少年の告発を受けた供花の体がぱしゃりと溶け崩れて、地面に降り溜まった黒い雨と同化する。あちこちの排水溝から黒い水が噴き出して、いや、それだけではない!
街中の地下から、道路から、空から、無数の雨が押し寄せ、ナニカの形に撚り合わさろうとしている────!
「な、な……なんなんですかこれぇ──ーっ!?」
「アメコジキ、だよ? 本当は、こんな姿だったんだね」
黒い水の塊は、次第に巨大な人型を模し始めていた。黒いドレスを着た、女性のような上半身。着衣の隙間から覗く肌は病的に白く、目元を隠す真っ黒なヴェールから逃れた頬には涙のマークのようなものが刻印されている。
足はなく、ふわりと開いたドレスのスカート部にはたっぷりの黒雲が蠢いて、軽やかに中空を舞っている。豊かな胸元に煌びやかな金の装飾を施された丸い瓶がたくさん抱え込まれていて、その内部で黒い液体がゆらゆらと揺れていた。
五号級界異、“アメコジキ”。その威容は街の摩天楼を容易に覆い隠し、文字通りの暗雲を持って、ちっぽけなあたし達を見下ろしている。
「なんっ、なんで、供花が!? 何がどうなってやがるんです!?」
「お姉ちゃんが知ってる“供花さん”は、初めからここには居なかったんだと思う。供花さんは、ぼく達と同じじゃないから」
やけに落ち着いたままの少年へと振り返る。そうだ、供花は『同じじゃない』……それは、ついさっき聞いた言葉だった。自然体のままでいる供花は、あたし達にみたいに無理をしてないから、みたいな意味だと解釈していたけれど、間違いだったのか?
「同じじゃないって、何がですか。何を知ってるんですか、少年……!?」
「ぼくがアメコジキに取り憑かれているってこと、お姉ちゃんがぼくと同じ悲しみを持っているってこと、ここが現実じゃないってこと」
羅列される情報を、どうにか頭にぶち込んで状況の咀嚼に努める。アメコジキは誰かの悲しみに寄生して現れる、それは分かる。だけど、後者の二つは、一体何を言ってるのか理解が追いつかない。
「ぼくに取り憑く時に、アメコジキが教えてくれたんだ。黒い雨の内側は、ぼくの悲しみでつくられるって。
「どうしてそれを、黙ってっ」
「逆らえると思うの? こんなバケモノ相手に」
街を見下ろすアメコジキの放つ穢れと圧は、今まで見てきたどんな界異よりも恐ろしく、濃密な重さを伴って街へと降り注ぐ。意識して抗わなければ否応なく視線を奪われ、思考すらも止まってしまう程に存在の格が違う。
無理だ。これに迫られては、逆らえるはずがない。立ち向かえるはずがない。これ程の存在感を放つ存在は、それこそ、一度だけ知覚したことがある“神”の────
自分の頬を張って、無理やり思考を止める。それ以上は不敬であるし、不遜だ。屈する理由を並べ立てるだけの思考ならば、いっそ無い方が良い。
とはいえ、少年が積極的に行動できなかった理由は分かった。これに目をつけられて、一人で抗えと言うのは無茶な話だろう。責められるはずがない。
細かく震える手でどうにか弓を構え、アメコジキに向けて構える。視界を覆いつくさんばかりの圧倒的な巨躯に、光を放つ加護の矢は縫い針よりも小さく見えた。
黒い豪雨が降り注ぐ中、悠然と空を飛ぶ黒の淑女を前にちっぽけな人間達がそれぞれの獲物を構え、睨み据えていた。
アメコジキはそれに対し、さして興味を向ける素振りもない。この圧倒的なサイズ差を前に、何ができるものかと見下しているようですらあった。
「良いっすか、皆。アメコジキは五号級にしては直接戦闘力は低い方っすけど、それでも存在強度は飛び抜けている。僕らだけで削り切れるとは思わない方が良いっす」
「本来は、そこをどうにかする決戦火力を市倉さんが担当するはずだったんですよね?」
拳やドデカイ蛹型の縁起で武装する面々の中、銃器を携えて逆に異彩を放ってしまっているサイボーグ、田中陽斗の言葉に、第八班長が頷いた。
「その通りっす。八尋ちゃんの“奥の手”は、リスクや制約が多くて取り回しが難しい分、基本的に一撃必殺っすから」
「でもそれは、第八班がアメコジキの対処を担当する場合、でしたよね? その、他の方達は……?」
控えめに手を挙げた眼鏡の青年────花田桂吾だ。田中とは装備傾向が似ているためか仲が良く、今回も組んで任務に当たっていた────の疑問に、第八班長はにやりとした笑みを返す。
「そこはなんとか無理を通してうちの担当ってことにしたっす。まー、あとで色々怖いっすけど、うちの部下の命がかかってるっすからね」
「職権濫用じゃないんですかねそれ。どんな手を使ったんだか」
「ふっふっふ、それは企業秘密っす」
「企業じゃないでしょ、ウチは」
呆れたような目で肩を落とす蒼髪蒼目の九条雅人にはおどけた様子で緊張を解かせる。小器用なオールラウンダーである彼には今回、自分の補佐についてもらうつもりでいた。
「班長! 私の“奥の手”ならなんとか────」
「────絶対にやめるっすよ鋼嶺ちゃん!? ワンチャンどうにかなる可能性があるってのがヤバいっす、八尋ちゃんが死ぬから!」
「八尋ちゃん死んじゃうんですか!?」
「え、市倉先輩死ぬんスか!?」
「あの、君達……え、これもしかして僕が説明忘れてたんすかね……?」
長身のパワーファイターコンビこと那智鋼嶺と紫原大和の反応にがっくりと肩を落としながら、この場にいる面々をもう一度見回す。
第八班長を含め、総勢七名。それが今回アメコジキと直接対峙する戦力であり、黒い雨の対処に散った第八班の中でどうにか搔き集められた戦力だった。
「繰り返し言うけど、僕達の役目は『削り』と『時間稼ぎ』っす。対策本部にはかなめちゃんを残してるっすから、そこから八尋ちゃんが目覚めたって連絡が来ればそのまま他の班と連携して決着をつける手筈っす。張り切りすぎてガス欠しちゃダメっすよ?」
「分かってるって班長! あいつが八尋ちゃんを眠らせてる原因なんだよね? 他人様のともだちを勝手に奪いやがって、
「
やたらとキレの良いシャドーボクシングを披露しながら、鵠別供花が気炎を上げる。対アメコジキ祓魔戦、その決戦の火蓋が、現実世界でも切って落とされようとしていた。
輝きの矢が放たれる。真っ白な肌にわずかな傷がつき、瞬きの間に再生する。
輝きの矢が放たれる。矢に括りつけられた二本の筒が爆発を起こし、呪詛と加護をばらまくがその怪物の放つ穢れは
輝きの矢が放たれる。黒雲の中に吸い込まれていった輝きは、二度と姿を現さなかった。
通じない。意味がない。持ちうる手札の全てが児戯と言わんばかりに無視されて、事実それらでは何の痛痒すら与えられていない。
対して、あたしは数分の攻防────いいや、一方的に攻め立てているのを無視されているのだから攻防ですらないというのに、すっかりと息が上がっている。黒い雨があたしから体温と体力を奪い去り、その身に含む穢れによって既に形代が一枚散ってしまっていた。
『ドうしテ、抗ウノ?』
ひび割れたような声が、頭に響く。今までこちらを一顧だにしてこなかったアメコジキが、ようやくあたしに視線を向けていた。
「哀れまれる相手を選ぶ権利くらい、あたし達にだってあるんですよこのバーカ!」
べえ、と舌を出しながら顔を狙って放った矢はしかし、払う仕草すらなく穢装に阻まれて消滅する。黒い雨が降り積もる程にアメコジキの放つ穢れは濃度を増し、とうとうあたしの攻撃はかすり傷ひとつ付けることすら難しくなってきていた。
『身ヲ委ねなサイ、あナたの分も、泣いテあゲる』
その言葉には、嘲笑があった。侮蔑があった。どうせ何もできないくせにと見下す、傲慢があった。そうだ、こいつは笑っている。他人の悲哀を、慟哭を踏みつけて、利用してやがる。
そんな理不尽に、あたしは屈するわけには行かなかった。怒りを焚べて、恐怖を、絶望を塗りつぶす。懲りずに弓を構えるあたしに対し、アメコジキは哀れんだような笑みを浮かべ、胸元に抱えた瓶を一つ地面へとこぼれさせる。
カシャン、と軽い音が鳴ってぶちまけられた黒い液体が、誰かのシルエットを象る。独特なステップに、顔の前に構えられた両拳。ボクサーの構え。鍛え上げられた上裸を惜しみもなくさらけ出すその小柄な体は、間違いない。
「班長……!?」
悲しみを謡うモノが手掛ける、人形劇が開演する。