時は私に異変が起こるおよそ十八時間前まで遡る。
その日は雲一つない、土砂降りの雨だった。
「太陽に照らされてるのにも関わらず振り続けるなんて。まるで私達、化かされてるみたい」
大学内に併設されたカフェテラス。私は本に栞を挟み、それをバッグに入れつつ、遅刻してきた話し主に目線を合わせた。
「四分三十二秒の遅刻……と言いたいところだけれど、今日は許してあげるわ」
「もぅー、大雨警報なのにも関わらず対面授業なの意味わかんないわよー。メリー、代わりに講義出てくれない?」
「残念ながら却下よ。その時間は私も講義だからね」
ティーカップのハンドルを優しく摘み、並々と入っているコーヒーを少量程度舌先に乗せる。何年も欠かすことなく飲み続けているせいか、この苦味にはもう慣れてしまっていた。
その様子を見た宇佐美蓮子は、デスクの中心に埋め込まれた液晶端末でアイスコーヒーとチョコレートブラウニーを注文する。
手首に巻かれた電子腕時計で決済を行うと、液晶端末は机の下へと格納された。
「こんな時代にあからさまな天気雨なんて、明らかに現代科学に対する挑戦状ね」
「同感。それか、もしかすると私達は化かされてるのかもしれないわよ?」
「化かされてる?」
「メリーは知らない?狐の嫁入りって」
狐の嫁入り。
一般的には天気雨と言われており、雲が少なく、太陽が照っている状態なのにも関わらず雨が降る現象を指す。
「触りだけなら知っているわ。それにしても珍しいわね。現実主義者の蓮子が非科学的な現象を口にするなんて」
「む。聞き捨てならない言葉ね。私だって夢見る少女なのよ?スイーツが飲み込めて、奇天烈の一つや二つ呑み込めない事はないわ」
頑固親父じゃあるまいし、と薄ら口角を上げながら蓮子はそう発言する。
「昔、曽祖母がよく言っていたのよ。こういった不思議な現象が起こってしまうのは、必ず理由かこじつけがあるってね」
「夢見る無垢な少女らしく、随分レトロでファンシーな夢ね。そんなあやふやな意思、今にも崩れてしまいそうだわ」
そんな雑談じみた問答を繰り返していると、配膳ロボットが蓮子の注文した商品を運んできた。
およそ二五〇ミリリットル容器ほどのコップに注がれたアイスコーヒーと、三口で収まりそうな可愛らしいチョコレートブラウニー。その上には飾り付けのミントと生クリームが添えてある。
「甘いものばかりじゃ頭が痛くなるから、ほろ苦くするのよ。ま、それは蓮子が一番知ってるんじゃない?」
「……まあね。曖昧なものに関してなら酸いも甘いも経験豊富よ?私の場合、偽物限定になってしまうけれどね」
燦々と地を照らし、轟々と無遠慮に地に叩きつける。果たしてコレはどちらが化けているのだろう?
私達は化かされていることに気づく事はできても、それ以上の真相を知る事はできない。
何故なら、私達は地に足をつけるようプログラムされた知的生命体なのだから。
△▼△
──こんな
「……彼氏でもできたの?」
蓮子の開口一番はそんな言葉だった。
「そんなわけないじゃない。朝目が覚めたらこんなことになってたのよ」
「ほんと、メリーは非科学な事ばかり引き連れてくるんだから〜」
"飽きないわね"と言いつつ、蓮子は私の周りを衛星のようにくるくると回りながら観察している。
「ふむ……体格に大きな変化は見られないわね。でも肝心の顔や髪質、虹彩が変化してるのを見ると、肉体も丸ごと変わってるんじゃない?ボディタッチは──遠慮しとく」
「ちょっと…….恥ずかしいわよ。あまりジロジロ見ないでちょうだい」
「いいじゃない。減るもんじゃなし。
あーあ、実家に置いてある着物とか着せてみたいわね〜。お人形さんみたい」
蓮子の瞳が
新しいものに臆する事なく興味を持って接してくる、それは無垢なる探究心のそれだ。
とても……危険な──。
「はぁ、まるで赤子だわ。本当、いつか痛い目に遭っても私は助けられないわよ」
「メリーに言われても説得力が無い。人工衛星に乗り込んだ時、いの一番に突っ込んで怪我をしたのは何処の誰だったのか、忘れたわけじゃないでしょ?」
「……」
蓮子にしては中々鋭いカウンターが飛んで来たわね……。
「コホン。まぁ、現状日常生活に支障は無いから、私はそろそろ帰ることにするわ」
「え?ちょっと、今日の講義はどうしたのよ。確かまだ一限残ってたよね?」
「統括心理のこと?今日はなんだかずっと眠くって。頭の回転が鈍いとやる気が出ないから今日はもう休むわ。まだ一度も休んだこともないのだし、きっとバチは当たらないわよ」
じゃあねと軽く欠伸と伸びをしつつ、手を振って蓮子と別れる。
「……早速生活に支障が出てるじゃないの。怠慢で休んだことなんて一度もなかったでしょ、メリー」
……耐え難い虚脱感がずっしりと身体にのしかかってくる。
部屋に到着するや否や、服を仕替えることもなく、徐にベッドへ身体を預けた。
外からは車の排気音と行き交う人々の雑踏が聞こえてくる。
今、私がどの部屋にいるのか分からない。頭が働かず、身体に染みついた記憶に頼り続けていた。
こんな身体になってしまったのだ。きっと現実ではないのだろう。
ああ……とりあえず今は、この気持ちよさに乗りかかることにしよう……。
△▼△
「……コレは、なんという」
私は驚愕する。
あの子の影響が、まさかここまでとは思ってはいなかった。
人間の里から直上約五千メートル。理を隔てる絶壁──博麗大結界には、大きな亀裂が走っていた。
幻想郷(ここ)はどの世界にも属さない唯一無二の理想郷。そんな隔離された場所が何百年も溜め込んだモノが決壊してしまうのならば、どんな影響が外の世界にもたらされるのか分かったものではない。
「異変の再現なんて事が起こってしまったら洒落にならないわね……。万が一あの子が犠牲になってしまうのだけは避けなければ」
遥か昔の記憶を……今でも鮮明に覚えている。
黒い帽子とケープの似合う、ちょっぴりアンティークな少女。──だからこそ、彼女は私のようになって欲しくはない。
"変化“とは、今の在り方を捨て去る事だ。
だが無慈悲な事に、そのタイミングは不定期に訪れる。意識的に訪れることもあれば、無意識であっても、強制的に分岐点は作られる。
「そう。だから、暫く訪れる先の分岐点は貴女自身が決めるのよ。マエリベリー」
私の後悔は、私だけの物だ。だから、貴女は"変化"を越えられる強かな心を持ちなさい。
「頼んだわよ。霊夢」
扇子に映る宵月の月光。亀裂の入ったソレは、相も変わらず下品な存在感を放っていた。