冥界の白玉楼へ向かう道には、長い長い階段がある。
一体何段あるのかは誰も知らないし、
実際目にした者は数えようという気も起きないだろう。
どこぞの九尾ならば知っているのかもしれないが。
「うへえ……」
その一番下で、小町はげんなりしていた。
見上げても果てが見えない階段は見るだけで疲れる。
とてもではないが上がっていく気がしなかった。
「あー……ま、ここまで案内すりゃあいいだろ」
パッと、握っていたシルバーチャリオッツの手を離す。
小町の温もりが薄らいでいく手を、シルバーチャリオッツは名残惜しげに眺めた。
彼のその行動には気づかず、小町はすっと階段の上を指差す。
「ここをまっすぐ上っていったら、お前が世話になるお屋敷につく。
名前は白玉楼。多分見張りを兼ねた庭師がいるから、
そいつに言って案内してもらってくれ」
それだけ告げて、ふわりと浮かび上がる。
「じゃあな、あたいはもう帰るよ。またその内に」
ひらひらと手を振って、何処へともなくその場を後にした。
おそらく、何処かで適当に時間を潰すつもりに違いない。
一人残された彼は、ただ押し黙り、階段をふり仰ぐ。
この先にあるという屋敷は、遠く霞んで見えない。
ひとまず上らなければいけないだろう、と階段に足をかけた。
かちゃり、と鳴る足音。足の裏に伝わる感触。
数段上がっていく内に、体のどこかがきしみ始める。
その痛みに足を止めた。
銀色の兜の内に響いてくるのは、遠い昔に聞いた声。
『逆に……たければ……足をあげて【階段】に……』
『その【階段】に……オレは……! 貴様は……!』
ダメだ、と彼の精神が警鐘を鳴らす。
階段に、足をかけて、上っては、いけない。
衝動に突き動かされるままほんの少しだけ宙へ浮かぶ。
足を動かすことなく、風に流される風船のようにゆるやかに階段を辿る。
上ったはずなのに、気づかぬ間に降りていたら嫌だ、と思う。
下にいたはずの誰かが、気づかぬ間に上ってきていたら嫌だ、と思う。
それはかつての恐怖の記憶。けしてぬぐえぬ記憶。
「……む? この気配は……?」
白玉楼の庭師、魂魄妖夢はこちらへ向かってくる奇妙な気配を察した。
冥界には本来幽霊以外は訪れない。
楽園の素敵な巫女や白黒の魔法使い、瀟洒なメイドなど一部の人間は、
以前主が起こした『とある事件』以来ときたま遊びに来るようになっていたが。
「幽霊でも、ましてや人間でもない……、妖怪の類、か?」
今まで庭を掃いていた箒を側にあった木に立てかけた。
背中の鞘から二振りの刀を手に取る。
右手には迷いを斬る刀、白楼剣を。左手には幽霊を斬る刀、楼観剣を。
「まあどちらでもいい! 斬れば分かる!」
意気込んで飛び出そうと、足元に力を込める。
「相変わらずね、妖夢……」
彼女の声を聞きつけ、部屋の奥から一人の女性が現れた。
この白玉楼の主、西行寺幽々子その人である。
何処か呆れたような声を出していることに、妖夢は気づいていない。
「あ、幽々子様! 今から怪しい奴を斬ってきます!」
たんっ、と地面を蹴り、勢いよく飛び出していく。
「んもう、人の話を聞かない子ねえ、相変わらず」
口元に扇を当てて、くすくすと笑いながら妖夢を見送った。
「まあ……面白いことになりそうだけど」
階段も半ば過ぎ、ようやく上が見えてきたか、という辺り。
シルバーチャリオッツは上から来る気配に身構えた。
咄嗟に右手に剣を具現させる。彼と同じ銀色をしたサーベルだ。
「……何だ、お前は!」
そこに現れたのは一人の少女だった。
色素の薄い銀の髪。蒼空の色をした瞳。
その色合いに、ほんのわずかシルバーチャリオッツは動揺する。
少女はその動揺を感じることなく、二振りの刃を持って彼を睨み付けている。
「幽霊? 妖怪? 人間じゃあないみたいだが……」
少女は怪訝そうに彼を見やった。気配を感じる限り、幽霊ほど薄くなく、
妖怪ほど濃くもない。しかし見た目では決して人間とは思えない。
「よく分からないけど斬る!」
なので、一番手っ取り早い方法で確認することにした。
まずは間合いを取った方がよさそうだ、と白楼剣を鞘に戻す。
楼観剣を振り被り、段差による高度の差を利用して上段から振り下ろす。
がきぃん、と音を立てて、チャリオッツは咄嗟にその刃を防いだ。
「中々やるな! この白玉楼に何用か!」
問いかけに返事はない。当然だ。彼は喋れないのだから。
「あくまで黙秘か! ではいい! 斬れば分かる!
真実は目では見えない、耳では聞こえない。だから、真実は斬って知る!」
一旦距離を取り、再び振りかぶって打ち込んでくる。
今度はほぼ同じ高さにいるが、妖夢の方が背が低いため、
下から切り上げる形で剣を振るう。
早いが、反応できない速度ではない。
キィン、とぎりぎりの所で再び受け止めた。
「くっ……!」
全体重をかけて押しこむ妖夢。しかし体躯に見合った軽めの体重では押し切れない。
「重さでも速さでもダメ、ならば、技で!」
バッと後方へ飛ぶと懐から一枚のカードを取り出した。
何事か、と警戒を緩めず、チャリオッツは彼女の動きに注目していた。
「『魂魄 【幽明求聞持聡明の法】』ッ!」
カードが光を放つと同時に、彼女の傍らの半霊が一瞬で姿を変える。
「二人分の攻撃を、捌けますかっ?!」
彼女が刀を振り下ろす。彼女の姿をした半霊がそれに少し遅れて同じ動きをする。
本能的に、チャリオッツは妖夢の攻撃だけを防ぐ。
その判断は正解だったと思っていいだろう。
楼観剣は幽霊が鍛えた、切れぬものなどあまりない刀である。
比較的幽霊に近い存在であるチャリオッツ自身が受ければ、
相当深いダメージになっていたことが予測できる。
ただし、半霊の剣撃は彼の腕を切り裂く。
血こそ流れないが痛みはある。その痛みに耐えるように彼の目元が歪む。
詰め寄った妖夢は、そこで初めてまじまじと彼の目を見た。
青い瞳は、ただ困惑に揺らいでいるばかり。
おかしい、と思った。そもそも、こうやって斬りあえば分かるが、
彼の剣の腕は並大抵のものではない。
おそらく、自分と並ぶか……あるいは、それ以上。
だからおかしいのだ。本当に敵意があれば、もっと打ち込んでくるはず。
何故なら、彼の手にしている片手剣は、素早さを重視する際に使われるもの。
反面、長期戦に向いているとは言いがたい。
本当に敵対する意志があるなら、もっと速く、多く、打ち込んでくるはずである。
「……ひょっとして、攻撃の意志は、ない?」
そこに至ってようやく、彼女は自身の思い違いに気づき、刀をひいた。
術は時間切れとなっており、半霊はまた元の人魂に戻り傍らに浮かんでいる。
妖夢の言葉にチャリオッツは首を縦に振る。
「ええー、じゃあ何しに来たんですか?」
拍子抜けして、思わず叫んでしまった。
「私達の手伝いをしに、よ」
階段の上から、声がした。
「え? どういうことですか、幽々子様?!」
驚きながら、声の主に問いつつ、後ろを振り向いた。
チャリオッツもつられてその声がする方を見上げる。
桜色の髪をし、薄水色の衣装に身を包んだ女性がそこにいた。
女性――幽々子はにこにこと笑いながらチャリオッツに近づく。
「あ、危ないですよ! 何者かも分からないのに!」
「大丈夫よ、閻魔様から話を伺っているから。
あなたが、シルバーチャリオッツね?」
こくりと頷き、手にしていた剣を腰に戻す動作をする。
「シルバーチャリオッツ? それがそいつの名前ですか?」
「ええ、そうよ。彼はスタンドというらしくて、
分かりやすくいうと、あなたのソレと似たようなモノ」
扇の先で、すっと妖夢の傍らにある半霊を指し示す。
「生命エネルギーの具現、魂の像、精神の具現。それが彼」
「はぁ」
よく分からない、といった風に妖夢はあいまいな声を出す。
「彼の半身は、未だ外に留まったままらしくてね。
しばらくウチに置いといてくれ、って頼まれたのよ」
「な、何でそれならそうとおっしゃってくれなかったんですか!」
「言う前にあなたが飛び出したんじゃないの」
「うぅ……」
二人の間で交わされる会話を、チャリオッツはただじっと聞いている。
「そうそう、彼は喋れないから問いかけてみても無駄だったわよ。
まったく、あなたったらまだまだね」
「精進します……」
しょんぼりと落ち込む妖夢。チャリオッツはそんな彼女に近づいた。
金属で出来た手の平を、彼女の頭に乗せ、よしよし、と撫でる。
「ば、馬鹿にしないでください!」
思わずその手を払いのけて、見上げた。
「あ……」
その青い右目が、何処か寂しげに悲しげに揺らぐ。
「もしかして、慰めてくれようとしたんですか?」
「どうやらそうみたいねえ」
傍から見ていた幽々子はおかしそうに口の端を歪める。
一応、閻魔から彼の――厳密にいうと彼の半身の――生い立ちについては聞いている。
女性に……特に少女に優しくするのは、当然でしょうね、と心の中で呟いた。
「それじゃあ、とりあえず行きましょうか」
「あ、は、はい! あなたも、来てください!」
幽々子を先頭に、一行は階段を上っていく。
「じゃあ、改めまして。白玉楼へようこそ。ここの主、西行寺幽々子よ」
白玉楼の縁側に腰掛け、幽々子は微笑む。
「こっちが、魂魄妖夢よ。剣術指南と、あと庭師をやっているわ」
「先ほどは失礼しました……」
その隣で妖夢が慌てて頭を下げる。
それにつられてチャリオッツも頭を下げる。
「あら礼儀正しいわね。流石は騎士ね。で、あなたのこれからだけど。
妖夢、あなたこれから彼と一緒に仕事をしなさい」
「はい! って、ええ?」
返事をしたものの、意表を付かれて素っ頓狂な声をあげる。
「彼は、戦う以外にあんまり出来そうにないからねえ。
まあ、弱くもないし、あなたの訓練の相手にもなるからいいんじゃない?」
「わ、分かりました。ええっと、それじゃあよろしくお願いしますね」
妖夢にそう言われ、チャリオッツは首を縦に振る。
言葉を発せない彼はボディランゲージでしか意志を伝えられない。
「えーっとそれじゃあ私はこれからどうすれば」
「そうねえ……、ああそうだ。そこの木の枝がちょっと伸びてるから斬って」
「いやそういうことじゃなくて……」
幽々子の示したのは常緑樹と思しき低木であった。
ふと、シルバーチャリオッツは思い描く。
ここでお世話になるのだから、一つくらい特技を見せてもいいだろう、と。
ちゃきん、と音を立て剣を手にするとその木の横に立った。
「あの、シルバーチャリオッツ?」
彼女達に向けて一礼すると木に向き直った。
枝を、葉を瞬時に斬り落としていく。
「速い……ッ!」
その剣の速さに妖夢は目を丸くする。
本気で戦ったら勝てないかもしれない、と感じた。
一瞬の剣撃の後に、そこにあった木は
「あら可愛い」
ウサギの形になっていた。