、彼は必須と言ってもいい人材だ。
素直で、優しくて、誠実で。……旅の準備をさせるにはうってつけだ。
是が非でも確保したい。
状況を理解してからの根回しの算段は、今まで通り素早く組み立てることが出来た。
このプランであれば彼ならば絶対に断らない。いや、断れない。
予想外の遭遇に、コバエの駆除。
いくらプランを練ったとしても想定外の事態は起こるものだ。
だが、まさか彼に露見するとは思わなかった。しかもその彼が私にカマをかけてくるとは。
とは言え、全て許容範囲内。この程度の誤差であれば軌道修正は容易い。
そう、貴方は素直で、優しくて、誠実で。
だからこそ貴方は断れない。私の張り巡らせたプランを断ることが出来ない。
そして貴方は、私と鉄の契約を自ら交わすことになる。
これで貴方は逃れられない。
全て許容範囲内。多少のリスクを孕みはしたが、全ては当初の想定通り。
なのに。
何故、契約書を返した時に鼓動が激しくなったのか。
何故、彼の言葉が心に重くのしかかってしまうのか。
旅の準備は万端だった。
ここからアネゴが執った航路を辿り、果てへと至る。
アネゴのフォロワーとして、同じ志を持つ彼と一緒に。あの日感じた畏れと憧れの本質を確かめに。
しかしながら、その彼の言葉は想定外だった。
マスコミがアネゴの本質を理解していないのは私も同意見だった。
だが、もっと私を見てほしかった、とは……想定外だった。
いや、旅とは元来そういうモノなのだろう。百聞は一見に如かずとは正しくこれだ。
オープンレースでのパドックも、ゴールを駆け抜けた後に感じた風も、私の想像以上だったのだから。
結局、彼の言葉に乗ることにした。
この旅路が良いものになることを確信したからだ。
二度目の新年。私達の旅路はまだ続いている。
クラシックでは数多の嵐に打ち勝ちも、阻まれもした。
想定外の事態も多々あった。例えば、私の心境の変化も、このお茶の味も。
もっとも、オルの質問は想定内だった。オルならば恐らくはそうしてくれるだろうと。
だけど、それに対する彼の返答は……、どちらなのだろうか。
想定内でもあり、想定外でもあり……。
ただ、彼の言葉は心強くて嬉しかった。
だから、その後に私の口が滑ってしまうのも仕方ないのだ。
私を理解しようとする彼の姿勢が好ましい。
素直で、優しくて、誠実で、勤勉で、努力家で……。
あの日のまま変わらない、いつもの彼なのだが、最近は特に顕著だ。
だから、きちんと想いを込めてチョコレートを渡してもいいだろう。
もっとも、貴方はそれに―――それらに気づかない。
だから『一緒に食べよう』だなんて言えるのだ。
とは言え、それも想定内。
それは、とてもとても甘いチョコレート。私には不向きな、優しい貴方にぴったりの甘いチョコレート。
なのに、それを私が飲む苦いエスプレッソとあわせてみようだなんて。当然、無意識の言葉なのだろうが。
―――本当に、貴方はかわいい人ですね。
我ながら随分と心境が変化したものだと実感する。
そこに『旅って、そういうものじゃないか?』などと発言する彼。
確かにその通りだろう。
今まで私は旅路の嵐とアネゴの航路を意識していた。
だが、旅の景色、出会った人々、実感を伴う経験……。
様々なものが影響し、積み重なったものが旅路の足跡。
それを作ったのが私というのなら、一番影響したモノは彼は何だと思っているのだろう。
その癖、ここぞという時には私の心境を見透かしてくる。『満足していないように、見える』だなんて。
やはり、貴方は素晴らしい。貴方は変わらず、あの日のまま―――。
まったく。
前言撤回をしなくてはならない。
あえて言うなら、後ろめたさになるのだろうか。そう感じていたからこそ―――。
貴方は変わらずにそのままでいて欲しいからこそ、コバエがたからないようにしていたのに。
私の匂いが染み付かないように、大事にしていたのに。
なのに『分からせてやろう、君の実力』などと。全く貴方らしくない、穏やかではない物言い。
「誰に影響を受けたのやら―――」
苦笑しながら踵を返した。貴方には、そう見せた。
苦笑のそれではない上がる口角を、貴方から隠したかったら。
そこには私の全てがあった。私が愛する全てがあった。
用意したのは彼だ。
そんな事をされたら、忘れてしまう。白紙をインクで染めたことを。
彼に眼を瞑り手を出すように伝えて、反応を凝視する。勘違いではないことを確認するために。
そこには私の望むものがあった。揺るがない絶対の信頼があった。
これ以上の我慢はできなかった。
「……いい子だ」
私の香りを貴方に移す。
これで、貴方は―――。
今日で私の旅は区切りを迎える。
だが、終わりではない。ここからが本当の旅と言っても良い。
私は彼を―――。いや、彼はどうするのか。
確信はないが、予感がある。その予感は何よりも信じられる。
しかし、やはり私は私だ。
「―――貴方はどうしますか?」
「どこまでもついていくよ」
ああ、やっぱり。
今ここに、決して破棄できない、誰にも侵せない契約が成った。
他でもない彼自身が、自ら望んで。
レース場に割れんばかりの歓声が響いている。
その全てが私の名を呼んでいる。
「……夢のような景色だ」
「ええ。……本当に。皆さんの夢が……とても眩しく……愛おしく感じる……」
アネゴ。
これが黄金なのですね。
この勝利と歓声だけではない。今まで見てきた全ての変化が、一筋の黄金なのですね。
そう、彼と共に歩んできたこの旅路こそが―――。
「君も眩しいよ」
「貴方のそういうところだけは、変わらない―――」
まったく。
素直で単純というのも困りモノかも知れない。
でも。
そんな貴方だからこそ、私は貴方と共にこの旅路を歩むことが出来た。
そんな貴方だからこそ、私は貴方を愛おしく感じる。
「そうでもないさ」
「……と、言いますと?」
「ジャーニーってさ、かわいい所あるよね」
「なっ―――」
突然何を!?
「これからは問われる前に伝えていくつもりだよ」
「―――」
……なるほど。
気づく程度には分析力をあげたと言いたいようだ。
確かに、私を理解しようとするその姿勢は好ましいと思っていた。
ですが、そういう所は別に気づかなくてもいいんですよ。
「……ナマイキな子だ」
まったく。
誰に影響を受けたのやら―――。
完走した感想ですが……多少のガバはありましたが、多分これが一番早いと思います。