カプチーノというものを飲んだ。コーヒーの芳醇な苦味、豊かな香りに深いコクと、ミルクのまろやかな風味、柔らかい甘さが調和している。こんなにも美味いものだったのか、私は舌を巻いた。ちなみに私は猫舌だ。
これを飲んだ瞬間に、私の語彙は銀河の彼方へと吹き飛んでいった。今頃はブラックホールに消えているだろう。
私は少しヒリヒリする舌をチロリと出しながら、カプチーノを作った纒を称えた。嬉しそうにはにかむ纒は、やはり美少女の中の美少女だ。
上方纒は私の同級生だ。高校に入ってから出来た二人目の友達だ。こんなにも艶やかな長い黒髪の美少女は中々お目にかかれない。更にいえば、お嬢様でもある。つまりは毎日三食食べられるということだ。そのお陰か、とてもスタイルが良い。スラリと背は高く、メリハリのある体型。私のようなちびっことは大違いだ。羨ましいようなそうでもないような。
「平子様、お味はいかがですか?」
「ん、美味しいよ」
「それは良かったです」
ほっと一息、安堵する纒。胸に手を添える様は上品と言う他ない。
しかし、コーヒーがこんなにも美味いものだったとは知らなかった。いつもの味に戻れなくなりそうだ、と私は危惧していたが、どうやらそのようなこともなく、翌日にはいつもの水で薄めに薄めたコーヒーに戻っていた。
コーヒーの美味さに気付いた私であったが、しかし金がかかる本格的な物を常用できるはずもない。どうしたものかと校内を当て所なくうろついていた。やがて私は理科室に辿り着いた。ここには色々器具が取り揃えてある、きっとコーヒーを作ることができるものがあるに違いない。
ガラガラとドアを横に開く。老朽化の影響か途中でガッと引っ掛かりつんのめった。
中には生徒が一人いた。スラリと高いスレンダーな体型で、えらく顔の良い白衣を着た女子生徒だ。睫毛が長く鼻筋もキレイだし、薄い唇に真っ暗な瞳がセクシーだ。
ポカンと口を開けていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、「何か用かな」と低い声で私に聞いた。私は当然答えを持ち合わせておらず、「特に用はないです」と答えた。
「そうか、まぁ座りたまえよ」
私は人の厚意は無下にしない人間だ。遠慮することなく近くにあった、背もたれのない丸椅子に座った。理科室にあるクルクル回る椅子だ。とりあえず一回転して、私は姿勢を正した。
「紹介がまだだったな。私は漁火仁奈、二年生だ。よろしく」
「あぁこれはご丁寧にどうも。私は蝶番平子です。よろしくどうぞ」
「ところで君の髪は地毛かね?紫というのは珍しいな」
漁火先輩が頭を己のコツコツと指でつつくジェスチャーをした。
「これは染めてるだけです。嘗められないようにと気合いいれたんですが、空回りしましてね。ま、戻す気はないんすけど」
都会に来てからというもの驚きの連続だ。ド派手な髪色の輩がたむろしているような所だと覚悟していたら、実際は田舎とそう変わらない、人が溢れかえらんばかりにいるだけの所だった。すれ違う人のことを覚えているようなやつは都会には存在しないのだろう。きっと、「おかえり」と挨拶をかわす近所の人もいないのだろう。何とも寂しいことだ。
「そろそろかな」
「あの、それなんですか」
「何って、コーヒーを作っているんだよ。ちょうど出来上がるところだから、飲んでいくと良い」
「はあ。ビーカーで作っているんですか」
そう、漁火先輩の手元にはビーカーに何かを差したような機械が置いてある。ビーカーの下には、私でも知っている道具、アルコールランプがユラユラと炎を揺らめかせている。アルコールランプの火を消すときはいつも緊張したものだ。
「これはサイフォンってやつでね。詳しい原理は知らんが、ビーカーの水が蒸発して上の容器に貯まっていくんだ。本当はフラスコを使いたかったんだが、ああも厳重に管理されては手が出せない。そして、アルコールランプを消すと」
漁火先輩はアルコールランプに蓋をした。するとどうだろう、上の容器に貯まっていた熱湯が一気に下のビーカーに下がっていくではないか。こんなにも面白いものがあったとは、まだまだ世の中には不思議なことがたくさんあるんだな、と私は感服した。
「おっとしまった、カップを用意していなかった」
少し待っていてくれ、と漁火先輩は教室の後方に位置する棚へと歩みを進めた。彼女は理科室に住んでいるのだろうかと思う程に、その行動には迷いがない。これがリケジョというやつなのだろう。
暫くして、彼女は戻ってきた。その手に紙コップを携えて。
「すまないね、使えそうなのがこれしか無かった」
「いえいえ、十分ありがたいです」
私の言葉に漁火先輩は、「感謝の言葉を受け取ったのはいつぶりだろうか」と苦笑していた。
漁火先輩は厚手の手袋をしてビーカーを持った。流石は先輩というだけあり、危機管理意識がしっかりしている。私だったらそのまま掴んで火傷していたところだ。上の器具を外して、ビーカーを傾け紙コップにコーヒーを注いでいく。黒々とした液体からは芳しい豆の良い香りが漂ってくる。
「生憎ミルクを切らしていてね。砂糖はいるかい?」
「いえ、大丈夫です」
私は漁火先輩から紙コップを受け取った。温かいどころか熱かった。危うく火傷するところだった。これはしっかりと連入りに冷まさなければ舌が回らなくなってしまう。
私がふーふーとコーヒーを冷ましていると、「おや、熱かったかな?」と漁火先輩。
「えへへ、猫舌なんで」
「そうか。ゆっくりしていくと良い」
そう残し、漁火先輩は窓の方へと向かって歩いていく。換気でもするのかと、その姿を尻目に必死に冷ましていると、漁火先輩はガララと窓を開け、私に対してこう言った。
「鍵は机に置いておいたから、帰りに締めてってくれ」
「は?」
そして漁火先輩は軽々と窓枠を飛び越え教室を去っていった。残された私は暫く呆然としていた。そして落ち着きを取り戻した後は、閑散とした理科室で一人、ぬるくなったコーヒーを飲んだ。
「……にがっ」
敗北の味は苦い。やはり私にコーヒーは早すぎたようだ。
翌日の昼休み、私は理科室に行った。昨日の文句を言ってやろうと思い向かったのだが、そこには漁火先輩の姿は無かった。どうやら、毎日理科室にいるわけではないようだ。仕方ない、帰るとするか、と踵を返した私の目前に漁火先輩は立っていた。あまりの驚きに私は腰を抜かすところだった。一体いつからそこにいたのだろう、そんなことを考えるよりも先に、私の口をついて出たのは罵倒の言葉だった。
「先輩のバーカ!」
「は?」
それだけ言い残し私はその場を足早に去った。ふう、スッキリした。さて、今日もバイトがあるから、昼休みはどこか落ち着いたところで眠らなければ。