上瞼を使うことで広げた視界の中に写っている物の中で、最初にその様子を捉えることが出来たのはラゼンの姿。向こうは今も両肩で息をしながらも、トンファーを展開している姿を一切隠さずに構えている。さらに、それだけでなく、私の方を上の瞼をわずかに平たくする視線で見てきている。
しばらくの間私はラゼンの視線に応えているのかないのかわからないままにしていたはずだが、息を吸い込むような動きと一緒に咄嗟に目を横に向けると、今も獣人の女が先ほどの尻もちをついた態勢のまま私の方を見続けている。しかし、相手の方が私よりも気づくのに遅れながらも、わずかな声を上げながら両手足を使い後ろに下がることですぐに距離を取っていた。
わずかに口を開けながらそちらへと向けて足と手を動かそうとにも、相手がそれに身構えるかのように顔を背けながら目をつぶったのはこっちがそれを終えた後、それに遅れて私と獣人の女やラゼン以外の、ステージの様子を見ていた観客たちも一斉にどよめく声ととても言えないような音を立てていた。
続けてそれへと引かれるように視線を向けると、獣人の女と同じように尻もちを突きながら唇を動かしている人間の様子や、その人物を庇うかのようにしながらも首の向きを変えることで私のことをじっと顎を引きつつ見つけている姿。それ以外にも壁へと背中や両方の肩と手を当てている男。他の人物も周囲が静かなままである様子がしばらく続いたことではっとするような動きと共に駆け足で観客用出入り口へと向かう足とがする。
そして、それは1人が始めればまた1人、また1人と続く。最初は数少ない数えられるほどの足音であったが次々声も混ざり始め、その大きさは時間を重ねるごとに大きくなっていくが、それらが両者をかき消すことはない。
私の周囲を騒動だけ支配している中、まっすぐに立つことしか出来ていない。自身の剣を持っていた側の手ですらも力を入れることなく重力に従わせ、その先端を床へと付けた状態にしている。そこから変化したのは、私の元へと近づいてくる足音がした時。しかし、ラゼンが私に寄ってくる間も、出来ていることといえばわずかに目の開く範囲を表情の筋肉で開くもののみ。寄ってきている音がだんだんと近くなっている間に口を動かすも、そこから出る声の音はほんのわずかな物。とても言葉になっているとはいいがたい。しかし、それでも一度歯を食いしばるかのようにしたのちに顔を持ち上げてその名を呼ぼうとした。
それにもかかわらず、ラゼンはすぐにトンファ―の展開を閉じながら私の横をただ通り過ぎ、すぐに巨漢の介抱に当たっていた。結局、私の出せた声はほんのわずかな最初の言葉のみで、それが終わると共に唇を強く潰す。また顎を先ほどまでと同じ場所へと戻す。
目線を斜め下へと向けるような動きと共に、それで見えている誰のかもわからない血だまりが私の剣からも水滴となって零れ落ちている物だけで終わらず、どこからか流れていて、私の足元にもやってきている。そして、赤黒く地面の様子ですらも見えにくくしている水面には私の体の全身を映し自分でも確認できるようにしていた。
一度瞬きをしてから息を吸い込んで喉の中を狭める。それにもかかわらず、鼻から何度も息を一気に吸う動きを繰り返すことに。その間も、ラゼンは巨漢の名前を呼びながら立ち上がらせようとしている。続けて、足を引きずる音を立てながらそこから離れていくようで、私が視線を向けるころには、男が肩を貸している相手に駆け付けた獣人の女も加わっているよう。互いにお礼を言いながら進んで行く姿はどんどんと私の方から遠ざかり、最終的にステージの出入り口の暗がりの中へと消えて行った。
気づけば観客たちも何者かに整備されていたのか、いとも簡単にこのコロシアムの中からいなくなっているよう。結果として周囲から聞こえている音は私の剣先から落ちる血の音以外にはなくなる。続けて、勝手に照明も落とされたのか、血だまりに写る私の姿以外に辺りで見えている物はなくなる。
唯一あるのは、天井に取り付けられた照明で、自身の体の真上に存在している数個だけが、今も背中をわずかに丸めながらも、下の唇を仕舞うことで両端にえくぼを作った私が、ただ1人いること場所を照らす。それ以外の場所は何も見えなくするかのように、このコロシアムの薄暗い物陰だけがあるようになっていた。しかし、それらもほとんど瞼を閉じた状態であるがために見ることが出来なくなっていた。
建物の中を歩く間、どこからかわずかなささやく声が聞こえているも、それは私が決して早くもない足音がするたびに消えてしまいそうである。両方の手をわずかに動かしているが、それ以外で動く場所は1つもない。髪の毛や制服ですらも何も変わらない。ただ私が額をわずかに前へと出すかのような体勢のまま足を進ませているのみ。
唯一変化があるとすれば私が足を進めている場所が廊下の十字路へとたどり着いた際に、そのささやき声が一瞬止まる時のみ。その瞬間を私へとあてつけるかのように、大きな音となって聞こえているよう。しかし、それもほんの一瞬の間。私が強く歯を噛みしめることで、足を進める速さを変えないでいるせいもあり、気づけばまた彼らが話し声をしている物が戻っているようであった。
別の廊下とすれ違う所ではそちら側がまた別の色の真っ白な蛍光灯が取り付けられている一方で、私の進んでいる場所では等間隔に並んだ緑色をしている灯りが並んでいるのみ。その結果として、自分の体の様子が私の視界の中でも見えている時ですらも、本来の色を取り戻しているようには見えない。
しかし、ぶつかり合う十字路の向こうにいる彼らの様子は真逆。どこにも影が鳴く確かな服や肌の色が見えていた。
私の様子が変化したのは、一度曲がり角を曲がった時、その際には周囲の灯りがどこにもついておらず、それがあるのがコロシアムの別のステージへと続いている通路の奥側であった。そちら側は先ほどと同様に白い光が溢れるかのように見えているが、逆光でその中の様子は一切見ることが出来ない上に、その光が私の方へ届くことはない。
しかし、それでもそこから聞こえてくる人々の歓声であったり選手の名前を呼び続ける声、それに応えた名乗りを上げる声が変わることはない。私から見ればそこへと続く通路は遠ざかれば遠ざかるほどに狭くなっているかのように見えている。しばらく同じ方を見ていたが、すぐに踵を返し、また元の姿勢と速さで足を動かすことになった。
気づけば、私は外へと出ていたようで、雨は降っていない物の、濃い灰色をした雲が辺り一面に並んでいる光景へと顔を持ち上げることでわずかに口を開く。しかし、それでも周囲で人が歩いている姿があったのか、その足音を聞くところで一気に息を吸い込みながらそちらを歩いている様子へと距離を取りつつ片方の肩を見せつけるような体勢をする。手をつなぐ子連れ2人が私の前を歩いて去っていくまでこちらはまっすぐに2人がいた場所だけを見つめていることとなった。
眉を下へと下げながらそこに力を入れた状態で体を動かせずにいたのは、子連れがいなくなった後もしばらく続く。そこから解放されたのちに音もなく鼻から息を吐くことに。それから、足を一歩ずつ確かめるような速さで進めることで、コロシアムの入り口前にある階段を下る。途中で止めたところで、顔全体を中心へと寄せるかのようにそこに力を入れた。
「待て」
自分でもその音を聞くかのような勢いで息を吸いながら振り返る私に対し、ラゼンは両方のトンファーを展開していないながらも両手に装着したまま私の姿を見下ろしていた。向こうは両方の腕を降ろしたまま私のことをただじっと見つめている。唇を中心部分のみ下ので上の物を押している以外、何もしない。
一方で、こちらが階段を降りる途中であったがために見上げながらも口の開けている範囲を何度か変え続けていることしかできず。それに付随したわずかな声も出してはいるが、それはただの音で、何かの形になることはない。
その間も、ラゼンの様子が変わることはなく、依然として私のほうを見下ろしているのみ。それが変わったのは、こちらが一度喉の中を締め付けつつ顎を引いたのちに声を出そうとした時であった。
「ここには、もう来るな」
最初の一文字くらいは出せた気がした。しかし、相手のほうから声を出された。そのせいで私の口は開いたまま、静止することになった。
「悪いな、蛟龍」
それだけ言い残すと、ラゼンは踵を返し、コロシアムの中へと戻っていく。私が足を動かせずにその場にいたまま、それだけでなく他の位置も同様にしている間も、相手は腰に手を当てたような姿勢を一切変えずにその中へと消えていこうとしている。
いまだにトンファーを装着したままにしているその姿の進むペースが変わったのは、近くにいたまた別の人間に話しかけられた時。相手のほうから私が倒してしまった者たちに命の別状がないことを話していた。それは話している2人が大きく離れた場所にいる結果として、私からはだいぶ聞き取りにくいが、それでも細いもので聞くことは出来る。
その一方で、ラゼンもそれに喜んでいるのか、先ほどのものとは比べ物にならないような跳ねる声の出し方をしているようで。しかし、その間も歩みを進める早さを変えることはない。それどころか、手を当てている位置ですらも同様。そのまま、彼らが長い通路の途中にある通りの曲がり角を行くまでの間、ただ私は相手の様子をまっすぐに見ていることしかしない。
「そう、だな……」
彼らが曲がり終える直前、私のほうからわずかな声を出す。途中で息を入れ替えるだけではないほどの隙間をあけながらも、顎を体へと近づける動きをすることと話しかけるのだけはやめなかった。
しばらく夕日が当たり赤くなっている薄い茶色の階段の様子だけを見つめている。しかし、最初は視界がぼやけていたがために見えなかったが、それが鮮明になった途端に自身の正面だけが黒い影になりその色にすべてが染まってしまっているのに気づく。
その姿は、私の顔や視線がどれだけ震えようともその形が一切変わることはない。見つめている間、周囲で聞こえる音など何もなく。ひたすらに私が自身の両方の目元に限界まで力を入れているだけであった。
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