雨夜の星に手を伸ばし   作:クサリ

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 一組の男女が激しい打ち合いを続けている。ただでさえ上背のある男に対し、女もまた小柄なものであるのだからその身長差は30cmにも達しようというものだ。さらには刃引きとはいえ片手に短刀を握る男に対し、女は空手。当然、赤子の手をひねるが如くに男が女を捻じ伏せて終わり────とはならなかった。

 短刀を握る手首を円運動で重さを付けた手刀で払う。そこから内側に踏み込んだ一歩を利用し軽く跳躍、折りたたんだ肘で刈るような一撃で顎を狙う。流れるように致命打を叩きこみに来た女に対し、男も素早く空いた手を差し込み一撃を受け止め、ばしりと激しい音が鳴った。

 一瞬の停滞、硬直。顎を狙うために跳躍した女は隙だらけで、機械のような正確さを誇る……いいや、真実、肉体の一部を鋼鉄に置換している男にとっては俎上の魚に等しいだろう。しかし、その窮地で女は悪戯気な笑みを浮かべさえしてみせる。

 

「はい、ここでもういっぱぁつ!」

 

 受け止められた腕をさらに押し込むように、己の掌に掌底を叩きこむ。体勢の悪さから大した威力の出ないそれは、不意の衝撃により男の攻勢を削ぐ役目を見事に果たした。

 かくして悠々と着地した女は柔らかなバネを活かして身をかがめ、重心が上方向にブレた男へと足払いを叩きこむ。しかし男もさるもの、即座に重心を下に落として体重差を利用して姿勢が崩れるのを防ぎ、伸びあがるようにして放たれる女のアッパーカットに対しそのまま体当たりを────

 

 田中陽斗(たなかようと)鵠別供花(くぐいべつきょうか)。同僚である二人が繰り広げる格闘戦を、あたしは目で追うことが出来ている。どんな攻防が交わされているのかを理解し、説明することが出来る。

 ただ、体だけがそれについてきてくれない。二人と同量の訓練しかこなしていないはずなのに、あたしだけが息を荒げて、ベンチから一歩も動くことすらできずにその模擬戦を眺めている。

 知らず、拳を握りこんでいたらしい。皮膚に食い込んだ爪の感触に顔を顰めて、ため息を吐いた。

 

「実際のとこ、八尋ちゃんの素質って僕と似通ってるんすよね」

 

 隣に振り向けば、直属の上司が座っている。困ったように眉を下げて笑みを浮かべるその姿は何も知らなければ可愛らしい少女にしか見えないが、これでも50を目前にしたアラフィフの男性だという。境対の誇る祓魔隊、その第八班を預かる彼もまた、基礎訓練の後にも関わらず息一つ乱していない。

 当然だ。班長の名を冠する以上、部下たる班員よりも弱いはずがない。あそこで二人が交わす高速格闘だって、このスピードとテクニックの鬼と比すれば児戯にも等しいのだろう。

 

「身体能力が人並みの代わりに、色々と器用で“奥の手”持ち! 違うのはほら、僕のが年季が入ってるってだけっす。だから」

「だから、焦らなくても良いって言いたいんですか」

 

 ぐつぐつと腹の底で煮えたぎるような感情が口から溢れ落ちて、すぐに後悔する。こんな自分を見せたいわけではなかった。こんな醜さを表に出したいわけではなかった。口をへの字に引き結んで、これ以上失言をしないように押し黙る。

 哀しそうに眉を寄せる班長の姿に、ずきりと胸が痛んだ。

 

「焦っても良いんすよ。同期の供花ちゃんがアレだけ動けるのを比べるなっていうのは正直無理な話っす。だけどね」

「焦った時ほど、自分の持っているものを見落としちゃダメっすよ。八尋ちゃんは、他人の長所にはよく気づくのに自分はおざなりにしがちっすから」

「ほら、僕に聞かせてくれっす。八尋ちゃんの考える、自分の長所は何かな?」

 

 あたしは、導くようなその問いに返す言葉を何も持たなかった。

 逃げるように見上げた視界は、どこまでも続く曇天に覆われている。重たそうに黒を抱えた雲達は今にも落ちてきそうな圧力を感じさせた。

 

「……分かりません。分かりませんよ、そんなこと」

 

 あたしはあの時、なんと答えるべきだったんだろうか? 

 その答えを持たないまま、あたしはいつまでも藻掻き続けている。

 

 

 

 

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 

 控えめに袖を引かれる感触に、はっと我に返る。ざあざあと真っ黒な雨を降らせる雲を見上げる内に、意識が過去に引きずられていたらしい。ぺちぺちと軽く頬を叩いて意識をはっきりさせると、出来る限り柔らかな笑みを浮かべて声の方向へと振り向いた。

 

「お姉ちゃんは大丈夫ですよ。ちょっと考え事をしてただけです」

 

 ほぼ同じ高さに存在する目にしっかりと視線を合わせると、心配そうな表情を浮かべていた少年がほっと息を吐く。ツーブロックに刈り込んだ茶髪は一見活発な印象を与えるものの、不思議と彼の利発な顔立ちを引き立てて歳に見合わぬ落ち着きを感じさせた。非常に遺憾なことながら飛びぬけて体格に恵まれないあたしと同じくらいの身長ということは高く見積もっても百四十センチちょっと。恐らくは、十歳かそこらといった所だろう。ため息を吐きたい気持ちをぐっと堪えて、不安を感じさせないようにその手を繋ぐ。

 

「雨、いつまでも止みそうにないですね。ここに居ちゃ濡れちゃいますから、どこか入れるお店を探しましょう?」

「……うん」

 

 戸惑ったように繋いだ手を見つめて、おずおずと頷く少年にひとまず胸を撫でおろす。まかり間違って不信感でも抱かれては彼の保護に支障をきたすだけではなく、場合によってはあたしの身も危険に晒されかねなかったからだ。

 

 アメコジキ。そんな名称のついた界異────ざっくり言えば、この世にあり得ざる超常現象、怪異の類のことだ────を祓うために祓魔隊第八班として出撃をしたはずだった。装備を揃え、作戦を共有し、連携と戦術を持って広域に“黒い雨”を降らせるこの界異を祓滅する。しかし、その段取りが初手で挫かれた現状には困惑する他ない。

 班に配備された車両に乗り込んで現場へと向かっていたあたしは、気が付けば見覚えのないバス停の前で立ち尽くしていた。その間の記憶はすっぽりと抜け落ちていて、何が起きたのか見当をつけることすら不可能だ。アメコジキにそんな芸当ができるとはブリーフィングでも説明された覚えがない。完全に原因不明の異常事態だ。

 加えて、あたしと同じように、隣でぼんやりと立ち尽くしていた少年の保護も急務だ。完全に一般人にしか見えない彼は自分に関する記憶すら持たず、あたし以上に状況に戸惑っている様子だった。

 

 正直に言おう。状況は、すこぶる悪い。

 アメコジキの降らせる黒い雨は“穢れ”を孕む。穢れは、人の肉体や霊魂にほぼ不可逆な侵害を齎し、人が人であるための根幹を揺るがす劇毒に等しいものだ。街中に降り注ぐ黒い雨に生身で触れるだけで人はあっという間に死ぬか、人ではない何かに変貌してしまうか、どちらかの末路しか残されていない。例外は、あたしのように生来的に耐性を持つような人間か、タクティカル祓魔師に支給される“狩衣”のような穢れを防ぐ装備を身に着けるか、だ。

 少年にはあたしの狩衣を着せて保護をし、あたしは素の耐性で穢れの侵蝕を防ぐ。とはいえ、あたしも他人よりは穢れに耐えられるというだけの話だ。あまり長時間雨を浴び続ければいくらあたしでも致命的な変異は避けられないだろう。屋根はあれど、風雨を防ぐ壁のないバス停から安全な場所を探しに行くのは、リスクを承知してでも取らなければならない必須行動だった。

 

「大丈夫、大丈夫ですからね。どこかに入れたらあったまれるものを探しましょう」

「うん。お姉ちゃん、寒いの? ぼく、我慢できるよ?」

「ああああ、お姉ちゃんは大丈夫ですからね!? それ脱いじゃダメですから!」

 

 黒い雨に打たれている真っ最中だというのに、せっかく貸した狩衣を脱ごうとする少年を慌てて押しとどめる。優しいのは良いことだけど、それ脱ぐと危ないって貸す時に説明したはずなんだけどな!? 

 

「でも」

「でもじゃないです! いいですか、それなしでこの雨を浴びるのは────」

「────お姉ちゃん、震えてるよ?」

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