昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

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Ep.14 ふたりの約束の果て

 

 

 

 その日、コウマサは日が登ってすぐの早い時間帯に学生寮の台所に立っていた。

 鍋にかけていた火を止め、横に置いてあった陶器の小皿で中を掬って味見をすれば、ちゃんと適性の味。少し薄めのお味噌汁。具材は茄子、豆腐。

 

「よしっ」

 

 台所の火を止め、味噌汁の入ったお盆を持って部屋に戻る。両手が塞がっているので、すこし行儀が悪いが、脚でそっと、ドアを押し開けて中に入り、左のベッドを見ると、布団から頭だけを出して寝ている菖蒲色のウマ娘がいた。目は閉じている。

 寝ているのかな、と思いながら部屋の真ん中にある小さめのちゃぶ台にみそ汁を置くと小ぶりな耳がぴくぴくと反応をした。

 

「アカリさん」

 

 声をかける。静かに、そっと。

 学生寮の他の部屋は、みんな親戚の家に避難したり、どこかに行ったりで空室も目立ってきたが、それでもまだ残っているウマ娘たちは寝ている時間だから。

 

 布団を被ったままのウマ娘は反応しない。

 ぴくり、ぴくりと耳は動いているのに、こっちを向いているのに。

 コウマサは、はぁ、と一つ息をつくと、布団を引っ掴んだ。そして、

 

「なぁーんで寝たフリなんかしてるんですかっ」

 

 と言ってがばりと布団を剥いだ。突然の出来事に、ハナノアカリは目をまんまるにしてシッポをピンと立てた。

 

「うわぁ!? な、なぜバレ……ぁ」

 

 

「寝れてなかったんですね、緊張で」

 

 その日は六月中旬。東京優駿大競走、当日の朝であった。

 

「そ、そそそんなワケないじゃん! 緊張、なんて! ワタシはしないよ!」

 

 

「強がらなくて、いいですよ」

 

 慌ててふためきながら弁解をするハナノアカリに、コウマサはそっと、彼女の細い手をやさしく包み込むように両手で持った。

 

 タヌキ寝入りをしていたジャジャウマ娘は、突然の行動にドギマギしたように口をパクパクと開けるばかりで、言葉は出てこない。

 それにも構わずコウマサはしっとりとした口調で、やさしく手を撫でながら言った。

 

「ねぇ、アカリさん。今更、隠しっこはナシですよ。だって、わたしは、わたしは、貴方の──」

 

 

 

 

 

 

 

「だらしのない姿を、イヤと言うほど見てますから」

 

 ねっ、と笑うその顔は澄み切って、優しげで。だからこそハナノアカリはうゎんと鳴いた。心からの声だった。そして、これからは洗濯物くらいはコウマサに怒られてから片付けるのではなく、きちんと仕分けようと心に誓った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「さっ、支度は万全ですか?」

 

「うん、ありがとね。それじゃあ、行ってくるよ」

 

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 

「あの」

 

 

「ちゃんと、帰ってきてくださいね」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 【東京レース場 東京優駿大競争 出走時刻前】

 

 

 メジロハルカが地下バ道をひとりで歩いていると、前に見覚えのある髪色を見つけた。

 白熱灯の明かりをうけて少し白く、淡く光る、真っ白な陶器が薄く赤みを帯びたような特徴的な髪色だ。

 

 メジロハルカは一瞬目を細めたあと、声をかけるでもなく、コツコツと歩みを進めた。

 

 

 特徴的な髪色の少女が履いている靴は、シルエットが無骨だ。特注だと言い、通常のものより大きく、華奢に見える彼女にはアンバランスに見える。がしゃん、がしゃんと重厚な音を響かせながら目の前の少し先を歩くハナノアカリは、後ろを歩く足音に気がつくと、ピクリと耳を動かし振り返った。

 

「あっ、て! オジョーサマ!」

 

 振り返ってびしりとゆびを差される。

 何度か会った時と同じような調子だ。メジロハルカは特に反応を返さず通り過ぎようとした。レースの前は煩わしいものに拘わず、集中したかった。

 

 “その目”を見るまでは。

 

 ハナノアカリの、こちらにぴたりと合わせられた目。ぶれず、靡かず、湖面のような静かで強い瞳。

 前に会った時とまるで違う宝石にすげ変わったような変貌に、思わず紅唇を開いた。

 

「貴方は……どこを見ているの?」

 

「どこって……ゴールだよ。その先にある、ちいさな約束の成就」

 

 答えを聞いて、メジロハルカは足を揃えて止めた。

 

 そしてハナノアカリの顔を改めて見やる。

 口元は引結ばれて、頑固だった。かつて見た時の緩んで、どこに行くのか分からない凧のような面影はどこにもなかった。いっそ、悲しいほどに。

 

「あなたより速く、ゴールを踏むよ。オジョウサマの“綺麗”なフォームでも届かないくらい、速く。ねぇ、メジロハルカ」

 

「そう」

 

 声を掛けてきて、何を言うのかと思えば、発せられたのは、宣戦布告。お前に勝つ、という宣言。

 不思議とメジロのお嬢様の胸に温石のような熱が灯った。なんだと思えば、理由にはすぐ思い当たった。初めてだったのだ。自身に対して言われた言葉は。家も、産まれも、権威も、何もかもを見ずに、まっすぐメジロハルカという()()に勝つと宣われたのは。

 

 メジロハルカは家のために走っている。走って勝つことで名を上げ、一族とそれに従う人々の地位を揺るがないものにする。それが責務。上に立つものの役割。

 自身にそう言い聞かせ、また納得して走っていた。

 

 それをいっそ清々しく否定し、目の前の少女は言った。

 

 メジロ家ではなく、“あなた”に勝つ、と。

 それがあんまりにも素直で、幼なげで、純真で、だからこそ彼女は笑って問うた。

 

「貴方はまた、向こう見ずな走りをするのかしら」

 

「向こう見ず……確かにそうかも。でもね」

 

 ふぁ、と地下を風が一条通り抜けて、少女の柔らかな髪を持ち上げて、靡かせて去っていった。薄暗い地下に春の盛りの、桜吹雪のような色がパッと咲いた。少女は優しい声色で言った。

 

「この走りを好きって言ってくれた人もいたんだ。だから、うん。走るよ」

 

 それを聞いたメジロハルカは少しだけ顎を下げた。

 視線と視線がぶつかる。無言でハナノアカリは頷いた。

 

 もう、言葉は必要ない。菖蒲色の少女は表情を穏やかに凪ぐ湖のように静かなものに引き締めた。

 そして着物に似た服の裾を翻して、ターフへと歩いていった。

 

 そのとき、顕になる改めて見た、その“勝負服”。

 

 白地の背に散る桜に、背中の“快走”という二文字が堂々と踊っている。

 

 

 その背中が、前を歩く背中が、前と似ても似つかないほど、あんまりにも堂々としていて、前のメジロハルカの一挙手一投足に慌てふためていていた彼女の面影はどこにも息づいていない。

 

 

 その時メジロハルカの胸中に去来した感情はさながら、洋上の嵐だった。

 

 

 満開に咲き誇っていた花畑が、いつの間にか消えていた原っぱを見るような心持ち。満開の桜を見て、手を叩いて喜んで。その素晴らしさに感嘆する気持ちと、1週間も経てば消えてしまう寂しさを同時に孕んだ、まだら模様の心持ち。

 

 夏の向日葵たちが、豪勢な眺めで一面の黄色い海を作って、燦々と太陽に首を伸ばす力強さを見た時に、ふと夏の終わりにそれが一斉に茶色く、萎れて下を向いているのを思い出すときの、どうにもならない季節の巡りへの苛立ちにもにた何か。

 

 それらは一瞬で頭の裡を巡って、声に出さずに消えていくもの。

 

 だから、メジロハルカは、誰に訊かせるでもなく、静かに口の中で落とすように呟いた。

 

「──可愛げのない子」

 

 道の先で、やたらと地獄耳の菖蒲の少女が耳をピク、と動かした。

 

「エッッッ!? カワイイでしょーがっ!!」

 

 メジロハルカはちょっとイヤそうな顔をした。

 

 

 ◆

 

 

 【東京優駿大競争 出走時刻】

 

 

 決戦は、くすんだ白黒のフィルムの色ではなく、みずみずしい空気のなか、開かれた。

 

 ターフに集まった18人のウマ娘もいつもと同じ。

 鉄のゲートが無言で温度もなく佇むのもいつもと同じ。

 

 たったひとつ、違うのは観客席が無人なこと。

 無観客で行われると通知された大レースは、事前の告知通り関係者席に少数の関係者のみを入れての開催となった。

 

 実況席でマイクを握る男は、なるべく淡々と、実況するように指示されていた。このレースは娯楽ではなく、射倖心を煽らず、見ているお偉いさんに状況がわかるようにだけ、最低限の事を伝えるようにと。男は眼下に広がるターフで、緊張の面持ちで出走を待つウマ娘たちを見やる。

 

 

 

 デビューの頃から実況した子がいた。緊張していた。最初のレースと同じようだ。だが、身体は逞しくなり、足取りは落ち着いている。

 

 苦境の時期のレースを実況した子がいた。負け続けても無理やり笑っていた強さは健在だ。この大レースでもゲートを見つけて口角を無理やり上げて笑っていた。

 

 ほとんど無名で、滑り込みでレースに参加し続けた子がいた。彼女はそれでも直向きに走り、今日もまたスポットライトの当たらぬ隅でも自分の勝負をしようと靴を懸命に確認していた。

 

 ポッと事前情報なしに現れて、凄いレースをする子がいた。最初の実況ではあんな走り見たことなくて声が裏返ったのを覚えている。その子は無人のスタンドを見て、寂しそうな表情を浮かべた。そして決意を固めた視線をゴール板に移した。

 

 

 みんな、みんな、万感の想いでここに立ってる。

 苦しいことも、挫けそうになったことも、引退や転向や、あらゆる選択肢があって尚、厳しいこの場に立つことを選んだ子たちがここにいる。

 

 ここに立たなかった子の想いも知らず知らずのうちに背負って、出走を決めた子たちがここにいる。

 

 

 

 男は機材の電源を入れた。

 ポンポンとヘッドを叩いてマイクの調子を確認する。喉を開くために若手の頃から愛用のゆず茶を口に含む。俺はレースが好きでここに立ってるのだ。ウマ娘が好きで、こんな席にずっとすわってるのだ。今日は俺の好きなレースの、最高峰。こんな舞台を前に、イタズラ小僧のようにくくくと笑った。

 淡々と、お偉いさんのために? 何をバカな。

 俺が実況をするのは、俺がレースを見るのが好きだからだ。

 

 あの煌めきたちに、魅せられたからだ。

 

 男はマイクを握った。

 

 手を抜くことなど、出来るはずが無かったのだ。

 

 

『各ウマ娘、ゲートに収まりまして』

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

『飛び出しました、ややバラついた出だし。先頭はアカガノ、二番手の位置にタマホシ、ベルハウはやや内に付きまして、メジロハルカはこの後ろです。ハナノアカリは最後方からです』

 

 

 ふぬっ、と声を出して最初の十歩を踏み出す。ここが大事だと専属の指導員と一緒に沢山練習した。

 

 荒い息を吐きながら、10番人気に推されていた黒鹿毛のウマ娘は中団に位置取り、レースの展開を目を凝らして見つめ始めた。

 

 コースは全部で二四〇〇米。長い、持久力が必要なレースだ。

 

『サァ、各ウマ娘ながい一列の隊形になって最初のコーナーに突入します。アカガノ、先頭で逃げる逃げる! いつもより速度が早いか、このまま突き放すつもりです!』

 

 うわっ、先頭が大勝負に出た。俗に言う大逃げだ。

 アレは怖い。失敗するのがほとんどだが、もし万一に成功すれば誰も捕まえられなくて、気づいた時にはどんな末脚も届かない距離を離される。

 

 コーナーの遠心力を感じながら先を見ていると、鹿毛のさらさらした髪が風に靡いていた。ちらりと見えた横顔は怜悧な真顔。このレースの最強格の1人。メジロハルカだ。最近大きくなってきた家の突然変異とも呼べる異質な才媛。

 

 あのウマ娘は、淡々と蜘蛛が獲物を罠にかけるように、後ろからプレッシャーをかけ、先頭をかからせる。そして最後に幻影のようにするりと前に出てクビひとつ分先にゴールを踏むのだ。

 そんな少女が猛禽のような鋭い目で、前のウマ娘の踏んだ土すらも見分けるが如く走っていた。

 

 恐ろしい。

 怖い。

 素直にそう思う。

 

 自分の全部を賭けてきたレースだから、余計にそう思う。

 

『メジロハルカはじっくりと様子を伺う位置! 前をいくタマホシが左右に揺さぶりをかけますが、ぴったりと後ろを固守っ。メジロハルカはここが怖い所です!』

 

 

 まだ、まだ大丈夫だ。

 この真ん中の位置からメジロハルカを注視しつつ、最終コーナーで塞がれない位置を取って、突っ切る! 

 それが勝つまでの手順! 

 

「ハアッ……はあっ、ッ!」

 

 呼吸が途切れ途切れになる。まだ序盤だぞ? 

 あんなに練習したのに、本番は全然違う。感覚的には、いつもだったら走り終わっている体力残高だ。脚に酸素が行き届いてないのか、冷たくなってきた。

 

 苦しい。やめたい。

 

 でも、でもっ。

 

「あと、少しッ!!」

 

 ガンバレ、わたし。

 その先に、一番があるから! 

 

 スタンドとは反対側の直線に入る。向正面だ。走った距離はちょうど一〇〇〇米ほど。序盤の終わり!

 

 陣形は大きく伸びて、先頭の大逃げがタイムを引き上げているようだ。

 他のウマ娘も歯を食いしばって走っている。

 

 メジロハルカはあそこだ。5バ身先にいる。

 あと三〇〇米で次のカーブ。わたしは先頭から5番目。メジロハルカは3番目。

 

 そして、ハナノアカリは最後尾。

 もう一人の最強格。桜色をした超新星。

 

 

 かるく首を回してハナノアカリの状況を把握すれば、ようやく最初のコーナーを曲がり切ったあたりだ。

 

 そしてその姿はすぐに見えなくなる。他のウマ娘が被ったのだ。

 みんな、あのスパートが怖いから道を塞ぐ。

 どんな距離も、リードも、バ場状態も、いっぺんにひっくり返す大逆転の末脚が。

 

 あの子がなんで走るのか知らない。

 でも、あんな、あんな()()()()()顔をして走ってたんだ。

 体力だって、ハイペースで削られてるはず。

 

 だから前にやったっていう超ロングスパートなんか出来やしない。

 それを確信して頭の中からハナノアカリを消した。前に集中するんだ。意識をあっちこっちにやって勝てる生優しいレースなんかじゃない。

 これは国の最高峰の競争なんだ。

 

 方針が定まると、汗が入って滲んだ視界もくっきりした。

 最後のコーナーが近づいてくる。いちど肺を萎ませて、大きく息を吸った。

 

 

『一五〇〇米を超えました。最終コーナーに続々と一八人の精鋭たちが突入していきます! 栄光までアト九〇〇! 最終直線で流れは変わるのかっ。おおっと、ここで先頭交代、ベルハウがすーっと上がってきて……いやっ、メジロだ! メジロハルカがここで仕掛けてきたっ!』

 

 走っていても感じる、前のウマ娘たちのざわめき。

 メジロのお嬢様が、巧みに速度を調節して先頭の座を取ったのだ。

 

 きた、彼女の得意戦術。 

 細かく、分からないほど散らされたフェイントとプレッシャーで魔法のように上がってくるのだ。それを今使った。

 

 だから、わたしもここが仕掛け時っ! 

 

 集団は最終直線に入る。

 全長五二五米のぶつかり合いに入っていく。

 

『メジロハルカ、かつてない早めの抜け出しだっ! 後方からの差し込みを警戒して安全距離を稼ぐためか! 伸びる伸びる、まるで幻影のようにベルハウを突き放していくっ! 最終直線、各ウマ娘が一斉にスパートをかけます!』

 

 視界の奥でチリチリと見えない火花が散る。

 ここで、ここで、メジロハルカを抜かす! 絶対に! 

 

 

 

 ──がチャン、ガチャん、ガチャン。

 

 

 

 そんな意識を白く染め上げる決意の中。

 はるか後ろから、消えたはずの音が耳に飛び込んできた。

 

 

 

 ◆

 

 

 さいごの直線に入ったとき。

 ハナノアカリの体力は底が見えていた。

 

 先頭までは15バ身以上の差。

 差し切るには残ったスタミナを速度に変換して走り抜けなければならない。直線はのこり450メートル。ここからスパートをかけて、ギリギリ届くかどうか。ましてやここはダービー。出てくるウマ娘も強者ばかりで一筋縄ではいかないだろう。直線が開く瞬間など1秒たりとも無かった。

 

 ルートは複雑。

 踏破する体力はナシ。

 

 

 

 

 

 だから彼女は、その全てを踏み均すことを決意した。

 

 

 

 

 大きく一歩。

 飛ぶように、脚を伸ばしてストライドを延長する。

 

 強く二歩。

 地面を抉り込むように、体重を垂直に掛ける。脚が爪まで地面に沈む。

 

 弾けて三歩。

 アンカーのように突き刺した脚だからこそ、全身の筋力をかけても外れない。全ての力を推進力に変換できる。

 

 

 これで完成。たった3歩で最高速へ。

 

 鉄の肺と、偏執じみた技術と、狂気の精神で初めて出来るハナノアカリの極限まで低姿勢のスパート。

 

 肺胞がすべて酸素を欲しても、あとすこし我慢。限界を、そんなもの知らんと踏み潰す。弱音を握りつぶす。限界の、その先にある地平のために。灼けるような走りのために。

 

 場所は、いまだ、最後方。

 負けるわけには、いかないのだ。

 

 真っ直ぐのルートが無いなら、かわして行けばいい。

 ジグザグに進めないなど、誰が言った? 誰も言ってない。

 

 

『ベルハウが速度を上げて、先頭のメジロハルカに追い縋るが、メジロハルカ、距離は縮まらない! 縮まらない! まるで蜃気楼のように一定の距離を開け続け、先頭をひた走り……──来たっ! ハナノアカリがスパートをかけ始めました!』

 

 全てを踏み越え、その先へ。

 見ている関係者の誰もが目を疑う、地を這う桜色、化物。

 

 グリップをふんだんに使って、地面に埋まるほどの踏み込みだから出来るバカみたいな方向変換。一歩踏み込むごとに、進む方角を無理矢理捻じ曲げていった。最高速を維持したまま。

 

 1人抜かした。

 彼女は泣いていた。

 

 2人の間を突き抜けた。

 信じられない物を見たように、目を見張っていた。

 

 3人かわして躍り出た。

 悔しさに歯噛みしながら前を見つめていた。

 

 

 そして、先頭を走る鹿毛が見える。

 メジロの才媛が髪をたなびかせて走っている。

 

 直線の終わりは間も無くだった。

 

 

 並び立つ。

 加速する。フェイントを入れる。加速する。

 景色はもう見えない。2人だけのデットヒート。肩と肩が触れ合うほどの距離で削り合う。

 

──ねぇっ! いちばん大きなレースはなに!? それに勝てば、みんなが夢を見れるようなおっきなレースはなに!?

 

 正面のスタンドの前を通り過ぎるとき、そんな声が聞こえた気がした。

 かつての自分の声だ。

 

 一歩踏み込む。その度に思い出が泡のように湧き出てくる。

 

 記憶の中で、笑みを浮かべた男が両手をバッと大きく開き、大仰な舞台役者のようにポーズを決めた。

 

──今より少し前、お国のおえらいさんが一つのレースを作ろうとした

 

 芝を踏んずけた。景色が高速で流れていった。

 後戻りできない、さいごのスパート。

 

──アカリ、いいか。

 

 一つ一つの台詞がレコーダーのように再生されて、ほどけていく。

 

 

 終わりへ向かっていく。

 確かにあった約束が、きちんと終わっていく。一歩一歩進むたびに、大事にしていたものたちが、役目を終えて空へと還っていく。

 交わした言葉たちが浮かんで、弾けて、ひかりの道を作っていく。

 

 

──これからどんなレースが生まれようと、消えようと。その名は燦然と轟く、誰もが憧れる、最高の祭典!

 

 思い出の中の男は声を張り上げる。

 ウマ娘は目を輝かせる。

 

その名も──

 

 

 

 

『そして、そして、ゴールインッ! 勝者は──』

 

 

 

 

 

 

 

『第13回東京優駿大競走の勝者はッ、ハナノアカリです! ハナノアカリが東京のこの場所に満開の桜を咲かせました!!』

 

 ゴール板を過ぎたとき、少女は思わず、うわんと声を上げて泣いた。

 両目を手のひらで覆って、よろよろと芝の上に倒れ込んだ。約束の成就と同時に消えていく繋がりを感じとって、空に向かって泪をこぼし続けた。

 

 約束は、はたされた。

 

 春が終わって散った桜のように、風に飛ばされる桜吹雪のように。

 思い出たちは、さいごに鮮烈な言葉を囁いて去っていった。

 

 

 

『ハナノアカリが、脅威の末脚でメジロハルカを捉えて、クビ差で勝利を掴みましたっ!』

 

 

 

 こうして。

 こうして、このお話は終わった。

 

 

 時間に迷子となったウマ娘と、しみったれた三流詐欺師がこの国の大レースに挑んだ可笑しな話が。

 

 だれも知らない、二人だけの無謀な約束が。

 

 

 長かった口約束の旅はきちんと終わった。

 春木ミノルとハナノアカリの物語は現在進行形から過去のものへと移り変わり、古びたアルバムに収められる一枚の写真になったのだ。

 

 ハナノアカリはもう、それを手に取って眺めることしか出来ない。

 2人の間の約束は、そんな存在になった。

 

『最後の脅威的な速度で、一度は差し返したメジロハルカを再び抜いた劇的なレースです! 最高速度は……何だこれっ……!?』

 

 それが分かって尚、ハナノアカリは走った。

 走ったら終わってしまうことを分かって尚、走って、終わらせた。

 

 頬を伝う熱は、これまで我慢し続けたものたち。栓が抜けたように溢れ続け、ハナノアカリに別れを告げていった。

 

 桜色に濡れる少女は、きらきら煌めく夢のかけらを緑のターフに滴らせて、馴染む空を見上げた。そしてひとこと、嗚咽で引き攣った喉でなにかを呟いて口をつぐんだ。

 

 

 肩で荒く呼吸を繰り返すメジロハルカはそんなハナノアカリの、勝ったにも関わらず誰よりもヨレヨレの姿を仕方が無さそうに見やった。そして呆れたように瞬きをし、落とすように笑った。力みのない年相応の穏やかな笑みだった。メジロの才媛は確かに見たのだ。鮮烈に咲き誇る桜の残像が。自身を抜き去っていく光が。

 

 

 彼女はハナノアカリ見て、次に視線を無人のスタンドにやると流麗に洗礼されたお辞儀を一つした。それに応える観客は当然の如く居ないが、大レースを走った1人として誇りを示して見せた。

 

 お辞儀から顔を上げて、さいごに一度勝者の顔を拝もうとハナノアカリの方へと視線を動かせば、見栄張りの少女は涙と鼻水で濡れた顔で地面にへたり込んだまま此方を見て何度も頷いていた。2着に来たウマ娘を讃えるように、無人の観客を埋めるように、なんどもなんども拍手をしていた。

 

「……あはは!」

 

 そしてとうとう名家のご令嬢は声を上げて笑いだした。

 

「──おめでとう。ハナノアカリ。歯軋りするほど悔しいわ。()()()()負けるのは』

 

 次は負けない、と言って彼女は地下バ道へ戻り、勝者へステージの真ん中を譲っていった。

 

 

 ◆

 

 ハナノアカリは少し時間を置いて鼻を啜ると、力の抜けた脚でスタンド前までやってきた。

 白色の無人がただ前にそりたつ。

 

 これが、夢見た景色。

 約束の景色。

 

 風がひゅうと吹いて、ターフを揺らしていった。その音ひとつに至るまで鮮明に拾うことが出来た。静かだったから。

 

 大観衆の記憶にも残らない。

 映像にも残らない。

 拍手にも迎えられない。

 喝采など聞こえない。

 

 静寂と涙のなかで、ダービーウマ娘は産まれた。

 誰もいない観客席の前で、王者は数分立ち尽くすと静かに去っていった。

 

 6月半ばのことだった。

 そして公式の東京優駿競争の記録欄に、13人目の勝ちウマ娘としてその名が残った。

 

 【鉄脚桜色】ハナノアカリ

 主な勝ちレース 東京優駿大競走

 

 ──と。

 

 しずかな文字だけが、彼女の功績を讃えていた。

 1着の賞金1万5千円を受け取った彼女は、そのお金の一部でレースの公式出バ表と新しい万年筆を買うと、かつて彼女をレースの舞台に引き立てた男の家に行き、無人の居間にあるちゃぶ台の上にそっと置き、家を出た。

 

 外に出ると、出会った頃に咲いていた桜は、すっかり緑の葉っぱに変わっていた。

 菖蒲色の少女はひとり、道を歩き出して、いつか姿は雑踏に紛れて見えなくなっていった。

 

 誰も居なくなった家の扉は、そのあと暫く開くことは無かった。

 

 

 

 

 4.東都の桜で葉ばかりさま 終

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………………………………………

 

 

……………………………

 

……………

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある蒸し暑い国の空の下で、地面に掘られた堀の内側で男が小さい写真を見ていた。休憩なのか、重たそうな靴は少し緩められている。かなりな距離を歩いたのか、靴の記名は『春……』としか読み取れず、泥がこびりついていた。

 

 双眼鏡で遠くを警戒していた同僚は、下で何をしているのか、以前より気になって尋ねた。金にうるさい男だと思っていたが、家族写真なんかを眺めてるのかもしれない。もしそうなら、殊勝なとこもあるじゃないか、と。

 

 “何見てんだ?”

 

 男は答えた。

 

 “ん? 賭け。”

 

 同僚が呆れたように言った。

 

 “賭博かよ。”

 

 こんな所でも金の話かよ。ケッ、換金なんか出来るわきゃねぇのに、と。

 

 男は嬉しそうに笑った。それはそれは愉快そうに海の向こう側を見るよう目を細めて笑った。

 

 “そうだ、そうだな! ははは! 休憩上がったから、変わるぞ”

 

 同僚の男はふん、と息を吐いて双眼鏡を手渡した。

 金にがめつい男はひらりと見張り台に上がると、一瞬だけレース場のある筈の方角を覗いたが、なにも見えなかった。それでも満足だったのか、男は頷いて、また一日の業務に戻った。

 

 

 

 Ep.14 ふたりの約束の果て

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “バカらしいかもだけどよ”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “俺ぁ、全ツッパしたんだ。きっと大当たりだぜ。”

 

 

 

 







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