昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

14 / 28
4.東都の桜で葉ばかりさま
Ep.13 あなたをみまもるもの


 

 

 

 

 

「そんなんも出来ねぇなら、辞めちまいな」

 

 放たれた言葉は重たく、目に突き刺さるように痛かった。

 

 

「ほんなら、辞めたるよ、こんなとこ!」

 

 

 だから、売り言葉に対した買い言葉を言った。

 軽い言葉の応酬で、印刷工の少年は下駄の入った巾着袋だけを掴んで工房を出ていった。どこにでもあるような口論で、珍しくもないやけっぱち。

 

 朝方、まだ日が登る前の寒い時刻だった。

 

 

Ep.13 あなたをみまもるもの

 

 

 

 ハナノアカリというウマ娘がいる。

 

 

 そこそこ有名なウマ娘だが、特に驚きなのが、彼女がそれまでの事前情報が全くなく、突如としてレース界に現れたウマ娘だということだ。

 

 菖蒲色の柔らかな色味の髪を靡かせて、大輪の花のように朗らかに笑う。見た目はそんな、普通のウマ娘に見えて、だがその内に秘めているのは規格外の脚だった。

 

 まず、踏み込みが深い。そして姿勢が、かつて見たことないほど低く、特注の重たい蹄鉄を使って走る。

 

 彼女はひとたびレースに出走すると、デビュー戦の2着以降、快勝を重ねていった。二戦目、呼ウマ戦中等、1着。三戦目、呼ウマ戦高等、1着。四戦目、同じくグレード高等の呼ウマ戦、1着といった具合に。

 

 うち一つは六バ身も差をつける大勝。

 最終コーナーで、後方から一気に追い込み、盤面をひっくり返すその末脚にひとびとは驚き、そして手を叩いて喜んだ。

 

 そんな彼女はいま、どうしているか? 

 今、どう呼ばれているか? 

 

 

「ありゃ、もうダメかもな」

 

 

 ハナノアカリは“終わった”ウマ娘だ。絶頂を過ぎた。

 それが、今の彼女を飾る言葉だ。

 

 彼女の過去二レースの結果から、その言葉は実しやかに囁かれていた。

 

 五戦目、呼ウマ戦中等2000メートル。最後に伸びきれず、3着。

 六戦目、呼ウマ戦中等、また2000メートル。今までなら差し切れた場所から、自慢の末脚が閃くことはなく、ずるずると4着。

 

 レース後の彼女は誰の目に見ても顔色が悪く、意気消沈としていた。

 

 そこに、彼女のパトロンだった男が招集されていたという情報が加われば、ああ、もう駄目か、と誰もが思った。

 

 いくらスターと呼べる競争ウマ娘もまだまだ子供。環境の変化に、周囲の人間関係、それらで調子を崩してしまったウマ娘は枚挙にいとまがない。

 

 だから、ハナノアカリもそうなったと思った。

 

 かつての新星はもうなく、勢いは萎れ、ここで枯れて終わるのだと。

 悲しいが、ファンや関係者が夢見た場所までたどり着くことなく、彼女はピークアウトを迎えたのだ、と。

 

 そんなハナノアカリの次のレースは、5月末。僅か明日に迫っていた。

 

 ◆

 

 

 朝靄がすべてを白く、淡くする早朝。

 空気がピリリと肌を引き締める時間帯に、巾着袋だけを持った少年がそろそろと歩いていた。

 

 人気のない時間帯に憲兵にしょっ引かれるリスクを負ってまで、なぜこんなところを歩いているのかといえば、とある人物を一目見ようとしたからだ。

 

 その人物は、ウマ娘なのだが、普段からここで練習しているという。

 しかし、詳しい場所がわからず、キョロキョロと河川敷を歩きながら見渡すが何も見えない。

 

 少年はぐぅ、と鳴った腹を抑えてまだ登り始めたばかりの太陽にため息をついた。

 

「なにしとんだか、おれは」

 

 昨日の叱責は激しかった。親方の虫の居処が悪かったのだ。それを見てた同じ年くらいのヤツに笑われた。ぶんなぐってやろうかと思ったが、相手の方が栄養状態も体格もずっと良いのでやめた。

 

『お前は本当に使えない、ボンクラだ』

 

 そんなこと言われるのはいつもの事なのに、昨日は何か頭の遠いところで動いて、言い返していた。

 

 そしてそのまま、自分の少ない荷物を引っ掴んで夜明けの工房を飛び出した。

 

 両親は居ない。親戚も九州の方に居るとは聞いたが、おれのことなど知らないだろう。飛び出した工房は唯一の仕事場で、住処だった。

 

「うえっくし」

 

 5月も半ばだが、朝は冷える。特に周りに建物のない草だらけの場所なら尚更。人の気配はそのまま温度に繋がるのか、と思った。

 

「あーぁ」

 

 こんな痩せっぽちのみなしごが1人で飛び出したところで、一体何になるのか。野垂れて道端の雑草の養分になるのが関の山だとは分かっている。だからって、このままの生活を続けるかと言われれば、否と答える。

 

 たとえ孤児でも、出来が悪くても、いつもバカにされてても、なにかが胸の内側で包丁をぶん回すように、泣き叫ぶのだ。殴られるたびに、笑われるたびに、おこられるたびに、行き場のないマグマのような煮える気持ちが腹の中でグルグルと回り、行き場を求めて身体が千切れそうになる。目の奥が熱くなる。

 

 そして、夜明け前の街を駆けているうちに、妙に冷静になったあと、ふとあのウマ娘のはなしを思い出したというワケだ。壮大な理由も何もない。ただの行き当たりばったりの思いつきだ。

 

 

 ハナノアカリ。

 

 顔も知らない。声も知らない。髪の色も、過去も知らない。

 ただ、鉛で鋳造された活字でしか知らないウマ娘。前はなんども朝刊に登場していた名前。傲慢ちきな文選のジジイたちがなんども活字で拾っていた名前。

 

 

 当時の印刷方法は活版印刷が主だった。

 

 新聞などもコンピュータ制御で文字を打つのではなく、鋳造された文字にインクをつけて印刷をする。

 

 細かなハンコのような文字が棚に整然と並び、依頼通りに、それを文庫本よりも少し大きな木の箱に選び、入れていくのだ。それを文選と言う。

 

 活字を拾うとはこの行為から来ている。

 それらは熟練の技で、文字の場所を覚えるのだけでも三年はかかるという職業だ。

 

 そんな活字を棚に補充するという下働きの作業の合間に、斜めに傾いた机に置いてあった活字たちで整形中の文章を覗き見れば、『快勝!』だとか、『大差勝ち』だとかの字が20ポイントで誇らしげに乗っていた。いちばん勢いが乗っていた頃は『ハナノアカリ』の文字だけ別枠で用意されていたくらいだ。

 

 だが、ここ最近はどんどんハナノアカリという彼女の名前も小さくなり、選ばれる活字も少なくなり、いよいよ『ハナノアカリ』の別枠も撤去された。

 

 どうにもそのウマ娘は負けが込んできたらしい。

 

 落ち目のウマ娘。

 どんな表情で走ってるのか。

 おれと同じで、周りの声に卑屈な顔して走ってんのか。勝手に期待されて、勝手に失望されて、俯いちまって、地面を見てんのかね。

 それとも、過去の栄光といまの落差に気落ちして、陰気に世間を恨んで睨んだ面をしてんのか。

 

 怖いもの見たさ、というか。

 アリの巣に水を流し込んで観察する興味というか。そんな、あまり人には言えない類の心から彼女をひとめ見ようと思った。

 

 

「っと」

 

 ガサ、と草むらから音がして、そちらを見れば土手の方から誰かが上がってくるようだった。注視してみていると、中からひょっこり現れたのは少し小柄なウマ娘。薄めのピンク──撫子色の髪にガマの葉っぱをくっつけている。汗に髪が張り付いているようで、先ほどまで運動をしていたのだと分かった。

 

 ソイツはこっちに気がつくと、短めの眉毛の顔に、愛嬌と言われたらこれを指すのだろうなといった具合の表情を浮かべて近づいてきた。

 

「あれ!? ワタシのファンかな?」

 

 そして、それを見て思う。

 

 これの、どこが凋落か。ニコニコとこちらに近づいてくる。

 地面を貫かんばかりに、一歩一歩が重い。質量が、世界に認められてる存在感が何倍も違う。

 

「はいっ、握手ーっ。応援、してね?」

 

 笑っている。

 強さを内面に押し隠して、体の隅の隅まで意識が行き届いている。

 これは、かいぶつだ。

 かいぶつが、今目の前にいて、おれと目を合わせて、笑っている。

 

「それじゃ! 朝は冷えるから気をつけて!」

 

「あ、うん」

 

 違う、と思った。

 コイツは。ハナノアカリというウマ娘はおれとは違う。

 

 がちゃん、がちゃんと足音が響く。

 特注だという重たい蹄鉄の音だろう。文字の上でその存在を知っていた。

 

 アイツは、世間の評価なんて気にしちゃいなかった。

 はなからそんなもの眼中に無かった。あいつが見てるのは、たぶん、そう。自分の世界をみている。

 誰かの視点で、借り物の見方で世界を見ていない。自分の歩く道を、ただ見てるんだ。

 

 おお、なんだ、この体が張り裂けそうな、喉の奥が詰まるような、気持ちは。

 

 あのウマ娘が駆けて、遠くなっていく。

 おれの方はもう見ていない。ただ、まっすぐ、後ろを見向きもせずに、朝ぼらけの、曖昧な色味の世界を切り裂くように、自分の行くべきとこに行ってるんだ。

 

 その前だけを見る姿は、少し悲しく、それ以上に強く見えた。

 

 

 ちくしょう。ちくしょう、みじめだ。

 分かった。この気持ちは、惨めなんだ。

 

 誰かの視線とか、声とか、そんなんばっかに結局いちばん気にして振り回されて、自分ってやつを持ってない空っぽの自分がみじめだ。

 あいつはなんて眩しいんだ。

 

 あいつは、自分の歩く道が見えるんだ。

 暗闇でぼんやり光る蛍光のような道が。

 

 

 少年は下駄の入った袋をいちどブン、と回したあと、てこてこと街へと歩き出した。

 

 ◆

 

 

呼ウマ戦高等特別 当日ー東京優駿大競争まで、あと22日。

 

 

 

 鉄のゲートの中は、閉塞感がひどくある。

 薄い鹿毛の三つ編みを揺らしたウマ娘は、ゲートの正面にあるぴったりと閉じた場所を見た。あと数分もしないうちにここが開き、レースが始まる。

 

 そう意識するだけで心臓はドクドクと制御できない鼓動の高まりが感じられた。対照的に体温はスッと冷たくなり、足元がどこかふわふわとおぼつかない感じがする。

 

 ああ、緊張しているな、と少女は冷静に分析した。

 

 彼女は先行。

 だからこそ、追い込みの戦法を取るハナノアカリは警戒してた。過去に一レースだけ見たことがある。あの脚で前との差を詰めていく様はいっそ鳥肌が立つほどだった。

 

 ちらりと横を見る。二つ隣のゲートには桜の花びらみたいな薄い髪色のウマ娘が黙って収まっていた。ハナノアカリだ。

 

 彼女がもう衰えた? 

 

 専属の指導員は、“ハナノアカリのことは、もうそこまで過剰に警戒する必要はない”と言っていた。

 

 彼女が負けが込んできたから? 

 終わったウマ娘になったから? 

 走りの旬が過ぎてしまったから? 

 

 

 三つ編みのウマ娘は断じる。

 レース前に見た表情の、普段の人を安心させるようなハナノアカリの笑顔の奥に詰め込まれたあの冷徹なまでの激情を見たら。

 

 ハナノアカリは警戒しなくていい、だと? 

 

(そんなワケないっ! あたしが見た、ハナノアカリっていうウマ娘は、そんなもんじゃない!)

 

 

 荒々しくて、力強くて、でも綺麗で、それで、どんな差も、暴力的なまでの末脚で潰していく。そんな無慈悲で美しいウマ娘。

 

 そんなことを考えていたからだろうか。ハナノアカリと目が合った。

 ニコッと笑いかけられて、ひとこと。パクパクと口を動かした。

 

 声は観客席から波のように届く歓声にかき消されて聞こえなかったが、何を言ったのかは分かる。

 

『まけないよ』

 

 彼女はそう言ったのだ。

 その威圧にたらりと汗が一筋垂れて、──ゲートが開いた。

 

『始まりましたっ! 第×回、呼ウマ戦、最初に出ていくのは、やはり逃げ宣言のタツカゼ、後方にはタカショウリ。ハナノアカリは後方から2番手の位置を取りました』

 

 

 硬い地面の反発が感じられる。

 観客席に近い第一コーナーの奥からスタートして、130メートルでコーナーが来る。だから外側は取りたくない。明らかにロスになる。

 だから、狙うは内側。

 

『先頭を行くのはタツカゼ、すぐ後ろにぴったりと機会を伺うようにタカショウリが位置取る形となりました。間も無く最初のコーナーです!』

 

 しめた。

 やった、ロスのない内から2番目。

 

 グイ、と遠心力で外側に引っ張られる身体を足首の筋肉で同じ位置のコースに押し留め、前を向く。

 

『ここから勝負は動くのか、観客席からは遠く一瞬の戦いが始まりました!』

 

 観客席と反対側の直線──ブアックウトレッチと外国語では言うそれ──で最終コーナーに入るための位置を調節する。前には2人、息が上がってる。後ろにはー人。想像以上の速度で消えていく体力に顔を歪ませながら、喰らいつこうと踏み込んでくる。

 

 位置は、今は──先頭から2番目。

 いける。逃げ切れる。警戒すべきハナノアカリは後方集団に遮られて見えない。だけど焦ることはない。

 

 だって、彼女には()()がある。

 

 何度もハナノアカリのレースを見たウマ娘や、関係者に話を聞いたり資料を集めてもらって見つけた、ソレ。

 ハナノアカリのスパートは100メートルより短い距離でしかかけていない。それが原因で負けたレースもある。なのに、仕掛けない、いや、()()()()()()()。それもそうだ。あんな、地面に頭が着いてしまうのではと思うほど低姿勢のスパートなど負担が大きすぎる。

 

 つまり、彼女のスパートは超短距離限定! 

 

 だから、今のうちに、距離を稼いでおく! 

 スパートを掛けても、バ群に捕まり万全な加速をさせない! だからレースの展開が縦長になるように、いつもより明らかにペースを上げてレースを引っ張っていく。

 

 苦しい。

 

 2個目のコーナーがやってくる。

 

「ッはぁっ……! ふっ……!」

 

 苦しい。

 やめてしまいたい。

 コーナーに入る。

 

 視界の端が白くモヤがかかっていく。

 肺が潰されそうだ。

 それはそうだ。いつもよりペースを速くしているのだから。

 レースを高速化の潰し合いに持ち込んだのだから。

 

 脚色が鈍ってくる。

 コーナーの遠心力がつらい。

 

 でも、後ろの子はもう脚を残していない。

 ハイペースに体力が残っていないのだ。だが、それは私も同じ。

 

 苦しい、息が吸えない。

 足の筋肉に酸素が行き届くより消費が早く、力が抜けていく。

 苦しい、つらい。がんばれ、がんばれ! 

 

(勝負は、勝負は……ッ!!)

 

 東京レース場の、最後の直線。

 ながい、ながい525メートルの直線。

 

(その、最後の100メートルなんだからっ!)

 

『サァ! 最終直線へ突入しました! 各ウマ娘が一斉に位置を変え、仕掛け始める! 勝負の行方はこの数百メートルで決まります!』

 

 ゴールまで、あと500メートル。

 必死に喰らいつく後続、引き離す先頭。

 

 ぼやけてきた目で、ぐるっと後ろを見て彼女の位置を探る。

()()()()。まだ、あんな後ろにいる。

 

 

 

 

 

 

(──待って)

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんで先頭(ここ)から彼女が()()()()()? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのことを理解した瞬間、全身の汗が上に逆流するようなゾワリとした感覚が襲った。あれは、マズイ。道が出来上がっている。彼女が一気に突破してくる道がッ! 

 

『先頭逃げる逃げる、このまま1着で──こ、ここで来たっ! ハナノアカリが来たッ!!』

 

 まだゴールまで300メートルはあるのに。

 

 

(なのに、こんな……こんなっ、超、ロングスパートっ!?)

 

 

 これは、決して彼女が知り得ない事だったが。

 ハナノアカリは桐生院とのトレーニングにより、コーナーで無駄のない曲がり方を習得した。未だ未完成ながら膝への負担が少なくなる走法を編み出した。そして、バ群の中でも決して焦らず、諦めず、機会を待ち続ける鋼の意思を萌芽させた。

 

 それゆえに、ロスが無くなった分得たのはスパートに回すだけの体力。

 いままでせいぜい100メートルが限界だった走りの距離を伸ばす、無骨な解決策。

 

 春風は、圧倒的な射程を手に入れた。

 

 

 ◆

 

 

 ガシャん、がシャン、ガシャン。

 

 先頭を走っていたウマ娘の耳はその音を捉えた。

 自身が地面を蹴る鈍い音に混じって聞こえてくる金属音。重厚な厚みを携えたたった1人のウマ娘がやってくる。平均より少し小さめの体格に不似合いな蹄鉄を付けた、ハナノアカリが地面を均しながらやってくる。

 

『ハナノアカリ追い上げる、ハナノアカリ追い上げるっ! 先頭まであと5バ身、……4バ身、しかし先頭のタカショウリもペースを上げる! ここでハナノアカリが更に加速したっ! 地を這うような姿勢で、特異な体勢で、遅れた分を追い上げて来るっ!!』

 

 ああ、視界の淵が雫で歪む。まけない、まけっ、

 

 

「ないんだからぁぁぁッ!!」

 

 

 ブワッと、桜のような繊細な色が広がって、遠かった。

 

 桜が散る速度のように。

 はやく、速く、あの子は駆けていった。

 

 

(私の前を……)

 

 

『前を走る強豪を軒並み抜き去って、1着! 圧倒的です、ハナノアカリです! 裡からみなぎる力で差し切りましたっ!!』

 

 

 

「はあっ……はあっ……」

 

 

 荒い呼吸のせいで揺れる視界で少女をみる。

 ちょうど雲の切れ目から顔を出した夕日が彼女の髪を紅く染めていた。

 

 その表情は、1着だというのに迷子の子供のようにターフを見つめていた。負けることへの不安も、そんなちゃちな考えも抱いていなかったのか。ただ、レースの終わりを想像して走っていたのか。

 

 それは分からない。

 ただ、ひとつ言えることは。

 

「完敗、だなぁ……」

 

 

 汗だくの少女は呟くようにそう言った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「お嬢さま、レースの結果が届きましたよ」

 

 老齢のメイドが豪奢な部屋に入り、号外の新聞を部屋の主へとそっと差し出した。まだ幼さの残るウマ娘はひとつ頷くと新聞を手に取り、パラパラとめくった。

 

 お目当てのページには、今日に行われた目玉のレースの結果がすこし荒い印字で示されている。5着から順に見ていき、見覚えのある名前を白魚のようなほっそりした指でなぞりながら、思い描いていく。

 

 そして、1着の欄でピタリと止まった。

 

 

 ──ハナノアカリ

 

 

 かつて負かしたウマ娘。

 見覚えのない特異なフォームで走る、不思議なウマ娘。

 

 そして、()()()()()()

 

『事前評価はダテじゃありません! 家の血筋は高貴な血筋! 一着は、メジロハルカ!』

 

 かつての実況が叫ぶ声が耳にこだました。

 あの子は、何をしてるだろうか。

 

 それは分からない。知らない。彼女の家も、家族構成も、信念も、走りを習った場所も、何も知らない。

 だけど、あの瞳の真剣さは知っている。

 

 だから、来る。

 きっと来る。

 

 東京優駿大競争の舞台に、やって来る。

 そしてその時こそ、示すのだ。

 

「メジロの名前を、日の本全土に轟くように」

 

 それこそがこの家の跡取りとしての責務。貴顕たる者に選ばれた使命。走るレースは全て、家のために。家に仕える人々、何十何百の生活のために。

 勝つことこそが、それに応える方法。

 

「この家にふさわしい名前を、繋ぐために」

 

 コトン、と小さな音が鳴って、机を見ればガラスペンがインク壺の横で倒れている所だった。唯一らしい趣味であるそのペンの先が示していたのは、あの子の名前。

 

 ふと顎に手を置いて、少しシミの出来た新聞を見つめた。

 なぜだか、あの子と競うと考えると、ただ純粋に、レースの行く末が気になった。

 

 東京優駿大競走まで、あと22日。

 

 

 ◆

 

【現代】

 

 日本ダービーとは、言わずもがなウマ娘にとっても関係者にとっても、そしてファンにとっても特別なレースである。

 

 ダービーが近づくにつれ、トレセン学園も落ち着きがなくなったように盛り上がりを見せ始める。端的に表現して、お祭り騒ぎだ。

 

「よぉ! ダービー、一発かましてこいよ!」

 

 食堂で昼食をとっている、ダービーに出走予定のウマ娘はたくさんの人から声をかけられる。

『がんばれ』『まけるな』『緊張するかもだけどちゃんと食べな』『並走必要になったら呼んでくれ』

 

「全員ぶっちぎって、俺が最強だぁ!」

 

 フリースタイルから転向してきたハーフアップの栗色をした髪のウマ娘は来たるダービーに向けて闘志を露わにした。彼女が威勢良く勝利を口にすれば皆んなは更に励ました。

 

 

 とあるウマ娘は休日を使って、ダービー前にトレセン学園に程近い実家に帰っていた。人気は二桁台で、お世辞にも勝ちウマ候補とは言えないし、軒並みいる強豪に腰が引けてしまいそうになる。そんな気持ちを隠して実家の慣れ親しんだドアを潜れば、いつもより人の数が多かった。

 

「あら! きた、帰ってきたわよ! お父さん! ほらっ、カメラカメラッ!」

 

「お母さん、大袈裟だよ……」

 

 リビングに行ってみれば、親戚一同が勢揃い。それに、ここに居るはずのない見知った顔も。

 

「と、トレーナーさん! なんでウチに!?」

 

「ちょっとご挨拶に、ね」

 

「アンタの晴れ舞台なんだから! 当日はみんな、応援しに行くからね!」

 

 照れ臭さを感じつつ、それ以上にそんな賑やかな応援が今まであった劣等感や意気地のなさ、弱気な気持ちを吹き飛ばしていくのを感じる。

 

 だから、普段は口にしないけど、カメラの準備を忙しなく進めるまるで子供みたいな父親と母親につぶやいた。

 

「ありがとう、見ててね」

 

 

 ◆

 

【194×年 東京】

 

 日本ダービー東京優駿大競の直前、ハナノアカリは1人だった。

 

 誰も居なくなった、物音ひとつしない春木の平屋に、1人、佇んでいた。

 

 夕日が落ち切った、暗い時間帯。空の端にはちらりとまだ赤色が残っていたが、世界は紺色に染め抜かれている。

 

 少女は電気もつけず、ただ暗順応した桜色の瞳を瞬かせていた。

 灯火管制のために黒い布が巻かれたランプは、冷たく沈黙を貫いている。

 

 春木の平屋の、居間には文机と座布団が2枚置いてあった。

 

 最初は一枚だったのに、途中でもう一枚を押入れから引っ張ってきたのだ。春木が。

 

 あれはまだ、ハナノアカリがデビューをする前。少女は事あるごとに春木の家に突撃し、居座った。その度に家主の春木は迷惑そうな顔と、低い声で『帰れ』だの『ジャマだ』だのと追払っていたが、何回目かの時、少女がいつものように家に突撃すると、座布団が一枚、増えていたのだ。

 

 そのことがハナノアカリは今でも鮮明に思い出せる。

 

 ふふ、と静かな部屋の中で、ハナノアカリは微かに笑みをうかべた。

 

 そうして机に一歩近づいて、すこし屈んでそっと触れる。表面はニスの塗装がされていたが、それでもいくつか傷でザラザラする場所があって、年代を感じさせる。そんな机は黙って、主人の不在を示していた。

 

 ハナノアカリはかつてこの部屋に満ちていた音が好きだった。

 その音を聞くのは、平日のトレーニング終わりにストレッチのために居間を勝手に使ったり、休日に意味もなく学校の課題を持ち込んで、文机で書類と睨めっこする春木を横目に、畳の上に下敷きを引いて鉛筆を走らせていたとき。

 

 少し離れた場所で春木が机の上に置いてある紙を捲る音、しゃらり。

 何か難しいことを考えているようで、横顔はいっつも険しい表情をしていた。

 

 自分が鉛筆で計算を書く音。カリカリ、コリコリ。

 春木はくたびれた万年筆いつまでも吝嗇に使っていて、書くときに少し濁った音が混じっていた。しゅる、しゅる。ガリ、しゅる。

 

 そんな、思い出の部屋は。物音ひとつしないまま。

 眠るように冷え切った空気を漂わせていた。

 

 少女は机を撫でる手を止めると、スッと立ち上がり、この場所に運び込んでいた羽織の前にたった。

 

 その羽織は、決して喋りはしないけれど、送り主が近くで少女に語りかけてくれているように思えた。そんな風に、寒色しかない部屋で、ほんの少し人肌の名残があるように感じられた。

 

 少女は目を伏せる。

 

 

(喜んでくれるあなたは居ないけど、夢を見てくれるあなたはいないけど)

 

「ぅ……っ……」

 

 

 ──あなたとワタシの約束を、果たすよ。

 

 

 

 

 東京優駿大競走まで、あと20日。

 情勢悪化に伴い、関係者以外立ち入り禁止。無観客での開催とする。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。