おばあちゃん家の匂いがするね、と言われてヘコむのは何故なんでしょう。
まだ、若いと自負があったため、それをなす一部が根底から崩されたように感じるからでしょうか。
ハナノアカリは歩きながら涙目で微笑んでいた。
状況はこうだ。
現代の街をゆくあてなく彷徨っていたハナノアカリ。途方に暮れていた時に偶然、3歳から5歳くらいの男の子を見つけた。男の子の話を聞くとどうやら迷子らしい。だから、すこし前に見かけた交番に男の子を送り届けている最中という訳だ。
「なんだか、落ち着いてるね、ボク」
右手を繋ぎながら、ハナノアカリが問いかける。仏頂面だった男の子はぽつりと言った。
「だって、おねえちゃん、ばあちゃの家みたいなにおい」
「──!」
絶句である。
確かにこの子とハナノアカリはその位歳が離れていてもおかしくは無いのだが、今は花の学生だ。あと一応匂いには気を付けていた。
(なのに、なのに──っ!)
表には出さず、心の中で悶える。
交番までの道はもう半分以上踏破していた。
◆
数分経って落ち着いて、いろいろ思ったが、“まぁ、それで落ち着いてくれるんならいいかぁ”とハナノアカリはどこか納得の境地に達した。
そうして歩いていると、男の子が急に足を止めた。不思議に思って顔を覗き込めば、男の子は道の先をじっと見つめていた。
「あっ、お姉!」
パッと手を振り払って走り出す。
慌ててハナノアカリは追いかけながら、道の先を確認するとツインテールを揺らしながら走ってくるウマ娘がいた。
「い、いたっ!」
彼女は息を切らせながら走って来た男の子をしゃがんで受け止め、素早く男の子の全身に目をやって怪我がないかを確認して、大きく息を吐いた。安堵とか心配とかいろいろ混ざった息だった。
そして追いついたハナノアカリを見上げて、すこし目を見開いた。
「すみません、うちの子です! ああ、よしよし姉ちゃんが来たぞー……」
知ってる人に会って安心したのか少しぐずりだした男の子をあやしながら彼女はハナノアカリに目を向ける。そして男の子が落ち着いた瞬間を見て、手を繋ぎスッと立ち上がった。
「っと、アタシ、ナイスネイチャって言います。この子の姉です。ずいぶん見てて下さったみたいで……本当にありがとうございます!」
「ええっ! お姉ちゃんなんだ! いいよいいよ、ぜんぜん!」
だって、ワタシも迷子だしね、とは口に出さなかった。ハナノアカリは堪えた。
そして落ち着きを取り戻し始めた男の子に対して、しゃがんで目線を合わせるとゆっくりはっきり声のトーンを調節して笑った。
「そっか、見つかったんだ。良かったね」
言い切ったあとに頭をくしゃくしゃと撫でた。
男の子はしばらく目を瞑って受け入れていたが、おもむろに目を開けて撫でるハナノアカリをじっと見つめた。かと思うと、ちいさな口を開いてなんてことのないような調子で言ったのだ。
「おねぇちゃん
──。
虚を突かれた思いだった。
唐突で、確信を突いた問いかけだった。思わず喉がクッと鳴った。色んな色がぐちゃぐちゃになって、気持ちが鼻と喉の奥から一気にせり上がって来そうだった。でも堪えた。ハナノアカリは意地を張るウマ娘だ。
だからよりいっそう笑って、質問に答えずただ頭をくしゃくしゃと掻き回した。
男の子はさっきの問いかけなんて忘れたように“きゃー”と乱れる髪の毛に嬉しそうに歓声なんかを上げていた。
「ホントにありがとうございます。何てお礼をしたらいいか……」
その様子をみたナイスネイチャと名乗るウマ娘はたいそう申し訳なさそうに切り出した。
「えっ!? いいよいいよ、そんなの! あぁ、顔上げて、そう、そう! 言葉も堅苦しくなくていいからー」
彼女は逡巡して躊躇ったようだったが、ハナノアカリの真摯な調子の頼みについには折れた。
「えっと、じゃあ、うん。ホントにありがとう。何かアタシが出来る事なら言って欲しいな。助けてもらったのに、はいそれじゃあってコトは出来ないからさ」
柔らかな言葉な子だな、と思った。
相手のことを慮って、表現と提案を選んでいる。
「じゃあ、ひとつだけ聞きたいんだけどさ」
そんな子の負担にならないように、ハナノアカリは簡単そうな頼みを思いついた。
「石像、知らない? 三人のウマ娘のやつで、むかーしのみたいな服を着て壺から水が出てるようなヤツ」
それはこの現代に飛ばされる前に見た見覚えのないもの。
記憶にある圧倒的元凶らしさ。だからそれを見つけて接触すれば何か分かるのではないかと思ってのことだった。
しかし覚えてる特徴は曖昧。何人かに聞いてそれらしき手がかりを見つけられたら御の字程度に思っていたのだが──
「あー、三女神像のこと?」
「……うん! それ!」
答えは思ったより簡単に返って来た。
続けて場所を聞いてみればどうやら彼女の通う学校の敷地内にあるらしい。当然ながら関係者以外立ち入り禁止だろう。
ハナノアカリがちょっと眉を顰めるとツインテールの子は察したのか、ちょっとおどけた調子で言った。
「今度、聖蹄祭やるから、もし、来てくれたらぜひ案内させてね」
「やったね」
これにはハナノアカリもガッツポーズ。
“せいていさい”なるものが何なのか分からないがとにかく入れるらしい。
だがしかし。ここで大誤算が発生した。
ハナノアカリは聖蹄祭が何なのか一ミリも分かっていない。普通ならトレセン学園の聖蹄祭と言えばここら近辺の人に知らない人はいないほどの有名なお祭りだ。仮に、もし仮に分からなくても携帯で検索するなりすればすぐ分かる。ナイスネイチャの無意識下で行われた判断は正しい。
ただ、相手が昭和のウマ娘だった。
携帯なんかない時代からきたジャジャウマ娘だった。
ゼンノロブロイと繋がった携帯で、操作方法は何となく知ってるが、知識の基準がすっかり昭和に合ったウマ娘だった。検索なんて思いつかない。
ハナノアカリはナイスネイチャと別れる。
男の子は姉と手を繋ぎながら見えなくなるまで手を振っていた。
そうして二人と別れたハナノアカリはなんとか今日の寝床を見つけて聖蹄祭を待った──
◆
「忍び込もう」
なんてことはなく、普通に実力行使に出た。
“とれせんがくえん”なるものが彼女たちの通っている学校であるというのは分かる。会話の中から住所をそれとなく聞いてみれば驚き。ハナノアカリの通ってる学校の寮がある場所ではないか。
道や建物は変わっているが、遠くにある山だったり川の場所は変わらない。だから大雑把な位置を把握して、道路標識なんかを頼りに道を進んでいくと、住宅街を抜けた所に大きな壁が見えた。
それに沿うように歩き、入り口を探すと、ハナノアカリはあんぐりと口を開けた。
入り口の門は両開きで奥には真っ直ぐに道が続き、中庭には木やベンチが拵えてあってモダンな雰囲気を醸し出している。道は石畳でガタガタしておらず、歩きやすさと威厳が見事に同居していた。つまりは──
「な、なんかでっかくて立派な建物になってる……!?」
まったく見覚えのないものになっていた。
ハナノアカリの記憶にあるのは木造の校舎と、鉄製品がお偉いさんに全て持っていかれた警備なんぞ一片も考慮されていない外から入り放題の学校だった。
だが、目の前にある“とれせんがくえん”はどうだ。周りは石造りの壁で囲われ堅牢であり、かつ上部には鉄製のおしゃれな柵が付いている。それに遠くにはなんかでっかいレース場のようなものまで見える。
うひゃあ、何だこれはと驚き、それが一周して逆に冷静になる。
「……まぁ、いけるか」
そして何を思ったのか、ハナノアカリは石製の壁に足をかけて、よし、と言った。
◆
「こんなの飛び越えられるもんねー!」
よっほっと、パルクールのように身軽にじゃじゃウマ娘は見事柵越えを果たし、敷地内への潜入を遂げた。
しかしここは現代。当然警備システム(UMASOK)もあるし、トレセン学園の制服を着ていない見慣れぬウマ娘が居れば通報されるだろう。
しかしハナノアカリの常識は何十年も過去で止まっている。
彼女の常識では、警邏は頑張って走れば撒けるし、不法侵入は家主に直接見られなければバレはしない。
重ねて述べると、ハナノアカリはあくまでここが自分の家だと、あんまり警戒していなかった。だって疲れてたから。頭が回ってないから。
「ちゃくーち!」
華麗に衝撃を吸収して、ポーズを決めるが返ってくるのは夜の静けさのみ。ハナノアカリが人の気配やウマ娘の気配が無いところを選んでパルクール侵入をしたのだから当然なのだが、少女はここで不思議そうな顔をして首を捻った。
「……あれ?」
この座標はかつてのハナノアカリが暮らしている寮にあたるが、
「もしかして、コレ、不法侵入では?」
少女は怪訝な顔をして呟いた。
まったくもって、その通りであった。
ここでようやく事態の深刻さに気がついたようだった。
「ま、バレないようにすればいっか」
そして彼女は知識のアップデートの追いついてないジャジャウマ娘だった。
◆
トレセン学園の時刻は19時過ぎ。
生徒のいなくなった教室や廊下はとっくに消灯されて静まり返るころ。
紫を帯びた髪色のウマ娘があたりをきょろきょろと伺い、恐々と歩いていた。
「う、うぅ……や、やっぱり明日にすればよかった、かも……」
なぜ彼女──ライスシャワーがこのような時間に廊下を進んでいるのかといえば、明日課題で使うプリントを教室に忘れてきてしまったためであった。そんな自身のドジで同部屋の心優しいウマ娘に迷惑をかける訳にはいかず、こうして単身プリントを取りにきたのだった。
「ひうっ!?」
カタ、と風で窓枠が揺れて音を立てるたびに、シッポを跳ねさせる。しばらく固まったあと何もごともないと分かるとバクバクを音を立てる胸を撫で下ろしていた。シッポの定位置はとっくに両足の間だ。もう帰りたいと思った。
普段知っている場所が、夜に沈んでいるだけで不気味なのに、そこに誰の声もない静寂が支配しているとあれば異世界感が押し寄せてくる。
曲がり角を曲がると……
窓の外を見たらそこに……
のような不安な妄想を必死で振り払い、出来る限り音を立てず前だけをぎこちなく見て早歩きで進む。とにかく必死だった。彼女はオバケがダメなタイプだった。
それでもなんとか教室に辿り着き、プリントを確保。早足で廊下を進み寮の部屋へと急いだ。
運命のタイミングは教室の建物を出て外の通路を歩いていた時。
理科室や職員室、来賓室のある特別棟の入り口に人影が見えたので、思わず叫びそうになった。でも我慢した。
(び、びっくりした……!)
それはもう心底驚いたが、この時間に他のウマ娘がいない訳ではない。同じように忘れ物を取りに来たウマ娘や生徒会室で作業をしているウマ娘がこのくらいの時間に帰ることもあるのだ。だが、様子が変だ。
(……なにか、困ってる?)
よくよく人影を観察してみると、どうやら扉の前で立ち尽くしているようで、肩を落として扉を触ったりしている。その様子はライスシャワーには何か困っているように見えた。
見たことあるウマ娘かもしれないと顔を見ようとしたが、ちょうど角度的に向こうを向いているので後頭部しか見えない。薄紅色の髪の毛とライスシャワーと同じくらい小柄な体格しか情報はえられなかった。
誰か分からないウマ娘の立つ位置はちょうど月光の青白い光が照らして場違いにも本の挿絵のようだと思った。
だから、声をかけることに躊躇いがすこし消えた。
「あの……ど、どうしたんですか?」
意を決して少し離れた所から訊ねる。すると立ちすくんでいた人影はバッと勢いよくライスシャワーの方へと振り返った。
後頭部しか見えていなかった彼女の顔は、雰囲気が柔らかなウマ娘で、短い丸めの眉をした愛嬌のある顔をしていて、まったく
「! いやぁ、この扉がね。開けようと思っても取っ手がどこにも無くてサ」
彼女は驚いたような顔を一瞬だけしたが、すぐに困ったように眉を下げてライスシャワーへと手を振ってみせた。
見知らぬウマ娘の前にある扉は透明で、フレームが銀色をしている。あれは職員用に作られている特別な扉だ。
「それって、自動ドアじゃ……あ、もしかしたらセンサーが切れてるのかも……」
「じ……?」
見知らぬウマ娘は歯に物が挟まったような微妙な顔をする。ライスシャワーは扉の上部に付いているセンサーが稼働しているか見ようと近づいた。この時間は節電のためにとかの理由で切ってある場所もある。
一歩、二歩近づいて、扉のランプが見えて来て。
その瞬間、ガーっと駆動音を立ててドアが開いた。
「……え?」
「わあ! すごい! ホントに開いた」
ポカンとするライスシャワーと対照的に手を叩いて無邪気に喜ぶ見覚えのないウマ娘。
そこでライスシャワーは気がついた。気がついてしまった。
照明に照らされて足元に伸びる影が、一つだけだということに。
下に向けていた視線を、目の前で喜ぶウマ娘に戻す。彼女の格好は黒いセーラー服のようで、腕にキラリと小さな星が光っていた。決してこの学校のスカイブルーの制服ではない。
見覚えのないウマ娘。見覚えのない制服。
このウマ娘は誰だ?
「あの……と、トレセン学園の生徒さんですか……?」
バクバクと心臓が早鐘を打っている。現実感が急速に喪失していく。
見覚えのないウマ娘が、はしゃいだ顔を自動ドアからコチラに向けた。
「ん?
あまりにあっけなく、あっけらかんと言われた。
脚元が冷たく感覚が消えた。立ってるのがやっとだった。変な反応をしてないかひたすらに気がかりだった。目の前のウマ娘らしきものにバレていないか。
「ら、ライス、ちょっと連絡しないと」
そんな風に芝居をして、震える手でカメラアプリを立ち上げ、目の前にいる淡紅色のウマ娘にかざした。彼女はきょとんとして立っていた。何をされているのか分かってないようだ。これ幸いにとライスシャワーは画面を覗く。
カメラモードの画面には、無人の外景が写っているだけだった。疑念は確信へと変わった。
「そ、それじゃあ、ライス、用事を思い出したから、帰るね」
なるべく自然に。
わたしは何も気づいていないよ、と伝えるように。声が震えないようにライスシャワーは最大限の集中力を費やしてその場から離れようとした。
だがしかし。あらん限りの意思を持って動かしたハズの足はピタリと止まった。否、止められた。
ガシッと掴まれた腕によって。
ギギギと油の切れたブリキのような動きで首を動かす。そして、
「いやいやいや、ワタシの姿を見られたらからにはタダで帰すわけにはいかないなぁ」
──これはライスシャワーの預かり知らぬ所だが、ハナノアカリが言ってるのは主に不法侵入的な意味である。イタズラがバレたから逃さんぞ、くらいのニュアンスである。
「えっ、あっ」
たまったものではないのはライスシャワーである。カメラに映らないよよく分からない存在に『逃がさない宣言』をされてしまったのだ。“ひゅっ”と喉を空気が通り過ぎるような音を鳴らすと「きゅう……」と意識を失ってしまった。
「うおっとっと!」
倒れる寸前でギリギリのキャッチ。抱きつくような形でなんとか目の前の崩れ落ちる寸前のウマ娘を抱き止めたハナノアカリは、びっくりした表情で腕の中のウマ娘を素早く見分した。
発汗は少しあるけど、許容範囲。脈拍、呼吸ともに異常ナシ。
「よ、よかったぁ」
ホッと胸を撫で下ろす。
わざわざ声をかけてくれた程の優しい子に傷を付けるわけにはいかないと思ったが、どこも大事はないようだ。それなら、思わず抱えてしまったこの子を何処かに下ろして逃げようか。不法侵入バレてしまったし。そこまで考えた時に、今の気温を思い出す。
少し肌寒い。混凝土の床に下ろすとそれはそれは冷たいだろう。
だったらウマ娘の体温ですこし温めておくほうが取り敢えずはマシか、と結論を出し、安定した姿勢に抱え直した。
そして、気を失った黒髪のウマ娘を腕におさめたことで奇妙な時間の空白が生まれた。
黒髪の子は寝息を立てるように規則正しい呼吸を静かに繰り返してる。きっと数分もすれば目覚める。経験則からハナノアカリは知っていた。
ふと、思った。
なぜ、この時代に来たのだろう、と。
哲学の歴史は人間の余暇の生まれた時に始まったという。
つまり時間があると人やウマ娘はいろいろ考えてしまう。
だからその流れで、ふと、思った。
何か、理由があるのではないか、と。
全ての出来事に理由がある、なんてロマンチシズムを吐く訳ではないが、世の中には“そう”としか思えない状況があるのだ。
「……ん」
顔の少し下から身じろぎと共に息の漏れる声がする。
ハナノアカリは手元にあるウマ娘の子の顔を見やった。
ぱっちりとしたまつ毛のある美人な子だ。肌はきめ細かくて、髪も艶がある。きっと手入れをきちんと出来ているのだろう。
(なんか、不思議な気分だ)
菖蒲色の少女は思った。
前腕に伝わる重みにはしっかりと温もりがある。服の奥にある心臓の鼓動と肺の呼吸、血液の流れを感じる。
この子は、生きている。
人形でもない。妄想でもない。
「──いきてる」
この子は生きてるんだ。
つまり、この時代で──はるか先の時代で、命が繋がって生きている。
歴史がこの子まで繋がっている。
それに気がついた瞬間、ドッと感情が押し寄せた。蓋をしていたものが溢れ出した。
大きすぎて、悲しいのか、嬉しいのか、分からない大きな波が。
ハナノアカリは昭和にウマれたウマ娘だ。
本来ならこの子に触れることが、奇跡的なことだ。
少女が生きていた時代はぐちゃぐちゃの時代だった。
あったものが壊れて、当たり前は消えて、大切なものはくしゃくしゃになった時代だ。弱音を言ってしまえば、明日なんて分からなかった。未来はどうなるのか想像も出来なくて、なにも残らないかもしれないとどこかで怯えながら思っていた。
だけどこの子は体温がある。
呼吸をしている。困っていると思ったら声をかけるくらい優しい心を持って成長している。
「生きてるんだ、いきてるんだねぇ」
頬をさらりと撫でる。
温かな感覚が返ってくる。ちゃんとこの手に伝わってる。
ポタ、ポタと頬を熱いものが伝って地面にシミを作った。
「未来でつながってるんだ」
ちゃんと、ここで。
この立派な学校で。レースの設備がある学校で。
ああ、嬉しい。
それを知れたことがなにより嬉しい。
だからこそ、この時間は、女神さまがくれた覚悟を決める時間なんじゃないかと思えるほどに。
「ねぇ、キミ、名前はなんていうのかな。ワタシの時代のひとたちは無駄なんかじゃなかったのかな」
たくさんの季節が巡って、なんども春が来て、桜が咲いて、散って、景色が変わって、たくさんの風が流れて、そういう年月を重ねたのが現代だ。
ハナノアカリの走った時代は、大事なひとも、名前も知らない人も、これから知り合うかもしれなかった人も、狂気の中に消えていった。くらいことが多い時代だった。
それでも。
それでも──
「いなくなったひとも、走れなくなったあの子も、走るのを諦めたあの子も、みんなみんな
目をギュッと瞑る。
真っ暗な瞼の裏にはたくさんの人と一緒に走ったウマ娘たちの顔が浮かんだ。中にはもう、会えないだろう人もいた。
「繋がったんだ……」
ああ──
「──よかった」
涙が溢れるのはどうして。
震えるほどに安堵感が包んでいるのはどうして。
ハナノアカリは両手で黒髪の子を抱えているから目から零れ落ちる雫を拭えない。それどころか壊れ物に触れるように、そっと腕の中の子を抱きしめた。
たぶん、もう、あの人と会うことは出来ない。あの子と一緒には走れない。
しゃべれない。
だから、大事なひとが汽車に乗って行った時も、「過去にこんなことがありました」なんて文脈で語られて。
天涯孤独になったあの人なんかはすぐに風化して忘れ去られるのだろう。
だけど、ハナノアカリは知っている。
伝わっている。分かっている。
あのバカな愛情を。信じる気持ちを。
すべてわかっていた。
だから、伝えたかった。あなたの愛は、この時代の迷子にも伝わるほどであったよ、と。
みんなにも伝えたかった。ワタシが貰った優しさは、気持ちは、愛は。こんなにも素晴らしいものだったと。
あなたに伝えたかった。ほんとうに、本当にありがとう。優しい眼差しも、信じてくれた声援も、励ましの手つきも、ぜんぶぜんぶ覚えてる。
そうして世界を超えて、今になった。
この手はあなたを撫で返すため。
この口は、舌は、あなたに気持ちを伝えるため。
いま動いてる心臓は、過去を記録する脳はそれを誰かに託すため。
後に繋げるため。
消させやしない。
志半ばで道をたたれた人とウマ娘が多いあの時代。
悔しさと歯痒さと、ドロドロした情念が渦巻いていたターフ。
だからこそ、みんな、願ったんだろう。
「レースがしたい」と。
現代に飛ばされた少女はそっと決意を新たにした。
ここにいる誰より古いダービーウマ娘は、やるべき事を明確にした。
彼女の最初の夢は、自分の走りで誰かに夢を見せられたら、だった。
その願いの原型は、他者への思いやり。
前を向くのが辛い時。圧倒的な出来事に打ちひしがれて挫けそうな時。
不安で夜にちゃんと眠れない時。余裕がなくて人のことを妬ましく思って、そんな自分を嫌いになった時。
そんな時に、“夢”があれば、耐えられる。
ほんの少し、前に希望があれば頑張れる。
そう、彼女は思った。
だから夢を見て欲しかった。
暗く沈んだ人に、疲れ切ったひとに。
純真無垢な誰かに。夢を見れるくらいの走りをしたかった。
だって、走ることは。競うことは、ターフは、レースは──
なぁ、ナァ。嬢ちゃん。レース、興味ねぇか?
やった、やった! 勝ったんだ!
──だが、だが! このウマ娘を忘れてはいけない! 不気味に隙を窺っていた──名家のお嬢様を忘れてはいけないッ
このまま飛ばす! ぜったいに勝つ!
ハナノアカリが抜けて、先頭で、今、ゴールッイン!!
ハナノアカリっ! 負けないわよ!
あの、あの、わたし、一回だけハナノアカリさんのレース、みにいったんです。院長先生に車いすをおしてもらって
走ってくれ。心のままに。お前が楽しいように。しがらみも、世間体もどうでも良い。あの綺麗な走りを、もう一度
膝を使えッ! そんな無遠慮に脚に体重かけんじゃねぇ、お前めはそこまで軽くねぇだろがっ
いい勝負にしましょう
はい、いってらっしゃい
あと、少しッ!!
それで、ハイ。あんな風に走ってみたいなって、思いました
──こんなにも、煌めいているのだから。
「だったら、繋げなきゃ」
三女神様が見せてくれた未来まで。
昭和のあの時代にあった、たくさんの煌めきを知ってるのはきっと自分だから。
気高いウマ娘をみた。一族のために走るその努力の結実と競い合った。
こころかたちの優しいウマ娘をみた。
同部屋で、すこし口うるさいけどそれは相手を想ってのもの。
だから、お世話になった両親のために練習を重ねる彼女はきっとすごい走りを完成させる。
レースに賭けた男をみた。
自分の時間も、プライドも、信念も。
最後には全てをベットして消えていった男は、きっと夢を見てくれた。
少女はぜんぶ知っている。
ぜんぶ、体感してきている。
レースを走る理由はね。
違うんだ。ホントは。
あてられたんだあの熱気に。
夢を見たんだ。あの走りに。
惚れたんだよ。競争に。
あの時、あの瞬間。
だから、途絶えさせちゃ嫌だと思った。
夢の火を消しちゃいけないと思った。
ワタシが此処に来た理由はそう、きっと。
この
彼女はそう言って月を見上げた。
何十年経ても変わらない、絶対的なものを。
これより先に語られるのは、とあるウマ娘のである。
数奇にも、今より過去──昭和に走ったウマ娘の蹄跡である。
そのウマ娘の名前をハナノアカリと言った。
名前の由来は、先の見えない夜でも、そっと道を示し続ける花明かり。
次の桜を見るのは、もう、自分でなくてもいい。
月の綺麗な晩。
それが決意の形だった。
そして、それ故か。
背後から忍び寄る気配に少女が気が付かなかったのは。
「不審ウマ娘確保ォーッ!!」
「ぐえーっ!?」
衝撃音と共に目の前に星が散って、
意識が、遠く……
※後頭部や首筋への打撃は絶対にやめましょう。