走って、走って、走って。すぐに息の切れる自分の体への苛立ちに拳を握り締めて、立ち止まる。悲しみと、怒りと、困惑がめちゃくちゃにぶちまけられた心中に名状し難い違和感が混ざり込んでうまく整理することができない。
何だ。あたしは何に違和感を覚えている? 供花に、少年に、自分自身に感じる違和感を言語化できない。言語化できないから、いつまでも消化できずに苛立ちばかりが募っていく。
供花はあんなことを言う奴だったか? あたしはこんなに怒りんぼうだったか? 少年は、どうして供花を警戒していたんだ?
違和感を、そこから先に進めることができない。単純な情報の不足でわからないことと、あたし自身の目が曇って気づけていないことが混在しているような感覚がある。
言葉にならないうめき声をあげながら頭を掻き毟った所で、不意に視界の端を影が過った。
「……少年?」
人影、だった気がする。思わずその方向へと視線を合わせると、通路の向こうで何かが角を曲がっていったのが見えた。
その後を追いかけるが、しかし角を曲がっても何もいない。ただ、シャッターの下ろされた店が立ち並ぶ廊下が続くだけだ。気のせいだったのかと踵を返しかけると、再び向こうの角を曲がる影が視界を掠める。
気味が悪い。明らかに、こちらを誘うような現象だった。可能なら慎重な対処を図りたい所だが、少年が単独行動になってしまっている現状ではこのまま調べに行く以外の選択肢がない。
周囲を警戒しながらつかず離れず誘導してくる影を追うと、フロアの中央に位置する休憩スペースへと辿り着いた。壁際並べられた自動販売機の側には円形のソファーが複数配置され、辺りを見回すだけで四方に広がる店を一望できる造りになっている。その一角には七夕飾りが目立つように設置されており、短冊に願い事を書いて括りつけるスペースも用意されているようだった。七夕飾り間近のソファーに、小さな背中が蹲るようにして座っている。
「……少年、こんな所に居たんですね」
何と声をかけるべきか迷って、結局口に出したのはそんな言葉だった。少年は弾かれたようにこちらに顔を向けて、気まずそうに目を逸らす。先に見せた能面のような顔からはかけ離れた、人間臭い表情だった。
口をもごもごさせて何も話せないままでいる彼の隣に腰掛けて、こちらから声をかけることに決めた。彼を置いて調査に赴くのには頷けないが、彼に不審な点があるという指摘は、至極真っ当なものだったからだ。
本当は、供花が口にした案が正しいのだと思う。何もかもが定かでなく、脅威だけが降り積もっていく現状で不穏な要素はできるだけ排除して進むべきだ。理屈はわかるが、それは……なんというか、
「少年、今さっき、こっちに誰か来ませんでした?」
「ううん、誰も、来てないよ?」
首を横に振る少年の姿に嘘は感じられない。あたしをここに連れてきた影の気配は、確かに感じられなかった。あたしを少年の元に連れてきたかったのだとするとまた怪しくなってくる。一度生まれてしまった猜疑心がむくりと鎌首をもたげるのを嫌悪しながら、少年と言葉を交わすことを優先する。
「さっきは、すいませんでした。供花とばかりお喋りしてほったらかしにしてしまって、嫌でしたよね」
「謝らなくっても、良いよ。大事なお話だったんでしょ?」
利口な子だと思う。こちらの事情を汲んで、自分の不満を殺して、良い子であろうとしているようにあたしには見える。ただ、それにこちらが甘えてばかりでは何か、致命的なことになってしまう気がした。
「大事なお話であることと、少年を仲間はずれにしちゃうことは別の問題ですから。だから、ごめんなさい」
「……だったら、ぼくも、ごめんなさい。勝手にひとりで走り出しちゃって、ごしんぱいをおかけしました」
妙に大人びたその言葉に肩をすくめて、それからぽんと少年の背中を叩く。これでおあいこですね、と笑ってみせれば、少年もようやく緊張の抜けた笑みを返してくれた。
「ねえ、少年。嫌だったら話さなくても良いんですけど、聞いても良いですか?」
「うん、良いよ。嫌だったら話さないけど」
わざとこちらの言葉を繰り返して悪戯っぽく笑う少年は思ったよりも良い性格をしているのかもしれない。あちらからの歩み寄りを感じて、あたしも踏み込む覚悟を改めて固める。
「どうして、供花は“お姉ちゃん”じゃないんですか?」
その質問に、少年は迷ったように口を開いて、閉じて、それからあたしをじっと見つめてきた。彼の手は胸元のあたりで握りしめられていて、その緊張を窺わせる。
「供花さんは……同じじゃないから」
「同じじゃない?」
返答の要領を掴めずに、おうむ返しにしてしまう。すると少年は膝を抱え込んで、こちらの様子を伺うように見上げてきた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。ぼく、嘘ついてた」
「嘘って……どんな嘘ですか?」
「ぼく、ちゃんと自分のこと覚えてるんだ。記憶を無くしてなんかない」
息を呑んだ。単純な虚偽────その可能性は頭からすっかりと抜け落ちていた。思いつきすら、していなかったのだ。
「……なんで、そんな嘘を?」
「ぼく、もうおとうさんにもおかあさんにも会えないんだ」
死んじゃったから、と呟く少年の話は随分と唐突に思えたが、あえて口は挟まないことにした。少年の視線はいつしか中空を彷徨い始め、自分の思考の中に入り込んでいたように見えたからだ。整理して、言語化をするのには本人にしかわからない順序を踏まなければならないこともある。
「ぼくには……兄弟がいるんだ。兄とか弟とか、そういうのを飛び越えて“もうひとり”の自分だって思えるくらい大事な兄弟」
「そっか。その御兄弟とは、仲が良かったんですね」
「うん。あいつも、ぼくのことを好いてくれてたと思う。だけど」
ぎゅっと、抱えた膝の間に顔を埋めて、囁くように言葉が繋げられる。
「ある時から、あいつばかりが周りから注目されるようになった。それはぼくのしたことが原因だったんだけど、ぼくはそれが妬ましくて、悲しくて」
「いっそ、消えたくなってしまった?」
その言葉は、意図しないままに滑り出たものだった。言う気のなかったはずのそれが、驚くほど滑らかに喉から溢れ出てしまったのは、彼の気持ちが嫌というほどに分かってしまったからだ。
比べられること、自分が比べてしまうこと。欲しいものを手に入れている誰かが、誰よりも近くにいるその事実。その苦しさなら、きっと、あたしは誰よりも分かってしまう。
「うん。だから……だからぼくは、自分の名前を言いたくなかった。誰でもないぼくで居たかった。だって、だってお姉ちゃんが」
「あたしが?」
「お姉ちゃんが、ぼくに『大丈夫』だって言ってくれたから。お姉ちゃんだって怖がってたのに、ぼくのために、無理をしてくれたから、ぼくも頑張れる自分で居たかったんだ」
疑問が繋がる。少年の話に、答えを見出していく。
結局、あたしの行いがあたしに返ってきていただけだった。あたしが無理をしてでも少年を助けようとしたから、少年も無理をしてあたしを助けようとしていただけで、そのためには少年は名無しの自分で居た方が心情的に楽だった、ということなのだろう。
何をやってるんだ、あたしは。
きちんと話し合うこともなくあれこれ疑って、勝手に疑念を見ないふりをして、それを暴かれたら今度は供花に八つ当たりか。ああ、なんてみっともない。
八つ当たり、そう、八つ当たりか。そうか、なんであんなことで供花に当たってしまったのか、ようやく理解した。
あたしは、あたしにとっての善性を供花に託してしまいたかったんだ。あれこれ疑ってしまうあたしには不可能な、ただまっすぐと子供を信じる心根をあの明るく自由な女に体現していて欲しかった。その理想から外れた途端に理不尽な怒りを押し付けて、本当に悪いことをしてしまった。
吐きかけたため息を噛み殺して、少年を抱きしめる。目を白黒とさせる彼を落ち着かせるように背中を一定の間隔で叩きながら、あたしも口を開く。
「あたしもね、もう両親に会えないんですよ」
「……お姉ちゃんも?」
「はい、あたしも、です。母も、父も……あたしを庇って、死んじゃいましたから」
その光景は、いつまでも目に焼きついている。界異のもたらした超常の火に囲まれたあの時、両親は穢れた火にあたしを触れさせないように、文字通りその身を盾にしてあたしを守ってくれた。肉を焼かれ、魂を汚染され、想像を絶する苦痛の中にあってなお、子供だったあたしを守ることを止めなかった。
「あたしが頑張れるのは、誰かのために頑張れることが尊いことだと分かっているからです。命を擲って頑張ってくれた両親に胸を張れるように、頑張ってるだけなんです」
だから、と言葉を繋げて、抱きしめる力を強くする。健気に頑張ったこの子を肯定するように、確かに君がここにいることを示すように、温もりを分けてあげられたら良いな、なんて。
「君は、もっと君を受け入れてあげて良いんですよ。あたしのために頑張ってくれた君は、誰が何と言おうとすごいんですから」
じわりと、胸元に熱く滲む感覚がする。声を上げて泣き始めた少年の悲しみを受け止めながら、今日はよく濡れてしまう日だなあ、なんて呑気な思考が過る自分が少しおかしくなった。
「あとで、一緒に供花に謝りに行きましょうね。供花も良くないからかい方だったって反省してましたから」
少年の頷きを見届けて、ふと視界に映った七夕飾りを見上げる。
幾人もの願いを受け止めるその祈りの器は、少年の悲しみまでもを抱擁するように静かに揺れていた。