■
思えば、すべてが偶然だった。
「トレーナーさんと出会ったのは、私が選抜レースに出走した翌日でしたわ。当時の私はあまり戦績がよろしくなく、伸び悩んでいたのですが……トレーナーさんが仰ってくださいました。『君の心の強さが魅力的だ』と。……ふふっ、そうですわね。今思えば、トレーナーさんはたいそうな物好きでしたわ」
その時にちょうど通りかかったのが、俺だった。
「それから、しばらく私のトレーニングを見てくださったのですが……その時の私は食事制限が上手く行かず、あろうことか栄養失調で体調を崩してしまいまして。その際に、私の体質や食事のメニューのことを説明したのですが……そうしたら、トレーナーさんが私のために腕を振るってくださいましたの」
たまたま、俺の実家が定食屋だっただけだ。
「トレーナーさんの料理はどれも美味しくて……特に、スイーツまで作れるなんて驚きでしたわ。そこから、次の選抜レースまでトレーニングや食事管理を手伝っていただいたのですが……ここだけの話、私の中ではもう彼に決めていました。彼を逃す手はないと思い……迎えた選抜レースで、見事一着を取ることができましたの」
彼女の素質が良かったんだ。俺は何もしていない。
「も、もちろんトレーナーさんの料理に釣られたわけではありませんわ! 普段のトレーニングメニューも、私に合ったものを用意してくださり……何よりも嬉しかったのは、私に歩幅を合わせてくれたことですわね。トレーニングのフィードバックを毎日のようにしてくださって……のびのびとトレーニングができましたわ」
足りない頭を無理やり働かせて、何とか彼女に追いつこうとしただけだ。
「デビュー戦が終わってからは、私の最終目標である天皇賞・春へ向けて邁進いたしました。その中でも、印象に残っているのは……やはり菊花賞になりますわね。クラシック三冠唯一の長距離レース。ここで結果を出さなければ、天皇賞・春での勝利など夢のまた夢。プレッシャーを感じずにはいられませんでしたわ。それでも菊花賞に臨めたのは、トレーナーさんが隣で励ましてくれたからなのでしょうね」
誰にでも言えるような、月並みな言葉しかかけてやれなかった。
「そして、いよいよ迎えた天皇賞・春……苦難の末、私たちは勝利を収めることができました。三二〇〇メートルを走り切った先の澄み渡る空、鳴りやまない観客からの声援……今でも、目を閉じればその光景を鮮明に思い出せます。あの走りこそ、まさに私と彼との集大成ですわ」
博打みたいな作戦が、たまたま通ってくれたんだ。
「そうして天皇賞・春で栄光を掴み取ったあと、すぐにおばあ様から言い渡されましたの。『あなたが、メジロ家の新たな道を示すことを望みます』と。……歴史と伝統のあるメジロ家の、新たな道を切り開くこと。それは相応の覚悟と様々な困難が待ち受けることです。もちろん、不安は多くありましたわ。ですが……トレーナーさんがいてくだされば、きっと大丈夫だと思えました」
覚悟と責務を背負って踏み出したのは、紛れもない彼女だ。
「宝塚記念でのライアンとの再戦、天皇賞・秋で成し遂げたメジロ家初の春秋連覇……そして、先日開催された有馬記念でのグランプリ制覇。どれも語ることは多くありますが……その全てに通じることは、トレーナーさんがいなければ成し遂げられなかった、ということですわね」
俺はただ、道を拓き続ける彼女の後を追うことしかできなかった。
「私がここまで来れたのは、間違いなくトレーナーさんのお力があってこそです」
彼女の隣にいるのが俺でなかったら、もっと先まで行けたかもしれない。
「願わくば、トレーナーさんとはこの先もずっと、一心同体のような関係でいたいと思っていますわ」
…………一心、同体。
天皇賞・春に向けてのある日、俺への覚悟を問うために彼女が口にした言葉。
あの時は素直に肯定できた。進むべき道の先だけを見据えていたから。
だけど今、こうして彼女との軌跡を振り返ってみると。
俺たちが歩んできた道はひどく歪で、ぐちゃぐちゃとしたものに見えて。
その肯定が本当に正しかったのかどうか、分からなくなる。
「これからも更なる高みを目指して、トレーナーさんと共に進み続けてまいります」
マックイーンの語りはそこで終わる。
残ったのは後悔と疑問、そして彼女に対する後ろめたい感情だけだった。
■
「インタビューは以上です。本日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
なんて形式ばった言葉を残して、懇意にしている記者が部屋を立ち去った。
そのまま足音が遠のいていくと同時に、堰き止めていた疲れが一気に押し寄せてくる。
たまらず机の上にティーカップを手に取ると、安っぽい香りが口の中に広がった。
……彼女の担当になってから、どうにも舌が肥えてしまって困る。
「浮かない顔をしていますわね」
そんなことを考えていると、ふいに隣に座るマックイーンから声がかかってきた。
「私の応答に何か、不満なところでもありましたの?」
「別に? いいんじゃねーの、あんな感じで」
「そのような顔で言われましても、説得力がありませんわ」
「……俺、そんなに疲れた顔してる?」
「こうして話をしていても、心配が勝つほどには」
「……………………」
「よろしければ、理由をお聞かせくださいな」
淡い紫の瞳がこちらを覗く。
その視線から逃れるように、手元の紅茶に目を落とした。
「……いや、さ。思ったより遠くまで来たなと思って」
「遠くに?」
「ほら、俺ってそこまで優秀なトレーナーじゃなかっただろ。言っちゃえば、お前に声をかけたのも下心っつーか……メジロのウマ娘ってどんなモンなのかな、って興味の方が強かったし。そう考えると……よくもまあ、こんなところまで来れたな、って。そう思っただけ」
いくつか言葉を選びながら答えると、彼女は呆れたように溜息を吐いてから。
「あなたのそういう卑屈なところは、まだ治りそうにありませんわね」
「これくらい弱気なのが丁度いーんだよ」
「謙虚さは美徳ですが、過ぎれば毒になりますわよ?」
「分かってるって」
「私の隣に立つ者として、あなたにはもう少し胸を張ってほしいものですが」
じとっとした視線が送られてくる。彼女なりに俺を励ましてくれてるのだろうが、今の俺にそれを受け入れられる余裕はなかった。何か答えを返そうとしても、喉に何かが詰まるような感覚がして、上手く続きを紡げない。
そうやって言い淀む俺を見た彼女が、やがて耐えかねたようにもう一度息を吐く。
「どうしようもない人ですわね、あなたは」
「……悪かったな」
「ええ、全くですわ。でも……その方があなたらしい気もします。ですから、気に病むことはありませんわ。むしろ……ふふっ。それくらいが、私たちには丁度いいのかもしれませんわね」
その言葉の意味を問う前に、マックイーンが立ち上がる。
「スケジュールも押していますし、そろそろ学園に戻りませんこと?」
「今日はもうオフでいいと思うけどな、俺は」
「そうやって慢心していると、いつの日か足元を掬われますわよ? メジロ家のウマ娘として、そのような怠慢は許されませんわ。それに……二度目の天皇賞・春も控えていますから。悠長にしている時間はありませんわよ」
「はいはい」
「返事は一回で充分ですわ」
細かい小言を口にしながら、先に部屋を出ていく彼女の後ろ姿を眺めたところで、ふと。
「……一心同体、か」
俺には不相応で、行き過ぎた言葉だと思う。
努力はした。それこそ、血の滲むような日々を送ってきた。彼女のためになればと思い、俺の中にある全てのものを彼女に捧げてきた。心も、体も──覚悟すらも。もし彼女が望むのであれば、命だって投げ捨ててもよかった。
それが間違っていたとは思っていない。むしろ、彼女の隣に立つ者として正しいことをしたと信じている。一人の指導者としてもそうだし、何より──彼女の生き様に魅せられた者として。果たすべき使命だと思った。
全ては彼女のために。長く続いてきたこの歴史に、栄光という爪痕を刻むために。
そうして彼女へ全てを捧げ続けて、俺というこの器が空っぽになったところで。
ようやく、俺では足りなかったということに気が付いた。
「何が一心同体だよ……」
元より、釣り合ってなかったんだ。天秤は常に、彼女に傾いていたままだった。どれだけ水を注いでも、それは変わらない。後に残ったのはメジロマックイーンのトレーナーという、ただの抜け殻になった俺だけだった。
栄光は掴めた。望んだ景色も、確かにこの目で見ることができた。
だけど、もし彼女のトレーナーが俺ではなく、もっと優秀な奴だったらと思うと。
掴んだ栄光は、より煌びやかで、気高く輝いたもので。
望んだ景色は、今よりもずっと綺麗なものなのだろうな、と。
今更、そんなどうしようもないことを考えてしまう。
「…………………………」
結局のところ、俺はただ子供の後ろをついていくだけの情けない大人なんだ。
きっと彼女もそう思っているのだろう。心のどこかで俺に失望しているのだろう。むしろ、そう思っていてくれと願いさえする。そうして、俺を見放して……ずっと遠くへ行ってほしい。俺と共にいては辿り着けなかった場所へ立って、その輝きの一片でもいいから俺に届けてほしい。
「トレーナーさん?」
扉からひょっこりと顔を出す彼女の声で、ふと我に返る。
「いつまで経っても来ないと思ったら……どうされましたの?」
「え? あ、ああ……いや、悪い。これだけ飲んでから行こうかなって」
「……そんなにその紅茶が気に入りましたの?」
「そういう訳じゃねーけど……ほら。出されたモンはちゃんと頂かないと」
どうしようもない言い訳だけが、口からずるずると漏れていく。
「あ……ああ、そうだ。時間が心配なら、先に行ってていいぜ。俺も後から行くし。ちゃんと時間も間に合うようにするからさ。だから……いいよ。俺のことは置いて、そのまま行ってくれて」
「……本当に、仕方のない人ですわね」
苛立ちの混じった呟きを吐いてから、彼女は俺の隣へともう一度腰を下ろして。
「おい……」
「急かすつもりはありません。もちろん、あなたを置いてどこかへいくつもりも。……これは私の矜持です。いついかなる時でも、足並みは揃えませんと。だって、私たちは……」
「一心同体?」
「そういうことですわ」
会話は一度、そこで終わった。彼女は黙ったまま、俺の隣で座っていた。そんな無為な時間を過ごさせている自分が、ひどく嫌いになった。窓から差し込んでくる午後の日差しが、俺を睨みつけているようにも思えた。それ以上に嫌なのは、彼女に心情を打ち明ける意気地も、別れを切り出す勇気もなく、ただただ現状を受け入れることしかできない、情けなく惨めな自分だった。
──俺たちの足並みが揃ったことなんて、一度もなかっただろ。
そんな言葉を、喉の奥へと飲み干した。
■
それから、しばらくの時間が経ったある日。
俺はメジロ家の別荘に招待されていた。
グランプリの制覇を成し遂げたマックイーンの祝勝会も兼ねての集まりだった。
メジロ家の面子はもちろんのこと、協会の関係者も多く出席するような場だった。彼女の担当になってから、何度もこういった集まりに顔を出すことになったため、場慣れ自体はそれなりにしているが、乗り気かと言われると素直に頷けなかった。上の人間との会話は疲れるし、作法や振舞いにも気を使わなければいけない。
ただ、何よりも辟易としてしまうのは。
「貴方がマックイーンお嬢様のトレーナーですね?」
……またか。
「そうですけど、何か」
「いえ、少しばかりお話を伺いたく思いまして。よろしいですか?」
「……構いませんが」
嫌でも、俺がメジロマックイーンのトレーナーだと自覚させられること。
それに耐えるのが苦痛だった。
俺にそういった話を聞きたくなるのは理解できる。メジロマックイーンという、一つの時代を築いたウマ娘のトレーナーの話なんて、誰もが聞きたい内容だろう。仮に俺が逆の立場だったら、金を積んででも話してくれと思う。
尤も、それは彼女のトレーナーがマトモで優秀な人間だったらの話で。
「……別に、俺は何もしてません。全て彼女自身の力で成し遂げたことです」
何もない俺からは、そんな無味乾燥な言葉しか出てこなかった。
一度、真剣に考えたことがある。このままでは彼女を落としかねないと思って、何とかメジロマックイーンのトレーナーとして相応しく答えられるよう。だけど、考えれば考えるたびに、俺がやってきたことの無為さが浮き彫りになっていって、辛くなった。それからずっと、こういう類の質問にはこう答えるようになった。
「謙遜なさらないでください。数々の重賞レースで勝利されたマックイーンお嬢様、そのトレーナーが貴方です。トレーニングの秘訣でも、何でも構いませんから」
「なら、走らせてください」
「……走らせる?」
「はい。自由に、その子のやりたいように。それが一番だと自分は思っています。俺はそうしました。……それが、トレーナーとしての役目だと思ったので」
「…………………………」
嘘は言っていない。俺はずっと、彼女にそうさせてきたのだから。
だけど向こうは納得がいっていないようで、難しい顔を浮かべながら俺に怪訝な視線を向けてくる。続く沈黙が重く圧し掛かってきて、何か言葉を返そうとしたが、上手く言葉を選べなかった。つまり、これ以上に俺が言えることは何もなかった。
やがてそんな俺に呆れたのか、相手の方が先に口を開いて。
「……失礼ですが、本当に貴方がマックイーンお嬢様のトレーナーですか?」
「ええ、まあ……一応。いつ降ろされても、不思議ではありませんが」
「つまり、あなたは自らをマックイーンお嬢様には相応しくない人材だと?」
「どう捉えてもらっても構いません」
そうして向こうは、少しの間だけ黙り込んだ後。
「……貴重なお話を、ありがとうございました。では、私はこれで」
「ああ……はい」
失望を込めた視線を残して、俺から離れていった。
……何度も向けられたものだ。ただ、やはり気分の良いものではなかった。
相手を失望させてしまったから、ではない。こうして彼女について話していると、俺の不甲斐なさと不出来さが浮き彫りになって、ひどい気分になるから。
嗚咽にも似た何かが、喉奥からじわじわと昇ってくる。それを何とか抑えるため、どこか煙草が吸える場所へ向かおうと振り返ったところで。
「……何をしていますの、あなたは」
黒いドレスに身を包んだマックイーンに、見つかった。
「別に、ただのヤニ切れだよ。だからちょっと外してくる」
「まだ式典の途中ですわよ?」
「いいだろ一本くらい。すぐ戻るからさ」
「本当に、あなたという人は……」
困ったように眉間を抑えながら、彼女がいつものように溜息を一つ。
「他人の趣味嗜好に口を出すつもりはありませんが……もう少し控えてみては?」
「無理」
「……もっと他に言い訳はありませんの?」
「ねーな」
すると彼女は、諦めたように小さく肩を落としてから。
「まったく……仕方のない人ですわ」
なんて呆れながら、俺の手を握ってきた。
「おい……」
「丁度、私も少し風に当たりたい気分でしたから。ご一緒します」
何か抵抗しようとする前に、有無を言わせない力強さでそのまま引っ張られる。
もつれそうになる脚を何とか抑えながら、俺は彼女の背を追うしかなかった。
■
連れられたのは会場から少し離れたテラスで、いわゆるいつもの場所だった。
「ふぅ……」
枯れた香りが肺を満たしていく感覚に、思わず吐息が漏れる。沈んでいた気分も、いくらか落ち着いてきたみたいだった。そうして灰皿へと手を伸ばしたところで、何か言いたげにこちらへじとっとした視線を送ってくる彼女と目が合った。
「……何だよ」
「別に、何も。どうせ言ってもあなたは聞かないでしょうし」
「よく分かってんじゃねーか」
「……あなた、そこだけは他の何よりも強情ですわよね」
「それほどでも」
「誉めてないですわ」
交わす軽口が少しだけ心地よくて、思わず口元に笑みが浮かぶ。
……それにしても。
「今時珍しいよな、お前みたいなのは」
「……それは、どういう意味で?」
「いや、お前くらいの年だったら普通、嫌がるだろ。それこそウチって女子高だし。だからお前も、俺が吸ってるのを嫌がって、止めさせると思ったんだけど……」
そこまで口にしたところで、ふと彼女が薄ら笑いを向けていることに気が付いて。
「……そう思うのであれば、今すぐ止めてはいかがですか?」
「いや……やっぱりやめよっか、この話」
「それが賢明ですわ」
いつものうんざりとした目つきに戻った彼女の呟きで、会話が一度終わる。
……初めて彼女に見つかったときは、そのまま契約を切られると思った。
だけどそんなことはなく、むしろ彼女は時折こうして俺に付き合うようになった。その意図は分からないし、少なくとも俺の喫煙を肯定している節も感じられないが、だからといって無理やりにでも止めさせようとする考えでもないらしい。
結局のところ、よく分からないというのが正直な感想だった。
だから俺も、それ以上に深く考えることはしなかった。
「そろそろか?」
「もう少しゆっくりしても構いませんわよ」
「なら、もうちょい……」
声が聞こえてきたのは、そうやって二本目に火を点けようとした直前だった。
「──やっぱり、あれがマックイーンお嬢様のトレーナーだなんて信じられんよ」
反射的にそちらへ視線を向けると、さっきの男が誰かと話しているのが見えた。
「話を聞きに行く、と言っていましたが……そんなにですか?」
「ああ。まさか、あんな冴えない男がお嬢様のトレーナーとは」
「でも実績はあるじゃないですか。それこそ、マックイーンお嬢様を勝たせたのは紛れもない彼です。表に出さないだけで、実は相当な実力者とか……」
「どうだかなあ。あの口ぶりだと、本当に何もしてない可能性もある」
「……つまり、彼はただの張りぼてだと?」
「お嬢様の実力に胡坐をかいてるだけの男かもしれんなあ」
足音が遠のくにつれて、彼らの会話も聞こえなくなる。そのことにどこか安堵を覚えている自分が、ひどく情けなく思えた。そんな鬱屈とした気を紛らわすために、もう一度煙草へ火を灯そうとしたところで、その手が震えていることに気が付いた。
かたかたと震える指先が何度もフリントを弾く。だけど、火が上手く点かなくて。
「耳を傾ける必要はありませんわよ」
顔を上げると、マックイーンは俺のことをじっと見つめていた。
「……勝手に耳に入ってくるんだ」
「でしたら、その耳を塞いでみては?」
「無茶言うなよ……」
それくらい無神経になれたら、と思う時はたまにあるが。
「私としては、声を荒げて言い返すくらいの気概は見せてほしかったのですが」
「……悪かったな。意気地のない、情けない男で」
「ええ。全く。本当に。見ていてこちらがうんざりしますわ」
「言いすぎだろ」
「ですが、事実でしょう」
何も言い返せない。諦めて、俺は煙草に火を点けた。
「今更、あなたにそのような振舞いを求めるつもりはありませんわ」
「お前が求めなくても、お前以外の全員が求めてくる」
「仮にその期待に応えることが、私の勝利に繋がるのであれば、止めませんが」
「………………………………」
「品行方正に、皆の求めるように振舞えば、レースに勝てるわけではありません。むしろ求められるのは、これまでの常識を覆す『裏切り』のようなものですわ」
ですから、と彼女は今一度、俺の目をじっと見つめて。
「他の誰かの言いなりになるのは止めてくださいまし。あなたは、私の言葉だけに耳を傾けてくれればそれで構いません。それこそが、私の求めることですわ」
「……なんか、今のめっちゃお嬢様っぽいな」
「まあ、実際に令嬢ですので」
会話はそこで終わる。後は俺も彼女も、何も言わなかった。
■
その日は午前から、遠方の協会職員とビデオミーティング。
それが終わった後は天皇賞・春に向けてトレーナー同士で打ち合わせ。
午後はいくつかの出張先に、今後の予定の確認も含めた挨拶回り。
そこから学園に戻るのは十八時、もしかすると二十時くらいになる。
つまり。
「……今日はトレーニングを見てやれない」
朝のトレーニングが終わってから告げると、彼女は白くなった息を吐いて。
「今日も、ではなくて?」
「……悪いとは思ってるよ。でも、年も明けたばっかりだし、仕事も多いんだって。埋め合わせはどっかで必ずしてやるからさ。今日は許してくれよ」
「では、明日は?」
「…………………………」
「……もっと何か、言い訳は思いつきませんでしたの?」
んなこと言われても、と言葉を挟もうとして、彼女の湿った視線がそれを遮った。
「あなたのことを責める気はありませんが……もう少し、どうにかなりませんか?」
「俺の力じゃどうにもならないこともあんの。仕方ねーだろ」
「……仕事と私、どちらが大切なんですの?」
「やめろよ……」
思わず溜息を漏らす俺に、彼女は何故か小さく笑みを零していた。
「少し冗談が過ぎましたわね」
「ホントにな。ったく……元カノも同じこと言ってきたから、それ思い出したわ」
「……え? あなた、女性とお付き合いされた経験がありますの?」
「お前マジで俺のこと何だと思ってんの」
俺でも分かる。流石にこれは舐められてる。
「いえ……だって今まで、そういった話を一度も聞いたことがなかったので」
「普通に言ってねーだけよ。別に面白い話でもねーし」
「……言いたくないだけでは?」
「うるせーぞ」
そもそも思春期の子供に聞かせられるような、マトモな話でもない。
「まあ、その件に関しては後できちんと話してもらいますわ」
「そんなに聞きたいかよ」
「私も年頃の娘ですので」
……自分から言うことではない気がするけどな。
「とにかく、今日は自主練な。メニューはトレーナー室に置いておくから」
「分かりましたわ」
「一応言っとくけど、サボんなよ?」
「あなたは今まで私の何を見てきましたの?」
呆れたように肩をすくめてから、彼女がその場を後にする。
こちらに向けた背中は、今まで見てきたそれと何も変わらなかった。
■
昼食を軽く済ませた後、出張先へと向かうため車に乗り込もうとしたところで。
「あ、マックイーンのトレーナーじゃん」
そんな聞き慣れた声に振り返ると、そこにはトウカイテイオーの姿があった。
マックイーンと関わりがある生徒の中でも、特に仲の良い印象がある一人だった。レースやトレーニングでは勿論、学園でもたびたび一緒にいるところを見かける。
一言で表すのなら、彼女のライバル、というのが当てはまる、そんな生徒だった。
「ああ、お前か。珍しいな、こんなところで会うのは」
「まあねー。キミはこれからお出かけ?」
「出張。挨拶回りとか、色々してくる」
「……ふーん」
なんだ今の間は。
「いや~? 最近マックイーンが元気ない理由、ちょっとだけ分かったかも、って」
「……あいつ、やっぱりそんな感じなのか」
「あれ? 気づいてないと思ってたけど、意外とそこらへんは分かってるんだ?」
「そりゃお前、自分の担当トレーナーが何日もトレーニングの面倒見てやれない、ってなったら普通、不満だのなんだの溜まってくるだろ。それに……」
「……それに?」
「この前から俺への当たりが明らかに強くなってる」
「ああ……」
納得してくれるのは嬉しいが、そんな諦めるような視線は止めてほしい。
「確かに最近のマックイーン、だいぶキてるもんね」
「というと?」
「キミとのノロケじゃなくて、キミへの愚痴が多くなったかも」
……ちょっと待て。
「ノロケって何だ」
「マックイーン、ボクや他のみんなの前でも、キミの話ばっかりしてるよ?」
「……例えば、どんな」
「キミと買い物した時の話とか、映画に行った話とか。楽しそうに話してたけど、最近はキミと会えないって愚痴ってた。もっと時間を作ってほしい、って」
「…………………………」
どんな言葉を返せばいいのか分からなくて、頭を抱えてしまう。
嬉しさとか喜ばしさよりも、圧倒的に驚きの方が勝っていた。まさかあの彼女が、俺との話を友人にするなんて、思ってもいなかったから。むしろどちらかというと、俺とのやり取りはひた隠しにして、外に漏らさないようにしているとばかり。
というよりそもそも、これは俺が聞いてもよかった話なんだろうか。
助けを求めるようにトウカイテイオーに視線を投げると、彼女はにまにまとした、こちらをからかうような笑みを浮かべていて。
「あ、もしかして照れてる?」
「いや、驚いてる。まさかあいつが、俺のことを他人に話すと思ってなかったから」
「そーなの? てっきりボク、キミたちってそういう関係だと思ってたんだけど」
「んなわけねーだろ。仮にそうだとしても、あいつが俺となんて……あり得ねーよ。わざわざ俺を選ぶ理由がない。もっと他にマシな男、自分で見つけてくるだろ」
「……ほんとキミって、マックイーンの言う通りヒクツだよね」
「生徒に手ぇ出す犯罪者になりたくねーだけだよ」
「夢がないなあ」
「ほっとけ」
口を尖らせるトウカイテイオーを振り払うように、そう返した。
「とにかく、最近のマックイーン寂しそうだしさ。キミが何とかしてあげてよ」
「……言われなくても、そのつもりだって」
「頼んだよ? あんな調子のマックイーンと走っても、つまんないんだもん」
それだけ言い残し、トウカイテイオーがその場を後にする。
……きっと、彼女なりに励ましてくれたのだろう。根は真っ直ぐで、裏表のない優しい子だ。先程の言葉も全て本心からのものだと、これまでの付き合いで分かる。
「まあ、やれるだけやってみるさ」
……子供の純粋さに、当てられたからだろうか。
そんな、自分でも驚くほどに前向きな言葉を呟いて、俺は車に乗り込んだ。
■
予定していたスケジュールは、全て滞りなく終わらせた。
受け取った書類の抜け落ちも無し。挨拶回りの方も概ね良好に済ませたと思う。
今後の予定もある程度の見通しができたから、そこも含めて成功と言えるだろう。
それらを全て確認してから、改めて車の時計へと目を向ける。
指し示している時刻は、十六時と二分。
「……マジか」
想定の何倍も早く学園へ戻れたことに、俺は思わず呆然とした声を漏らしていた。
……当てられた、とは思っていたがまさか、ここまで効いていたとは。確かに、仕事中はずっと彼女のことを考えて──というより、どうやって機嫌を取ろうかと、あれこれ思考を巡らせてはいたが、それがこんな結果になるとは思わなかった。
「とりあえず、行ってやるか……」
煙草の吸殻を灰皿に押し込んで、車から降りる。夕日は既に落ち始めているが、トレーニングが終わるまでにはまだ少し時間があった。なるべく脚を急がせつつ、彼女が走っているであろうトレーニングコースへと向かった。
この時間帯ともなると、コースに残っている生徒は殆どいなかった。普段よりも閑散としているコースを眺めていれば、彼女の姿はすぐに見つかった。
「…………………………」
声はかけなかった。いや、かけられなかったのだと思う。
彼女は俺に気づかないまま、ひたむきに走っていた。フォームは普段通り完璧で、ペース配分も崩れていない。何も変わらない、理想通りの走りだった。
だからこそ、なのだろうか。
「……俺、いらねーじゃん」
きっとその時の俺は、彼女に何かしてやろうって思ってたんだ。
今までトレーニングを見てやれなかったから、その分ちゃんと見てやろう、って。テイオーにもああ言われたから、俺が何とかしないといけない、って。それこそ、もう一度だけ彼女と向き合って、後ろ向きにしか考えられない自分を変えてみよう、って。そんな決意すら、心のどこかにあったのだと思う。
でも、それはどうしようもなく無駄で、意味のなかったもので。
結局のところ俺は、彼女の背中を眺めるだけの、ただの傍観者に過ぎなかった。
……ああ、そうだ。ずっと前からそうだった。
本当は分かってたんだ。だけど、そう考えないようにしてた。
一度それを認めたら、俺は立ち直れない気がしたから。ずっと自分を誤魔化し続けて、彼女の背中を追ってきた。
でも、今こうして目の前にいる彼女を見ると、嫌でも思い知らされてしまう。
俺なんかがいなくても、彼女は──
「トレーナーさん」
そうやって声をかけられてから、初めて自分が俯いていたことに気が付いて。
顔を上げると、そこにはいつも通り、呆れた視線を送る彼女が立っていた。
「戻ってきたなら、声くらいかけてくださいまし」
「あ、ああ……いや、悪い。ごめんな……」
返す言葉は、絞り出すような弱弱しいものになってしまって。
流石に違和感を覚えたのか、彼女は眉をひそめながらこちらを見つめてくる。
「……何か、ありましたの?」
「いや、そうじゃない。……そうじゃ、ないんだ。ただ……」
「ただ?」
「いや……何でもねえよ、ホント。忘れてくれ」
「……そうですか」
真っ直ぐと目を合わせない俺に、彼女はそれ以上を追求しないでくれた。
……そんな些細な優しさでも、今の俺には堪えてしまって。
「出張、早く済ませてくださいましたの?」
「え? あ……ああ、そうそう。先方との会議が、思ったより早く終わったからさ。これならお前のトレーニングに間に合うと思って……急いで、ここまで」
「そうでしたの。ありがとうございます」
なんて、淡々とした会話に、だんだん耐えられなくなってきたから。
「そしたら……そうだ。タイム図ってやるよ。最近、図ってやれなかったし」
そうやって、ちょうど彼女が持っていたストップウォッチを受け取ろうとして。
「遠慮しておきますわ」
「……え?」
ぴしゃりと言い渡されると同時に、伸ばした手を遮られた。
「な……なんでだよ」
「もちろん厚意は嬉しいですわ。私のために早く仕事を終わらせてくれたことにも、感謝しています。あなたなりに頑張ってくれたのでしょうね。ですが……」
そこで一つ、彼女は溜息を吐いてから。
「あなたがそんな調子では、私も思うように走れませんわ」
真っ直ぐと俺の目を見ながら、そんなことを言い放ってきた。
「……何だよ、それ」
「言葉の通りです。……今のあなたは、明らかに本調子ではありませんから」
「それは……いや、気のせいだって。大丈夫だよ。ほら、な?」
「あなたの大丈夫という言葉ほど、信用できないものはありませんわ」
「な……で、でも今回はホントに大丈夫なんだって。だから……」
「言葉は悪くなってしまうかもしれませんが……今のあなたに見ていただいても、かえってトレーニングの邪魔になりかねない、と言えば納得してくださいますか?」
今思えば、それが最大限譲歩した彼女の言葉だった。
だけど、その時の俺には、そんなことを考える余裕なんて無くて。
「んなこと言ったって……そもそもお前が言い出したことだろ。トレーナーなら、ちゃんと毎日トレーニング見ろ、ってさ。だから出張もできる限り早く終わらせて、今まで見てやれなかった分、ちゃんとお前の走りを見てやろうと思ったのにさ……ホント、何だよそれ。……今度は邪魔者扱い気かよ?」
口走った言葉は、自分でも驚くほどに弱弱しい声で吐き出された。
まだ十八にも満たない、それこそ自分の教え子にぶつけていい感情ではなかった。だけど、どうしてか堰き止められなかった。どろどろに煮詰まり、燻ぶった何かが、胸の内側から這い上がってくる。これ以上はいけない、と口を強く噤んだけれど、その時点で既に手遅れだったことに、彼女の悲しそうな視線で初めて気が付いた。
……初めて見る、目だ。
そんな目もできたのかよ、お前。
「……トレーナーさん」
そうして名前を呼ばれて、初めて俺は我に返って。
「あ……ああいや、違う……違うんだよ。そういうことを言いたいんじゃなくて、ただ俺は……お前のために、何かしたかったんだよ。それで……」
「ええ、分かってますわ。あなたはそんなことを言う人ではありませんもの。まあ、この場合はどちらかというと、性格ではなく度胸の話ですが……」
そんな彼女の言葉も、今の俺には届かなくて。
「私の我が儘であなたを振り回してしまったことは謝ります。あなたがいないと、どうにも寂しくなってしまって……いけませんわね。私もまだまだ子供ですわ」
「……ごめんな」
「あなたが謝る必要なんて、どこにもありませんわ」
俯いたままの俺に、彼女は普段よりもいくらか優しい声色で、そう囁いてくる。その優しさすらも今では苦しく感じられて、それに一瞬でも嫌気が差した自分が、ひどく嫌になった。
「……今日はもう、お休みになってくださいまし」
「ああ……そうするよ」
そこから先のことは、ほとんど覚えていない。
気づけば俺は自室のベッドに横たわっていた。いつの間に眠りに就いたのかすら朧気で思い出せない。
窓の外は暗くなっていて、電気すら点いていない室内は、鬱屈とした暗闇に包まれていた。
起き上がる気力もなければ、何かを考える余裕もない。
そこで気づいた。きっと、俺は『折れて』しまったんだ。跡形もなく砕け散ったと自覚せざるを得なかった。
ただ、不思議と危機感はなかった。むしろ、ようやくか、と思った。
立ち直れるかは分からない。いや、そんなことを考えている時点で、すでにもう諦めているのだろう。ふと机にある時計に目をやると、すでに時刻は深夜の二時を過ぎていた。食事も摂っていないし、風呂にも入っていないことを思い出したが、それもすぐにどうでもよくなった。
退廃した気持ちに身を任せて、ゆっくりと瞼を閉じる。
『……トレーナーさん』
廃れ落ち、ぐずぐずになった記憶の中で。
彼女の悲しそうなあの目だけが、はっきりと浮かんでいた。
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