ようこそスクールカウンセラーのいる教室へ 作:ああ
自分が他人と異なる環境で育ったことを自覚したのは、4歳になってからすぐの頃だった。
忘れもしない。ホワイトルームのカリキュラムとして行われた、社会や常識についての勉強をしたとき、僕は自身の置かれた環境の歪さに大層驚いた。
「お前たちはこのような凡人とは違い、天才として社会に出ることになる。他の子供が甘やかされた環境で育っていく中で、お前たちは日々実力を高めるためのカリキュラムを行うのだ」
授業を担当していた教官の一人が、目をギラギラと血走らせてそう言っていた。
僕は昔から感受性が同期の人たちに比べて発達していた。だから、教科書に書いてある普通の家庭の形に酷く惹かれたのを覚えている。微笑ましそうに笑いながら、親が自身と同じ位の歳の子供を抱き上げている写真を見て、素直に羨ましいと思ってしまったのだ。
その後、授業が終わってからのつかの間の休憩時間に、僕は近くの子にあの写真を見てどう思ったかを聞いた。
帰ってきた返答は無だった。『特に何も感じない、あれに何の意味があるのか』と、そう言われてしまった。
今思えば当たり前の話だ。だって、僕達ホワイトルーム生は親からの抱擁を一度たりとも受けた事がないのだから。親からの抱擁を求めるのが子供の本能のはずだが、そんなものに従っていては生きてはいけない環境に生まれてしまったのだから。
そして、そこから数か月が経った頃。授業中に突如一人の男が教室に入ってきた。
年の頃は40前後。指導を行う白衣の男たちとは違い、キッチリと整えられたスーツ姿だった。
「あ、綾小路先生!」
授業を担当している白衣の男の動揺した姿を見て、僕はこの男が他の教官と異なる立場にいることを理解した。
そんな男は、等間隔に置かれた真っ白な机の間を縫うように移動し、最後列端っこの席……僕が座る席の目の前で止まった。
「あっ……」
「何故手を止めた?」
突然怖い顔をした大人に見下ろされ、動揺する僕に男はそう問いかけた。
いまいち要領の得ない様子の僕を見て、男は前に座る生徒達を見るように促した。
「彼らは手を止めることなく勉強を続けている。私が教室に入ったとき、手を止めて顔を上げたのはお前だけだ」
「……ごめんなさい」
「謝る必要は無い。何故手を止めたと聞いているのだ」
反射的に謝罪の言葉が出た俺に対し、男は態度を崩すことなく問いかける。
「えっと……分かんない、です」
「考えろ。このホワイトルームにおいて、分からないということは許されない」
何故手を止めた?
男の姿が気になったから。
何故気になった? 集中力の欠如?
……それもあるかもしれないが、本質とは違う気がする。
授業中でも教官は複数人が出入りしている。その中で何故この男のときだけ顔を上げてしまったのか?
「……あなたは、教官たちとは違う人だと思ったからです」
そうして一つの結論を出した僕は、男の顔色をうかがう様に見上げて答えた。
「どう違う? 違かったら手を止める理由は何だ?」
押し問答のようなやり取りが続いていく。
その間も、他の生徒たちは一切手を止めることも、集中を切らすこともしない。
幼い子供にこんな問いかけを続けたら、恐怖で考えることを放棄してしまうだろう。
しかしこんな僕でもホワイトルーム生。泣いて何かが解決するという幻想はとうの昔に捨てた。……よって思考を続ける。
手を止めたということは何かを期待していたということだろうか。ならばそれは何だ?
教官たちには無いもの。僕が渇望していた何か……?
「……教官たちとは違って、愛情をくれると期待しました。……普通の大人は、子供に愛情を与えると習ったので……っ!」
そう言って僕はギョッとして口を塞ぐ。
口から出た言葉は紛れもない本心だったが、だからこそ僕は自身の発言がどれだけ悪手かを悟ってしまった。
「そんな甘えを許してくれる人間はここには居ない」
ホワイトルームでは教官の言うことは絶対。その教官が不要と捨てたものを、僕は渇望していると公言してしまったのだ。
どんな体罰を受けるか分からない。幸い僕はまだ受けたことは無かったが、教官に連れて行かれた子が、泣きながら顔を腫らして帰ってくるのを何回も見ていた。
そんな恐ろしい体罰を、己の不必要な発言で受けることになってしまうのかと後悔した。
しかし、男の反応は僕の予想とは全く異なるものだった。
「だから勝ち続けろ」
「……え?」
「願い続けるだけでそれが実現するほど、この世の中は甘くない。己の欲望は他者に勝利し続けることで叶えられる。それを肝に銘じておけ」
そう返すと、男は何を言うこともなく振り返って教室を後にした。
最後まで表情を変えることは無かったが、どこかその言葉には期待が込められているのではないかと、当時の僕はそう思った。
そしてそこから少し時間が経った。
脱落する生徒も現れ始めたが、この時点のカリキュラムの難易度はそこまで高くなかったため問題なくついて来れた。
「訓練始め!」
この日は午前中に座学、午後に格闘というカリキュラムを行った。
その言葉を合図に、目の前の教官と組み手を行う。
「うっ……痛っ」
互いの道着を掴み合ってから数十秒後、僕はマットに投げ飛ばされていた。周りを見ると、この時点で倒れている生徒は僕一人だった。
座学や他のスポーツの成績は良かったが、格闘の成績はいま一つだったのをよく覚えている。
殴られたり投げられたりするのはとても痛くて不快だ。だから、それを相手にすることに抵抗があったのだ。
「もう一度お願いします」
負けてしまうと僕の望みは叶わない。
だから、勝てるようになるまで諦めるつもりは無かった。そうしなければ、周りの生徒に勝つことは叶わない。
この時点で、僕は同期の中で一番の成績を取ることを目標にカリキュラムをこなしていた。
「……いいだろう。もう一度だ」
「はい!」
周りの生徒とは違う、大きな声で返事を行う。
特に元気に返事をしろと指示されたわけでは無いが、そうした方が良いと思ったのだ。
「ぐっ! げほっ、げほっ」
意気込みだけで勝てるようになるほど現実は甘くない。
そもそも2倍近くの身長差がある大人に勝てるわけが無いのだが、当時の僕にはそこを考慮するほどの冷静さは無かった。
しかし、そんな態度は少しづつ環境を変えていった。周りの生徒と違う事ばかりをしていた影響が、ここに出て現れたとも言えるだろう。
「……少し強く打ちすぎたな。大丈夫か?」
「えっ?」
マットの上で腹を押さえている僕に、教官は小さな声で問いかけながら手を伸ばしてきた。
周りの様子を気にしながら手を取ると、俺の手を引っ張り上げ立たせてくれた。
「……ありがとうございます」
動揺を隠すことでいっぱいだったが、辛うじて感謝の言葉を言うことができた。
「そんな礼を言えるのは、この中だとお前だけだ」
そんな俺に、教官は小さく苦笑いを浮かべた。────そして、僕はそのとき初めて人が笑っているのを見た。
「あの……その」
「打ち込む前に相手のバランスを崩そうとするのは良かった。だがお前には思い切りが足りないな」
その教官は若い男性だった。少し焼けた肌に引き締まった顔つき、そして頬には切られたような傷跡が入っている。
顔は結構怖かったが、その小さな笑顔に強く惹かれたのを覚えている。
「相手を傷つけるのが怖いか?」
「……はい」
普通ならそんな本心を打ち明けることはしなかった。
そんなことを言えば厳しい言葉が返ってくるだけだから。
しかし、自分の気持ちに嘘をつき続けるのは大変だ。だから俺はこの人を信じてみようと思ったのだ。
「そうか。だが時には非情になることも必要だ。そうしないと、君や君の大切な人を傷つけられてしまう」
「……?」
「まだ分からなくていい。この言葉は将来のために胸に秘めておけ」
その言葉の意味は分からなかったが、しっかりと自分の努力を見てくれる人が居るということを知った。
だから、この努力も無駄じゃなかったのかもしれない。
そんな気持ちを抱えながらカリキュラムをこなし続けると、少しだけ気が楽になった。
────しかし、その日を境にその教官はカリキュラムに顔を出さなくなった。