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湿っぽい潮風が髪を靡かせる。
其処には目立つ様な物は何もない。立派という訳でもなく、さりとて弱々しいという訳でもない、極めて平凡に良く育った木が幾つか立っている。
それ以外には、大きな岩があったり、その付近に雑草や花が生えていたり…ただ、それだけだ。
其処は孤島だ。たった二人の人間だけが、孤島の上に仁王の如く立っている。
「善い心地だ。貴殿の様な強者と剣を交えるには、中々整った場であろう」
「それには同意するが、俺は月夜の晩の方が好きだな。そっちの方が風流がある」
「成程、其れは盲点だった。厭な月の下で刃金を振るうのも、また一興ではあったか」
「だろ?……まぁ、だからと言って逃げるつもりは毛頭ない。全身全霊で、お前の首を落とす」
ササキという名前を持った男が、腰に差した刀を鞘から抜き放ち、切先を老人へと向ける。
瞳の奥が燃えている。ぎらぎらと熱く燃えている。必ず、目の前の老人を斬り捨てやるという決意と執念を漂わせる剣士の眼だ。
老人は、不敵に笑った。余裕のままに、笑ってみせた。
「くくっ…いやはや、浮世から身を隠して幾年…まさか、貴殿の様な血気溢れる男が未だ居ようとは。歳を取るというのは、やはりいかんな。勿体の無い事をしたものだ」
背中に負った五尺余りの長刀を抜いた瞬間―――周囲の空気が一変する。
「っ…!」
ぞくっ、と背筋に寒気が走った。頬から流れた冷や汗を拭い、ササキは改めて老人と対峙する。
穏やかな顔をしているにも関わらず、剣士としての熱意と狂気が入り混じった眼光がササキを射抜く。これまでの人生で、一度も経験した事のないものに気圧される。
首を振って邪念を払う。気圧されている暇はない、そんな暇があるならば距離を見ろ。
間合いを測れ。武器を観察しろ。目の前に立つ老兵の動きを見ろ。何が何でも倒さなければならない相手を直視しろ。
「……所属無し。ササキ」
「ほぉ、名乗りか。久しく聞くな…」
「殺す奴の名前を知らないのは、後味悪いからな。…剣士として、アンタの名を知りたいってのもあるが」
「ふむ……生憎と、名乗れる程の者でもなし。ただの翁、過去に取り残された老人に過ぎんよ」
「そうかい。じゃあ、ジジイでいいよな」
「構わん―――若き剣士よ。いざ越えてみろ、この老耄を」
―――風が止んだ。
世界の時が止まったのだと、錯覚してしまう程の静寂に包まれて数秒の後―――
「!」
「―――」
二人の剣士が、全く同時に距離を詰めた。
白銀が空を裂き、老人の首へと刃を走らせる。だが、それは決して必殺にはなり得ない。もの試しの一撃に過ぎないのだ。
首に向かって振るわれた一撃が、呆気なく流される。
自身の身の丈以上はあるであろう五尺の長刀を、老人は軽々と、そして巧く振るい、受け止める事もなく流した。
二者の刃金が交差する。
四肢を狙う剣戟、隙を創る太刀筋。
刃が刃を弾き、火花を散らす。
「…!」
幾度も振り抜かれる剣閃は、しかし等しく弾かれ、流されて終わりを迎える。
老人の太刀は名のある業物だ。刃は鋭く、身は長く、それ故に脆い。にも関わらず、老人はその得物を己が手足の如く巧みに振るう。
「―――」
うねり、曲がる様な剣筋。
振り抜かれる全てを流し、弾き、確実な隙が生まれた瞬間に振るわれる剣はあまりに疾く、軌道を掴み難い。
空気の流れを読み、自在に空を舞う燕の如き剣技にササキは顔を歪めていた。
(あまりにも隙がない…! それどころか、寧ろこっちが隙を作られるばかりだ…!)
数十合にも並ぶ立ち会いは、不動を貫き続けている。
ササキが何度下がろうと、しかし“剣聖”は先を読んでいるかの如くタイミングを見計らって直ぐに距離を潰して刀を抜いてくる。
流れは完全に彼のものだ。振っても振っても全てが弾かれ、流される剣戟によってササキの精神と体力は確実に疲弊している。
(くそっ、このままじゃジリ貧だ。逃げれば攻められ、攻めれば流される。明らか
「《電光石火》!」
「ほう」
ササキの体が加速する。
稲妻が足元を走った直後、まさしく雷が如き速度を以てササキは剣聖へと果敢に攻め込んだ。
力任せの太刀筋。しかし、遂にそれは剣聖から流しと弾きという行動を奪い取る。
攻めの位置を掴み、僅かに口元に笑み浮かんだ。
「だが、それではまだ足りん」
それは束の間の幸だった。
剣聖はほんの数回程度の打ち合いで、ササキの速さを完全に把握し、己が身と剣をそれ以上にまで加速させた。
弧を描き、振り抜かれる太刀がササキの頬を裂く。
胸を斬りつけ、腕を斬りつけ、足を斬りつけ、喉を斬りつける。剣戟の全てを防ぐ事も出来ず、ササキの身体には数多の斬撃が刻まれる。
剣聖の技は、優雅かつ神速だ。少しでも攻撃をしようと動いた瞬間に、隙間を縫って入る様に丁寧に距離を詰めてソレを浴びせる。
(まだ疾くなんのかよ…! はっ、こりゃバケモンだな。道理でこれまで誰も倒せない訳だ。尚の事、やる気が出てくるじゃねぇか!)
闘志は消えず、熱はさらに滾りを増す。
心折れる事はなく、ササキはさらに戦意を燃やす。
「《
「…」
神速に並び、ササキは加速する。
幾つもの火花が散る。空気が斬り裂かれ、小さな風すら巻き起こり始めた。
打刀と長刀が打突する。神速と神速の剣筋は、互いに油断を許さぬ真の戦場へと彼らを導き、今尚も手を引いている。
直線的な太刀筋の打刀。それは加速し、剣聖の肌に傷を付ける。
勢いは増し続け、両者どちらも引けを取らぬ接戦は、まるで何年も斬り合っているかの様な錯覚をもたらしたが、たった数分足らずの出来事に過ぎない。
「はぁ、はぁ…」
「ふぅ…はっはっは、戦で息を整えるなど何時以来か…」
「涼しい顔してよく言うぜ…だが、だいぶ減らしたぞ」
「其れは貴殿も同じ事だ。だが…中々どうして首が取れん。ここまでやるとは思わなんだ」
「そう易々と首やって堪るかよ…」
「はっはっは……では、締めと行こうか。互いに今際の際だ。久しく、善い剣を見せてくれた礼に―――我が奥義を以て、貴殿への手向けとしよう」
「なら、俺も礼儀に則るとしますかね―――文字通り、決死の一撃だ」
―――剣士と剣聖が構えを取る。
上段の大きな構えを取り、呼吸を整える。
「ふ―――」
剣聖のそれは、今まで見せた事のない構え。
明らかに隙が大きく、今直ぐにでも間合いを詰められてしまいそうな程だ。
だが―――だが、しかし。
それをさせない、それをしてはならないと直感が叫ぶ程の何かが、その差には有った。
間合いにして3メートル弱。
時は―――今!
「《一刀両断》!」
距離を詰め、稲妻を振り落とす。
その直後―――
「《燕返し》」
二つの軌跡を描いた太刀筋が、最期に見た光景だった。