■
それから、数日後。
「お、さっきより短くなってんじゃん」
ストップウォッチを片手に、俺は名も知らない生徒へそんな声をかけていた。
「本当ですか?」
「ホントホント。でも、もうちょい詰めれるかもね。特にコーナーの踏み込みとか、ちょっとビビり気味だから、もう少し力入れてもいいかも」
「分かりました!」
「じゃ、それ意識してもう一本いってみよっか」
そう告げると、彼女は嬉々としてコースへと駆け出し、スタート位置へと向かった。腕を上げて合図をすると、彼女が頷いてから勢いよく走り出す。それと同時に、ストップウォッチを起動して、ターフをかける彼女の姿を目で追った。
スタートダッシュが得意な生徒だった。その分コース途中の諸々がぎこちなく、そのせいでタイムが伸び悩んでいる、そんな問題を抱えているみたいだった。出会ったのはつい先程だが、それでもある程度の傾向は掴めたと思う。おそらく、脚質は逃げ一択。改善点はまだ多いが、それ以上にスタートダッシュの勢い、そして最高速度に到達した時の伸びは目を見張るものがある。分かりやすく言えば、それが彼女の武器だった。後はそれ以外の諸々を調整すれば、充分に戦えるはず。
なんて考えを巡らせているうちに、彼女がゴール板を通過する。
それを見て俺も、ストップウォッチを押して計測を追える。タイムは先程よりも短くなっていた。
「お疲れさん」
上機嫌でこちらに向かってくる彼女を、そんな言葉で迎えてやった。
「ありがとうございます! タイム、どうでしたか?」
「だいぶいい感じだよ? 今日の自己ベスト出てるし」
ほら、と記録を見せると、彼女が嬉しそうに笑みを見せる。
「わ……本当だ。すごい……」
「スタートの丁寧さと、ノった時の速さが君の武器かな。この調子で頑張りなよ」
「はい、頑張ります! 今日はありがとうございました……」
元気な声が返ってくるけど、そこにはまだ何か、少し迷いがある気がした。
まだ何か不安なとこでもあるのだろうか。それとも、まだ走り足りないのか。
どう声をかけようか迷っているうちに、やがて彼女の方から先に口を開いて。
「その、本当に良かったんですか?」
「良かったって、何が?」
「いや、えっと……トレーニングを見てくださったのは、すごく嬉しいんですけど」
「けど?」
気づけば、追い詰めるような口調になっていた。
きっと、それ以上を言われたくなかったんだと思う。もう考えたくなかったから。
できることならこのまま、現実逃避を続けていたかった。彼女の走りを見てるのも、それが理由だから。
……その彼女に言われることが、何よりも堪える気がした。
だけど、彼女は俺のそんな心情など知る由もなくて。
「マックイーンさんのトレーニングは、見なくてもいいんですか?」
心配そうにこちらの顔を覗きこんでくる彼女に、俺は。
「……いいんだよ、別に。もう俺が見なくても」
「それって……もしかして、契約解消したってことですか? そんな……」
「ああいや、別にそういうわけじゃなくてさ。ただ、その……なんつーか。もう、俺が見なくても一人でやってけそうっていうか……そういう、意味で」
そうやって何とか言葉を紡ごうとしても、途切れ途切れに声が震えてしまう。
「いや……そう、だな。もう契約解消ってことにしてもいいかもな……」
「…………………………」
「俺にはもう、あいつにしてやれることなんか何もないしさ。俺がいなくても……いいんだよ、多分。だから、いいんだよ。これで。はは……」
沈黙が痛い。でも、きっとそれは彼女も同じだった。
……子供相手に何をしてるんだ、俺は。
これ以上ここにいても、意味のない言葉しか吐き出せない気がする。
「……とりあえず、頑張ってな」
そんな気の使いようもない言葉を残して、その場を後にしようとした、その時。
「おい」
不意に、目の前からそんな声をかけられて。
顔を上げるとそこには、一人のウマ娘の姿があった。
銀色にも似た白く長い髪に何とも形容しづらい頭の飾り帽子。女子どころか、学生にしても高い背丈をしたその生徒は、腕を組んだまま俺のことを見つめている。
知らない生徒ではなかった。むしろ、良く知っている生徒だった。
というよりは、嫌でも目に入ってくるというか、迷惑をかけられているというか。
「うわ……」
だからそいつの顔を見るだけで、そんな疲れた声が漏れてしまって。
それを聞いた彼女──ゴールドシップは、不機嫌そうにこちらを睨みつけてきた。
「人の顔見るなり何だよその反応は」
「いや……だって、お前がいるとロクなこと起こらねえし」
助けを求めようと後ろを振り返ったが、すでに彼女の姿は見当たらなかった。
……やっぱりあの子には、逃げの才能があるのかもしれない。
「とことん失礼な奴だな、お前」
呆れたように溜息を吐くが、俺の言っていることは間違ってはいないと思う。
マックイーンと特に仲が良いというか、一方的に向こうが懐いているというか。とにかく、彼女はことあるごとに俺たちの前に姿を現しては、面倒を起こしていく。言ってしまえば、問題児というか……扱いにくい、面倒で厄介な生徒だった。
ただ、そのどれもが主にマックイーン絡みで、俺は巻き込まれることが多くて。
こうして彼女が俺自身の前に立つのは、もしかするとこれが初めてかもしれなかった。
「……それで、何の用だよ」
だから俺の言葉も荒く、棘を含むものになってしまったのかもしれない。
けれど彼女はそれに構わず、むしろそれに対抗するような目つきのまま。
「マックイーンのことだよ」
そう、はっきりと告げた。
「お前、ここ最近マックちゃんのことほったらかしにしてるよな?」
「……出張が重なってんだよ。仕方ねーだろ」
「だったらさっきのは何だよ? 他のヤツの面倒見てんじゃねーか」
「それは……向こうに頼まれたから」
「昨日も、一昨日も、その前の日もか?」
「…………………………」
どっから見てたんだよ……。
「マックちゃんにはもう愛想が尽きたから、他の女に乗り換えってか?」
「……別に、そういう訳じゃ」
「なら、どういう訳だよ? 連絡も寄越さず、自分の担当に一人で練習させてさ。……お前、そんな放任主義じゃなかっただろ。どうしちまったんだよ、本当に」
突きつけられたのは怒りというより、疑問に近いものだったと思う。
「マックちゃんにはもう飽きたのか?」
「違う」
「だったら……」
そうやって言葉を続けようとする彼女に、勢いのまま口を挟もうとして。
でも、俺自身もどんな言葉を返したらいいのか、分からなくなって。
「っ……」
躓いた、というのが正しい表現なんだと思う。開いた口から抜けていったのは、微かな吐息だけ。呆けた面だったと思う。ただ、ゴールドシップはそんな俺を見て、普段の振舞いは考えられないような、何ともしがたい複雑な表情を浮かべていた。
「……だったら、何なんだよ」
やがて、しばらくの間を置いて、改めて渡されたその問いかけに、俺は。
「……俺なんて、もう必要ないんだろ」
自分でも笑えるほどに力のない声で、そう返していた。
「は……?」
「だってそうだろ。俺がいなくても、もうあいつは一人でやっていける。……別に、必要として欲しかったわけじゃない。むしろ、そんなこと今まで一度もなかったさ。……でも、何とかここまでやってきた。自分を無理やり騙して、やってきたよ」
「…………………………」
「だけど……もう、限界なんだ。あいつには、俺じゃなくてもいいんだよ。ああ、そうだ……俺が無理して付き合う必要なんて、もうどこにもないんだ。だから……」
「もういい」
鬱陶しそうに手を払いながら、ゴールドシップはそう呟いた。
「マックちゃんに自分はもう必要ないって……今までずっと、そう思ってたのかよ」
「ああ」
「……本気で言ってんのか?」
「本気だ」
「マックちゃんには?」
「……言えるわけないだろ」
そしたら、あいつは……あの子はきっと、無理をしてしまうだろうから。
俺みたいなやつのために、そんな無理なんてしてほしくないから。
「だったら、丁度良かったかもな」
言葉の意図を質すよりも先に、彼女がひょい、とその場から少し隣に跳ねる。
急に何を、という俺の疑問はすぐに吹き飛んだ。
「……マックイーン?」
ゴールドシップが退いたその場所に立っていたのは、確かに俺の担当で。
「な……は? おま、なん……な、何してんだよお前……」
「まさか、本当に気づかれないとは思いもしませんでしたわ」
上手く言葉を紡げない俺に、彼女はどこか拗ねたような溜息を吐いた。
……ハメられた。本当にあいつがいると、ロクなことが起こらない。
そんな恨みを込めた視線をゴールドシップに向けている俺に、マックイーンは。
「全部、聞かせていただきましたわ」
「……だろうな。それで? 俺のこと、どうするつもりだよ」
もう、覚悟は決めているつもりだった。むしろ、いい機会だったのかもしれない。
だからこんな状況になっても、気持ちは不思議と落ち着いていた。それよりかは、諦めにも近い気がする。どんな酷い言葉をかけられようが、仕方ないと思えた。
そんな俺に対して、マックイーンは。
「別にどうするつもりもありませんわ。あなたにはこれからも、私のトレーナーを続けていただきます。私がターフを去ることになるその時まで、ずっと」
…………………………は?
「な……何でだよ。お前、本当に俺の話聞いてたのか?」
「ええ、勿論ですわ。……何か、おかしなことでもありましたの?」
「……なあゴールドシップ。この状況でこんなこと聞くのは、間違ってるって分かるけどさ。俺、結構マトモなこと言ってるよな? おかしいの絶対向こうだよな?」
「知らねーよ」
あまりに混乱してしまって、たまらずゴールドシップにそんな助けを求めたが、取りつく島もなかった。いや確かに、あいつが今の俺に味方をしてくれるなんて、思ってもないけど……それにしたって、もっとこう。あるだろ、何か。
「……また、今日みたいにほっといてもいいのかよ」
「ええ。あなたのやりたいようにして頂いて結構ですわ。私はそれに従います」
「他のヤツの面倒見始めるかもしれねーぞ」
「構いません。トレーナーが複数の生徒と契約を結ぶなんて、普通のことですもの。こればかりは、私も我が儘が過ぎましたわ。申し訳ありません」
「おい……」
「ですので、これからもよろしくお願いしますね、トレーナーさん」
いつも通りの涼しげな笑みを浮かべて、彼女が頭を下げる。
何も言えなかった。というよりかは、彼女の言葉をどう受け止めればいいのか、まるで分からなくって。ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
……ほんとに、何考えてんだよ、あいつは。
トレーニングほっといて、他のヤツの面倒見てても、それで構わないって。
そんなの、いよいよ俺がいる意味なんて無いはずだろ。
なのに、どうしてあいつはまだ、契約を続けるなんて言い出したんだよ。
そんなに俺のことを手放したくないのは、どうして……。
……あ。
「そうか」
思考の末に漏らした呟きに、先に振り返ったのはゴールドシップで。
「お前……都合のいい奴が、欲しかったんだろ?」
自分でも笑えるほどに弱々しい、泣き出しそうな声が口の端から漏れていく。
「俺が良かったんじゃない。俺でも良かったんだ。自分の言うこと聞いてくれる、都合のいい大人が欲しかった。……本当、バカだよな俺って。そんな簡単なことに、今になって気づいたんだからさ。どうだ? 俺は、扱いやすかったか?」
「……トレーナーさん? その……何を仰ってますの?」
「いいんだよ、もう。この際、はっきり言ってくれ。自分がレースに出るために、丁度いいハリボテが欲しかったって。……その方が、俺も楽だからさ」
言葉を返してきたのは、ゴールドシップの方が先だった。
「お前、マックちゃんがそう思ってるって本気で言ってんのか?」
「当たり前だろ。そういう理由でもねーと、あんなこと言わねえだろ普通に」
「……マジでお前、どこまでヒクツなんだよ」
うるせえな。
「一心同体だって? ……違うだろ。俺なんか、居ても居なくても変わんねえよ。お前は結局、都合のいい奴が欲しかっただけなんだ。そのために使った言葉だろ」
「そんなことは……」
「……いい加減、認めてくれよ。そしたら俺、また勘違いしちゃうからさ。ああ、そうだ……俺、いい気になってたんだよ。お前のことを支えてやってる、ってさ」
「…………………………」
呆れた表情を浮かべながら、マックイーンがこちらに歩み寄ってくる。
それでも、言葉を吐き出すことを、やめられなかった。
「トレーナーとして、真っ当に……は、できなかったかもしれないけど。それでも、お前がレースに勝ったり、楽しそうに走ってたりしてると、俺も嬉しかったんだ。でも……もう、無理だよ。だってもう、分かっちまったんだから」
そうして俺は、マックイーンのことを、虚ろなままの瞳で見据えて。
「俺なんかがさぁ! お前みたいな優秀なウマ娘と釣り合う訳なかったんだよ!」
──ぱちん、と。
「あっ」
返ってきたのは言葉ではなく、そんな甲高い破裂音だった。
少しだけ右にずれた視界を戻すと、そこには手を挙げている彼女の姿があって。
それを認めた途端に、頬からじんわりとした痛みが湧き上がってくる。
目じりに涙が浮かび始めて、そこでようやく、頬を叩かれたと気づいた。
「え……?」
ただ、理解は追いついていなかった。
だってこいつが、こんな乱暴なことをするなんて、思ってもいなかったから。
そうして呆けたままの俺に、彼女は。
「……あら、私としたことが。あまりにも
あっけからんと、俺を叩いた手をひらひらと振りながら、いつもの調子で呟いた。
「ですが、これでトレーナーさんの卑屈な語りは止まりましたわね」
「……いや、さすがに力業すぎねーか、マックちゃん」
「ゴールドシップ」
「おう?」
「弁えなさい」
それから一切、ゴールドシップは口を開かなかった。
「さて、トレーナーさん」
「……何だよ」
「私が手を上げても尚、あなたは自らを私に見合わない人だと仰るのですか?」
そんなこと。
「……ああ」
「そうですか」
すると彼女は、いつもみたいにまた、息を一つ吐いてから。
「でしたら、こちらにも考えがありますので」
そんな不穏な言葉を残して、その場から去っていった。
彼女の後を追う気にはならなかった。そんな気すら起こらなかった。今の俺には、もう何の気力も残っていない。できることなら今すぐ眠りたかった。
……どうせ、ここで俺たちは終わりなんだ。
明日になればきっと、向こうから契約解除を言い渡されるだろう。もしかしたら、メジロ家に呼び出されて色々と言われるのかもしれない。考えというのはきっと、そういうことなのだろう。ただ、それも仕方のないことだと思えた。
「ま、そういうことだ。付き合ってやれよな」
なんて考えを巡らせていると、ゴールドシップが肩を叩いてくる。
「……これ以上、俺に何しろっつーんだよ」
「戦いだよ」
「……戦い?」
「ウマ娘と、トレーナーの。あるいは、男と女の」
あまりにも脈略のないその答えに、俺は言葉を詰まらせてしまって。
そんな俺を一度睨みつけてから、彼女もまた踵を返す。
「後悔だけはさせんじゃねーぞ」
その言葉の意味は、やっぱり分からなかった。
■
それから、三日後。
「…………………………」
俺は自室のベッドで、何もせずただじっと天井を眺めていた。
結局、マックイーンとはあれ以来、顔を合わせていない。
というのも、そもそも俺が学園に顔を出していないから、当然な話ではあった。
きっと、疲れてしまったのだと思う。これ以上、彼女の担当を続けていることに。そしてそれ以上に、無能な自分に耐えられなくなったのだとも、思う。
だから今日も、こうして部屋に閉じこもっている。
……このままではいけないと、理解はしている。
ただ、それでも今は、誰かと合う勇気はなかった。
このまま誰かに合ってしまったら、いよいよ俺はどうにかなってしまう気がして。
同僚や理事長秘書の駿川さん、更には理事長からも直々に連絡が入っているが、今のところ全て無視している。そうして何十件と溜まっている通知を眺めていても、焦る気力すら湧いてこなかった。
……もう、全てがどうでもいい。
そんな投げやりになっている自分に気づきながらも、止める気になれない。
いっそのこと、このまま死んでしまってもよかった。このまま誰の目にも触れず、ひっそりとこの世を去ったとしても、誰も俺のことを気に留めないだろう。なんて、厭世家じみた考えが脳裏を過ぎるが、それもまあ、悪くないと思ってしまった。
この先も、こんな代り映えのしない、廃れた生き方をしていくのだろう。
……いや、違う。今までもずっとそうだったじゃないか。
彼女の背中を追っているだけだった。俺が成し遂げたことなんて、何もなかった。
結局、俺は何もできなかった。ただ無為に、人生の時間を浪費していただけなんだ。
そう考えると、ほんの少しだけ気が楽になった。
心に生まれた僅かな安らぎにすがるように、ゆっくりと目を瞑る。
明日も、明後日も、一年が過ぎても、俺は何も変わらないのだろう。
ただ、一つ。
先日までうるさいくらいに鳴っていた携帯が、今日は嘘みたいに静かで。
溜まっている通知が今日は一切増えないことが、気になるといえば気になった。
「見放されたか……」
そうやって自分を納得させて、意識を手放そうとしたとき。
ぴんぽーん、と。
間の抜けたチャイムの音が、薄暗い部屋の中に鳴り響いた。
「……………………………………」
思わず、玄関の方へと視線を向ける。
……ああ、ついに家まで押しかけてきたのか。連絡が来なかったのは、そういう。
同僚か駿川さんか。あるいは、あの理事長なら、もしかしたらやりかねない。
まあ、誰が玄関の前に立っていようが、今の俺にとっては関係のない話で。
「…………………………」
いつものように布団を頭まで被って、聞こえてくるチャイムを無視する。
このまま何も答えずにじっとしていれば、いずれ諦めて──。
ぴんぽーん。
「…………………………」
……どうやら、相当に諦めの悪い奴が来ているらしい。
面倒な気にはなったが、かといって馬鹿正直に扉を開ける気にもならなかった。
布団をより深く被り、その上から両手で耳を塞ぐ。
「…………………………」
ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。
「………………………………」
がちゃっ。がん、どんどん。どんどんどんどん! がちゃ、がちゃっ。
「……………………………………」
………………ばきっ。
「おい!」
明らかに何か壊した音が聞こえたぞ!
流石に身の危険を感じたので、勢いよく起き上がる。そのまま玄関に向かうと、そこには鍵を閉めていたにも関わらず、半開きになった扉があって。
そこから顔を覗かせているのは、昼下がりのぼんやりとした太陽の光と。
「やっぱり居留守でしたのね」
キャリーケースを引いた、制服姿のマックイーンだった。
……いや。
そんなことよりも!
「おま、おまっ……ドアノブ歪んでんじゃねえかこれ! どーすんだよ、おい!」
「お邪魔しますわ。荷物はここに置いておきますわね」
「話聞けよ……!」
明らかに邪魔なところに荷物を置いて、彼女が靴を脱いで部屋の中に入っていく。あまりにも遠慮のない足取りに一瞬だけ呆然としたが、すぐさまその後を追った。
俺の部屋に足を踏み入れた彼女は、ぐるりと辺りを見まわしてから、一言。
「殺風景な部屋ですわね」
「うるせーな……」
「もう少し、何かインテリアでも置いたらどうですの?」
愚痴をこぼしながら、彼女が締め切ったカーテンを勢いよく開く。
「あら、日当たりは中々いいですわね。洗濯物もよく乾きそうですわ」
「内見かよ」
「言い得て妙ですわね。だって、これからしばらくはここで暮らすわけですから」
……………………………………。
「な……は? 何言ってんのお前……?」
「ですから、しばらくお世話になります、と。荷物を見て気づきませんでしたの?」
きょとんと首を傾げながら、マックイーンがおかしそうにこちらを見上げてくる。
おかしいのは絶対にこいつの方なのに、どうしてそんな顔ができるのだろう。
「……そもそもお前、なんで俺ん家まで来たんだよ」
他にも疑問は山ほどあるが、とりあえず一番気になっていたことを訊ねてみる。
するとマックイーンは、何でもない様子で。
「抜け出してきましたの」
「学園を? お前……あの荷物で、よくバレなかったな」
「いえ、きちんと理事長に事情は説明しましたわ」
「……説明って?」
「あなた以外のトレーナーと契約するつもりは一切ありません、と。……理事長は心の広いお方ですわね。快く、私のことを許してくださいましたの」
微妙に説明になってない気がするし、本当に理事長が居たたまれない。
というか、今朝から連絡が一件もなかったのは、それか。
「いや……なら、メジロ家の連中は? お前がこんなことしてるなんて知ったら、黙ってないだろ。下手したら連れ戻されるんじゃねーのか。……巻き込むなよ」
「それなら心配は要りませんわ。今日の朝、おばあ様にきちんと伝えてきたので」
「伝えて、って……何を?」
「私は今日から、メジロの名を捨てると」
…………………………は。
「お前、自分が何したのか分かってんのか……?」
「勿論ですわ」
何の気もなしに応える彼女に、俺はただただ呆然としていた。
それこそ、こいつにとっては人生を懸けてきたはずの家名なのに。
それを今後名乗らないどころか、捨ててきたって……それを、家元の婆さんに直接伝えてきた、って。
信じられなかった。話の規模の大きさというものもあるが、何より。
……マックイーンというウマ娘が、そんなことをするなんて。
「ですから、先ほども言いましたでしょう? 抜け出してきた、と」
改めて渡されたその言葉の重みを、ようやく理解した。
「今の私はトレセン学園の生徒でも、メジロ家の者でもない、ただのウマ娘です。これから行く宛も、夜を過ごす場所も決まっていない、途方に暮れた子供ですわ」
「…………………………」
「そんな私を、あなたは見捨てるおつもりですか?」
……一体、どこでそんなずる賢い言い方を覚えてきたのだろうか。
「好きにしろよ、もう……」
「では、お言葉に甘えて」
そう言うと、マックイーンはさっきまで俺が寝ていたベッドへと腰を下ろす。
「私が来るまで、何をしていましたの?」
「……何もしてない。ずーっと寝てた。何かしようとする気力も湧かなくて」
「いいですわね。でしたら、私もそうしますわ」
俺の言葉に返してから、マックイーンがごろん、とベッドの上に転がる。
ただ、しばらくすると彼女は、むくりと身体を起こして。
「……いえ、やはり買い物に行きましょう」
「どこに、何を」
「薬局にタバコ用の消臭剤を」
「勝手に他人のベッドに飛び乗った直後にそれ言えるってお前凄ぇよ?」
「まあ、グランプリも制覇したウマ娘ですので」
「調子乗ってんなあ」
……とにかく。
「買い物行くなら、着替えてからにするぞ」
「え?」
「だってお前、こんなド平日にトレセンの制服で街歩いてたら、嫌でも目立つだろ。……あの荷物の量だし、流石に服も持ってきてるよな?」
そもそも顔が、という話はあるが、それは帽子でも被らせれば問題ないだろう。
なんて付け焼刃の作戦を考えながら、財布と携帯を持ったところで、ふと。
「……ふふっ」
「何だよ」
「いえ、あなたが思ったよりも元気そうで、安心していただけですわ。それこそ、今のあなたには、外に出る気力すら残っていないと思っていましたもの」
「……お前が無理やりそうさせたんだろ」
なんて言葉を彼女に投げつけてから、靴を履く。
「先、外出て吸ってるわ。早く着替えてこいよ」
「分かりましたわ」
「……ああ、あと薬局だけじゃなくて、スーパーも寄るから」
「はい?」
こてん、と首を傾げる彼女に、俺は。
「飯、どうせまだ食ってねーんだろ。……久しぶりに、作ってやるよ」
「……まあ! ぜひ頂きますわ!」
嬉々とした笑顔を浮かべる彼女を横目に、玄関を出てからすぐ、煙草に火を灯す。
……ドアノブ、どうすっかなぁ。
■
「やはり、あなたの作る料理はどれも美味しいですわね」
先に食事を終えて洗い物をしている俺に、彼女はそんな言葉を渡してきた。
「そりゃ……どうも」
「できることなら、毎日あなたに作ってほしいものです」
「少し前までそうだっただろ」
それこそ、天皇賞・春を目標にしていた時期は、毎日のように弁当を作ったり、夕食のメニューをメジロ家の連中と一緒に考えていたりした。
ただ、天皇賞を過ぎてからは、あまりそういうことをしなくなった。
……もしかしたら、その時点で既に、俺は折れていたのかもしれない。
そう考えると、こうして彼女に飯を作ってやるのは、久しぶりだった。
「もし機会があれば、トレーナーさんのご実家にも伺いたいですわ」
「やめてくれ……」
自分の教え子と両親が顔合わせてる間、俺はどんな顔してればいいんだよ。
「とにかく、飯食い終わったなら向こう行ってろ。手伝いならいいから」
「そうでしたの? では、お言葉に甘えて」
すると彼女は、玄関にあったビニール袋を持ってから、俺の部屋へ戻っていった。
……ああ、そうか。消臭剤か。元はと言えば、そのために外に出たんだっけ。
それにしても、嫌なら一言そう言ってくれればいいのに、と思う。
ちゃんと言ってくれれば、禁煙する……というのはやっぱり、想像がつかないが。
ただ、もし俺が禁煙することがあるとしたら、きっと彼女が理由になるのだろう。
つくづく、自分はどうしようもない男だと思う。
そして、そんなことを思うたびに、どうして彼女は俺を選び続けているのだろう、という疑問を抱かざるを得なかった。
「…………………………」
そんなことを考えていると、仄かに消臭剤の匂いが香ってきて。
「なんでそんな、あからさまに女の子の匂いする奴買ってきたんだよ……」
俺のベッドに腰を下ろす彼女に、思わずそんな呟きを溜息と共に漏らす。
「いい香りではありませんの。いけませんでしたか?」
「お前がいる間はな。帰るとき絶対に持ってけよ? 置いてかれても困るし」
「なら、しばらくはこのままということですわね」
向こう数日居座ることを宣言してから、マックイーンがベッドに横たわる。
「……食べてすぐ寝ると、牛になるぞ」
「A5ロースを目指しますわ……」
「お前なあ」
いつからこいつは、と思ったが、厚かましいのは元々だったことを思い出す。
「このあとの予定は、ありますの……?」
「ねーよ。ずっとダラダラしてるだけ」
「そうですか……」
問いかけに応えてから、ベッドに背を預けて座る。
……一応、予定は作れなくもない。
服を見に行ったり、映画に行ったり。今のうちに夕食の買い出しに行くでもいい。それこそ去年まではずっと、こいつに振り回されてばかりだったから。そういったプライベートな用事が消化できず、溜まりに溜まっている。
もっとも。
こいつを隣に連れて、となると話は百八十度変わってくるわけだが。
「……はぁ」
昨日まで感じていたそれとはまた別の、うざったい憂鬱に襲われて、息が零れる。それから逃れるように携帯を手に取ると、時刻は既に午後の二時を示していた。
……洗濯物、取り込むか。
「マックイーン」
何もさせないよりは、と手伝わせるために、名前を呼んでから振り返ると。
「……すぅ」
「え……」
そこには既に枕に顔を埋めながら、寝息を立てている彼女の姿があった。
「ホントに寝んなよ……」
仮にも他人の男の、しかも使ってるベッドの上なのに。
流石に起こそうかと迷ったが、どうにも呆れの方が勝ってしまって。
結局、俺は眉間を一度強く抑えてから、洗濯物を取り込むために立ち上がった。
■
「んぁ……」
彼女のそんな蕩けた声が聞こえてきた時には既に、日はとっぷりと暮れていた。
「起きたか?」
「…………」
ぼんやりとした目で、こちらのことを見上げてくるマックイーン。
そうして俺のことに気づいたかと思うと、彼女はもう一度、欠伸をかましてから。
「………………くぅ」
「寝直すな!」
たまらず叫ぶと、彼女は非常に面倒そうな表情でこちらを睨みつけてきた。
彼女の身勝手にはもう慣れたが、流石にこれ以上の狼藉を許すわけにはいかない。
第一、このまま眠られたら俺の寝る場所が無くなってしまって困る。
「ほら、夕食の買い出し行くぞ」
「……私、パスタが食べたい気分ですので、それでお願いしますわ……」
「お前も行くっつってんだろ」
むにゃむにゃと猫みたいに目を擦りながら、マックイーンが体を起こす。
そうして開けっ放しにしてあったカーテンの外を見てから、一言。
「外が黒いですわ……」
「色で言うな」
どうやら、まだ半分くらい夢を見ているらしい。
……こうなったら。
「駅前のところにするぞ」
「……ああ、あの……少し高いところですわよね? ですが、どうして……」
「嫌か?」
「だって昼に行ったところより遠いですし、わざわざそこまで行かなくても……」
「デザート、好きなやつなんでも一つ買ってやる」
すくっ。
「さ、早く参りましょう。時間がもったいないですわ」
「………………………………」
先程とは打って変わって、彼女がしゃっきりとした視線をこちらに向ける。
対して俺は何も言葉が出なくて、ただただ冷たい視線を返していた。
……何か言われる前に、早く準備を済ませてしまおう。
「先に外いるから」
「また、ですか?」
「お前がいるから部屋で吸うの我慢してやってんだよ」
それだけ言い残して、外に出てからライターを取り出す。
「……私は別に、構いませんのに」
壊れて閉まりきらない玄関の扉から、そんな彼女の呟きが聞こえた気がした。
■
あれから夕食──彼女の要望通り、クリーム系のパスタ──を食べ終えたのち、だらだらと適当に時間を潰して。そこからしばらく、どちらが先に風呂に入るのか、そもそも浴槽に水を張るのか、シャワーで済ませるなんて嫌ですわとんでもない、だったらお前が風呂洗えよ面倒なんだから、なんて少しだけ揉めたあと。
結局、本当にどういうわけか俺が浴槽を洗ってから、湯船に水を溜めて。
何故か俺だけシャワーで済ませた後で、彼女はちゃんと湯船に浸かっていた。
「いいお湯でしたわ」
「ふざけんな」
バスタオルで髪を拭きながらの彼女の言葉に、思わずそんな言葉が漏れた。
「俺も風呂入ってよかっただろ」
「嫌ですわ、トレーナーさんが入った後のお湯なんて」
「さっきまで男のベッドで爆睡してた奴がよく言えたな」
「……でしたら、今からもう一度、湯船に浸かってくればよろしいのでは?」
「面倒……いや、アリだな。せっかく張ったんだし、久しぶりに……」
「私が浸かったお湯ですが」
…………………………。
「どっちにしろじゃねーか」
「そういうことですわ」
こいつが家に来てからここまで、面倒しか起きていない気がする。
今後しばらくこれが続くのかと思うと、やるせない気持ちにならざるを得なかった。
「ねえ、トレーナーさん」
なんて天井を仰いでいると、ふいにマックイーンが俺の隣へちょこんと座る。
こちらを覗くその瞳には、何かを期待しているようでもあって。
気づかないフリをするのは、無駄だと思った。
これから彼女が何をするのか──というより、何を言おうとしているのか、はっきりと分かってしまったから。
ここまで来たら、受け入れるしかないのだろう。気の進まない話だ。
ただ、諦めのつく話でもある、と言えばそうかもしれなかった。
彼女もきっと、それを分かっていたのかもしれない。いや、元々そうだったじゃないか。
首輪に括られた紐を握っているのは、いつだって彼女の方だったんだから。
やがてマックイーンは、俺の耳元に近づいて。吐息の混じった、声で。
「眠くないですわ」
……もはや、何も言うまい。
「昼間あんだけ寝てりゃそうなるだろ」
「目が冴えてしまって、寝れそうにありませんわ。いけませんわね。さて、どうしましょう……」
何か面白いことをしろ、なんてことを今にも言いだしそうな彼女に応えるべく、俺はベッドの脇に置いてあったタブレットを手に取った。
「ほら、これで無限に映画とか見れるから。それで時間潰してろよ」
「スクリーン派の私に、よく提案できましたわね」
液晶を触る指の動きからして、その方が得策だった気もするが。
とりあえず、これで彼女も眠くなるまでの暇を持て余すこともなくなるだろう。
興味深そうにタブレットへ視線を寄せる彼女を横目に、俺はベッドに寝転んだ。
枕から香ってくるフローラルな香りに、自然と顔が歪む。
「それにしても、意外でしたわ」
見る映画を決めたのか、タブレットを机の上に立ててからふと、彼女が呟く。
「何が」
「あなたは、プライベートで映画を見るような人ではないと思っていましたから。それこそ、私の付き合いでしか興味がないものだとばかり」
「……まあ、そうだな。ここ数年は、お前としか行ってないよ」
「でしたら何故、こんないつでも映画が見れるサービスを?」
そんなもの。
「元カノが契約してたから、それで。……解約するの忘れてたんだよ」
「……なるほど」
それからマックイーンは何か言葉を続けようとしたらしいが、それを遮るようにオープニングが流れ始める。
どうやら選んだのは、去年に流行った恋愛映画らしかった。
それこそ、その映画を選ぶ方が意外だ、と話しかけようとしたが、やめた。
液晶を見つめる彼女の横顔が、既に吞み込まれているものだったから。
……こういう時のマックイーンは、邪魔してはいけない。
触らぬ神には、なんて言葉を思い出してから、俺は静かに目を閉じた。
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喉の渇きを覚え、ゆっくりと意識が覚醒する。
瞼を開く気力はなかった。起き上がろうとする気力も、もちろん。
だがしかし、頭だけがぼんやりと働いている。その曖昧な思考の中で、憂鬱な全身の重みだけが、はっきりと認識できた。
在り体に言えば、最悪な寝覚めだった。
……こういう時はやはり、ニコチンに頼るに限る。
そうやって目を閉じたままテーブルの上にあるの煙草とライターを取ろうとして。
ふと、片腕にかかる、しっかりとした重みを感じ取った。
そこで初めて、隣から聞こえてくる規則正しい呼吸音に気が付いて。
今まで閉じていた瞳を開くと、そこには。
「ん…………」
俺の腕にしがみついて眠る、マックイーンの姿があった。
ああ、そうか。確か昨日は映画を見せて、そのまま先に俺が寝たのか。
なんて、寝起きの覚束ない頭を何とか働かせながら、昨日の記憶を辿る。
……いや、だとしてもこんな状況になっているのはおかしい気がする。
そんな漠然とした疑問を抱える俺をよそに、彼女はすぅすぅと寝息を立てていて。
「邪魔……」
何とか振り払おうと腕に力を込めても、思いのほか強く抱き着かれているせいで、上手く振り解けなかった。ならば、と無理やり彼女の体を押しのけようとしたが、それに対抗するように彼女がより強く腕にしがみついてくる。
その後も何度か試行錯誤を繰り返してみたが、この状況は変わらないどころか、むしろ悪化する一方で。最終的に彼女は、俺の腕にほとんど体を密着させる形で、未だに寝息を立てていた。
「…………………………」
もう、悪態を吐く気力もない。そんな諦観を挟んでから、再び目を閉じる。
……起きたらどうしてやろうか、こいつ。
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