昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

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Ep.11 彼女は未だ、闇の中

 

 

 

ー【朝焼け】ー

 

 

 

 陽光が、やってくる。

 

 ハナノアカリはベッドから光差す窓枠を薄目で見やった。

 眩しい。朝日が部屋の中の闇を残らず駆逐していく。

 

「うぅん……」

 

 朝が、来る。

 無表情に、規則どおり。

 

 苦難を超えたから太陽が昇るわけではなく、悲しみに暮れたからといって夜が明けない事はない。

 

 夜の淵にあっても時間がたてば夜明けは来る。これは地球が滅びない限り変わらない永久不滅の原理で、変わるのは、当人の受け取り方だけだ。

 ハナノアカリはそう思う。

 

 どんな事が起きても、時間は進むし、朝は来る。

 そこに人の思惑なんて一片も考慮されない。

 

 

 

 朝はなんと爽やかで、居心地が良いのだろう。ハナノアカリは生まれて初めて朝を睨んだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

ー【蝉の音】ー

 

 

「ん?」

 

 

 気の早い蝉が一匹だけ鳴いているのを聞いたのは、シューズの紐を結んで、寮の玄関から練習のために出て行こうとする時だった。

 

 5月も初め。時期にはまだ早い。

 

 蝉な鳴き声で相手を呼ぶ。

 声に応えた相手と一緒になる。だから、今もこの耳に聞こえる声の持ち主は産まれる時期を間違えた。

 

 かわいそうにな、と寮の玄関を潜った時にも、鳴き声は途絶えることはなかった。

 

 その声はどこに届くこともなく、残響だけを残してひとり消えていく。

 

 

 ハナノアカリはたまらず、砂利道を踏んで練習場まで駆け出した。

 

 

 ◆

 

 

 やって来たのは、河川敷のそばにある空き地。そこは道からは見えない背の高い草の奥の奥にある。

 

 ある時には一人で、ある時にはコウマサと夜更かしをしたあの場所だ。

 

 ハナノアカリは道を下りながら草をかき分けて行くと、不意に目の前を埋め尽くす緑色の草は途切れ、空き地が姿を現す。そこは300メートルほどのミニチュアになったコースがあって、いつ見ても誰も使っていない。最近ハナノアカリ以外の手入れのされた様子もない。少女だけの秘密の特訓場であった。

 

 

 なぜこんなところでトレーニングをしているのかといえば、端的に言って彼女の走りに原因があった。

 

 

 時代にそぐわない特異な走りをするハナノアカリの指導法のノウハウは誰も持っているはずがなく、それ故に指導員は彼女を積極的に担当にはしなかった。だから、他のウマ娘のように指導員がついて、レース場でトレーニングをするといったことがしづらい彼女はよくここで走っていた。

 

 

「シューズ、よし。靴紐の結び目も……よし」

 

 

 菖蒲色の髪を靡かせながら、ハナノアカリは駆け出す。

 5月の爽やかな風があたりの草をそよそよと撫でていった。

 

 

 彼女は走る。

 誰の走りも手本にできない、彼女のフォームを身体に覚えさせるために。

 

 彼女は走る。

 レースに勝つために。東京優駿大競走を勝つために。

 次のレースはまた一つ、規模が大きくなる。レース関係者も観に来るだろう。だからこそ、負けられない。

 

 

「ふっ、ふっ……」

 

 桜色の瞳は、ただ青い空を映していた。

 

 ◆

 

 

 朝のひばりに熱のこもった息を吐き出す。

 清涼な空気を切り裂いてハナノアカリは走り続けた。頬を伝う汗も熱を持って、それでも走る。

 

 

 次に来たるレースのために。

 

 

 走る。

 

 次の次のレースのために。

 

 

 走る。

 

 次の次の次にあるレースのため。

 

 

 

 

 走る。

 

 

 夢を見てくれる人のために。

 

 ハナノアカリにとって、夢を見てくれる人とは春木ミノルだった。彼はハナノアカリの走りに金を見出し、稼ぐという夢を見てくれた筈だった。そしてそれはある程度まで実現した。だが、そこで彼は居なくなった。

 

「ふっ、ふっ……」

 

 並足から速歩へ。

 リズムよく脚を変えて地面を蹴っていく。

 踏み込みの深さに砂利の石が擦れる音がする。

 

 

 

 ──走れよ、アカリ。誰のためでもない。自分のために。

 

 

「はっ、ふっ」

 

 

 

 彼は去り、残ったのは約束だけ。

 東京優駿大競走を勝つという、2人でした、無謀にも思える約束だけが宙ぶらりんに残った。

 

「っ……」

 

 分かってる。

 ハナノアカリは、あの約束が、レースに興味を示さなかったハナノアカリの興味を引くための口八丁の約束だったと分かっている。

 

 

 

 それでも走る理由は、忘れたくないから。だって、ハナノアカリが約束を果たそうとしなかったら、この契りは誰の記憶にも残らない。

 

 片割れだけになった口八丁の約束でも、本当に消してしまいたくないから。

 追い立てられるような気持ちで、少女はまた地面を蹴った。

 

 

「はあっ、はあっ……」

 

 

 と、その時。

 

 思考を中断させるように、がさ、がさ、と草が鳴る。耳をそちらに向けて音を注意して拾うと、人の背丈ほどもある草をかき分けて“誰か”がやってくる気配があった。

 ハナノアカリは脚を止めて、胡乱な目つきで草の中を見透かすように目を凝らす。誰が、誰が来る? 

 

「かーっ、なんでぃこんな草ばっかり伸びやがって」

 

 そう言って、のっそりと年老いた熊のように出てきたのは、片足が無い老齢の男だった。

 

「あん? 何見てんだ、小娘」

 

 男は髭をざっくばらんに伸ばし、擦り切れだらけの外套と服を着ている。とてもまともな人には見えない。だが、ハナノアカリは男に見覚えがあった。

 

 あれは確か、春木とよく食事とミーティングをやっていた大衆食堂の隅に一人座っていた男だ。

 

「えっと……」

 

 思わぬ闖入者に言葉がうまく出て来ず、ハナノアカリは言い淀む。改めて男を見てみると、格好は最初に大衆食堂で見た時と変わってないように思え、それはファッションのスタイルが変わって無いとかではなくて、本当にそっくりそのままだった。

 

「ンだよ、止まりやがって。お()の仕事はそうやって突っ立ってることなのか? あン?」 

 

 ポカンとするハナノアカリを置き去りに男は無遠慮な口調で言い放つ。

 相手に対する配慮も、周囲からどう見られるかも排除した、腹の奥から感情そのままの声だ。

 

 これには流石のハナノアカリも硬直から脱し、ムッとして、言葉を無視するように、少し距離をとって走り出した。

 

(なんだよ、よく知らない人になんでそこまで言われなくちゃならないのさ)

 

 ハナノアカリの耳がピコピコと感情を反映するように揺れる。意外にも男は口を挟まずじっとそれを見ていた。少女は走りながらその男の様子を横目で見て警戒するように耳を伏せた。

 

 

「ふん、ふん……」

 

 

 男はしきりに頷いているが、顔は赤らんで目は胡乱だ。手に持った茶色い瓶をドンと叩きつけると口から酒精の籠った息を吐き出した。

 

 

「うん。おい、お()! なんの意識で走ってんだよ。速歩かよ、でたらめだ」

 

 

 ハナノアカリは男の先ほどとは全然違う針のような声にピク、と思わず反応をする。

 意志とは裏腹に反応してしまったことを不服に思い、ハナノアカリは再び無視を決め込むように走りを再開した。

 

 

 トロット(速歩)からキャンター(駈歩)に移行。

 コースは一周300メートルほどで、かなり広いがレース場に比べれば小さい。走法を切り替えながら脚の調子を確かめるように走っていた。

 

(なんなのさー!?)

 

 ハナノアカリは強い意志で口を開くことなく、勤めて男を無視して走った。一日のメニューをこなした後はストレッチをするのだが、そこでも男は近づきもせず、口を開きもせず、ただ観察するように見つめるだけだ。

 

 ハナノアカリは特注の重たいシューズを雑嚢に詰め込むとはや足で特訓場を後にした。

 

 

 ◆

 

 

 その日の夜。

 

「マサちゃん、不審者っているんだね」

 

「え? 何持ってるのマサちゃん。それって刀……」

 

「待って待って待って。大丈夫だから。マサちゃん落ち着いて」

 

「ウワーッ!? 2階から飛んだっ!?」

 

 

 ◆

 

 

 

 そして次の日。昨日と同じ快晴。

 午前中の冷涼さにやや蒸し暑さの混じってきた時間帯にハナノアカリが走っていると、またふらりと男がやってきた。

 

 だが昨日と違うのは、ハナノアカリを見て開幕罵声を飛ばすのではなく、軽く舌打ちをして近くの石に座ったことだ。

 

 

 男は今日も茶色に濁った酒瓶を片手に、もう片方の手でボロボロの杖をついている。遠慮の一切ないその姿にハナノアカリは気にしすぎるのがすこしバ鹿らしくなってきていた。

 

 この時代にはそういう心が疲れてしまった人が時々いたから。かつての輝きを取り戻せずに、苦しんでいるひとがいるのを何度か道端で、食堂の隅で見たことがあるから。

 だからハナノアカリは男に対してアクションをせず、自分の走りを見せていた。

 

 見たいなら、見せてあげよう、と。

 

「ふっ……ふっ……」

 

 トロット(速歩)で身体を温めて、膝を動かしていく。

 十分ほどのアップで心臓の音が胸骨を超えて体全体に響くように強くなってきたら、今度はキャンター(駈歩)で速度を上げていく。

 

 

「──シッ!」

 

 

 コーナリングを意識して二周回ったら、最後はギャロップ(襲歩)で地面を踏み締める。だんだんと地面に脚が接地する時間が短くなり、脊椎と大腿骨、脛骨が連動して一歩が伸びて行く。ここまでが()()のギャロップだが、ハナノアカリは更にここから踏み込みを深くする。深く、深く。地面にアンカーを打ち込むように、抉って、その反作用で“跳ねる”。彼女のストライドは異常なほどに広い。

 

 そうやってゴールと定めた地面に引かれた線を越して、スピードを緩めていく。

 

 

 これがハナノアカリのルーチーン。本番を想定した走りで自身のフォームの粗を探して考えて修正して行く。三脚とビデオカメラがあったら便利なのにな、と何度も思ったがないものは無い。

 

 そこまでのいつものメニューを終えて、額の朝を袖で拭えば男はやはりこちらを見ていた。だが、その目には昨日までの胡乱さは消えて理性的な光を宿していた。

 その変化にハナノアカリは思わず目を見開く。

 

「見ったこともねぇ走りをしやがる」

 

 老齢の男が赤らんだ顔を顰めながら言った。

 やはりその言葉にはブレがなく、確かな意志のもと発せられているようであった。

 

 男は太く煤けた指で無精髭をじょりじょりと撫でながら半目でハナノアカリをねめつけ、一言。

 

「何だ、お()。どこで走り習った。なんでぃそんな狂気じみた走りをしやがる」

 

 それはただの観客には吐けない台詞。レースとウマ娘と走りの知識がないと出てこない指摘。

 

 

 そのことに気がついたハナノアカリはひとつ息を飲んだ。

 このひと、普通じゃ無い。

 少女は、ただのオジサンだと思っていた男がこちらの領域(レースの世界)に突然入ってきた驚きで、両脚の内側に入りそうになるシッポを手で押さえつけながら男と相対した。

 

「な、なにさ! きのうからずっと!」

 

「あン?」

 

 ハナノアカリは率直に言って腰が引けていた。それもこれも、この男から煙の香りが漂ってきたからだ。それは決して物理的なものではなく、目の奥が鋭い人たちに共通したある種の雰囲気とでも形容すべきな匂い。

 

「助言だろ。受け取れねぇのか」

 

「どこの誰とも知らない人から物は貰わないよっ!」

 

 男の声は酒焼けしているが、その表情と、胸の内側で反響するような低さが、顔が、表情が、トーンが、迫力満点なのだ。

 

「はん! そりゃ、結構。名前でも名乗りゃいいのか? 俺ぁトージローだ。そら、言ったぞ。走れ。つっ立ってんな、走れ」

 

「訳分かんないよっ!」

 

「位置について……」

 

 どん! という男の声と共にハナノアカリは走り出した。なんだ、この人は。妙にウマ娘の扱いに慣れている。思わず走り出した身体で目を白黒させながらハナノアカリは地面を蹴った。

 

「膝を使えッ! そんな無遠慮に脚に体重かけんじゃねぇ、お()はそこまで軽くねぇだろがっ」

 

「せ、セクハラッ……!」

 

 文句言いつつも、言われた通りに膝に意識を集中させてみる。決して男の言葉を真に受けたワケじゃない。ただ、試行錯誤の一環としてやってみただけだ。決して言葉に納得したわけじゃない。決して。

 

「それで速度を落としてドォーすんだ! アホ! ケッ、膝は力の通り道なんだよ! 流せ、地面に!」

 

「うるさいなぁ! もうっ!」

 

 あまりの言い草にカチンと来て叫ぶが、脚は止まらない。耳に入ってきた言葉を噛み砕いて、再び膝に意識を向けて地面を蹴る。

 

 ──膝は力の通り道。

 

 力が通る……、反応を逃すワケではなく。

 

(いや、なんで間に受けてるんだ……)

 

 ただ、通り道として……。力を流す、反射を流すように。雷が空から地面に降るように、筋肉から生まれたエネルギーを、脚に伝えて、帰ってくる反作用を脚に流して……

 

「……っ!?」

 

 さながらそれは電撃が走るような衝撃だった。

 痛く無い、脚を踏み込んでも痛くないのだ。

 

「はん、出来んならとっととやれってんだよ」

 

 

 男は呆れたような、感心したようなそんな吐息と共に空を見上げた。

 

 

 ◆

 

 

「あの! 助言は、ほんの少し、そう、少しだけありがたかったけど! ワタシは貴方みたいな不審者を信用したワケじゃないから! そんな安いウマ娘じゃないからっ!!」

 

 その日のトレーニング終わり。

 ハナノアカリは震える脚を押し通して男の眼前に立って宣言した。

 老齢のトージローと名乗った男は鬱陶しそうにその言葉を受け流していた。

 

「はいはい、そんじゃ、また明日だな」

 

 

 

 こうして奇妙な、老齢の男とハナノアカリのトレーニングの日々が始まった。

 少女が練習をしていると勝手にやってくる老齢の酒くさい男、アドバイスを暴言と共に投げながらひと通り練習を見て、菖蒲色の少女が言い返しながら試行をしてみる。

 

「コーナーは足の外側じゃねぇ、母指球に力を込めて曲がらんと滑るっつってんだろ!」

 

「やってるよ!」

 

「出来てねぇ!」

 

 

 

 ………………

 

 …………

 

 ……

 

 

 ◆

 

 

 

「はぁー、つかれた……」

 

「お疲れさまです、アカリさん」

 

「マサちゃーん……」

 

 はいはい、と言いながら力を抜いてもたれかかってくるハナノアカリをコウマサは抱き止めた。そしてゆっくり彼女のベッドまで運んでやった。

 

「ありがとぉ……」

 

「しっかりして下さい」

 

 コウマサがそう言いながら運動服を脱がせてやると、菖蒲色の髪をシーツに投げ出した少女は苦々しい顔をした。

 

(今日は、大丈夫そう)

 

 その顔を見てコウマサは1人胸を撫で下ろす。

 ここ数日、春木ミノルを見送ってからハナノアカリは文字通り意気消沈していたのだ。

 

 彼女は出会った時から、そばには春木という胡散臭い見た目をした男がいた。

 最初は同部屋が変な男に引っかかったのか、と疑ってかかったのだが、すぐに彼の性根が善性だと気づいて疑いを引っ込めた。

 

 そんな、ハナノアカリにとって当たり前のようにいた春木が居なくなり、彼女は一時、ひどく暗い顔をしていたが、いまは前のように笑っている。

 

 

「それじゃ、電気消すね。もう限界……」

 

「はい、おやすみなさい」

 

「おやすみぃ……」

 

 カチ、と音がして部屋は真っ暗になった。

 ゴソゴソと布団の擦れる音がして、すぐに静かになる。部屋の中には空いた窓から入ってくる涼しい風と虫の音だけが満ちる。

 

 コウマサはいちどハナノアカリの方を見てから自身も布団に身を捩じ込んだ。柔らかな感触が体を包んでやがて意識は微睡の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

 …………

 

 

 

 

「…………ッ、……ぅ」

 

 

 パチと目を覚ましたのは、ウマ娘の鋭い聴覚にすすり泣くような音が聞こえたから。部屋の暗さからしてまだ夜半を回ったくらいだ。コウマサは目を瞬かせながらハナノアカリの方へ目をやると、彼女の布団が小さく揺れているのが分かった。

 

「アカリさん」

 

 寝起きで喉がうまく動かず、ひどく掠れた声になって届かない。

 

 

 ハナノアカリのベッドの前で膝をついて、ポンポンと彼女の背中をリズミカルに叩いた。

 

「ぅ、ぁ……」

 

 ぐす、ぐす、と彼女は夜泣きを繰り返している。

 

 コウマサはリズミカルに背中をさすりながら、窓の外から見える北斗七星の尻尾を見た。

 

 真に孤独を感じる時は、きっとそれは1人の時でなく、人の群れの中にいて孤独に耐えるときだろう。ハナノアカリは1人泣かずに、誰かといる時にひどく寂しそうな顔をする。

 

 

 馴染みの人が居ないのに、当たり前に回る世界を見た時、この心優しき少女は何を思ったのだろう。何を感じただろう。

 そこに春木という男の姿はないのに、世界が、なんの変化もなく通常通り回っている。居なくなった人がいるのに、日常は平常通り続いてく。

 

 それはどんな疎外感を抱かせるだろう。

 

 春木ミノルという男は天涯孤独だという。そんな彼に対して、同じような寂しさを感じられるのは、もはや真の意味でハナノアカリだけだろうな、と。

 

 気持ちを分け合う人がいない孤独は、まだコウマサには想像もつかない。両親は健在で祖父母は生まれた時から居なかった。

 

「大丈夫、だいじょうぶですよ……。また、会えますから」

 

 それが慰めだと知って、コウマサは口に出さずにはいられなかった。

 彼女の真の理解者は春木という男だけだった。彼だけがハナノアカリの美しいところも、醜いところもきっと知っていた。それでも彼女のそばにいた。

 

「……マサちゃん?」

 

「はい、わたしですよ」

 

 アカリさん。貴女はすごいウマ娘だ。

 春風のようで、出自も、立場も、評価もその脚で吹き飛ばしてしまうような、そんな猛烈な走りを持つウマ娘だ。

 

 あの日、非常識にも窓から部屋に吹き込んできた薄紅色の風をわたしは忘れない。

 

 そうだからこそ、きっとわたしは貴女の真の理解者にはなれない。

 貴女に憧れてしまったから。

 

「……マサちゃん、ありがとうねぇ」  

 

「──ッ! え、えぇ。同部屋、ですから」

 

 不意にキュッと握られた手に、跳ねる心臓を押さえつける。

 上擦った声で返事をしたが、菖蒲色の少女は気が付かないようで、落ち着いたように笑って、やがて寝息を立て始めた。

 

 コウマサはそれを見て、胸を撫で下ろした。

 なんとか、今日も眠れたようだ。ハナノアカリの目元をそっと拭うと、少し温度のある液体が指先に触れた。

 

 彼女の特異な走りを一目見ようとする人は中々の数がいる。

 彼女の競争を見ようとやってくる人は一レースごとに増えて行く。

 だから、一つのレースにかかるプレッシャーも相当な物だろう。まだデビューを果たせていないコウマサには想像もつかないほど、無意識下で負荷を感じているのだろうか。

 

 コウマサは思う。

 いつか、わたしも彼女の支えの一つになれたら、と。

 彼女がそばにもいるひとに気付けるほど、まわりの景色を見渡せるほどには、彼女の肩の重荷をおろせたらな。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

【現代 トレセン学園】

 

 

 

「ふぅ」

 

 今まで溜まっていた時間を吐息と共に吐き出す。

 ゼンノロブロイはそれと同時に古い本を閉じた。

 

 外では新緑の風がそよそよと吹いている。

 

 眼鏡をかけた少女は軽く伸びをして天井を見上げ、想いに耽った。

 

 偶然繋がった、摩訶不思議なテレビ通話。

 向こう側に立っていたのは、この日記の作者の少女だった。最も、その時間もほんの少しで通話は途切れてしまった。

 

 あれから彼女から電話がかかってくる事はない。通話履歴にも残っていない。まるで幻のようだ。だが、確かに少しだけ言葉を交わせたのだ。あれは一体。

 

 少女は更に思索の海に浸かる。

 文字だけで語られるウマ娘に想いを馳せる。

 

 彼女はどんな風に笑うウマ娘だったんだろう。

 どんなお話をするウマ娘だったんだろう。

 何が好きで、苦手な食べ物はあったのかな。

 日常会話はどんなトーンで喋るのかな。

 

 いまやそれらを知る手段はない。

 

 ポコンと携帯の通知が鳴って、伏せていた画面をひっくり返し見てみる。

 発信者は同部屋であるライスシャワーからで、今日の帰る時間を問うたものだった。

 

 文学少女はそれらに丁寧な手つきで返信し、また携帯を伏せた。

 そこでふと思い立って写真のフォルダーを開いてみる。

 最新のものは授業で使ったプリントの画像で、新しい本のスクリーンショットや遡ると去年の聖蹄祭の写真もあった。

 

 いまはこうして簡単に画像にも映像にも、音声にも残すことができる。

 だが、この時代の彼女を覚えているものはどれくらいいるのだろうか。

 

 時間ともに、懸命に走ったであろう彼女たちも去っていってしまうのか。

 

 

 蒼翠にきらめくエスメラルダ。

 天を撫でるバベルの塔。

 そして、夜道を照らす花明り。

 

 彼女は確かに、そこに居た。

 今生きる学生と同じように、そこに居た。

 結末までのページ数は、残りすこしだった。

 

 

 

 

 

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