転生したら美少女VTuberになるんだ、という夢を見たんだけど?   作:蘇芳ありさ

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今回の主人公はジャンルの変更にともない、モデルとなる人物の設定を学生時代のときのそらさんに変更しています。あいしからずご了承くだされ。



幕間『とあるファンの高まる胸のときめき』

 

 

 

 

 

 2011年12月14日(水)

 

 

 放課後に歩きスマホでメールを打つ。お行儀はあまり宜しくないが、こちとら緊急だ。どうか大目に見てほしい。

 

 ちなみにメールの相手は実の兄で、内容はこれから家に寄ってもいいか訊ねるというもの。

 

 返事はすぐに来た。神経質なほど几帳面で、生真面目な兄だ。今回のことでストレスを溜めているんじゃないかと心配だったが、少し安心した。

 

「来てもいいけど、メシの用意は何もしてないぞ、か……ご心配なく。それくらいこっちで勝手に用意するから、お腹を空かせて帰っていらっしゃい……と、これでよしっと」

 

 返事が今夜は帰れそうにないだったり、メールを返す暇もないってわけでもないなら、そこまで心配しなくても大丈夫か。お家騒動が大好きな大企業に勤務する兄を持つと、妹は苦労するのである。

 

「まして、歳が14も離れてるんじゃ、多少はね……」

 

 誓ってブラコンではないが、家庭を疎かにする両親まで実在するとなると、兄妹の距離感がバグってしまうのも仕方ないと思うんだ。

 

 わたしはソラ。天宮(あまみや)ソラ。年齢は18歳。将来の夢は、いま流行りのVTuberというごく平凡な女子高生。ようは浜岡ありさ以来となる女子中高生のカリスマ、アーニャちゃんに憧れたクチである。

 

 わたしの夢がアイドルだったことを知っている中学以前の友人なら、今さら何を言ってんだか、って笑うかもしれない。自分でもそう思うし、笑わないのは兄と、親友の栄ちゃんぐらいのものだろう。

 

 しかしわたしはこう言いたい。そこがN社の巧妙なところだって。

 

 例えば、わたしが道すがら視聴してるこの動画は、昨夜の配信で紹介された大空スバルさんのライブ配信だ。彼女自身は声が大きいこと以外、たいして特徴のないごく普通の子だが、昔のホラーゲームをやらせて泣かせたり叫ばせたりすると腹筋が死ぬほど面白い。

 

 他にもわたしだってそこまで酷くないと言いたくなるようなコミュ障のド陰キャや、人見知りのネット弁慶が紹介されて人気を博すとなると、わたしでもできるかもしれないと勘違いしたくなる。

 

 これがアーニャちゃんのような天才ばかりだったら、すぐに無理だと諦めていたに違いないから、これはそう思わせなかったN社がすごいのだ。我ながら見果てぬ夢を追いかけてるな、っていう自覚くらいはあるんだけども……。

 

「でもやらなきゃ可能性はゼロだもんね。ダメならダメで挑戦くらいはしてみないと」

 

 ま、そんなわけで兄の機嫌を伺う必要があるのだ。

 

 VTuber事業を巡ってN社と協議中という兄が失脚したら、わたしの道はかなり狭まる。

 

 今週末には待ちに待ったN社肝入りのホロライブの事務所が各地にオープンするらしいが、そちらの一般公募には数万とも数十万とも言われる希望者が殺到していると実しやかに囁かれている。とてもじゃないが、そんな狭き門を潜り抜けられる自信はない。

 

 なので兄には何としてもこの先生きのこってもらって、自前の事務所でわたしを雇ってもらうなり、なんならホロライブに推薦してもらわないと……。

 

 ま、最初からコネ頼みも何だが、わたしが最寄りのデパートで高めの肉を買い込んでいるのはそんな理由なのだ。

 

 かなりの出費になったが、費用対効果は悪くない。他にも手土産もあるので、妹に甘い兄を籠絡するには十分だろう。さすがにこの歳で、純真なアーニャちゃんの真似をして風呂場で兄の背中を流すのは気恥ずかしいから、なんとかその前に決着を付けないと……。

 

 というわけで学校から電車を乗り継ぎ、買い物も済ませたわたしは兄のマンションに向かった。

 

 都心から20分圏内。相変わらずいいところ住んでるなぁと感心しつつ、手持ちの合鍵でオートロックを解除。9階にある3LDKに足を踏み入れたわたしは、予想以上の光景にかなり呆れた。

 

「いい家に住んでるんだから、掃除くらいキチンとしなさいよ……とばかりも言ってられないか」

 

 このあたりは男やもめの悲しいところだ。普段はもう少し綺麗にしてるんだけど、単純に時間が取れないんだろう。

 

 つまり仕事に追われていると。ただでさえストレスを溜め込む体質だから余計に心配だ。

 

「ほら、やっぱり。先週より抜け毛が増えてる。ぜんぜん大丈夫じゃない」

 

 早速チェックすると、頭を拭いたタオルに結構な量が絡み付いている。単に洗うだけじゃなく、こいつも綺麗にしてやらなきゃいかんわけだ。

 

「まずは買ってきた物を冷蔵庫に入れたら、ご飯を炊いて、洗濯、掃除、お風呂の順で行けるかな?」

 

 例の動画に気を取られていたのもあるが、時計の針はすでに5時半を回っている。いつも通りなら7時過ぎに帰ってくることを考えると時間はあまりない。

 

 手際よく家事をこなし、途中でため息を吐きながら例の抜け毛を回収していると、ちょうどお風呂の掃除をしている最中に兄が帰ってきた。

 

「ただいま。居るんだろう、ソラ」

 

「うん、居るよ兄さん。おかえりなさい」

 

「なんだ、風呂場の掃除までしてくれたのか。すまんな、見苦しい寝床で」

 

「いいわよ。家でもやってることは大して変わらないんだから」

 

 ピカピカに磨いた湯船にお湯を入れながら答えると、声を頼りにこちらの様子を見に来た兄が吃驚して退散した。何事かと思って振り向いたら、途中の鏡に映った自分の姿を再確認して納得した。それもそうか。

 

「って、制服のまま来ちゃったから、濡らしちゃいけないってスカート裾を結いてたんだっけか。失敗、失敗」

 

 見苦しい物を片すつもりでそれ以上に見苦しい物を見せそうになってしまった。こりゃあ小言かなとわたしは覚悟するが、制服を直して居間に向かうと、着替えを持って自分の部屋から出てきた兄はサッと目を逸らすのだった。

 

「あー、風呂を使いたいんだが……お前が先に入るか?」

 

「ん、今日は泊まるから後でいい」

 

「そ、そうか……その、さっきは悪かったな……」

 

「ん? ごめん、何を言ってるのかよく分からないんだけど?」

 

 内容から、さっきのお風呂場でのこと気にしているらしいが……なんだろう? 昔ならそんな格好で家の中を歩き回るんじゃないと叱られる案件なんだが、今日に限ってまるで兄のほうが悪者みたいだ。

 

 まぁ小言を頂戴して喜ぶ趣味はないから、何も言われないんだったらそれに越したことはないが……忘れないうちに手土産を献上して懐柔しとくか。

 

「はい、お風呂に入るんだったらこれも使って。密林で人気の育毛剤だっていうからわざわざ取り寄せたんだ」

 

「お前な……余計なお世話っていう日本語を知ってるか?」

 

 すると好意のつもりだったのに何故かジト目で睨まれた。解せぬ。

 

「まあ悪気がないのは解ってるから、有り難く使わせてもらうがな……」

 

 不満そうに受け取って、兄はお風呂場に消えていったが……やはり兄妹でも歳が離れ過ぎていると反応が読めない。無難に甘い物にしとくんだったと後悔するが、時すでに遅し。

 

 まあ、やってしまったものは仕方ない。次回以降の反省材料にしようとホットプレートを設置して、一緒に焼く野菜やエビ、ホタテなどの用意をする。

 

 そうしてあとは焼くだけとなったところで兄が戻ってきたが、心なしかだいぶ機嫌が持ち直してるようだった。

 

 さては育毛剤がよほど頭に馴染んだなとほくそ笑むが、先ほどの失敗から学習したので余計なことは聞かず、必要なことだけ確認した。

 

「今日は飲むでしょ、兄さん」

 

「ああ、そのつもりだが?」

 

「オッケー。ご飯の残りはお弁当にしとくね。お腹が空いたら朝でも昼でも食べちゃってよ」

 

「助かるが、すごい豪勢だな。高かったんじゃないのか?」

 

 食卓を一瞥した兄が財布を取りに戻ろうとしたところを引き止める。

 

「いいからいいから。偶にはわたしにも出させなさい。生活費は貰ってるから遠慮は無用よ」

 

 このあたりは両親が離婚済みという複雑な家庭事情の産物である。高給取りの兄はそれでも気にしている様子だったが、わたしが席に着くと諦めたように着席した。

 

「それじゃいただきます。兄さんもいっぱい食べてね」

 

「ああ、今度代わりに何が奢ってやるが、生活費が足りなくなったら父さんか俺に言えよ。分かったな」

 

「うん、そうする」

 

 兄に微笑み、それから暫くは焼肉の時間になった。

 

 わたしとしては聞きたいことがあるんだけど、やはり食欲には勝てない。ううむ、さすがは松坂牛500グラム6800円。まさかこんなに美味しいとは……。

 

「ところでそっちの様子はどうなんだ? 母さんとケンカしないでやってるか?」

 

 あんな母親でも気になるのかなって不思議だったんだけど、そっちから切り出してくれたのは有り難かった。わたしはオブラートに包みまくった返事をしながら本題に切り込んだ。

 

「こっちは全然問題ないよ。母娘っていう他人同士だもん。今さらケンカするようなこともないしさ」

 

「そうか……」

 

「そっちこそどうなの? わたし、スマホのニュースを見たときは、あっ、これは兄さん久里山さんルートだなって、かなり焦ったんだけど?」

 

 余計な心配をするより余計な心配をさせるな、と言わんばかりに視線を向けると、兄はようやく合点がいったとばかりに頷いてみせた。

 

「そうか、それが俺の様子を見にきた理由か……悪かったな、心配させて」

 

「わたしのことはいいけど、それより大丈夫なの? あのニュースがデタラメなら安心できるんだけどさ」

 

 わたしが重ねて訊ねると説明の必要性を認めたのだろう。グラスを置いた兄は真面目くさった表情で口を開いた。

 

「そっちの心配はいらん。VTuber事業を巡ってN社と協議することは、部長を通して社内の了解を正式に取り付けたものだ。……だが、お前の心配も完全に的外れじゃない。今回のリークがなかったら大事になっていた可能性はある」

 

「それじゃあ、N経に書かれていたような動きは本当にあったの」

 

「ああ、お前には何度か話したと思うが、そもそもS社がN社と協力路線に転じたのは、この分野で争っても勝ち目がないという認識を、社内で共有できたのが大きい」

 

「まあ、アーニャちゃんを抜きにしても、あの映像技術に自動翻訳にその他諸々だもんね。今から開発しても何年かかるか目処もつかないんじゃ、そうなるよね」

 

「まぁな。だが、当初はN社独自の技術と思われたそれらが、サーニャたん、じゃないタカマキ博士が開発した物だと判明し、YTubeのシステム刷新を請け負ったことが判明するとな、連中はこう考えたんだ。金さえ払えば作るというなら、あれ以上のモノを作らせればいい。そうしたらN社の協力など無用だと」

 

 兄の話を聞いたわたしは頭が痛くなってきた……兄を通してS社のお家柄を知ってるつもりだったが、これは予想以上に酷い。

 

「ねぇ、その人たち、アーニャちゃんの配信を見たことないでしょ? サーニャちゃんがアーニャちゃんに絶対服従で、アーニャちゃんとアーニャちゃんのお父さんのN社に不利益な行動をするはずがないって、見ていたら判りそうなはずなんだけどな……」

 

「見てないからアーニャ自身も、自分たちに頭を下げて仕事をもらう立場のアーティスト風情と見下してるのさ」

 

 アーニャちゃんの熱心なファンである兄が不快そうに吐き捨てる。本当に舐めてるなー、そいつら。

 

「アメリカとロシア、フランスの大統領と、イギリスとドイツの首相が『今回の会議では、Anya-tanは素晴らしいという共通の認識で一致した』って発表して居並ぶ記者をずっこけさせてるのに、ただのアーティスト風情ねぇ……S社って馬鹿の集まりじゃないよね?」

 

 あれは忘れもしないアーニャちゃんのYTube復帰ライブの翌日。G20の会合に出席した五ヶ国の首脳が追加の緊急会合を行った。わたしですら何事かと思ったけど、結果はこのオチである。

 

 凄まじいマルチリンガルぶりを発揮したアーニャちゃんが、英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語で熱唱したことから、ハブられなかった各国の首脳が上機嫌に「もし彼女がロシア語で歌っていなかったら、我々の結束にはヒビが入っていただろう。そうならなかったことを我等の女神に感謝したい」とかさ。そりゃ驚くって。

 

「この件がきっかけで各国が最重要人物に指定したとか、世界で最も影響力のある100人にノミネートされたって噂もあるくらいなのに、ただのアーティスト風情ねぇ……」

 

「残念ながら、自分たちが一番優れているって思い込んでる馬鹿の集まりだよ。特に本社の連中はな……」

 

 またしても吐き捨てた兄がグラスをあおる。飲まなきゃやってられないという気持ちなのだろう。わたしも同じ気分だったので、遠慮なく松坂牛を胃袋に詰め込んだ。

 

「ただ今回のリークは、連中にとっても寝耳に水だったようでな。完全に手札が揃ったあとなら別だが、まだ計画段階じゃ社長を説得するのも不可能だ。部長が会議で追及したが、誰も名乗り出てこなかったよ」

 

「それじゃあ兄さんのメディア部門としては安泰ってわけ?」

 

「まぁそうなるな。このあと連中がどう動くか不明だが、こんな失態をしでかした後じゃ今さら社内の了解は得られんよ。どこまで本当か知らんが、Nicoichi動画の買収は断固阻止するとK書店が明言したのもあるしな」

 

「ネットじゃ、Nicoichi動画の七英雄が『俺らが本物を見せてやるよ』って久しぶりに偉そうなことを言ってたけど、赤っ恥を掻いて終わりそう?」

 

「Nicoichi動画の無法ぶりを考えれば、自社コンテンツに組み込んで手綱を握るというのは、必ずしも否定的なプランではないが……仮にそうなっても、そいつらはアカウントをBANして終わりだな。いくら数字を持ってるからって、コンプライアンス意識皆無、ネットリテラシー最悪、暴言、誹謗中傷、名誉毀損、著作権侵害の常習犯を抱え込むなど百害あって一利なしだ」

 

「だよね。こりゃアーニャちゃんのアンチは完全に死滅するね」

 

 少しだけ気分の良くなったわたしはしばらく食事に集中した。聞いた限りだと兄の身は今すぐどうにかなるわけじゃなさそうだが、はたしてこのまま安心していいものか……。

 

「でもそれだけなの? 以前にVTuberの事業をどの部署が担当するか社内でかなり揉めたって聞いたし、他所の足を引っ張るのはS社のお家芸のようなものだしさ、兄さんがN社から引き出した内容次第では、また寝首を掻かれそうな気がするんだけど?」

 

 わたしが思ったことを口にすると、この兄にしては珍しく自信に満ちた顔を見せた。

 

「そちらも大丈夫だ……これはぜったい外には漏らすなよ? 友達にも言わない、ネットにも書き込まないと約束するなら教えてやる」

 

「うん、約束する。そんな話をするような友達は栄子しか居ないし、ネットはもっぱらROM専だもん。兄さんも知ってるでしょ」

 

「いや、すまん……実はな、クリスマスの夜に行われるN社公式生放送の『社長に訊く』で、アーニャのCDが発売されると公表されるんだが、ウチが取り扱うことになった。初回販売枚数は、全世界で10億枚の予定だ」

 

 とりあえず口の中のものを吹き出さなかったわたしを褒めてほしい。飲み込むのに苦労したが、わたしは自分の健闘を讃えるより早く誤報じゃないことを確認した。

 

「それ本当なの兄さんッ!?」

 

「お前に嘘は言わんさ。具体的な値段とロイヤリティーの協議はこれからだが、こちらがアーニャ直筆のビジュアルファンブックを付けられないか提案したところ、本人に確認してから回答すると言われたが好感触でな。実現したら出版業界を巻き込んだ大仕事になる。どうだ、成果としては十分だろう」

 

「アーニャちゃん手書きのファンブックまで付くの!? わたし10枚は買う!!」

 

「俺だって買うさ! ファンとして当然だろ?」

 

 えらいこっちゃ。これはとんでもない大ニュースだ。よくやった兄。大手柄だぞ兄。こんなことなら、風呂場で背中を流すサービスくらい付けてやるんだった。

 

「ま、そんなわけで社内の成果は十分。余計な横槍は入らないって寸法さ。安心したか?」

 

「うん、すごい安心した。ありがとう兄さん。もう大好き」

 

 まさに飯ウマ。買ってよかった松坂牛。こうも気分がいいと、兄が飲んでる苦い液体が飲みたくなる。

 

「なんだその目は……飲みたいのか?」

 

「うん、ダメ?」

 

「どうせ家では飲んでるんだろうから一杯だけだぞ? それとくれぐれも外には漏らさないこと。さっきの話と一緒に墓場まで持って行けよ」

 

「うん、約束する」

 

 わたしが偶に飲んでいるものはもう少し口当たりがいいものだが、今はこの苦さと喉越しが気持ちよかった。

 

「うえっ、酔った……」

 

「言わんこっちゃない。後片付けは俺がやるから、お前はソファーで休んでろ。ほら立てるか、ソラ」

 

「うん、なんとか……」

 

 そうして兄の手を借りて10分ほど微睡んでいたわたしは大変なことに気がついた。

 

「大変、兄さんもう8時だ! アーニャちゃんの配信が始まっちゃう!!」

 

「それなら忘れていないから安心しろ。ソファーの前にあるノートPCに予約してある。アーニャたんの配信は時間厳守で助かるよ……ほら、始まるぞ」

 

 兄の言うように、開いたままになっているノートPCのスリープが解除され、モニターに見慣れたYTubeのチャンネルが表示される。

 

 チャンネル登録者数、実に1033万人。待機所には、すでに200万を超える熱狂的なファンが集っていた。

 

「さすがはスーパースター……世界中がアーニャちゃんに首ったけだね」

 

「正直なところ、現実の数字とは思えんくらいだが、逆に言うと視ない理由がないんだよ。……いや、余程のアンチじゃない限り、見逃すなんてあり得ないと言うべきかな」

 

 兄さんの言ってることがわたしには解る。面白い。あの歌声をもう一度耳にしたい。今夜は何をするのか気になる。理由はいくらでも思いつく。でも、それ以上にどうしようもなく惹かれてしまう。

 

 にしても、こういうときノートパソコンは不便だ。画面が小さいから二人で視ると、どうしても体を寄せ合うことになる。

 

 ぶっちゃけた話、兄の存在をこれほど邪魔に思ったことはないが、横取りするのも可哀想なので我慢してモニターを覗き込むと、待機画面が終わって軽快なテーマソングが流れ出した。

 

「あっ、また新作のPVだ」

 

 テーマソングの『いまも地球を七周半』は余程こだわりがあるのか滅多に変わらないが、アニメは毎回配信内容に即した物が用意されるという徹底ぶり。今回は昼間の配信に登場して、大空スバルのへっぴり腰を蹴飛ばして遊んでた五人組も勢揃いか。

 

「ねぇ、兄さん……これ作るとしたらどれくらい値段がかかるの?」

 

「国内の主要なスタジオに問い合わせたが、どんな莫大な予算をかけても再現不可能だそうだ。なんでも、サーニャたんのLive2Aには高度なAIが組み込まれており、画像を最小単位まで分解して、実際の動きに合わせて再構築し続けてるから、原画と十分なモーションデータがあれば気軽に作れるそうだがな……」

 

 兄の説明が理路整然としていたので思わず納得しそうになったが、よく考えるととんでもない話だ。そんな技術があるだなんて、空想の世界でしか目にした記憶はない。

 

 その人を構成する情報のバックアップを取れば、いつでも望む場所に再構築できるというSFのような技術。それに近いものをサーニャちゃんのLive2Aに感じて、わたしは少しだけ居心地が悪くなった。

 

 そんなわたしを他所にオープニングが終了すると、愛犬を抱いたアーニャちゃんが挨拶して、予想通りホロライブの1期生だという五人組の紹介が始まった。

 

 こんな大舞台だというのに動じる気配もない獅白ぼたんに、アイドル志望だという星街すいせい。アイドル志望か。じゃあ敵だね……。そして無闇矢鱈に偉そうなさくらみこ、もといピンクの園児に、清楚な見た目と甘えるようなトークが魅力的ながうる・ぐらちゃんに、アバターの由来まで解説する桐生ココの二人組。全員が全員、あのマリン船長こと社畜ネキに勝るとも劣らないほど個性的だ。無論、最後に挨拶した大空スバル自身も……。

 

「ねぇ、兄さん……この子たち、全員プロってことはないかな?」

 

「どうだろうな……J事務所の鯉戸会長が人材供給の一環として、演者に芸能人を推薦したっていうのはあり得ない話じゃないが……」

 

 あくまで一般人の湊あくあちゃんや、兎田ぺこらちゃんによって下がったはずのVTuberのハードルが、目の前でとんでもなく上がった気がする。

 

 仮にこれがプロではなく素人だとしたら……どいつもこいつもとんでもない怪物揃いだ。とてもじゃないが張り合える気がしない。わたしは見切りをつけるようにため息を吐いたが、その動きをわたしの兄は見逃さなかった。

 

「お前はVTuberになりたいのか?」

 

「そうだよ。でも無理だね。兄さんに便宜を図ってもらおうかって思ってたけど、半分くらい諦めたかな?」

 

 まぁまだ半分。つまり未練タラタラなわけだが。

 

「だってアーニャちゃんと比較されるならともかく、こんなのと比較されるなんて耐えられないよ……」

 

「何故だ、別にVTuberの世界で天下を取りたいわけじゃないんだろう? 専業で食っていくならある程度の数字は必要になるかもしれんが、向こうの事務所なら配信内容にも責任を持つと、アーニャたんが以前に言っていただろうに?」

 

「それは……そうかもしれないけどさ……」

 

 わたしも自分の気持ちを伝えていなかったので落胆はしないが、やはりこの兄は理解していない。

 

 なぜアーニャちゃんのようなVTuberになりたいと同年代の多くの女子が切望するのか。その本質をマネジメントする側が全く理解していないのは問題ではないか。

 

 わたし自身については諦めもつくが、この兄を見捨てるのはあまりにも忍びなく、参考程度に本心を吐露することにした。

 

「女ならね、多かれ少なかれ、自分を見てほしいって願望があるものなんだよ」

 

「ふむ……」

 

「別に世間の脚光を浴びたいとか、そんな大それたものじゃなくても、家族や友人に自分を見てほしいって思うくらいはするよ」

 

「それは……」

 

「そんな子にとって、このVTuberという枠組みは天啓だったの。素顔を晒して身バレからストーカーの心配もせず、自分なりに表現して、自分らしさを見てもらえる。だから周りの子はみんなアーニャちゃんみたいになりたいって言うし、この子たちのように同じ場所に立ちたいと思うの……参考になった?」

 

 わたしの問いに兄は答えなかった。自分でも分かってる。こんな意見、所詮は険悪な両親の元に生まれて自分の殻に閉じこもり、アイドルを夢見ながら具体的な行動を起こさなかったわたしの独り善がりの僻み根性だ。

 

 家を出たはずの兄が気にかけてくれたおかげでだいぶマシになったが、わたしはまだあの(くら)い部屋の中に居るんだ。

 

「まぁ、もともと憧れていた程度だから、わたしのことは気にしなくていいよ。それより質問会だって……えっ、質問会ってアーニャちゃんに質問していいの!?」

 

 聞き間違いかと思ったけど、これが幻聴でなければ、たしかに視聴者(リスナー)からコメントでの質問を受け付けると言ってる。

 

「ど、どどどどうしよう! ファンレターを送ることもできなかった臆病なわたしでもVTuberになれますかって訊いていいの!?」

 

 いや、そんなこと訊いてどうする。わたしのことを何も知らないアーニャちゃんになんてことを訊こうとするんだ。

 

 そんなこと訊かれたほうも困っちゃうだろうし、そもそも、こんなに大量のコメントの中でどうやって目に留まればいいのか。

 

 キーボードの前でまごつくわたしはかなり邪魔だったろうが、アーニャちゃんの配信を毎回楽しみにしている兄は何も言わなかった。

 

 ただ困ったように苦笑し、それでいて温かく見守る兄の視線を感じながら自分の考えをまとめていると、空気の読めない発言から園児にされた少女が意外にも核心をついた質問をした。

 

『はいっ! アーニャたんに質問があります!! アーニャたんは視聴者の質問に答えるって言ってたけど、それってあの光の滝みたいなコメントを解読できるってことでしょうか!?』

『うん。アーニャのパソコンに送られてくるコメントはね、サーニャが『草』とか『W』だけのあまり意味のないコメントは表示しないようにしてくれるから、なんとか目で追えるよ。ねぇサーニャ、ちょっとどんなもんか見てもらいたいから、YTubeのほうのコメントも減らしてもらえるかな?』

『はい、かしこまりました』

『えっ……なんか全然変わってないんだけど、アーニャたんはこれを目で追えるってこと?』

『うん、いまマリン船長のコメントがあったね。これくらいならなんとか目で追えるって言ってるよ』

 

「『に、人間業じゃない』」

 

 兄弟揃ってかなり失礼な悲鳴をあげてしまったが、とりあえずアーニャちゃんがコメントを拾えるのは判った。

 

 そのあと配信用のソフトに演者に配慮したコメント周りの機能が紹介され、理解を諦めたような園児が引き下がると、藍色の少女とサメの少女が張り合うように手を挙げた。

 

 まずは出演者が優先のようで、考える時間は十分にあると自分を励ますわたしの耳に届いたのは、信じられないほど下品な質問だった。

 

『ええとね、わたし下ネタとか、セッ◯スの話が大好きなんだけど、配信でやっていいのかな?』

 

「オイィィィ!? 社畜ネキでもないのにナニ訊いてんだお前ェェェ!!」

 

 兄が近所迷惑も考えずに絶叫したが、これに関してはわたしも同意見だ。というか、むしろ人類共通の叫びだろう。

 

「とりあえず兄さん……自分の事務所にこういうのが居たらどうするの?」

 

「下ネタ程度ならとやかく言わんが、ここまで露骨だと、まずはコンプライアンスとネットリテラシーの教育からだな。それでも懲りないんだったら俺は知らん。自己責任だ」

 

「まあ、そうなるよね。ギャップ萌えの範疇ならともかく、この調子じゃYTubeくんも見逃してくれないよね」

 

 斯くしてお連れのお姉さんを激怒させたその子は、アーニャちゃんの配信画面から一時退場したが、代わりに可愛らしい悲鳴と、刺激的な打撃音が……おい、そういうことをするならミュートにしろよ。

 

 あまりにも生々しいその音は、どこを叩いているのか容易に想像がつき、同性のわたしですら赤面必至の代物だったが、アーニャちゃんは動じなかった。

 

『えー、それじゃあさっきの続きですいちゃんどうぞ』

『この流れで続けるの!? どうしよう、すいちゃん、すっごく気まずい!!』

 

 子供と張り合っていたこの星街すいせいをしてそう思うのだ。比較対象として適当か知らんが、わたしの感性は正常である。

 

「っていうか、アーニャちゃんって才能以外は普通の子だと思ったけど、すごい平常心だね。よくこんな中で平然としてるよ。これで12歳か……別の意味で将来が心配だね」

 

「いや、これは赤面等の処理をサーニャたんがカットしてるんじゃないのか?」

 

「そんなフォローを思い付くくらいなら、あの子たちの音声をカットしてるよ。サーニャちゃんって割と天才肌っていうか、感性が一般人とズレてるところがあるから、たぶんこの音も何が問題か解らないんだろうね……例のBAN騒動もリアルすぎる体操服が原因だったし」

 

 まぁ、こんな音を世界中に垂れ流した件については、当事者の話し合いによって解決してもらおう。

 

 アーニャちゃんの将来を心配する外野を他所に、色々と観念した藍色の女の子が発した質問がさらなる驚愕を呼び込む。

 

『うーん、なら訊くけど……さっきアーニャちゃんさ、すいちゃんのために歌を作ってくれるて言ったけど、本当にお願いしていいの?』

『いいよ! もともとVTuberみんなに、それぞれテーマソングを用意しようと思ってたし、閃いたからいま歌うね? サーニャ、モニターとマイクをエレクトーンの前までお願い!!』

『えっ……いま閃いたって……?』

『はぁ……やはりそうなりますか。仕方ありませんね。音楽関係者の皆さまにおかれましては、どうか天才の奇行でダメージを受けないように、心身を労ってください』

『よし準備オーケー! 名付けて星街すいせいさんのテーマソング『魂の欠片を集めて』歌ってくよ!!』

 

 まさに驚愕の突発ライブ。いや、いま思いついたって完成度じゃないよね、これ。こんなのをいきなり聴かせるなんて卑怯だよ……。

 

「ぐすっ、良かったわね、兄さん。ホロライブのVTuber全員にテーマソングだって。この完成度なら、アルバムの第二弾以降も安泰だよ……」

 

「ああ……いや、むしろ頭が痒くなってきた。一回だけならともかく、恒常的に取り扱うとなると、対応が……くそっ、痒いな」

 

「掻いちゃダメ。兄さんは中間管理職なんだから、責任は上に投げて、働くのは下にさせる。徹底しよう」

 

 わたしは兄を禿げましたが、そうするわたし自身、誰かに励ましてほしい心境だった。

 

 これがVTuberというまったく新しい配信スタイル。収録済みの動画を投稿する配信者とも、独り善がりな生放送を押し付ける配信者とも異なる、視聴者参加型の配信スタイル。今回のように多数のゲストを呼んで進行役を兼ねるなら、演者に高いスキルが求められる。

 

『うん、こんなもんかな? あとでサーニャがカラオケ風にアレンジしたミュージックビデオと、専門的な楽譜と歌詞を送るから大事に使ってね?』

『うん、ありがとう……すいちゃん約束する。いつかこの曲を歌えるようになるって、頑張るから……』

『良かったな星街。アーニャたんに感謝しろよ』

 

 魅力的なだけでは到底務まらないそれらを、全て兼ね備えているのがアーニャちゃんで、初参加ながらも合わせてみせるのがホロライブのメンバーか。残り半分の未練がゴリゴリ削られるね、これ。

 

 でも助かったのもあるかな……何も知らずに飛び込んで、再起不能なダメージを受けるよりはよっぽどマシ。やはりわたしにはROM専が似合っているようだ。あの楽しそうな掲示板のやりとりも見ているだけ。他に趣味もなく、昏い部屋で本を読んでいるのがわたしには似合っている。

 

 そう割り切れそうだったのに……どうしてこんな話が出てくるのか……。

 

『うん、ぶっちゃけね、あたしVTuberがどんなものか理解しきれてないところがあるから、アーニャさんに教えてもらいたいと思ってさ。現状だとさ、VTuberと言えばアーニャさんなワケよ。絵もすごい、歌もすごい。ゲームは上手い下手に関わらず、何でもやってみんなを楽しませる。トークも魅力的でみんな惹き込まれるし、どんなに早いコメントも拾って視聴者に参加してる意識も持たせる。宣伝っていうか、製品の魅力を伝えるのも巧くて、アーニャさんが手にしたものは同じものが欲しくなる。凄すぎて、あたしにはとてもじゃないけど同じことはできない。指標がそれだから、どこまでやったら合格ラインかも判らない。そういう不安、うまく伝わるかな?』

 

 そうだ、この人の言う通りだ。アーニャちゃんの紛い物と、視聴者に呆れられるのは最初から覚悟してる。でもアーニャちゃんに迷惑そうな目で見られたら耐えられない。

 

 だからわたしは訊きたかった。どこまで頑張ったから足を引っ張ってないことになりますかって……。

 

『ふふ……アーニャのVTuberの定義は簡単だよ。自分が楽しいと思ったことをするの』

 

 そんなわたしに答えてくれたとは思わない。何故なら彼女の回答はわたしには想像もつかないものだった。

 

『アーニャはね、もっと色んなことがしたいの。0期生と1期生のみんなを集めてM人狼もしたいし、これは報告したかな? 今ね、N社の宮嶋さんっていうとっても素敵なおじさまが、ホロライブ版のM人狼を作ってくれてるんだよ。どんな感じになるのか楽しみで夜も寝れないよね』

 

『他にもみんなと一緒に3Gもしたいし、Mカートもしたい。ここで言うみんなはホロライブのみんなだけじゃなくって、視聴者のみんなも気軽に参加できる枠組みを作りたいな』

 

『他にも絵も描きたいし、もっともっと歌ってみたい。でもね、みんながみんな、アーニャと同じことをする必要はないの。みんなの期待に応えなきゃって、余計なことも考えなくていい。わたしが楽しめたら勝ち。楽しめなかったら負け。VTuberに勝ち負けの基準があるとしたらそれだけだよ』

 

 羞恥に俯いたわたしは自分が泣いていることを知った。

 

 彼女はいつかの配信で言っていた。臆病な自分を変えるためにVTuberになったと。ならば、彼女はこれからも変わり続けるだろう。昨日の彼女から今日の彼女、そして明日の彼女に。

 

『スバルちゃんもバズったから次もみんなの期待に応えなきゃって、好きでもないホラーゲームをやることはないからね。もともとサーニャに嵌められたようなものだし、嫌になったら投げ出したっていいんだよ。何よりも、誰よりもスバルちゃん自身が楽しめなきゃ意味がないんだから』

 

『いやぁ、そう言ってもらえると助かりますが、スバルは意外と嫌じゃないかもしれないんですよね。もちろん怖くて精神は錯乱寸前ですし、膝はガタガタ震えますけど、なんて言うんですかね? 意外と癖になるというか、悪くないと思うんですよ……いざとなったら助けてくれそうな仲間にも心当たりがありますしね』

 

『それあたし? 参ったな、TPSは専門外だけど、しゃーねーから助けてやるよ。感謝しな』

 

 ぶっきらぼうに吐き捨てたその顔は、しかし照れくさそうに、それでいて晴れ晴れとしたものだった。

 

『アーニャさんもありがとう。ようはあたしはあたしでいいってことだね』

 

 そうだ、わたしはわたしだ。わたしも昨日までのわたしから、明日からのわたしに変わらないと。

 

『うん、それがVTuberの醍醐味ってヤツだよ』

 

 そう締め括った少女を眺めながら鼻を啜るわたしに、兄は何も言わなかった。ただ無言で食卓の上にあったティッシュケースを持ってきて、自らそれを使う。わたしは兄に感謝しつつ、しかし無言で鼻を擤んで目元を拭った。

 

「こういう人たちに対抗しなきゃならないなんて、兄さんも大変だね。もう下請けに甘んじたほうがいいんじゃないかな?」

 

「俺もそう思うな。明日になったら部長に進言するか。どうあっても勝てませんよ、と」

 

 どこかスッキリしたような兄の顔付きがおかしくって、わたしは遠慮なく笑ったが、それはわたしも同じなのか、こちらに顔を向けた兄も遠慮なく笑うのだった。

 

 その後も楽しい質疑応答は続けられ、アーニャちゃんは拾ったコメントを巧みに処理したが、本人の年齢からとんでもない地雷を踏み抜くこともあった。

 

『ええと、アーニャは男の人が夜の戦場でレベルを上げることをどう思いますか? また、女の人にレベリングは必要だと思いますかって、なんだこれ?』

『これは異性経験を揶揄するものでは? ようするに男性が女性経験を積んで、女性の扱いに長じることをどう思うか。また、女性にある程度の経験が必要かどうか訊ねているものかと」

 

「拾わないでそんなコメント! サーニャちゃんも詳しく解説しない!!」

 

 純粋無垢なアーニャちゃんもそうだけど、サーニャちゃんも色々とズレてるよ。

 

「う〜ん、やっぱり学者さんだからかなぁ? 下ネタも学術的に捉えちゃうから、羞恥心が機能しない、みたいな……」

 

「他の子も仰天してるが、犯人はやっぱりこいつか。この下ネタ大魔王は……」

 

 兄さんの言う通り、犯人はやっぱりサメの子だった。しばらく大人しくしていると思ったら、こっそりスマホでコメントを送りつけるだなんて……まあ身内の犯行だし、これで有耶無耶にされるだろうと思ったが、兄さん曰く、下ネタ大魔王以上の問題児がまだ残っていた。

 

『ところでアーニャたんって質問の答えはどうなの?』

『アホか! そんなことをアーニャちゃんに訊くヤツがあるかぁ!!』

 

 激怒した星街すいせいが問題のさくらみこを締め上げるが、アーニャちゃんは有耶無耶にせず、場を弁えない後輩どもの不躾な質問に真面目くさって回答した。

 

『……わたしとしては、男の人のレベル上げには賛成かな? 男の人のレベルが低すぎると、女の人が苦労しそうだからね。サーニャはどう思う?』

『正論ですね。女性の場合は、レベルを上げる過程で体を損ねる可能性もありますから、くれぐれも避妊にはご留意を。……ただ、それを除けば、男女の情感を育てる意味でも、婚前交渉は悪いことばかりではないかと』

 

 まさに空いた口が塞がらないとはこのことだった。あまりの惨状に気が遠くなったわたしは、天才とは才能が豊かなのではなく、才能が偏っている者のことだという、どこかで見たような指摘を思い出した。

 

 サーニャちゃんが天才なら、アーニャちゃんだってそうだ。天才ゆえの欠落というものをこの二人が抱えているとしたら、それはきっと女性としての意識になるのだろう。

 

「ちなみに兄さんのレベルは?」

 

「この歳でレベル1の頼りない兄貴で悪かったな……お前こそまさかカンストしてやいないだろうな?」

 

 他に口にする言葉も思い付かずに訊ねると、茫然自失の兄は不貞腐れたように答えつつ、かなり失礼な質問を返してきた。こんな台詞が口に出るあたり、やはり正気じゃいられないみたいだけど……わたしはなんだか微笑ましかったので、ちょっとだけ揶揄(からか)ってみることにした。

 

「んー、レベル1からレベル2に必要な経験が一回の戦闘で賄えて、以後、要求される経験値が倍々なら……わたしは4かな?」

 

「そうか、4か……4だと!?」

 

「ふふふ、ウソウソ、本気にしないの」

 

 創作の世界で男親が似たような反応をするのはたびたび目にするが、現実世界で遭遇すると微笑ましさが先に来て、なんだかとってもおかしくなる。

 

「お前はやっぱりVTuberになったほうがよくないか? その性格の悪さなら、こいつらとも十分に張り合えるだろうが……?」

 

「うん、わたしもそう思った」

 

 言うべき言葉に迷った挙句、負け惜しみにもならない捨て台詞を口にする兄に、笑顔でヒラヒラと手を振ったわたしは、失礼してノートPCを独占した。

 

 いずれにしろ聞きたいことは全部聞いた。時間的にも頃合いだし、最後に初めての挑戦とやらをしてみよう。

 

 間違っても拾われることない、ありふれた感謝のコメント。今日もありがとう。おかげで楽しかったよ。キーボードに打ち込んだのは、そんな社交辞令に過ぎない言葉だった。

 

『こちらこそありがとう。今日も楽しかったよ』

 

 だというのに、アーニャちゃんはわたしのコメントを拾ってくれた。日常的に他人と関わるなら、いつか、どこかで言われる台詞。そんなものに感動するということは、それだけわたしが他人と関わらなかったということだ。

 

 だが、たとえそうだとしても……わたしはこの日の笑顔を生涯忘れないだろう。

 

 

 

 

 

 翌日の朝、予告通り兄のマンションに一泊したわたしは、約束通り弁当を詰めつつ、昨夜の残りで朝食をでっち上げた。

 

「おっ、早いな、ソラ……おはよう。朝食の用意までスマンな」

 

「いいわよ。その代わりお願いがあるんだけど、いいかな?」

 

「ん、小遣いが足りないのか? そういうことなら……」

 

「違うわよ。わたしやっぱりVTuberになるから、ホロライブの推薦枠に捻じ込んでね。約束よ」

 

「はっ……? おい、俺にそんな権限は……!」

 

 アーニャちゃんも言ってるじゃないか。世界は廻る。いまも地球を七周半。わたしだけが同じ場所に留まってはいられない。

 

 慌てる兄の頭から一本の毛髪が抜け落ちるのを目撃したわたしは、申し訳ないと思いつつもやっぱり笑ってしまうのだった。

 

 

 

 

 

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