■
一週間も経った頃には既に、マックイーンも俺もこの生活に慣れてきていた。
毎日、昼過ぎに起きて、少ししたら昼食の買い出しに行って。
食事を済ませたら、タブレットで映画を見ながら時間を潰して。
陽が沈んでくる頃に夕食の買い出し、夜になったらまた映画を見て、気づいたら眠りに就いて。
その間、俺たちは特に何かをするわけでもなかった。
ただ、無為な一日を過ごす。それだけの日々が、静かに続いていた。
このままではいけないと分かっている。ただ、このまま何もせずにいられるなら、それも悪くないと思う自分もいるのが事実だった。だから、俺は何も言わなかった。ただ彼女との奇妙な、退廃的な関係を受け入れ続けるしかなかった。
なんて考えを、天井を眺めながら巡らせていたところで、ふと。
「次はこちらにしましょう」
マックイーンにそう声をかけられて、タブレットに視線を戻す。
「……うわ」
「何ですの、その反応は」
思わず漏らした声を、彼女は聞き逃さなかった。
画面に映し出されているのは、俺が子供の頃に放映していたアニメ映画だった。人類が宇宙に進出した未来で、地球の汚染を浄化するロボットの話。名作と言えば、間違いなく名作ではあるが、どうにもいい思い出がないというのが事実だった。
というのも。
「……元カノが好きだったやつだから」
「猶更ですわね」
浮かない表情の俺を置いて、マックイーンがすぐに再生ボタンを押す。
すぐに映像が切り替わり、オープニングが流れ始めて……。
「そのお付き合いしていたという方は、どのような人でしたの?」
「え」
突然そんなことを聞かれたから、思わずそんな声を零した。
珍しかった。彼女は映画が始まってから、喋ることなんて一度もなかったから。
だからこそ、その問いかけにはそれ以上の意味が込められている気がして。
「……束縛癖のある女だったな。付き合った当初は、そんなことなかったんだけど。一緒に過ごしていくうち、化けの皮が剥がれたっつーか……まあ、よくある話だよ」
「今、その方とは?」
「別に、何もねーよ。……一方的に俺が逃げたから、キレてるんじゃねーの?」
「そうですか」
そんな彼女の一方的な言葉で、会話が終わる。
画面には荒廃した地球と、そこで一人動き続けるロボットが映し出されていた。
■
「私、主人公のロボットがどうにも理解できませんわ」
エンドロールが流れる中でふと、彼女がそんな言葉を漏らす。
「確か、主人公はヒロインのロボットに会うために宇宙に行ったんですのよね? ですが宇宙までの道は過酷でしたし、その上、ヒロインの仲間のロボット達からは弾き者にされていましたわ。これは映画ですから、最終的には丸く収まりましたが……現実は、そう上手くはいきませんわよ」
ともすれば、彼女らしくない感想だった。
いつもなら、映画を見た後は少しだけ言葉を交わし、すぐ次の映画に手を出す、という流れだったから。別に感想を共有したいわけじゃないし、そもそも彼女は、他人と感想をあまり共有したがらないということも理解はしている。だからこそ、こうして饒舌になる彼女を見ると、少し驚いてしまった。
「あなたは、どう思いますの?」
言われてから、少し考えて。
「……そりゃ、主人公が惚れたからだろ? 惚れたヤツのためなら何でもしたい、って思うのは普通のことじゃねーの? 特にこういうフィクションなら、猶更」
「ですから、そこが納得いきませんの」
「なんでだよ」
「私なら、ヒロインが地球に訪れた時点で、針金で雁字搦めに縛り付けますわ」
…………………………。
「無茶苦茶じゃねーか」
「ですが、好きなヒトには同じところにいてほしいと思いませんか?」
「……だからって、そいつの自由を奪うのは違うだろ」
「そうでしょうか? 私からすれば、自由にさせたらどこかに行ってしまいそうで、不安になりますわ。だから逃げないように、もうどこかへ行ってしまわないように、これからもずっと一緒にいられるように……私なら、そうしますわ」
彼女が語る言葉の一つ一つには、それ以上の重みがあるような気がして。
俺はただ、黙ってその言葉を受け止めることしかできなかった。
そうしてしばらくの沈黙が流れた後で、彼女がふと。
「怖気づいているのかも、しれませんわね」
「……何に?」
「大切な人が、どこか遠くへ行ってしまうことに」
それはこの映画の話なんだろうか。それとも、もっと別の何かの話なんだろうか。
「どこにも行けなくても、堕ちていくだけでも、構いません。夢を見ることを諦め、栄光から目を背けることになっても、ずっと二人で一緒にいられるのなら……私は、それでいいと思います。誰かを置いていくことになるよりは、ずっと」
「お前……」
「きっと、後悔するのでしょうね。そうして、その選択をした自分をいつの日か、恨むときが来るのだと思います。でも……誰かと一緒にいられるなら、それでも。それがたとえ、どんな結末になったとしても、私は受け入れられる気がしますわ」
言葉を紡いている間、マックイーンはずっとここではないどこかを見つめていた。
どこか物憂げで、あるいは羨むようにも見える、吞まれているような瞳。
……ああ、そうだ。思い出した。
映画を観る時の目と、そっくりだ。
「まるで今の私たちみたいですわね」
それは……。
「さて、次はどんな映画にしましょうか」
俺の言葉を待たずに、マックイーンが映画のプレイリストへと目を落とす。
その横顔はいつもより、少しだけ寂しそうに見えた。
■
夕食の買い出しのために、少し遠くのスーパーに行った帰りだった。
「あら」
ふと隣を歩くマックイーンが立ち止まったのに気付いて、俺も脚を止める。
向けた彼女の視線の先を追うと、そこには。
「……花屋?」
ビルとビルとの間にひっそりと佇む、小さな個人経営の花屋があった。
「気になんの?」
「ええ。こんなところにあったなんて、知りませんでしたもの」
確かに、あまりこちらの方向に出歩くことはないから、おかしな話ではないが。
「そうじゃなくてさ。お前……花とか興味あったっけ?」
「以前までは全くありませんでしたが、最近になってから、少し」
「……なんで」
「だって、あなたの部屋があまりにも殺風景だったんですもの」
……そういえば、こいつがうちに来てからすぐ、そんなことを言っていたような。
なんて、丁度ひと月前のことを思い出していると、マックイーンは軽い足取りで店の方へと入っていく。その後を追うように、俺も中へと脚を踏み入れた。
入ってすぐの場所には切り花が並べられていて、奥には鉢植えやドライフラワー、造花の類が飾られている。壁際には季節の花が置かれていて、値札に目を向けると、ユキヤナギやミモザといった、どこかで聞いたことのある名前が見えた。
「いらっしゃいませ」
そんな声をかけられて振り向くと、そこにはエプロンを着けた女性が立っていた。その人は俺たちを視界に入れると、小さく笑みを浮かべてから会釈を交わす。
「何かお探しですか?」
「ええ。この人の部屋があまりにも寂しすぎるので、飾るものを少し」
「俺の部屋のことは言わなくていいだろ」
「あはは……まあ、男の人のお部屋ってどうしても、そうなっちゃいますよね」
「……すいません」
たまらず頭を下げる俺を置いて、彼女が店内に並ぶ花に目をやりながら歩き出す。
仕方がないので俺もそれに続いたが、あまり気が乗らない、というのが本音だった。
そもそも俺に花の知識がないというのもあるし、何より一人暮らしの男の部屋に、花が置いてあっても……。
なんて色々と考えを巡らせている俺に、ふと先程の店員が声をかけてきて。
「ご兄妹ですか?」
「いや……教え子です」
すぐにそうやって答えを返した自分に、少しだけ驚いた。
こんな生活を送っていても、まだ俺には彼女のトレーナーという自覚があるのか。
「……もしかしてあの娘、メジロマックイーンさんですか?」
要らない自己嫌悪に陥っていると、店員がこっそりとした口調で俺に聞いてくる。
「ああ……そうです。よく分かりましたね」
「有名ですから。ということは、彼女のトレーナーさん……?」
「そうですね。一応、まだ……」
返答をし終えたところですぐ、失敗したなと思った。
偉い連中と話す時の癖で、まだ、一応、みたいな要らない言葉をつけてしまう。
「やっぱり。お二人のこと、ずっと前から見てたんですよ」
幸い、店員はそれを気にかけていないのか、そのまま話を進めていく。
「この前の有馬も現地に見に行きました。グランプリ制覇、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「次のレースはやっぱり、天皇賞・春ですか?」
「……それは」
渡されたその問いかけに、思わず言葉が詰まってしまった。
別に、一般人からのそういった質問に答えてはいけない、というわけではない。
業務上の秘密保持云々といった問題はないし、生徒を応援してくれるならむしろ、答えるのが誠実なやり方なのだろう。
しかし、ここでマックイーンとの今の関係を答えるわけにはいかなかった。
ただでさえ未成年と半同棲という、世間的にも大問題な状態の上に、彼女は今、学園にも一切通っていないということを考えると、口が裂けても答えられなかった。
「ああ、すいません……あんまり話しちゃいけないことでしたよね」
そうやって言いよどむ俺を見て察したのか、店員が頭を下げる。
「いや、こちらこそお伝え出来ず、申し訳ありません」
もはや自分ですらも、何に対して謝っているのか分からなくなって。
いっそのことこのまま、彼女を連れて店を出てしまおうかと思った、その時。
「まったく……どうしてあなたはまた、そんな浮かない顔をしていますの?」
いつの間にか戻ってきた彼女が、俺の背後からそう声をかけてきた。
「……うるせーな。生まれつきだよ」
「私が出会ったときのあなたは、もっと締まりのない笑顔をしていましたわよ」
そうして、彼女はいつも通りの──いや、久しぶりに、呆れたような息を吐いた。
「お決まりになりましたか?」
「いくつか気に入ったものはありましたが……ここの品揃えはどれも素晴らしくて。あれやこれやと目移りしてしまいますわ。ですから……そうですわね」
すると彼女は、そのまま俺の方を向いてから。
「あなたが決めてくださいまし」
「え」
いきなり言い渡されたその言葉に、思わず間の抜けた声が漏れた。
「そもそも、あなたの部屋に置くものですから。あなたが決めた方がよろしいかと」
「いや……それで言うなら別に俺、今の部屋になんかモノ置くつもりないんだけど」
「全く、あなたという人は……でしたら、こうしましょう」
「何だよ」
「私に見合う花を、あなたが見繕ってくださいな」
……まずい。さっきよりも格段に難易度が上がった気がする。
助けを求めるように店員に目を向けるが、帰ってくるのはにこにことした笑みで。
「ほら、どれになさいますの?」
どうしてか少しだけ上機嫌なマックイーンに急かされるまま、店内を歩いていく。こういう時の彼女に何を言っても無駄なことは、この世界の誰よりも知っていた。
……とはいえ、花については本当に何も分からないから、困る。
単純に彼女に似合う色か、あるいは好きそうな色で選べばいいのだろうか。
それこそ、俺にはそういうセンスもないから、結局何の解決にもならないが。
ああ、そういえば花言葉なんて面倒なものもあったっけ。
……まずい。本当に分からなくなってきた。
そうして色とりどりの花を前に、頭を抱えているところで。
ふと、視界の端にとある花が見えた。
「……アネモネ?」
淡い紫の色をした、少し小さな花だった。
どうやら他にも色の種類があるらしく、赤や白、ピンクのものが隣に並んでいる。
ただ、それよりはこの紫色をした花が、きっと彼女に似合うだろうと、そう思った。
なんて立ち止まって考えている俺を見た店員が声をかけてくれた。
「その子にされますか?」
「ああ……そう、ですね。選ぶなら、たぶん……これにすると思います。別にその、理由とかはないんですけど……偶然、目に入って。綺麗だと思ったから、それで」
歯切れの悪い俺に、だけど店員は笑顔で返してくれた。
「まあ、合格ということにしておきましょう」
「何様なんだよお前は」
「ですが、アネモネ……ふふっ、そうですか。偶然とはいえ、あなたらしいですわ」
からかうような口調でマックイーンが告げる。ただ、その表情はどこか満足気で、少なくともその花を選んだのは間違いではないということだけは、理解できた。
「では、会計を済ませてしまいましょうか」
「いや……」
ここまで来て言うのも、少し気まずい気はするが。
「そもそも買うつもりはないぞ……」
「……あら? トレーナーさん、私に恥をかかせるおつもりですか?」
「そういう訳じゃねーけど……だって、ほら」
鋭い視線を向けてくるマックイーンに、俺は右手に提げたビニール袋を見せた。
「今日、鍋するんだろ。……これ以上荷物が増えるのは、流石に避けたいぞ」
「でしたら、私が……」
「それに買ったとしても、うちには花瓶も鉢もねーんだから。枯らすだけだよ」
言葉を遮るように言った俺へ、彼女は呆れたように息を吐いた。
少し心がないというか、店に入っておいてこんなことを言うのもどうかと思うが、それよりもこの花を俺の手でダメにしてしまうことの方が、良くない気がして。
諦めるほか、ないと思った。それくらいなら、手にしない方がマシだと思った。
……とはいえ、まあ。
「店員さん」
「はい」
「……予約とかって、できますかね」
偶然とはいえ、選んだのは他でもない俺自身なんだから。
それならきっと、俺が見守らなくてはいけないのだと思う。
「次がいつになるかは正直、分かんないんですけど……また、絶対に来ますから。その時まで……この子のこと、よろしくお願いします」
頭を下げて頼み込む俺に、店員さんは優しく笑ってくれた。
■
その日もいつものように、俺はマックイーンと映画を観て過ごしていた。
ベッドに背を預けて座る俺の隣で、彼女は詰め寄るように画面を見つめている。
タブレットの傍らにはスナック菓子と炭酸のペットボトルが並んでいて。
……まあ、俗世に染まってきたというか、何というか。
少なくとも、彼女が現役で走っている時には、考えられない食生活だった。
「面白くありませんわね」
いつの間にか映画はエンドロールに入っていて、それと同時に彼女が呟く。
「そんなにか?」
「少なくとも、私向けではありませんでしたわね。何でも去年、結構話題になった恋愛映画でしたが……これなら、見なくて正解だったかもしれませんわ」
「……お前、恋愛映画になると途端に口悪くなるよな」
「まあ……そうですわね。どれもこれもヒロインが何というか、共感しづらくて。私ならこうするのに、その方が絶対にいいのに、なんて考えてしまいますの」
何とも我が強い、ともすれば彼女らしい我が儘な感想ではあった。
……ただまあ、その年で恋愛を語るのはどうなのか、というところはあるが。
「私にだって、色恋には一家言ありましてよ」
流れる沈黙で俺の考えを汲み取ったのか、彼女が頬を膨らませながら言ってくる。
「一応聞くけど、どんな?」
「『運命の相手には首輪をかけろ。繋いだ紐は死んでも手放すな』」
「最悪だな……」
どの映画を引用したのかは元が多すぎて分からないが、ロクでもない内容だった。こいつと付き合って面倒を見ることになったヤツは、本当に可哀そうだと思う。
「さて、次はどんな映画にしましょうか」
プレイリストに目を落とし、マックイーンは慣れた手つきで操作を始めた。
しかし、流れてくるタイトルはどれも彼女の興味を惹くものではなかったらしく、次々と彼女の指によって画面外へ消えていく。ただ、仕方のないことではあった。マックイーンと同棲を始めてから最低でも、五〇本以上のタイトルを見た気がする。それだけ映画を見れば、次第に見たい映画がなくなることにも納得できた。
そうやって映画を漁るマックイーンの横顔を眺めていると、ふと。
「ああ、そういえば」
彼女はそんな、何でもないように会話を切り出して。
「次の天皇賞・春はどうしますの?」
突然、そんなことを聞いてきた。
「……どうする、って」
「ですから、出走するのか、しないのか。それを聞いていますの」
「いや……」
そんなこと、急に言われたって。
「そもそも、まだレースに出られるのかよ」
「学籍はまだ置いてありますから。出走登録の手続きは問題なく行えますわ」
横暴ッ! なんて叫ぶ理事長の姿が、一瞬だけ脳裏を過る。
「……お前はどうしたいんだよ」
「どちらでも構いません。あなたの言う通りにいたします」
「…………………………」
はっきりと言い渡されたその言葉に、思わず天井を仰いだ。
もしかすると、それが初めてかもしれなかった。マックイーンが自らの選択を、他人に委ねることが。
おそらくそれは、俺との関係の中だけの話だけじゃなくて、彼女の人生でも初めてのことだったかもしれない。
それを理解できたからこそ、彼女の言葉が重く圧し掛かってくる。
……考えないようにしていたのに。ずっと、目を背け続けるつもりだったのに。
レースという舞台から、もう身を引いたつもりだったのに。
どうして……どうして今になって、そんなこと聞いてくるんだよ。
「別に、どちらかを強いているわけではありませんわ。どちらを選んだとしても、私は納得するでしょうし……同じように、後悔もするのでしょうね」
「だったら、なんで俺に……」
「だからこそ、ですわ。あなたと一緒なら、私はどんな後悔も乗り越えられると、そう信じていますから。……あなたに、私の未来を決めてほしいのです」
淡い紫に染まる真っ直ぐな瞳が、こちらを覗く。
「今までずっと、考えていましたの」
「何を」
「あなたが、あんな恍けたことを仰っていた、その理由を」
そうして彼女は、俺の頬に優しく手を添えた。
全く同じ位置だった。彼女が俺の頬を叩いた時のそれと。それに気づいたとき、あの腫れたような、じわじわと広がる痛みが蘇ってくる。
だけど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。寧ろ背中を押されているような、そんな。
安心と呼ぶには少し乱暴で、叱責と呼ぶには甘すぎる、そんな感覚だった。
「ずっと私は、あなたと共に歩んできたと思っていましたわ。ですが……あなたは、そうではなかった。足並みもマトモに揃わないまま、ここまで何とかやってきたと。そう、仰いましたわよね?」
「……ああ」
「それが理解できませんでしたの。私たちは、これほどまでに息が合っているのに。どうしてそんなこと仰るのでしょう、と……私なりに考えてみましたわ。そうして、気が付いたんです。それはもしかしたら、私の独りよがりなのでは、と」
申し訳ないような、あるいは寂しそうな瞳で、彼女が続ける。
「もう、あなたを置いていくような真似は、絶対にいたしません」
頬に寄せていた手で、彼女が俺の髪を優しく撫でる。
「あなたが立ち止まった時は、私も同じように、同じところで立ち止まりますわ。そのままずっと、立ち止まったままでも構いません。あなたと一緒になれるのなら、同じ時間を過ごせるのなら……私は、それでもいいと思えます」
「……夢を諦めることになっても、か?」
「ええ。だって、あなたと過ごしている今は、こんなにも素敵なものですから」
微笑んだマックイーンは、やがて俺の肩に頭を寄せる。
「再び歩みを進めたい、と仰るのであれば、それでも構いませんわ。私はずっと、あなたの隣で歩いていきます。……今度はきちんと、置いていかないように」
「……今までよりも遅くなるけど、それでもいいのかよ」
「ええ。私にとっては、あなたと共に歩むことが、何よりも大切なことですから」
そう言ってマックイーンが、俺の手を握る。
「ですから、答えてくださいまし。これから先の私が進む道を。共に歩む、未来を」
──思い出したのは、初めて彼女と出会ったときのことだった。
夕日に照らされたコースでただ一人、走っている姿を見かけたのが始まりだった。
言ってしまえば、ただの偶然だったけど……どうしてか、俺は彼女に声をかけて。
メジロ家という優秀な家系の娘だったから?
いや、違う。それは後から知った。
選抜レースで負けてしまったのを見て、慰めたかったから?
……それも、違う。そんな後ろ向きな感情じゃない。
なら、どうして。
どうして俺は、彼女のことをこんなにも──好きになってしまったのだろう。
その問いに対する答えは、案外すぐに見つかった。
「……お前とこうして過ごすのも、悪くはないんだよ」
「ええ。私もそう思いますわ」
「このまま、ゆっくり……時間が過ぎて行っても、別にいいんだ。代り映えのない、退屈で……それでも、幸せだって思えるこの日常が続いてくれるのなら、それで」
「はい」
「でも、さ」
握られた手を、俺の方から握り返す。
「やっぱり俺は、お前の走ってる姿が見たいよ」
メジロ家の悲願も、周りからの期待も、関係ない。
ただ俺は、彼女がターフを駆けるその姿に、惚れたのだと。
そんな簡単なことに、今更になって気が付いた。
「決まりですわね」
それは決意と呼ぶにはあまりにも、静かすぎるものだったけれど。
確かに、彼女は俺の声に応えてくれた。
「では、学園へ戻りましょうか」
「え……今からか?」
「勿論ですわ。ほら、制服に着替えるから先に出て行ってくださいます?」
「おい……」
有無を言わずに部屋から追い出されて、玄関に一人取り残される。
歪んで上手く閉まらない扉の向こうからは、微かに衣擦れの音が聞こえてきて。
「…………はぁ」
小さく息を吐いてから、俺は煙草に火を点けた。
この選択が正しかったのかは分からない。そしてそれは、きっと彼女も同じで、俺たちはこの先もずっとその疑問を抱えながら、進み続けるのだろう。
だけど。
どんなに迷って、悩んで、その末に間違えて後悔をすることになっても。
彼女の走る姿をこれからも見られるのなら、それで。
「お待たせしました」
「おう」
「それでは、行きましょうか」
そうして一歩目を踏み出した俺の隣を、マックイーンも歩く。
足取りは今までよりも、少しだけ遅いものだったかもしれないけど。
彼女の嬉しそうな横顔を望めるのなら、それでもいいと思えた。
■
そして迎えた、天皇賞・春当日。
「入るぞ」
「ええ、構いませんわ」
控え室の扉を開けると、勝負服に身を包んだ彼女が俺のことを出迎えてくれた。
「調子は?」
「そこそこ、ですわね」
「……トレーナーとしては、万全って答えてほしかったんだがな」
「まあ、ブランクもありますから。それでも、負けるつもりはありませんが」
そう言い切ったマックイーンの表情には、確かな自信が満ち溢れていた。
まるで、何かを乗り越えたような、あるいは迷いを振り払ったような顔つきで。
そんな決意を新たにした彼女に、俺がかける言葉があるとすれば。
「お前なら絶対、勝てるよ。……信じてる」
「ありがとうございます」
いつも通りの月並みで、何の飾りもない言葉だけど。
胸に手を当てて、彼女は俺の言葉をしっかりと受け止めてくれた。
「……それにしても」
そんな会話を交わしてから、改めて控え室をぐるりと見渡して。
「すごい量の花だな」
所狭しと並ぶ花束の数々に、思わず驚愕というか、呆れた息が漏れる。
彼女の出走祝いに用意されたものだった。メジロ家のスポンサーや傘下の企業、果てには協会からも直々に送られてきている。現役で出走している時にも何度かこんなことはあったが……それを鑑みても、今回の量は度を越していた。
まあ、天皇賞・春の連覇がかかっているとなると、当然と言えば当然か。
「今回は、珍しいところからも来ていますのよ」
「珍しい?」
「ほら、こちらに」
そうやって、マックイーンが指をさしたところには。
「……ああ。あの、花屋の」
「ええ。嬉しいことですわね」
呟きながら、彼女が小さく笑いを零す。
「ところで」
するとマックイーンは思い立ったように、改めてこちらに向き直ってから。
「先程からあなたは、何を後ろに隠していますの?」
……………………………………………………。
「別に? 何が? 何も持ってねーけど?」
「その体勢のまま押し通すのは、流石に無理がありますわよ」
全くもう、と嘆息を一つ吐いてから、マックイーンがこちらに手を差し出す。
「ほら、早く観念して見せてくださいまし」
「……そんなに面白いもんでもねーよ」
渋々と背中に隠していたそれを前に出すと、ふわりとした甘い香りが漂って。
俺が差し出したのは、アネモネの一輪巻きだった。
「ほら、その……前に予約したやつ。結局、受け取りに行く機会もなかったからさ。昨日に店へ受け取りに行って、そのままお前に渡してやろうと思ったんだけど……」
「…………………………」
「他にもこんなにたくさんあるから、もう充分かな、って。……だから言っただろ? 面白いもんでもねーし……いらねーよな。だから、いいよ。返して……」
「本当に卑屈な人ですわね、あなたは」
居たたまれなくなって伸ばした俺の手を、マックイーンはさっ、と避けて。
「これは、私のために選んでくださったものでしょう?」
「……偶然だけどな。お前を担当に選んだ時と、同じみたいに」
「だとしても、それを綺麗だと思ったあなたの心に、嘘はありませんわ」
そうして彼女は、手にした一輪のアネモネを見つめながら。
「……ええ、そうですわね。私も、あなたのことを信じていますわ」
一つ一つの言葉を噛み締めるように、そう呟いた。
「それでは、参りましょうか」
「ああ」
進み始めたマックイーンの隣を、俺もまた歩き始める。
そして。
■
「花瓶はこの位置でよろしくて?」
「……何もそんな、机のど真ん中に置かなくてもいいだろ」
「でも、その方があなたの目に留まるでしょう」
ことん、とマックイーンが手にした花瓶を机に降ろす。
揺れる淡い紫の花弁を、彼女が指先で優しく撫でた。
「うんと可愛がってもらうんですのよ」
「……そんなに気に入ったのか?」
「ええ」
「ほんと、偶然っつーか……たまたま目に入っただけなんだけど」
「それでも、ですわ。あなたが選んだことに意味があるのです」
やっぱり、彼女の考えていることはよく分からない。そのまま黙り込む俺の隣へ、彼女は静かに腰を下ろした。流れるのは、どうしようもなく退屈で、無為な時間。だけど、彼女が隣にいてくれるのなら、この時間も悪くないと思えた。
「確かに、あなたにとって私との出会いは、単なる偶然かもしれませんわ」
やがて独り言のように、彼女がそうやって話し始めて。
「ですが、私にとってあなたは、運命の人でしたのよ」
………………。
「どの映画のセリフだ?」
「あら、私の言葉ですわよ?」
小さな微笑みを零しながら、彼女はそう答えた。
「にしても、運命の人って……また、変な言い回しだな」
「そうでしょうか?」
「ああ。だって、それじゃあまるで……」
恋人みたい──なんて言葉を続けようとしたところで、ふと。
隣に座る彼女の頬がほんのわずかに、赤く染まっていることに気が付いた。
それと同時に、いつかの彼女の言葉を思い出す。
『運命の相手には首輪をかけろ。繋いだ紐は死んでも手放すな』
……………………………………………………。
「もちろん、手放すつもりはありませんわよ」
いつもよりも少しだけ、優しい声色で彼女が呟く。
「……別に俺も、離れるつもりはねーよ」
「あら、そうなんですの?」
「だってお前が言い出したんだろ。俺たちは……」
「一心同体、ですか?」
「そういうこと」
会話は一度、そこで終わる。
彼女は黙ったまま、俺の隣で座っていて。
そんな無為な時間が、今ではとても大事なものに思えた。
■
「アネモネ」
「希望」「はかない恋」
――――「あなたを信じて待つ」
2023年4月2日に開催されたプリティーステークス29Rで頒布したものです