「はい。……はい、なるほど。いえ、十分参考になったっす。また今度お礼に伺うっすよ」
ともすれば少女のようにも見えるその男は通話を終えると、険しい顔で室内へと振り返った。
男は、境界対策課祓魔隊第八班を預かる班長である。アメコジキの祓滅のために設置された対策本部のテントの中には、今は彼と数人の職員しか残っていなかった。前線に出られる班員は皆、黒い雨によって発生したり、引き寄せられたりする界異の対処に出払っているのだ。
「班長、どちらへお電話差し上げていたのですか? 状況わかってますかぁ?」
そこに声をかけるのは黒帽子を被り顔を隠した、神秘的な雰囲気を纏う女性職員だ。彼女の名前は、八乙女かなめ。救護を担当する後方要員のために本部で待機を命じられている関係上、どうにも手持無沙汰でそわそわと体を揺らしている様子が見える。
「縁起管理部の御縁さんっす。あの人ならワンチャン何か知っててもおかしくないっすからね」
八乙女の刺々しい言葉を気にすることもなく、第八班長は言葉を返す。彼女のセリフが無暗に攻撃的に変換されて発されるのはいつものことであるから、慣れ切っていた。実際の所は気弱で心優しい性格であるから、今のセリフも翻訳すれば『何かわかったことはありますか?』と言った所だろう。
「縁起管理部の? アメコジキが縁起になった例があるとは聞いた覚えがありませんけどねぇ」
「そりゃ実例はなかったみたいっすね? ただ、検討されたことはあるらしいっす」
縁起とは、儀式や祭具、契約によってヒトに従わせた界異のことを指す。故に、八乙女は疑問符を頭に浮かべた。ヒトに取って猛毒となる雨を降らせるアメコジキはどうやっても人間社会に仇を成してしまう。縁起になる余地など、ないように思えるのだ。
「知っての通り、アメコジキは『人の代わりに空が泣く』という概念が軸になっている界異っす。だから、人の悲しみに寄生する形で出現する。ほら、いかにもカウンセリングとかに使えそうじゃないっすか?」
「まあ……言葉の上ではそうですねぇ。でも、そのためにこーんな黒い雨を降らされちゃったら本末転倒じゃないですかぁ?」
「そーなんすよねえ。だから戯言と一蹴されて終わった話なんすけど、ここで大事なのはアメコジキが本質的に『悲しみに寄り添う』界異だってことっす」
第八班長はため息をひとつ吐くと、テントの片隅に設置された簡易ベッドの方へと足を向ける。八乙女もそれに従い、そこに眠る小柄な女を見下ろした。
「アメコジキが寄生した悲しみに深く共感したものは、その魂を囚われる。その悲しみの内側に、黒い雨の内側に」
「……こうして眠ってる、八尋ちゃんみたいにですか?」
第八班長はゆっくりと頷いて、頭を掻いた。アメコジキの出現が予測された現場へと向かう車両の中、到着を目前としたタイミングで部下の一人である
「そもそも魂を囚われるまでなるには、相当深い共感……というか、共通項が必要らしいんすけどね。この話も前例が少なすぎるせいでデータベースにも乗ってない、御縁さん本人の経験則と仮説らしいっす」
「……信用していいんですかぁ? それ。これで死んだら八尋ちゃん、そーとーかわいそうですよぉ?」
「といっても、手がかりこれしかないっすからねー。それに御縁さんの経験なら信じる価値あるっすよ、あの人少なくとも三桁は生きてるっすから」
なんせ、タクティカル祓魔師がタクティカル祓魔師として成立するはるか以前から生き続けている文字通りの生き字引だ。吟味は必要とはいえ、端から疑ってかかるにはその経歴は重すぎる。
「なんにせよ、厄介なことになったっすね。魂を囚われたままアメコジキを祓滅しちゃうと八尋ちゃんまで一緒に死んじゃうらしいっすから」
「……もー、本当にしょうがない人ですねぇ? 私に治せない攻撃を受けるなんて、死にたいんですかぁ?」
こんこんと眠り続ける八尋の頭を、八乙女が優しく撫でる。八乙女の顔が見えないせいで、こうしているとまるで姉妹のようだった。実際の所は八尋の方が年上であるし、なんなら八乙女は未だに二十歳を迎えていなかったりするのだが。
いざとなれば、対界異の専門家として、世の安寧を守る公的組織の一員として、非情な決断を下さなければならないだろう。降り続ける時間が長期化すればするほど界異を生み出し、引き寄せ、被害を拡大し続ける黒い雨を放置するリスクと、高々一名のヒラ祓魔師では天秤が釣り合わない。だが、ギリギリの瀬戸際まで最善を目指して足掻かず、安易に安全策を取ることにも決して納得できないタチであるのも第八班長だった。
再び足を動かして、種々の機材を避けるように設置された休憩スペースの椅子を引く。
「念のために居てもらう形だったんすけど、すいませんね。状況が変わったっす。どうやら、あなたの悲しみを祓わなければアメコジキは祓えない」
テーブルに置かれたポットからお茶を注ぎ、対面に座る男にも差し出して、それからまっすぐと視線を合わせ、真摯に語り掛けた。
「プライバシーを守る権利はもちろんあるっす。でも、どうか……教えてください。あなたの抱える、悲しみを────
明るい茶髪を卑屈に揺らし、小さな班長を畏れるように見下ろして、アメコジキの宿主は頷いた。