プロローグ
桜は綺麗かな。
そう思ったから、近所の土手に出かけて、桜並木の木をしたから見上げた。
近くで見てみると、桜はそんなに綺麗でもなかった。
ただの小さな花びらの集まり。
薄い色をしていて、香りなどなかった。
報われないな、何もかも。
そう笑って足元に目を向ければ、包帯に包まれた脚。
車椅子のホイールを回す。せっかく最後の外出だけど、もう帰ろうと思った。
風が吹く。
花びらが舞って、桜吹雪になる。
その中を俯きながら進んでいった。
桜のように、誰かに夢を──。
そう夢想した人物は、今年の桜が散るより先に散っていった。
◆
【現代 トレセン学園】
「すみません、ライスさん」
手伝って頂いて、とそのウマ娘は続けた。
本の整理をしながら2人のウマ娘の耳が揺れる。
場所はトレセン学園の図書室。
時刻は夕方。
茜色の西陽が図書室を染めていた。
赤色の装丁も、青色の装丁も全て等しく。
外からはトレーニングをするウマ娘たちの賑やかな声が少し減衰しながら響いてくる。図書室は外界から隔てられたように静かだった。
「ううん、いいの。ライスもお世話になってるから」
黒鹿毛の少女は首をゆるゆると振った。
そしてちょっとはにかんで、また机の上の本を手に取った。
木製の
ゼンノロブロイは、本来であれば図書委員の仕事を同部屋のライスシャワーに手伝わせている事への申し訳なさに耳を垂らした。
「それにね」
スッ、とまた一冊、凝った表紙の植物辞典を棚に差し込みながらライスシャワーは呟く。彼女らしい、柔らかな声色だった。
「脚を悪くしてる委員長さんに無理はさせられないから」
「ありがとうございます、ライスさん」
ゼンノロブロイは頭を下げた。そうして必ずこの優しいウマ娘へのお礼をしようと誓った。最近気にしていた絵本をプレゼントするのも良いかもしれない。しかし、その思考はライスシャワーの怪訝な声に中断される。
「あれ?」
「どうしましたか?」
ゼンノロブロイは持っていた本を戻すと、首を回してライスシャワーの方へ向き直った。ライスシャワーは手に持った本を不思議そうにくるくる回していた。
「この本、ラベルがない?」
通常、図書館や図書室にある管理された本は背表紙に管理番号等が書かれたラベルが貼られている。それがどの本がどこにあるのか、本の居場所を示す物になるし、整理もこれを使って行なっていた。
「えっ? ちょっと確認させてください……本当ですね」
それが貼られていないとなれば、管理されていないという事を示す。
何かの拍子に剥がれたか、それとも元々管理外の本が紛れ込んだか。ゼンノロブロイはぼんやりと思いつく可能性を頭に列挙していた。
「すっごく古そう」
「はい、稀覯本のように見えますね」
所々が日に焼け、擦り切れ、それでもしっかりと本の体裁を成している古い本だった。見方によっては、それこそ展示されるような古さの。
「ろく、じつ……?」
薄い青の装丁。
その中央に白枠があり、ライスシャワーはそこに書かれた文字を読み上げた。
読み上げた本人は不思議そうな顔をしていたが、ゼンノロブロイは何かに気がつくと「あっ」と小さく声を上げた。
録日 ろくじつ。
ではなく、逆読み。
「
この書き方といい、時代を感じさせる風体といい、相当長い年月がこの本に過ぎたのだと分かる。
ゼンノロブロイはそれを裏付けるように証拠を探す。
丁寧な手つきで長年、旅をしてきた本を愛おしむように本をひっくり返すと、裏には墨のようなトーンで文字が書かれていた。
一
九
四
◇
年
やはり、古い。
それにこの年代は、と少し目を瞑った。
そうしてゼンノロブロイはペラと、一枚表紙を捲った。
何故かはわからない。
ただ、何かに誘われるように、読まなければならないと本能が言うように。この本の発する静かで年が重積した重さがそうさせた。
本の肝心は出だしだという。
つまりは書き出し一行目。
かの有名な雪国の話も、高名な賞を取る作品も、書き出しで読み手の心を引っ捕まえるのだ。
さて、この不思議な雰囲気の日記の書き出しといえば。
ゼンノロブロイは知らずのうちにゴクリと鳴らし、目を凝らした。
『──これは、ワタシが最強のウマ娘になり、全ての競争に勝つまでの話である! 』
そして開かれた、過去の誰かの秘密(日記)はびっくりするほど繊細さの欠片もなく始まった。
「…………」
「……なかなか、勇ましい書き出しですね」
紙への遠慮など知らんとばかりにデカデカとした文字に、端々が跳ねた筆跡からも書き手の自信満々さが伺えた。
「少しだけ」
うずうずと疼き出す好奇心が、その手を動かす。
幸い時間はまだある。仕事は終わるだろう。だから、ほんの少し。ほんの少しくらい寄り道をしたっていいだろう。
「少しだけ、読んでみましょうか」
ライスシャワーは首を縦に振り首肯した。
それを見たゼンノロブロイは本に視線を戻し、また一ページ紙を捲った。
古い紙特有の硬質な音が響き渡った。
「おや、何か挟んであります」
「何だろう、和紙……かな?」
表紙から一枚進めると、本の間には綺麗な和紙が挟んであった。そこには先ほどの大胆な文字とは対照的な、流れるような達筆が記されている。
2人のウマ娘はその紙に目を走らせた。
時計がカチカチと時間を刻んだ。
【注釈】
これ以降、この日録には所々に注釈を挾んでおります。
というのは竝外れてズボラな彼女の心柄の、その不斷なる努力によつて日付や出來事が飛びがちな日録を補足するためです。
はたして、彼女はこの日録の端々に挾まれた注釈を見たら怒るでしょうか。はづかしがるでしょうか。
そうであっても、殘さずにはいられない氣持ちもわかって慾しいものです。
この注釈を、あまりに身勝手で、周圍を振りまわし、掻き囘し、一人では生活が破綻しているくせ、誰よりも強く、誰よりも速くそして──
──優しすぎた彼女に捧げます。
◆
これより先に語られるのは、とあるウマ娘の記録である。
数奇にも、今より過去──白黒の時代──にトリップした、ウマ娘の歩みの記録である。
そのウマ娘の名前をハナノアカリと言った。
1. ハナノアカリ登場! 始
◆
【一九××年 東京府】
──そのウマ娘は、東京の端で目覚めた。
過去も何も持たない、漂白された存在として。
◆
ぐえぇ、どこだココ!?
少女はぐしゃり、と擬音が起きそうなほど、変な姿勢で地面と接吻した。
天地が急にひっくり返った!?
彼女は思った。
頭がズキズキする。
耳が地面と擦れたせいで痛い。
シッポも砂だらけだろう。
──シッポ?
「おおう! 危ねぇじゃねぇか嬢ちゃん!」
声に反応して、くらくらする頭で起き上がれば、どうやら何処かの道の脇のようだ。証拠に目の前には道路と交差点が広がっている。
まるで東京、駅前のロータリーのような。
着物の人がやけに多い。
反対側の歩道を下駄の帽子を被った少年が走って行った。
丸メガネに背広の中年が帽子を気にしながら道を渡っている。
正面にはずっしりと石造りの建物。
カクカクしたクルマが5車線以上は基本ありそうな広い道路のゴムっぽくない砂利みたいなアスファルトを通って砂埃を巻き上げた。
道も、空も広かった。
「なんじゃこりゃあ」
声に反応する人は居ない。
横にあった柱を支えに立ち上がってみると、それはてっぺんから電線を通す電柱であった。
はた、と観察するとソレは木で出来ていた。木製の電柱だ。濃い茶色の表面に、いくつか黒い筋が浮き出ている。
「なんじゃこりゃあ」
思わず同じことばをリライトする。
その目に映る街並みは、かつて見た映画の景色とよく似ていた。
モノクロの画面の中で、忙しなく動く人、車、しかしどこかゆっくりとした郷愁を掻き立てる物。
そんな言葉が浮かび、不思議と納得した。
何でこんなことになったのか。
思い出そうと頭をひねれば空恐ろしい事実に気がつく。
記憶がない。
微かに残るものの朧げだ。
そのウマ娘は「なんじゃこりゃあ!」と頭を両手で挟み込んで抱えた。
肩口で切り揃えられた菖蒲色の髪がひゅん、と揺れた。
自分の前があったことはわかる。でも思い出すことのできないくらい隔たりがあった。すべては夏の蜃気楼がごとく揺らいで曖昧だ。
ワタシは──
記憶のないワタシは、なんのためにここに生まれた?
桜の瞳を持つウマ娘は頭を抱え込んで地面にしゃがんだ。
『──ごめん、ごめんね。おじいちゃん』
声が聞こえる。
最期にのこした、自分のこえ?
「…………」
さわ、と髪を撫でる。
視界の端には髪の毛がゆらゆらと所在なさげに揺れていた。
自分は一体、どこの誰だ。
ワタシはなんのためにここに目が覚めた。
「……え? うぇっ!? ちょ、ちょっと待って!」
そこではた、と気がつく。
ばたばたと、側から見たらもがく様な必死さで腰の辺りや、ポケットを探る。
そして悟る。
「一文無しじゃん!」
着ている服を見る。
お世辞にも新品、一張羅とは言えずツギハギが見える。
ぺらぺらのクツを脱いでひっくり返す。小石がひとつ出てきて地面に転がっていった。
「身分証ないじゃん!」
自分が目覚めた場所を振り返る。
何の変哲もない地面。砂利だ。
「家ないじゃーん!!」
ぎゃおーん、と再び頭を抱える。
こうして目覚めて僅か数分で道端に項垂れるウマ娘の出来上がり。
彼女は白く白く燃え尽きていた。
「どーしろとー?」
ハナノアカリという名前は自分の名前だ、と不思議とわかっていた。
こんな事を言ったらオカルトチックだが、魂に刻まれたように知っていた。
慣れないのに馴染んでいる妙な感覚で、頭の上の耳を触る。
ちょっと長いソレは、ピコピコと揺れていた。
「みみー……」
はぁー、とため息。
目の前を通るおかっぱの少女が不思議そうに見て、特に気にもせず歩いて行った。目だけで追いかければ少女の手を繋ぐのは着物を着た妙齢の女性。母親だろうか。
ひゅるりと風が吹いた。
気温は4月の頭のようで、ぶるりとひとつ身震いをした。
「ワタシは……ワタシはだれ?」
脳の中に入ってる記憶はその人格を構成する重要な要素の一つだ、と思う。
それが欠けているとあれば、今まで歩んできたものをなくしている様なものだ。存在の連続性が絶たれているのだ。
だから、ここにいるのは過去を持たないまっさらな存在。
少女は道の端っこにトボトボと歩き、手頃な石に腰掛けた。
そして手のひらを太陽に透かしてみた。
何も握ってない手だ。
空を見ていると、小さなころに迷子になった様な気分になった。心細いような。周りが自分という存在を承認しておらず、押し潰されるような圧迫感、置いて行かれてしまうという焦燥感。
これから、どうしようか。そんな風な考えは風にさらわれてまとまる事はなかった。
どれだけ時間が過ぎただろうか。
ウマ娘の耳は誰かの必死な声を拾った。
「──か! 誰か!」
ぐるりと首を回して見渡せば、着崩した背広を着た中年の男が足を縺れそうにしながら走っているところだった。
「ひ、ひったくりだぁっー!!」
男は叫ぶ。
通行人は「なんだなんだ」と注目をする。
「だ、誰か……っ!」
そうではあるが、誰もが状況を把握できないか、面倒ごとに巻き込まれるのは御免とばかりに顔を背けて行った。
「道の……っ、先にいる! 荷物を盗られたっ……!」
男は運動し慣れていないのか、汗を垂らしながら顔を赤くしながら叫ぶ。
誰も助けようとしない。菖蒲色の少女は現実感のないまま、それを画面の向こう側、映画を見る様な不思議な感覚で見ていた。
「誰か、助けてくれっ! 特に
ぴこん、と耳が立つ。
──走んのは、楽しいかい
──うん、たのしーよ
頭の隅で再生される過去の声。
そして疼く脚に気がつき、無意識に口元で笑みが浮かんだ。
世界に色が戻ってくる。
音が帰ってくる。
「ふっふっふ……」
目の前のスクリーンと思えていた現実はリアリティを取り戻し息を吹き返したようだ。喧騒が耳に痛いくらい。
「そこのオジサン」
とっ、とっ、と駆け出して、息も絶え絶えの男に近づく。
急に現れた不審人物に先程まで声を上げていた男は『何だ、誰だ』という視線を投げかける。
それを気にも留めず少女は続ける。
「脚が速い人物をお探し?」
「そ、そうだが……」
男は道の先にいるであろう、もはや点としか見えないひったくり犯を見つめる。そして視線を声をかけてきたウマ娘に戻す。
もしかして助けに来てくれたのか。ありがたいことに。
男は親切なウマ娘に感謝した。しかし、気の毒そうな顔をする。
「いくらキミがウマ娘だからってあんなに離れちゃあ」
確かにウマ娘は走るのが速い。
だが、それにだって限度がある。あんな距離を一気に詰めるのは、いくらウマ娘だろうと、それは──
──無理だろう。
という言葉は続かなかった。
「このワタシに任せなさーい!」
ガシッと両肩をそのウマ娘に掴まれたから。
桜色の瞳には韶光に輝く花びらのような輝きが湛えられていた。
「平成の韋駄天とはワタシのこと!」
少女は無意識に記憶から呼び覚ました名詞を宣言する。中年の男は「この子大丈夫かなぁ」と思った。仕方がない。
「へーせー? なんじゃ、そりゃ……と、とにかく! 早う追いかけないと!」
兎にも角にも追いかけてくれるならありがたい。
もしかしたら姿くらいは見えるかもしれないと、少女を急かす男。
そうして彼女は、グッ、と姿勢を低くした。
体が地面と平行になるほど、極端な前傾姿勢。
片足を前に出し、残った一方を後ろに。爆発力を全て地面に伝えるためのスタンディングフォーム。
いわゆる、クラウチングスタート。
「──セット」
変わった空気感に男は思わず口をつぐむ。
足元から響いたメリ、という異音に視線を下げてみれば、かのウマ娘の下げた方の脚の爪先が地面を抉った音だった。
(ここの地面は人通りが多くて硬いはず……!?)
それを凹ませるほど。
この
これは“溜め”だ。
次の瞬間爆発するための。
走りの専門知識がなくともソレが分かった。だからこそ息をするのも忘れ、一体それが解放された時にどうなるのか見続けるしか無かった。
「ゴーッ!!」
一言。
その走りを表すなら。
「は……、な、なんて凄まじい加速」
朝へ登る暁光のように。
一斉に散りだす桜花のように。
光の筋を残して駆けて行く。
彼女の極端な前傾姿勢はバランスが保てるわけもなく、前に倒れようとする。だが、完全に転げる直前。脚を出す。前に出す。身体が崩れるより早く、前に落ちるように。
高速で繰り返す。
この頃、ウマ娘の走りは欧米からの流れを受けて、垂直に体を立てて走るやり方から、若干の前傾へと主流が移り変わりつつあった。
だが完璧では無かった。
これぞ完成形。
近代ウマ娘の完成形が、こんな場末の道路に在った。
「チェーイ! やぁー!」
「……ああっ!! 荷物がっ!」
◆
「き、キミ。速いな……とんでもなく」
ひったくりから荷物を無事(?)に取り返したウマ娘は、ポン、と取り返した荷物を男に渡した。彼は自身の額を伝う汗をハンケチーフで拭きながら感嘆した。
「レースには出てるのか?」
公営のレースがあるだろう? と。
「え? いやいやいや。ワタシはそういうの無いよ。
少し後ろで警察の何人かがひったくり犯を捕らえる騒がしさを背景に、ウマ娘の少女は笑った。散る前の桜みたいな笑い方だった。
「さっ、届けにイキマショー!」
何かを言おうとして、口に出す前に背中を押されて中断される。男は折角取り返して貰った、くしゃくしゃになった荷物──ヨーロッパの方から輸入したもの──を慌てて持ち替えて足を前に出す。
「きっと、その“お嬢さま”も泣いて喜ぶよ!」
◆
「いらないわ」
それが“お嬢さま”の第一声だった。
ウマ娘の少女はあんぐりと口を開けた。
場所は15分ほど歩いて着いた、大きなお屋敷の前。
西洋の流れを汲んでいるのか、洋風な翡翠色の屋根に、重厚な二階建ての石造り。窓はアーチがかって庭がその前に広がっている。
「報酬は渡すわ。それで不服ではないでしょう」
“お嬢さま”は続けた。
彼女もまた、ハナノアカリと同じく年若いウマ娘であり、鹿毛の長い髪を編み込みにしていた。ほんのり香油が香った。
幼さの残る顔立ちであるが、怜悧で鋭い目元がその印象を大人にしている、
「
ハナノアカリは菖蒲色の髪をカクカク震わせながら
「え、いや、ちょっと! ア、くしゃくしゃにしてゴメンナサイ! でも、すっごい大変だったんだよ!? オジサン、荷物をひったくられて、でもオジョーサマの為にって必死に走って……」
「そう」
ぴしゃりと。
“お嬢さま”は断ずるようにその唇を開く。
「
「突っぱねることはないじゃん!」
それに負けじとハナノアカリもボディランゲージを最大限使いながら訴えかける。こんなに頑張ったのに、と。
高貴な雰囲気のウマ娘は、ふぅ、とため息をひとつした。
その動作さえも意識が行き届き、気品を感じられた。
「努力した、だとか、頑張った、なんていう“過程”の話を持ち出すのは止めてちょうだい。大事なのは“結果”、でしょう?」
門の中にいるウマ娘は腕を組み替えた。
さら、と髪が揺れた。
「その男はくしゃくしゃの荷物を届けるという結果を出した。私はそれに対する報酬を支払う。何か問題があって?」
「──!!」
「結果が全てよ。どれだけ苦難の道を進もうが、安楽な道を進もうが、辿り着く結果が評価で、全てよ」
そうだけども、気持ちが納得しねー! とハナノアカリはいきり立った。
「むきー!」
「嬢ちゃん、落ち着いて、落ち着いて。ありがとうねぇ、俺のためにそんなに言ってくれて」
お嬢さまの言うことも正論だから。と
中年の男は眉尻を下げながら言った。当の本人に言われてしまえば仕方がない。ピンクに近い髪色のウマ娘は唇を噛んだ。
「む、ぐぐぅ……」
「話は纏まったかしら? そうなら報酬のお金とその荷物を持って、帰ってちょうだい。ご苦労さま」
「な、な、な……」
だがその努力もなんのその。
“お嬢さま”の興味なさげに放たれた言葉は容易に閾値を越してくる。
「なんて言い方じゃー!!」
◆
連れて帰られた。
ハナノアカリはしょん、と耳を前に垂らし項垂れた。
場所はお屋敷からまた離れた所。ひったくりに遭った場所とほんの少し離れている街路樹の下だった。
「ははは、仕方ないさ」
季節が桜の時期を過ぎたからか、広葉樹は緑色の葉を茂らせている。
威勢のいい豆腐売りの声が遠くから聞こえてきた。
「お嬢さまの言い分が正しい、正論さ」
慰める様にかけられた言葉に、少女はますます沈み込む。
終いには視線を地面に向けて動かなくなってしまった。地面ではアリが行列を成して、ベッコウ飴の破片か何かを運んでいた。えらいな、と少女は思った。
「ほら、これ。少ないかもだけど、お礼ね」
男は手に掛けていた背広の上着、その内側から『圓壹』と書かれたお札を2枚取り出した。そして無理にでも握らせてくる。
シミがあり日焼けした、分厚い、苦労が滲んだ手だった。
「助けてくれて、ありがとうね」
ハナノアカリは手を握り返さない。それでも声からは想像できないくらい強引に捩じ込まれたお金は手の隙間からシワになって少し飛び出していた。
「君はきっと、いい競走ウマ娘になれるさ」
「……キョーミないよ、それ。だってギャンブルでしょ?」
「そんなことはないさ。──あそこには夢がある」
ふーん、と。
鼻で返事をした。
「報酬はいらない。受け取れない」
そして手の中にあるお札をグイ、と押し付け返す。
男はちょっと驚いたような顔をした。
「だって、ワタシがもう少し早くに走り出して捕まえてたら中身はぐしゃぐしゃにならなかったかも知れないし……」
そこまで言い切って、何か堪えきれなくなって駆け出した。
背後から男の呼ぶ声が聞こえるが、振り切る様に速度を上げていった。
男の声はいつまでも背後から呼びかけていた。
◆
「あーあ、まだ一文なしのまんまダナー」
てくてくと、街を歩く。
結局、5分も走れば街並みが変わるほど距離は離れる。
川沿いの石畳で舗装された道を空を見上げながら歩いた。
「ヨォ、嬢ちゃん」
「寝るトコ無いしなー。草の上って寒くないかな?」
ちら、とホテルか何か無いか木造も多く混じる街並みを見てみるが、そんな所はない。ザルの天秤を使った八百屋が元気に客を呼んでいた。着物のマダムが足を止めて交渉を始めていた。
「嬢ちゃん、見てたぜ、ありゃすげぇな」
「ご飯も食べないと……」
ガラスの食器を店の前に広げて、小さな子供が足を止めて見ている。
紅の塗料で塗られたでんでん太鼓をくるくるとまわして音を立てていた。
「嬢ちゃんってば!」
「ン? ん? ワタシ?」
漸く傍からかけられていた声に反応すると、二十後半くらいの男がいた。
カーキ色のヨレた上着に、色の褪せたハンチング帽を被っている。髪は短く刈り上げられていて、胡散臭げな笑みを浮かべながらハナノアカリに声をかけ続けていた。
「ソォーだよ! 派手な髪の嬢ちゃん!」
目当ての人物が足を止めたのを認めると、男もまた歩みを止めて向き直った。男は少し右足を引きずり歩きづらそうにしていたが、少女は気が付かなかった。
「なぁ、ナァ。嬢ちゃん。レース、興味ねぇか?」
男はニッコリと笑って提案してくる。
誰がどう見ても、欲深な内心を押し殺してる詐欺師の笑みだった。
そうしてそれは間違っていなかった。
(コイツを使えば金儲けできる気がする。うまいこと言いくるめてレースを走らせれば……!)
男の名前は
順風満帆な人間が見たら顔を顰めるような出自の人間で、そうやって生きてきた男だった。
「レース? えー? 競馬、でしょ? ギャンブルには興味ないですー」
春木が少女を見つけたのは偶然だった。
ただの二束三文の磁器の食器をヨーロッパ産と誤魔化し売ろうとしたところで、意外と目利きが出来た女に見破られ、ほうほうと尻尾を巻いて逃げてきた。
彼のモットーは『嘘はついてない。勘違いさせるだけ』。
そんな詐欺師にしても三流の男だった。
彼は、先の出来事で稼ぎのアテが潰され、ヤケになって歩いていたところにあの捕物劇を見た。
そうして“カネ”の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
「けい……? マァ、まぁ、そう言わず。レース場にだけでも行こうや。丁度今やってっからさ」
にべもなく断られた事に若干頬の筋肉を引き攣らせながら、春木は笑顔はなんとか維持したまま食い下がる。
ハナノアカリはこの時になっても、
だからこそ、なんとなく男の提案に乗ることも無かった。
「とにかく、ワタシは行かないよ、そんなとこ」
そこまで言ったところで、ぐぅーとはらの虫。
ハナノアカリは口を閉じてお腹を抑えた。男も目の前の少女の音の発生源に目を向け口を閉じた。
沈黙が2人の間を支配した。
「そうだ。昼飯奢ってやるから行くか?」
来るわきゃないよな、と。
「行く!!!」
マジかよ。こいつ。
男は思った。頑張って顔には出さなかったが。
◆
連れ立ってやってきたレース場は意外と近く徒歩で20分もすれば着いた。真新しい白塗りのいくつかの建物の中を通り、大きなスタンドに出る。
その通路の最中、ハナノアカリは両手に抱えた団子と串焼きを交互に頬張っていた。その間も男は横で『このレース場は東洋一でー』だとか、『今日のレースの注目はー』だとか話していたがウマ娘の耳に念仏。
少女は食べ物に夢中で、男の言葉は流しながら聞いていた。
「おっと、もうそろそろスタンドだ」
そうして最後のアーチをくぐる。
瞬間、ワッ、と人の声のうねりが2人を包み込んだ。
『サァ、先頭はテイサン、コウカフウ追い縋るがテイサン、テイサン! そのまま抜けて……テイサン一着ッ!』
真ん中に広がる、ターフの中心を1人のウマ娘が駆けて行った。
スタンドに詰める人々は口々に歓声と、粗野な野次。
そこには“感情”があった。ひとびとの“熱”があった。
「あはっ、あははっ!」
汗だくでゴールを最初に抜けたウマ娘が笑う。
堪えきれないとばかりに。紙吹雪降る中、涙を浮かべて。
「やった、やった! 勝ったんだ!」
どう、とスタンドが揺れた。誰もが腕を天へ振り上げて叫んでいる。
瀟洒な背広の袖で目元を何度も拭いながら手を振る観客がいる。
「ついに、やっと、見たか! はは! あたしが勝ったぞ! 勝ったぞ!!」
ボロを身に纏って手に持った新聞をくしゃくしゃに握りしめて叫ぶ観客がいる。
日傘を持った婦人がハンカチーフで口元を抑えながら震えて目元を伏せる。下駄の少年がぴょんぴょんと跳ねながら手に持った学生帽を目一杯振っている。
そこには、イチバンに駆けたウマ娘への祝福があった。
背格好も、着ているものも、年齢も性別も違う人たちがみな等しくレースを見ている。ウマ娘を寿いでいる。
そこには紛れもなく“夢”があった。
ハナノアカリはよろよろとスタンドの人波を掻き分けて、柵に両手を突く。
そうして周りに見向きもしないで、一心にその姿を見つめる。誰がなんと言おうと、動かないとばかりに目を離さずにこの光景の主役を讃えた。
側から見ても、そうと分かるくらいに。
脇目も振らず、柵に齧り付いて。
宝物見るような目で。
──ナァ、���
──なぁに、おじいちゃん
思い出すのは、朧げだった記憶。
霞のようになって消えたと思っていた思い出。
それが、知らず知らずのうちに頬を湿らせていく。
──いつか、いつか、な
──その走りで夢を与えられる人になれ
そうだ。
そうだった。
その願いを。お願いされた事を!
「──走らなきゃ!」
いつの間にか、すぐ横に来ていたあの胡散臭い男の肩を掴み揺さぶる。
男は“なんだ、なんだ”と目を白黒させた。
「夢を与える人になるために! ワタシの走りで、夢を見せるために!」
それがたぶん、望みだった。
朧げに残った、遺志だった。
菖蒲色の少女が高らかに宣言する。
ようやく掴んだ、霞のような記憶に残された最後の意志。
おそらく果たすことのできなかった想いを果たすためにここに来たのだと彼女は
「それが、このよく分からない時代に目が覚めたワタシという存在の意義!」
少女はレース場を、ターフを見つめる。
その瞳には祝福され、笑顔を作り、走り切ったウマ娘が映っている。
「ねぇっ! いちばん大きなレースはなに!? それに勝てば、みんなが夢を見れるようなおっきなレースはなに!?」
興奮に息が少し上がりながらも姿勢を前のめりにして尋ねる。
突然のことに面くらい、固まっていた男は状況を理解すると、ニヤリと笑った。
(乗せるなら、そうだな! このまま一気に乗せてやろうじゃねぇか!)
そうして両手をバッと大きく開き、大仰な舞台役者のようにポーズを決めた。
「──今より少し前、お国のおえらいさんが一つのレースを作ろうとした」
するりと口からこぼれ落ちる口上は落語家のように。
はたまた口伝の昔話を子供に聞かせる長老のように。
「そのレースは距離2400m、芝コース。作られた目的は至極単純、ただ一つ。──強いウマ娘を作るため!」
雲に隠れていた太陽が待ちきれないとばかりに顔を出して、未だ勝利に湧く観客のいるスタンドを照らし出す。
その光の中で1人の
「レースの本場、英国のクラシック、ダービーステークスが如く、優勝するウマ娘よ強くあれ。この国のウマ娘よ、強くあれと依頼され作られた、この国に比肩なき大競争!」
まがいものと紛い物。
だがこの時、この瞬間だけは、歴史の歯車を回し出したのはこの2人だった。
「これからどんなレースが生まれようと、消えようと。その名は燦然と轟く、誰もが憧れる、最高の祭典!」
男は声を張り上げる。
ウマ娘は目を輝かせる。
「その名も──」
「その名も──東京優駿競走」
これに勝ちゃ、とんでもないもんだ。
男は笑った。
こうして。
こうして、このお話は始まった。
時間に迷子となったウマ娘と、しみったれた三流詐欺師がこの国の大レースに挑む可笑しな話が。
余談ではあるが。
東京優駿競走は後に時間を隔てた先で、別の名前で呼ばれる事となる。
元になったレースの名前に準えて、この
──日本ダービー