嵐が道連れとなりまして   作:ムラムリ

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岳を読み返して思いついた話。
※pixivにも投稿しています


嵐が道連れとなりまして

 山を登るのに必要な事を数えたら、キリがない。

 幾日も道なき道を歩む為の、単純にモンスターを狩猟するよりも遥かに多い体力。

 時に立ちはだかる岩肌やクレバスを乗り越えて進む為の技術。

 そんな場所にも棲むモンスターの縄張りを察知する観察力。

 それでも鉢合わせしまった時の為の、逃げ切るまでに必要な自衛力、モンスターへの知識。

 一つ一つが得るのに相応の歳月を要する、いや、どれだけの時間があろうと極めるには人の身では短過ぎる代物ばかりだというのに、これらの要素はほんの一片でしかない。

 にも関わらず、山を登るという事は誰からも褒められる事ではない。その行為で得られるものなどほぼほぼない。己の足でこれ以上高い場所に立ったという、自己満足のみ。

 最早、その行為は道楽を通り越して自殺に等しい。誰からも支援を受けられる事などない。肉親が居たのならば、力づくでも止めようとしてくるだろう。

 しかし、それでも。幾千年、幾万年、もしかするとそれ以上もずっとそこに在るであろう山に比べてしまえば、何の古龍ですら矮小になる。そんな、時に飛竜ですらも到達出来ない高さに在る頂点に、己の足のみで踏破した時の光景にどうしようもなく恋焦がれてしまう人間は、少なからず存在していた。

 そして、一度熱が付いてしまった人間のそれは、最早その身を滅ぼすまで冷める事はない。

 

*

 

 背丈の長い木々が生えなくなって、視界が開ける。

 薄くとも暖かいベリオロスの毛皮のコートに身を包み、限界まで効率化を考慮された、それでも常人には背負って歩く事すら辛いであろう重さのリュックを背負い。また片腕には盾が、そのリュックの下、腰には片手剣が備えられている、その男。

 男は狩人だった。そして同時に登山家であった。

 首を持ち上げる。目指す頂きは未だ遥か遠く。ここから少しずつ空気が薄くなってくる。そして更に、岩と雪ばかり、あっても背丈の低い草花ばかりの大地では、モンスターから身を隠して凌ぐ事も難しくなる。

 羽織っているコートも自ら狩猟したベリオロスから作られたものであり、そこらのモンスターにも負けないだけの実力を持ってはいる。だが、一度でも戦ってしまえば、そうして体力や薬を消耗してしまえば、荷物が無事であろうと下山せざるを得ないだろう。

 辺りを注意深く見渡す。

 だが、草木すら生えないこんな高所にまで来るようなモンスターは限られている。ポポに紛れさせて子育てをするガムート、そのポポを狙って態々やって来るティガレックス。例外を除けばその程度であり、見渡す限りではそのようなモンスターの痕跡は古いものであれ見当たらなかった。

 ひとまずは、安心して上を目指せそうだ。

 そう結論付けると、男はまた上を見上げて歩みを再開した。

 

 山を登るという行為をするのに、狩人になるのは前提であった。

 限られた粗食ばかりを腹に詰めて幾日も山を登るという行為に必要な体力と精神は、準備万端な肉体で精々一時間程度に死力を尽くす狩人の肉体より更に上にあった。

 また、人間の文明は、激しい寒さに耐えられるような防寒具をモンスターの素材なしで作り上げる事など可能としていない。そのようなモンスターの素材を手に入れ、そしてそれを加工して貰うだけの金銭を得るにも、やはり狩人になる事は前提であった。

 それでも、男は元から山を登る為に狩人になった訳ではない。子供っぽい夢を弛まぬ努力によって成し遂げた凡百の素晴らしい狩人であった。しかし、ふとした瞬間から山に登るという行為に魅入られてしまい、その努力の才能を変わり者の道へと転換してしまった、今となれば全く素晴らしくない狩人となっていた。

 そして狩人と異なる質の肉体を手に入れ、はたまた大した高さではない山を登って経験を積み重ね、適した道具を自己流ながらも揃えていき。呆れて離れていく友人も少なくない。親身にしてくれていた教官からも見放された。それでも憧れは止まらなかった。

 そして時を経て、狩人としての活動も最早ほぼほぼ行わなくなり、積み上げた財産も大半を準備に使い尽くした頃。

 霊峰と呼ばれる一つの山。飛行船でも到底達する事の出来ない高さに座する、名の通りの頂点を目指して、誰にも伝える事もなく、誰にも見送られる事なく、一歩一歩を積み重ね始めたのだった。

 

 積み重ねた一歩一歩。未だ遙か遠くにあるような、しかし確実に近付いて来ている頂点。

 空気が薄くなっていくのを感じる。行けるからと言って一気に駆け上ると、慣れているはずなのにガツンと頭痛やらが襲って来る事がある。水中戦で使う用途である酸素玉を可能な限り持ち込んではいるが、それを使うのは本当に最終手段だった。

 急ぐ必要はない。それに誰も踏破した事のない道など、モンスター以外にも危険は多い。岩がごろごろと転がり落ちて来る事もあれば、雪道の間に唐突に地獄にまで通じるような深いクレバスが出来ている事もある。天候が急に崩れたまま幾日も吹雪の中に閉じ込められる事もある。そして、そんな場所にも古龍は現れる事がある。

 一度だけキリンの、それも亜種に出遭った事があった。やけに寒いと思っていたら、漆黒の四つ足が唐突に目の前に現れていた。

 一瞬にして心臓がこれまでに無い程に跳ね、産毛までが逆立ち……しかしそのキリン亜種は警戒こそすれど敵意を向けては来なかった。

 それどころか珍しい客に対して一定の位置を保ちながらも、じろじろと観察された挙句にそのまま去って行った……と思いきや、その寒さだけは過ぎ去る事がなく。

 結局その山の登頂は諦めて下山する事にしても、背の高い木々が生える高さまで降りて来ても、異様な寒さだけは妙に続いていた。

 

 日が暮れ始める前に夜を越すのに適した場所を探してテントを張る。モンスターの気配は相変わらず一つもなく、また古龍の痕跡も勿論見当たらない。

 モンスターの素材をふんだんに使った、軽くて頑丈なテント。

 そのすぐ外で狩人の使う肉焼き器を更にコンパクトにしたものを取り出し、その上に小さな鍋を置く。雪をかき集めて溶かし、干した肉、野菜、穀物を戻してスープにして食べた。それから茶を一杯。

 一息吐いて体を解していれば、あっという間に日が傾いて夜が来た。テントの中でコートに身を包んでいても肌寒く、穏やかな風の音ばかりが響いている外。

 頂上まで辿り着くにはまだまだ先は長いだろう。天気も今の所は落ち着いているが、いつ崩れるかも分からない。

 特に外の様子を改めて見る事もなく、更に寝袋に身を包んでさっさと寝る事にした。

 今日の疲労は大した事もなかったが、淡々と吹き続ける風の音を聞いているとすぐに眠気が襲って来た。

 

 日が昇る前に目が覚める。

 昨晩と似たような朝飯を食べて、茶を一杯、とそれから布に包んで可能な限り保温出来る水筒に詰める。

 寝袋を畳み、テントを畳み、リュックに詰める。リュックを背負い、盾を腕に、剣を腰に差し。最後に氷にも突き刺せるように鋭く尖った杖を手にして、日が登り始めると同時に今日も歩き始めた。

 幸いながら今日も快晴。

 しかし、ここは季節を問わずに雪が常に降り積もる高度。氷は誰にも踏み固められる事もないままに固くなる。

 ここから先は、靴にスパイクを嵌めても段々と突き刺さらなくなっていく。顔もきちんと覆わなければ眼球すら凍ってしまいそうな極寒が襲ってくるだろう。それに加えて、口を大きく開けても息苦しさが消えないような空気の薄さが追い打ちを掛けて来る。

 最早、ティガレックスは疎かベリオロスやガムートすらもこの高さには訪れないだろう。何となく、ジンオウガ亜種ならば己の修行と称して登っていくような印象があるが。

「人は、強い」

 時折、口に出して言う。何十、何百年と生きて来た木々も容易くへし折れる巨体もない。そのような巨体を持ち上げられる翼もない。骨を砕いてしまうような牙も、肉を切り裂いてしまうような爪もない。何者も丸焦げにしてしまうような、凍らせてしまうようなブレスも吐けない。心の根を止めてしまうような強烈な電撃を放つ事も、肉体を貫通するような圧縮された水鉄砲も、体をじわじわと蝕んでいくような龍の力も、爆撃も、地中を潜る事も、毒を体内で生成する事も、何だって人間には出来ない。

 ただ、それでも人間はそんな竜や古龍までを時に上回る事が出来る。人間は、竜ですら到達出来ないような場所に足を置く事が出来る。

 それは、男にとって確固とした自負、己の気持ちを奮い立たせる意志の一つだった。

 

 昼前に、避ける事の出来ない崖が現れた。難儀な事に岩肌を触ってみればどうにも崩れやすい。

 カムラ、エルガドの方の狩人は崖を駆け上る技術を持っており、男もそれを習得していたが、これを駆け上るのは中々に難しそうであった。勿論、翔虫も連れていない。

 ただ、辺りを見回し直しても、登るにはここが一番無難そうであった。他の場所は一度間違えたら奈落まで落ちてしまいそうであった。

「体力はあんまり使いたくないが……」

 既に空気の薄さは体感出来る程だった。壁登りに試行錯誤を繰り返していたら想像以上に体力を奪われてしまうだろう。

 荷物を下ろし、長い紐で自分と括り付けて後から引き上げられるようにして、再び岩肌を眺める。登れそうな、足を掛けても崩れないようなルートをじっくりと模索して一度目。途中で岩が折れて落ちた。

 こういう時の為に杭もそこそこの数を持ってはいるが、この脆さだと相当深く打ち込まないと安定しなさそうでもある。

「……」

 もう少し試してみるかと、二度目。一度目に踏んだ岩が砕けて落ちた。

 ……同じルートは二度試せないと考えた方が良いか。

 途中で杭を数本突き刺せれば上まで行けそうなルートに、杭を手に取り再び登る。杭を突き刺すポイントまで辿り着いて、体重を慎重に岩肌に預け、杭をシールドバッシュで突き立てた。流石に一度ではぐらついている。足元の岩が長く保たないような気がしている。

 二度目のシールドバッシュ。深くまで突き刺さった感触と、体重を預けていた岩がぼきりと折れた感覚が同時に。咄嗟に杭を掴んだが、何とか体重を支えてくれた。

「……何とかなりそうだ」

 その後、予想より少し多く杭を使いながらも崖を登り切り、次の光景に顔を出すと。

 巨大で銀色の、四つ足とは別に翼のある……古龍が、こちらを見ていた。

 人はおろか、時に木々や建物までも大地から引き剥がす程の暴風を引き起こす古龍。また、その鋼の鱗に覆われた肉体は、しなやかに動きつつも生半可な攻撃を通さない。

 その名は。

「クシャルダオラ……」

 唖然とするばかり男に対し、そのクシャルダオラはただ座ってこちらをじっと見ているだけ。あのキリン亜種と同じなのだろうか? だとしても……この先を進むにはそのクシャルダオラの隣を通り過ぎなければいけない訳で。

 いや、そもそもクシャルダオラの痕跡などここらにはどこにも無かった。それはここはクシャルダオラの縄張りではないという事で、偶然居合わせたという事か? いや、そうだとしても別に何も変わらない訳で、えっと、要するに、だ。俺はこの登山を諦めるべきなのか? 敵意が見られないと言えど、キリン亜種のように近くに居るだけで耐え切れないような極寒になる訳でもないと言えど、相手が何をしてくるかなんて全く分からないし、こんな場所で興味本位で何か突かれるだけでも俺は奈落に落ちて死ぬ。いやでもここまで来て? 時間はかなり掛けたが、別に苦戦した訳ではないから、また時間さえ掛ければ来れる、が……。

 そんな若干取り止めのない思考が高速で脳内を駆け巡っている内に、クシャルダオラが立ち上がって歩いてきた。

 閃光玉とこやし玉はいつでも投げられるように携えているが、そんな事をしたらこんな隠れるところもない場所で一人でクシャルダオラと戦う事になるのは確定だ。要するに、確実な死。

 逃げるにせよ荷物を捨ててもすぐに追いつかれる事は確実で、結局のところ、男に出来る事は最早開き直るしかなかった。

 座って、クシャルダオラが来るのを待つ。

 纏っている風が体に届いてきて、それは穏やかだったが、風を纏うという事自体がやはり隔絶した存在である事を否が応でも理解させてくる。

「……何ですか」

 最大限平静を努めて目の前に立ち止まったクシャルダオラに聞いてみたが、まあ……喉がそれでも震えてしまっている事などお見通しだろう。

 そんな事を思っていると、クシャルダオラは男と繋がっている紐に視線を伸ばし、そして崖下にあるリュックを見つけた。

 そのまま男の横を通り過ぎてふわりとした所作で崖を降りると、リュックを咥えてまた崖を飛んで戻ってきて、男の前に置いた。

 噛み跡こそあるが、破れていない。中身もきっと無事だろう。

「……ありがとう、ございます?」

 それに対してクシャルダオラは特段顔色も変えずに、男を見てくる。

 ……いつから見ていたのかは分からないが。要するにこいつは、自分がこんな場所で一人、山を登っていく事に興味を示しているのだろう。

 そうなると、逆にここから帰ろうとする方が良い結果になるとは余り思えなくなってくる。

 紐を外して仕舞い、リュックを背負い直す。

「…………」

 クシャルダオラを一瞥してまた前へと歩き出せば、クシャルダオラも後から男の足取りを追うようにして付いて来るようになった。

 

 人の慣れというのはどうにも恐ろしいもので。後から追ってくるクシャルダオラはそう時間の経たない内に気にならなくなった。

 と言うよりかは、ただ付いてくる無害なクシャルダオラより、目の前の道のりを進む事の方がよっぽど恐ろしい事だったからだろう。

 今度は、崖ほどではないが急斜面が訪れた。雪も積もっておらず、がらがらと今も音を立てて岩が時折転がり落ちてきている。転がり落ちてきたような岩の中には、人の背丈を超える大きさのものも。

 自然の気紛れで、男は岩に押し潰されて死ぬ……が、別に最近ここらで地震が起きたような話も聞いていない。今にも転がり落ちそうな岩もなければ、ほぼほぼ登るのに支障もないはず。勿論、こんな場所に岩に紛れるような、例えばバサルモスなどは居ないだろう。居て溜まるか。

 呼吸を整えている内に後ろからゆっくりと歩いてきたクシャルダオラが追いついてきたが、最早目を向ける事もなく、男は急斜面に足を踏み入れる。

 一歩一歩、慎重に。杖を突き立て、体重を適切に預け。時に両手も使って四つん這いになり。こんな岩肌で滑ったら、悲惨な事になるのは目に見えている。先程登った崖と同じく、脆い岩肌。集中力が一気に使われている感覚がする。ついでに、きっと後ろでこんな自分の事を見ているクシャルダオラのせいで二割増しくらいに消費されているような気もする。

 下を向いて大きく溜め息。大きく深呼吸。前を向き直す前に、後ろを向いた。クシャルダオラが座ってこちらをじっと見ている。表情など分からないが、どうもその所作からは自分を娯楽扱いしているように見えた。

「…………」

 さっさと登ろう。

 特に何事もなく登り切れば、クシャルダオラは翼を羽ばたかせてひょいと飛び越えてきたのがまた、男の神経を逆撫でしてきた。

 

 数時間にしてもう完全に開き直った男は、一度休憩する事にしてリュックを下ろす。無愛想な顔をしてモサモサとした携帯食料を腹に詰め、茶をごくんと飲む。

 クシャルダオラはそんな男の様子もただただじっと見ており、どうにも興味が尽きない様子だった。

 ヤケになる気持ちすら湧いてくるのが、湧いてきた便意で決定的になった。いそいそとリュックから離れて小さな岩肌に隠れるが、クシャルダオラが覗いて来ないか確認せざるを得ない。そして確認すれば、クシャルダオラは座ったままこちらをじっと見ているが、それだけでもどうにも笑われているように感じてしまう。

「……クソが」

 何でこんな場所で、古龍相手に排便の為に隠れなきゃいけないんだ。

 怒りばかりが湧いてくる。

 片手剣を置いて、股間を丸出しにして便と尿を出して、きちんと服を着直して。片手剣を戻して。それから、腰にぶら下げている肥やし玉と閃光玉を見る。

「…………」

 少し考えて。戻ってきた男は、クシャルダオラの目の前でリュックにそれらを収めた。

 

 それからも反り立つ壁や急斜面、それから氷のクレバスを乗り越えて。気付けば、日が暮れ始めていた。

「……」

 立ち止まって、荒くなっている呼吸に気付いた。

 本当ならばもう、テントを張って飯を食っていなければいけない時間だ。空気の薄さで気付かない内に頭が回らなくなっていたか、単純にクシャルダオラに気にとられていたのか、それとも想像以上に順調だったからか。

 多分、どれも要因としてはあるだろう。

 相変わらず男の足取りに合わせて付いて来ているクシャルダオラの方を振り向けば、会った時と変わらない平然とした顔をしていた。何も食していない。空気の薄さすらも関係ないというような、その様子。

 古龍というのは普通の生物とは全く違う論理で生きている、と揶揄される事も少なくないが、こんな高所でも飲まず食わずで平然としているのを見ると、あながち間違いではないとも思えて来る。

 頂上は確実に近付いている。明日で頑張れば辿り着けるかもしれない距離。

 ただ、頂上はまだまだ高くにあった。多分、二日は必要だろう。そして食料にはまだ余裕があるが、天候が乱れて数日でも閉じ込められたら流石に引き返さなくてはいけないだろう。

 クシャルダオラの方をまた振り返る。テオ・テスカトル程でないにせよ、いかつく無骨な顔、その青い瞳は立ち止まった男をじっと見続けている。娯楽として扱っているのだろうが、最初にリュックを崖の上に運んだ以外は何もして来なかった、そのクシャルダオラ。

「…………」

 まあ、取り敢えず。

 リュックを下ろして、今日はもう休む事にした。

 テントを一から組み立てる。若干首が前に出ていて興味津々といった感じだが、そんな様子を見るに少なくとも自分を見つけたのは今日の事らしい。

 テントを組み立て終えて、昨日と同じように食事を摂る。ガス缶で火を灯し、雪を多く溶かし、今日は干した魚や貝やらと野菜と穀物を煮て戻す。クシャルダオラはそれも別に眺めるだけだった。テントの組み立てよりは興味はないらしい。

 クシャルダオラは鉱石を食べると聞く。それで腹が膨れるのかそもそもエネルギーになるものがあるのか疑問に思うところはあるが、言葉が通じるとしても聞こうとは思わない。

 水が沸騰してから、少し冷ましてスープを飲む。が、いつもよりスープに味が染み出しておらず、薄いスープと塩辛い魚の微妙な味だった。それはもうかなりの高所に来た証でもある。もう少し煮直しても、微妙な味なのはそこまで変わらなかった。

 食べた後に茶を煮出しても余り良い味にはならず。ここから先は睡眠も浅くなり、疲労も回復しなくなってくる。

 もうさっさと寝る事にしたかったが、ガス缶も閉めてテントの中に入ろうとすると、クシャルダオラが長い首を伸ばしてすかさず顔を突っ込んできた。

「あ、あの……?」

 ただ、少し中を覗きたかっただけらしく、すぐに顔を戻して後は特に何もしてくる事はなかった。

「……………………」

 まあ、寝るか。

 テントに入って、入り口を閉めた。

 

*

 

 浅い睡眠と覚醒を繰り返していた感覚がある。

 目が覚めてくる。

 ……キリン亜種までやって来ちゃって、流石にこれ以上進むの無理だよなあ……。…………キリン亜種!?

 一気に体を弾き起こした。

 まさか、な? 外に顔を出せば、荒れた天気。ごうごうとした雪嵐が顔を殴りつけてくる。目の前にクシャルダオラが居る事は分かるが、その顔もぼんやりとしていて見えない……と思いきや、その顔がぬっと目の前まで近付いて来た。

「おわっ!?」

 ただ健康を確認するようにジロジロと見るだけで、そのまま顔は嵐の向こうへと戻って行った。

 それだけで、他に誰かが顔を覗いて来る事はなく、雪嵐が特段どうにかなる事もなく。

 どうやらキリン亜種が来たのは夢で、雪嵐が激しいのもクシャルダオラが引き起こしたものではなく、ただの自然現象のようだった。

 しかし、そうだとしても今日一日はテントに篭っているしか出来無さそうだった。

 顔を戻して、テントも閉める。

 ……付いて来るなら、この嵐も晴らしてくれないだろうか。

 寝袋の中でそんな事を思うけれども、そうしたらそうしたでまた別のモヤモヤとした気持ちが沸いてくる事だろう。

 ……このまま下山せざるを得ないまで食料を消費してしまったら、クシャルダオラは下山へと切り替える俺をどのように見るのだろう? ポポでも狩って来てこれを食って先へ進めとでも促して来るようにも思えたし、そのまま下山まで付いて来るようにも有り得そうだし、興味を失って去っていく事も想像出来たし……殺そうとしてくる事も有り得そうな気がした。

 人は強い。……ただ、それは竜や古龍が持つ強さとは全く別な部分で、同じものを期待されても困るし応える事は出来ない。

「困ったなぁ」

 そして今は、寝て体力を温存する以外に出来る事もない。

 

 ごうごうと、時に自分の声さえ聞こえなくなるような雪嵐の中、ひたすらに寝袋の中で時間を過ごす。

 時折干した肉や魚をそのまま口の中でしゃぶるようにゆっくりと咀嚼していく。

 夢現。時間の感覚もとっくに麻痺した。激しい嵐が聴覚すらも奪ってしまったよう。昼も夜も大して明るさが変わらない。

 夢現。目を開けても閉じても、それが現実なのか夢の中なのか、段々と分からなくなってくる。

 けれど思考は前向きなままだった。自分が死ぬ想像はしなかったし、夢の中でも明るい未来の事ばかりが流れて来ていた。

 それは癪ではあるが、クシャルダオラが居る事が理由なのは分かり切った事だった。

 今までずっと孤独にやってきた、山を登るという行為。その道連れが出来たのは、初めての事だったから。キリン亜種もそうだったのかもしれないけれど、流石にあれは寒過ぎた。

 どれだけ時間が経ったか分からないが、また外に顔を出した。それを察知してクシャルダオラが少し動く。

 自分が死んでいないか、少しでも気になっている様子が見て取れた。

 その時点で。このまま頂上へと到達する事を諦めたら、その結果どうするとしても少なからず、クシャルダオラは落胆する。

 そう確信出来ていた。それだけで、クシャルダオラを道連れと呼称するには十分過ぎた。種族が違えど、言葉が通じなくとも、内に持つ力が天と地程に異なろうとも。

 テントを閉じて横になり直す。

 そして、次に目を覚ました時。

 嵐は過ぎ去っていた。そして、外に顔を出せばクシャルダオラも消えていた。

 

*

 

「うん……?」

 それ以上に、空模様、山の両脇に目が行った。嵐は、過ぎ去っていなかった。嵐は、力によって引き裂かれていた。

 頂上の方を振り向いた。クシャルダオラがそこに居た。豆粒のように小さくとも、古龍としての力、風を操る力を振るっている事が分かった。

 待つ事に耐えきれなくなったのか。それとも、もっと他の理由でもあるのか。何にせよ……言葉が通じなくとも、それにははっきりとメッセージを男に伝えてきていた。

 ここまで登ってきてみろ。

「…………」

 ……これで下山しようものなら本当に殺しにきそうだな。

 残りの食料は丁度くらい。体力はきちんとある。排便をし、茶を飲み、水筒に詰め。酸素玉を取り出して腰につけた。

 テントを畳んでリュックに詰め、それを背負った。

「……さて」

 頂上を見上げた。確と近付いて来ているその頂上。

「登るか」

 

 すぐに息が切れ始めた。空気の薄さが加速度的に体に応え始めた。

 先日テントを張ったタイミング、集中が切れた時に体は理解していたのかもしれない。

 酸素玉に手が伸びそうになるが、けれど先はまだ長い。一日以上歩かなければ、頂上までは辿りつかない距離だ。

 自ずと防寒具の裏で口が大きく開く。それでも、どれだけ息を強く吸い込もうとしても満足に酸素が体に行き届かない。

 足が重い。荷物が一段と重くなったよう。集中が保てない。半ば心を無にして、一歩一歩それでも前へと進んでいく。歩けば歩いただけ頂上へと、確実に近付いているのだから。

 前だけを見る。斜面を、雪原に突き刺した杖に体重を預けながら、ゆっくりな足取りでも登っていく。

 それでも程なくして耐えきれなくなり、一度荷物を下ろして、茶を飲みながら周囲を見た。雲が綺麗にこの山だけを避けながら両脇を通り過ぎている。その起点となっているのは頂上に座しているクシャルダオラ。

 キリン程広範囲ではないにせよ、クシャルダオラも天候を操る事の出来る古龍だ。こんな高度で外に居ても平然としているし、あの頂上へも翼を何度か羽ばたかせるだけで辿り着いてしまう。けれど、不思議と羨ましいとは思わなかった。それどころか寂しい存在だと思った。

 どこにでも行けるのだろうから。あの龍には、とても多くの行ける場所と、そして絶対に行けない場所しかない。人のように知恵を凝らせば、肉体を順応させていけばどうにか行けるような場所などなく、どこに行こうとも感動や達成感を見出す事もない。あっても薄い。

 だからこそ、こんな場所にまで登ってきた人間に興味を示した、と思うのは流石に傲慢だろうか?

 休憩も程々にしてまた歩き始める。穏やかな風。クシャルダオラが雲を引き裂いている、超常的な、圧倒的な力の残滓。

 杖を握る手に力が籠る。登りたいという思いが強くなっている。登らなければいけない。

 頂上で待っているクシャルダオラに会いたい。感謝を伝える訳じゃない。人間如きでもこんな場所に来れるのだと古龍に対して証明したい訳でもない。ただ、会って顔を合わせたい。その時間は、ただ一人で頂上に到達するよりも達成感に溢れるものだという確信があった。

 

 またクレバスに当たった。落ちたら死ぬしかないような、どこまでも深いクレバスだ。幅の狭い場所を探しても、身軽になって飛び越えなければ届かない幅があった。

 リュックを下ろし、先日と同様に体と紐で結びつける。そして酸素玉を一つ口にした。

 一気に全身に酸素が満ち渡った。体が羽のように軽くなったようだった。今までも空気の薄くなる高度の山には幾度と登ってきたつもりだが、もうこの時点でこの山の高度はそのどれをも上回っているのが如実に分かった。

 体は想像以上に重くなっていたし、思考も山を登るという行為など到底すべきではないところまでぼやけていた。

 −−その感覚は、今の内に一気に登ろうという気持ちにさせた。脳が働いていない時に何をしたのか、顧みる事もせず。

 身軽になった体はクレバスを軽く飛び越え、そして正しく着地。杖を深くに突き刺して支えにしながら荷物を引っ張り、それは一度クレバスの下に落ち、ずるりと滑り落ちるような嫌な感覚がした。

 重みが、消えた。

 靄掛かった頭では、正常に結べていなかった。テントから食料から、全てを入れていたリュックの重みが、紐の先から消えた。

「あ、あ、ああああ、あああああ!!??!!??」

 思わず覗き込むが、広いクレバスはどこまでも広いままだった。リュックは最早、その深淵の底に音すらないまま消えてしまった。

「ああ、ああ、ああ…………ああ……」

 今から食料もなしで、戻る事は可能か? 微妙なところだった。草木が生える場所にまで戻れれば、何かしら食えるものも見つけられるかもしれない。けれど竜を追い払う手段の一つもない今では、降りて飢えた時に遭ってしまったならば死ぬ。可能性としては、中々に微妙に思えた。

 かと言って、登れば確実に死ぬ。登り切った後、クシャルダオラに乗って下山するだなんて期待する方が馬鹿らしい。

 冷静に考えれば、いや、考えなくとも。即座に、脇目も振らずに下山すべきだった。

 ……けれど、それをとても激しく拒む意志があった。

 クシャルダオラは、自分が登って来れるように今も嵐を切り裂いている。それに報いなければいけないという意志は、気付いてみればとても強かった。それは、諦める事の出来る冒険を諦められなくなったという、趣味から半ば義務に変わったという事を示してもいるのだが。

 やはり、それが古龍だからだろうか。

 人には到底出来ないような事を平然と、しかも自分の為だけにやってのける事への対価を支払わずに、しかも自分のミスを原因としてこの地から去るなどという事は、出来そうになかった。とりわけ狩人でもある男は、古龍がどれだけ他の生物や竜と比較しても逸脱した存在であるかを、身を以て知っていたから。

 それとも……初めての道連れだからだろうか。

 同じ人の誰にも理解されないこの趣味に、初めて興味を抱いてくれて、そして期待してもくれている。それが嬉しくない訳がなかった。

「……ちくしょう」

 恨みがましい気持ちが、湧かない訳じゃない。自らの足でほぼ確実な死へと向かう事に後ろ向きな気持ちはあるにはある。

 けれど、この失態はクシャルダオラが居ようと居まいとどうせ起きていたであろう事柄だ。

「あー、畜生!!」

 男は身を翻した。

 そんな、自ら死地へと進むその歩みを、クシャルダオラは頂上からひたすらに見続けていた。

 

 重いリュックを失って男の足は飛躍的に速くなった。酸素玉の効力は程なくして消えたが、それでも倍以上の速さで足が進む。

 クレバスの前でテントを張り、そのまま身軽になって早朝から登ればギリギリ往復出来たのだろうか。いや、流石にそれは楽観的過ぎる。何にせよ、日が沈むまでに頂上に着けなければデッドエンドだ。極寒とこの空気の薄さで、腰に掛けただけの酸素玉で無事に夜を越せるとは思えない。

 それは自分の命が今日の日没までという事を同時に意味している訳でもあったが、登れたのならばクシャルダオラに命乞いをしてみても良いかもしれないとも思い始めていた。

 今度はまた崖が現れた。酸素玉無しでは登るのはきつそうだった。立ち止まれば酸素を求めて胸が目一杯に上下する。しかしどれだけ呼吸を重ねても呼吸が楽になる事はない。腰につけていた酸素玉は残り七つ。一つあたりの効力は十分も保たないが、まだ何時間もハイペースで歩かなければ頂上へは辿りつかない。

 一度だけ、酸素玉なしで登ってみる事にした。体の中に酸素を溜めるように、ゆっくりと、少しずつ息を落ち着かせて。きっとクレバスの前でリュックに紐を結んだ時よりは鮮明になった頭でルートを模索し、全身に力を滾らせて。

 跳んだ。その瞬間半ば無理だと悟ったが、それでも一つ二つと岩の突起に体重を預けて一つ二つと。しかし、掴もうとした岩に、指が掛からず落ちた。

 着地すらままならずにごろごろと転がる。そのまま滑り落ちそうになるのを、どうにか杖を突き立てて堪えた。

「……ああっ、はぁっ」

 ゆっくりと起き上がる。

「うっ、ああっ」

 弱気な声が口から漏れ出すのを止められない。

 握力すら、もう想像よりかなり落ちていた。そして今は岩に打ち込める杭すらも持っていない。

 ゆっくりとまた崖の前まで戻って、酸素玉を口にした。

 呼吸出来るという事がこんなにも有難い事だと思うのは初めてだった。酸素玉を持ってはいるが、水中戦をした事はない。水中戦を数こなしていれば、こんな高所でももう少し楽に在れたのだろうか?

 拳を握る。先程が嘘だったかのように強く握れていた。全身を分厚い防寒具で覆っているから素肌の色こそ分からないが、前より赤みを取り戻してもいる事だろう。

 改めて崖を見上げる。今なら登れそうだった。

 

*

 

 どれだけ歩いたのか分からない。空気が薄くなり始めてからどれだけ更に高度を積み重ねたのかも分からない。後ろを振り向く気力すらなかった。

 視界には靄が掛かっていた。思考すらも出来ているか怪しかった。それでも前へ、前へと足だけは動かし続けた。杖を雪原に突き立てて前に体重を預けながら、最早氷のように硬い雪にスパイクを突き立てて、とにかく一歩ずつ、今まで数え切れない程に積み重ねてきたままに、歩いていく。

「帰ったら……ポポの、シチューを、食べたい。たらふく、たっぷり」

 雪原でポポを食べているティガレックスを見た事がある。後ろ姿だけだったが、その顔はきっと満面の笑みになっているだろうと確信出来る程に嬉しげな姿だった。

「気が済むまで、寝たい」

 森の中で、唐突にエスピナスが穏やかな寝息を立てているのに出会した事があった。あれ程心地良さげな寝顔は未だ他に見た事がなかった。

「道具を、新調したい」

 けれどお金は最早すっからかんな事を思い出す。

 またハンター業に戻らなければいけない。ギルドに顔を出す事も少し憂鬱だった。

 靄掛かる視界の隅に、何か変なものを見つけた。

 足を止めて注意深く見てみれば、それは雪に埋もれかけた人の死体だった。

「……」

 頂上へと向かう方向に倒れていた。

 掘り返して確かめようとする気力などない。近寄るだけの僅かな寄り道をするのも憚られる程だった。けれど同じ趣味を持ち、そして志半ばに倒れた人を見ると、気力が湧いてきた。辿り着いた後、骸になろうと構わない。けれど辿り着く事だけは絶対に成し遂げて見せる。

 そんな捨て身は、リュックをミスから失った自責の念もあるのかもしれない。しかし、それ自身に男は気付く事もなく、前を向き直した。

 

 頂上は、とうとう近付いてきていた。それと同時に、日も少しずつ傾き始めていた。

 酸素玉は残り四つまで減っていた。けれど、四つも残せていた。

 空気が薄くなければ、一時間も掛からない距離だった。ただ……頂上の手前に、一際高い崖があるのが見えていた。

 そして同じく一時間もあれば、少なくともその崖の凹凸など見えなくなる程に日が傾いてしまうだろう。

「ぁぁっ……ぅぁ……」

 声すらもう出せない。最早気力だけで歩いていると言っても過言ではなかった。

 酸素玉をどのように切るかなど、最早考える事すら出来なかった。単純な論理すら頭の中で纏まる事なく、事実ばかりがその形のままに思考の中を延々と回っているようだった。

 けれどその事実の中には、クシャルダオラが未だ頂上にて座しているという事も在った。

 酸素玉を一つ口に入れた。

「ぅうあああ、おおおお」

 体の感覚が正しいか分からない。けれど、まだ動かそうと思えば動いてくれる。勝手に体が崩れる事もない。前へと足を踏み出せる。

 一筋の風が吹いた。

 クシャルダオラのいかつい顔の中にある、曇りのない青空のような瞳が自分に期待を向けている事がこの距離でも感じられた。

 

 気力を振り絞る。死力を尽くす。

 狩人ならば、きっとそれを責務の為に行うのだろう。人を、故郷を、時に国までをも守る為に。己が欲の為だけにそれを行っている自分は、やはり趣味に生きる事を選んだ人間だ。他人に褒められるような事ではない。登り切ったところで得られるものは自己満足だけ……だったら、ここまで登る事が出来ていただろうか?

 荷物を失って捨て身になろうとも、この霊峰への登山は想像の何倍も厳しかった。一人だったら空気が相当に厳しくなった時点で、頂上までの距離と酸素玉の数を計算して、無理だと理解して登頂を諦めていただろう。安全に、諦めて帰っていた。

 それは至極正しい道だ。捨て身になった事は全く褒められる事ではない。

 けれど、捨て身になったからこそ、体に残る全てを絞り尽くすように歩みを進めてきたからこそ、今となれば心が満ち足りていた。

 登頂した後に命を落とす事になろうとも後悔はない。それ程までに。

 一つ目の酸素玉が切れてくる。途端に視界が曇る。全身が重くなる。指先の感覚から失せていく。

 最早、この高度は人が生存すら許されないような厳しさだった。

 二つ目を口にした。ペースとしては十分に間に合う。これ程までに生きていると実感する事は未だかつてなかった。

 澄んだ視界。雪原の先にある頂上、クシャルダオラ。そこを境にして切れる嵐。段々と迫ってくる夜の黒。宵闇。

 その夜に追いつかれないように、足を動かす。とにかく、それだけを。今、この時間は今まで過ごしてきたどんな時よりも楽しい。涙すら出そうな程だった。

 首を持ち上げる。クシャルダオラが待っている。きっと、そのいかつい顔は自分が登頂したところで大きく変わる事はないだろう。けれど感嘆とした表情をその全身で表してくれそうな期待があった。その期待に応えたい。人などより長く永くに生きる古龍にこの矮小な人間の存在を刻み込みたいとか、矮小な人間でもこのような事が出来るのだと証明したい訳でもない。ただ単純に、初めて道連れとなってくれた存在であるから。

 三つ目を口にした。

 少しずつ最後の崖が近付いてくる。クシャルダオラの姿が崖に隠れて隠れ始めた。クシャルダオラからしても自分の姿が見えなくなるはずだが、けれどクシャルダオラは動こうとはしなかった。

 信頼か、期待か、それとも確信か。

 何にせよ、それは後ろ向きな気持ちから来るものではないだろうと、男も確信していた。ただ、寂しさを感じた。

 最初こそ命の危機すら感じて、迷惑だとばかり感じていたのにと、酸素玉で余裕の出来た思考から苦笑する。

 宵闇が急かすように迫ってきている。見え始めた星と月が、冷たい死の美しさを純粋に映し出していた。

 クシャルダオラの姿が完全に見えなくなった。聳え立つ崖は、今の自分としては絶望したくなる程に高い事が分かってくる。

 どうすれば良いのか歩きながら考える。その崖は氷で覆われていた。駆け上る事は出来ないが、物を突き刺す事は容易に出来そうだった。

 そして、突き刺せるものは二つ持っていた。片手剣と、杖。

 不恰好でもそれで行くしかないようだった。

 最後の崖の目の前に着いた。

 三つ目の酸素玉の効果は、まだ少しばかり残っていて。その僅かな間、休む事にした。

 

*

 

 最後の酸素玉を口にして、登り始めた。片手剣は容易く氷に突き刺さるが、杖は力を込めないと刺さらない。それだけ酸素を消費する。

 酸素玉が尽きるまでに登り切れなければ、そこでおしまいだ。失敗は許されない。

 素早く、慎重に。手足の感覚に集中を凝らして、一手一手のどれもに間違いを犯さないように。

 ざく、と片手剣が氷に突き刺さる。力を込めて、どす、と杖を突き刺す。片足を持ち上げてスパイクを突き立てる。もう片足も同様に。

 繰り返す、繰り返す。ひたすらに、けれど氷を己の身のように理解する事を怠らず。

 酸素玉が後どれだけ保つか。残りの高さはどれ程か。正直、最早そこまで意識を割いていられない。落ちても終わり。急いでそうなったら元も子もない。

 集中していた。雑念など入る余地もない。クシャルダオラの事さえも脳裏から消え失せる程。

 ざく、どす。ざぐっ、ざぐっ。

 ピキッ。

「!?」

 上からした不吉な音。

 見上げれば突き刺す衝撃で、上に出来ていた太い氷柱が揺れ、落ちてきた。咄嗟に今も構えていた盾で防ぐ。腕が痺れた。バランスが崩れそうになるのを、片手剣を突き刺し直してどうにか保ち直す。

「……ふー」

 上を見上げる。

 宵闇がより一層濃くなりつつある。氷柱はどこにでもある。似たような事はこれからも起きるだろう。

 けれど、立ち止まっている暇はない。どれだけ登ってきたのか、どれだけの高さがまだあるのか、確認する時間すら惜しい。

 登る。登り続ける。

「はー……」

 息が切れ始めた。酸素玉の効力が少しずつ鈍くなり始めている。完全に切れるまでもう幾許かの時間はあるが、壁を登るという行為に対しての十分な酸素の供給がなくなるのは、想像より早いのかもしれない。

 それでも、やるしかない。やるしかない。

 薄くなり始めた酸素。意識の内に疲労が重く圧し掛かってきた。持ち上げる腕が、突き立てる手が、ずしりと重さを訴えてくる。

「ふー、はー」

 足を持ち上げる。スパイクを氷の壁に突き刺す。体重を預けられる事を確認して、片手剣を引っこ抜いてより上へと突き刺し直す。続いて杖を引っこ抜くのに、力が必要だった。握力が、失せ始めている。

「きび、しい、な」

 弱音が漏れる。少し休んで酸素を行き渡らせるか? いや、そんな事をしていたら後がきつくなるだけだ。

 行くしかない。行くしかない。

 杖を全力で突き立てる。体を持ち上げる。

 防寒具の下で口を大きく開ける。閉じていられない。

 突き立てる。持ち上げる。

「うぅ、あぁ」

 ただそれだけを。ただそれだけを。

「うぉ、ぉあ」

 ひたすらに、ひたすらに。

 酸素が切れていく。上を見た。多分、六割はもう登った。けれど、残りの四割があった。無酸素で、二割は登らなければいけないような気がした。

「……」

 絶望的だった。けれどやめる訳にはいかない。片手剣を突き刺した。上の氷柱からひび割れる音がした。見ずに、ただ頭上に盾を斜めにかざした。

 がづっ。

 幸いに滑って落ちていった。

 登るしかない。とにかく。

 

 視界に靄が掛かってきた。最早考える事すら出来なくなりつつある。だから、その前に上の光景を記憶して、もう目を閉じた。体に登る感覚を覚えさせた。それだけを出来るように。

 杖を突き刺した。多分、突き刺さっている。

「−−−−」

 体を持ち上げた。スパイクを突き刺した。衝撃があった。浮遊感はない。登れているらしい。

 片手剣を突き刺した。体を持ち上げた。多分、登れている。

 自分の腕の先がどこにあるのか分からない。けれど、突き刺す感覚だけは分かる。

 酸素が、ない。深い海の底に居るようだった。目を開けてもほぼほぼ真っ白だった。真っ白な海。

 取り込める酸素は完全にゼロな訳ではないが、消費に追いついていない事は明白だった。けれど、まだ、辛うじて登れている。進めている。そのはずだ。限界はとても近いが、まだそこではない。

 突き刺す。登る。登れている、多分。なら次もいける。登る。

 音も最早聞こえていない気がする。けれど、触覚だけは残っている。

「−−−−」

 気力を振り絞る。死力を尽くす。

 まだ、生きているのならば。登れているのならば。そう信じて登る。

 頭に、何か当たった。多分、氷柱。体が痺れた。でも、逆にそれのおかげで、意識が覚醒した。とても痛いけれど、別に竜の攻撃をまともに喰らった時よりは余程軽い。上が見えた気がした。まだ登れているのがはっきりした。

 折れた氷柱。その上には壁がなかった。後、少しだった。気力が、湧いてきた。

「−−−−」

 片手剣を突き刺す。体を持ち上げる。スパイクを突き刺す。杖を突き刺す。体を持ち上げる。スパイクを突き刺す。

「−−−−」

 また何も見えなくなりつつあった。それでも同じ所作を続ける。そうすれば登れるから。体が動くならば、触覚すら残っているなら、登れるから。

 登って、登る。登って、登って。

 突き刺すはずの片手剣が、どこも刺さなかった。

「…………」

 その代わりに手首を曲げて、地面を突き刺した。

 

*

 

「−−−−」

 壁の上に、体を持ち上げた。

 相変わらず、何も見えなかった。それどころか、横たわってしまえば最早動けそうにない。

 でも、けれど、まだ登り切った訳じゃない。後ほんの少しだけ、道のりがある。

 とても短くて、とても遠い、その道のり。

 じっとして、とても薄い酸素をせめて、僅かでも体に集めようとしていた時。

 風が、吹いた。厚い風だった。詰まった空気のある風だった。

 ……クシャルダオラは、ここまでの高所でも平然としていられるのかと思っていたけれど、そんな事はなかった。

 己の風を操る力で、濃い空気を集めているだけだったらしい。

 白に染まっていた視界が色を取り戻していく。体に、ほんの少しの元気が湧く。

「……ぅあ」

 体を、起こした。少しの距離。その先に、クシャルダオラが待っていた。

 一歩一歩、踏みしめながら、確かな足取りで歩いた。

 クシャルダオラが、そのゆっくりとした歩みをじっと見ていた。

 どこまでも深く、濃い夜空が、世界を覆い尽くしつつあった。僅かに西の空に残る夕闇があった。

 今まで見てきた何よりも煌めく星々と月が、毎日見てきたどれよりも美しかった。死の美しさ。それらに最も近い場所に立った己の身もそれに近付いているからかもしれないと思った。

 クシャルダオラの鋼の鱗が、そんな夜の僅かな光を鈍く反射している。しかしクシャルダオラの青空のような瞳は、いつまでも青空のようなままだった。

 ……クシャルダオラは頂上の中央から、少しずれた場所に座っていた。

 男は、頂上に着いた。そして、クシャルダオラの横を通り過ぎ、その中央に、杖を突き刺した。

「……あぁ」

 膝を着いた。そのまま横たわった。

 着いたんだな。

 何を思うのか、事前に色々想像していたけれど、思う事はただ単純にそれ一つだった。

 そんな男の顔を、クシャルダオラが首を伸ばして覗き込んできた。

 濃い空気。

「ああ、はは。

 ……ありがとな」

 相変わらず、表情は分からなかった。

 体を起こせば、クシャルダオラが首を戻す。

 けれど、感嘆としている事だけは分かった。

 腕から盾を取り外した。腰に戻していた片手剣も取り出してそれを盾の取手に差し、地面に突き刺した。

 もう、荷物は何もない。食料もなければ、飲み物も空っぽで、火を起こす道具もなく、そして体力も気力も尽き果てている。

 最後に……最期に立ち上がった。

 そんな男の仕草を、クシャルダオラはじっと見ている。

 辺りを見渡す。振り返れば、登ってきた軌跡が見えていた。リュックをクレバスの下に落とした場所も、キャンプした場所も、今も尚、クシャルダオラによって嵐を割かれてはっきりと見えていた。

「……あぁ」

 気付けば、西の空から夕闇が完全に無くなり、夜の時間が来ていた。明るい月。夜の時間。死の時間。

 クシャルダオラと顔を合わせた。

「−−−−」

 良い、旅路だったよ。ありがとう。

 そう言う前に。

 男は倒れて、そこから動く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*

 

*

 

*

 

*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ん、あ、ああ?」

「あ、起きたよ、起きた!」

 男の目覚めに気付いた、看病していたらしき子供が大声で叫んで飛び出していった。

「あ、え……ここは……?」

 どこかの家の中……どうにも見覚えのある場所だった。

 記憶を掘り起こしてみれば、山麓の街の、山を登る前に泊まった宿だった。

 部屋の中を見回してみれば、着ていた防寒具。何故か顔の部分がボロボロになっていた。そして、寝ていた布団の枕元には大きな鋼の鱗が一枚。

 それが何かと手に取ると、ひんやりと冷たい。

 どたどたと大きな足音を立てながら、宿の女将がやってきた。

「それねえ、あんたをここまで連れてきたクシャルダオラが、自分の体から剥いであんたの胸元に置いていったのよ」

「……俺、は?」

「もう三日前ね。夜にいきなりクシャルダオラが、あんたを咥えてこの街の前にまでやって来たのさ。

 大慌てになったけれど、ハンターが来る前にはもうとっとと去って行っちまってね。

 見張り番の言うには、あんたの顔を名残惜しげにじっと見ていたんだってよ」

 ああ、だから。防寒具の顔の部分がボロボロに。

「……あんた、登山なんて馬鹿げた事するって言ってたけれど、もしかして古龍と登山でもしたのかい?」

「……ああ」

 半信半疑な顔をしていた女将が、素直に驚いた顔をした。

「へぇーーーー!! 詳しく聞かせておくれよ! 本当に頂上まで登ったのかい!?

 あ、いや、その前に飯にしようか! 随分腹も減っているだろう?」

「……うん、助かる」

 男はゆっくりと体を起こそうとして、けれどすぐに倒れそうになる。

「無理しなくて良いよ。すぐに一杯ご飯を持ってくるからね! 何か食べたいものはあるかい?」

「……ポポのタンシチュー」

「どれだけだい?」

「あるだけ」

 女将は大きく笑って快く応えてくれた。

 

*

 

*

 

 鋼龍の龍鱗。それも多分、かなり上質なもの。

 いつまでも冷たさを保ち続けるそれを、無料で十日以上も泊めてくれていた女将は欲しがる事はなかった。

「古龍と登山をするなんて、面白い土産話を聞かせて貰っただけでもお釣りが来るし、それは誰がどう見てもあんたのもんさ。私らが持ってたら罰当たりにも程があるよ」

 街を出て、それを握り締める。そして空を見上げる。

 あのクシャルダオラとはまた会う気がした。何故だろう、今となってはどこかで繋がっている気がするのだ。

 無骨な顔、今のような青空を映し出す瞳にて、限界に挑む人間をひたすらに見つめ続けた龍。

 会いたくて堪らない。また今度は、別の山を共に登りたい。そしてもう少しだけでも、交流が出来たら嬉しい。

「……あの山にもまた行ってみようかな」

 そして足をまた一歩、踏み出した。




skebで挿絵を依頼しました。
https://x.com/xiuFyioC0AZYEtb/status/1841335097263554923

男:
30代以上。
登山大好き。
モンハン世界の住人補正もあって、それが捨て身になった事もあって、酸素玉だけでエベレストレベルの山に登頂した化け物。
流石にこのレベルの山はそこまでないと思う。
クシャルダオラとは共鳴、とまではいかないけれど、それに近い形で繋がってる。
これからも登山するし、何なら将来的にはキリン亜種が追加で道連れになる予定。

クシャルダオラ:
実はマスターランク個体。
人間でいうと男と同じくらいの年齢。
縄張りを持っておらず、放浪中。
新大陸のおじいちゃん並みに温厚。
最初は本当に登るのか? って思ってたのを、リュックを落としても登ってくるのにマジかと思ってたりするし、多分、一向に良くならない天気に腹が立って登らせに動いた自分のせいだよなって分かってもいる。
なので、頂上まで登ってきて倒れたのにかなり焦った。

総合日間3位
総合日間(加点式)1位
総合新作日間(加点式)6位
総合週間3位
総合月間11位
総合四半期51位
二次創作日間2位
二次創作日間(加点式)1位
二次創作新作日間3位
二次創作週間2位
二次創作月間6位
二次創作四半期29位
短編日間1位
短編日間(加点式)1位
短編週間1位
短編月間1位
短編四半期2位
短編年間7位
短編累計45位

ありがとうございます〜

所感、続きを書くかどうかに関しての活動報告 =>
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=314733&uid=159026
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