昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

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Ep.01 夢のはじまり

 

 

 

 

「──さん、点滴交換の時間ですよーっ」

 

 

 

 スライド式のドアを横に引いて、看護師は自分の勘違いに気が付いた。

 いつもの癖でやってしまった。普通はこんなミス、しないはずなのに、忙しくついやってしまった。

 

「…………」

 

 目の前にあるのは空っぽになった部屋。カーテンだけが風に揺れている。カーテンレールがカラカラと音を立てた。

 

 涼しい室内と裏腹に、外では蝉が元気に鳴いている。部屋内は外から聞こえる音以外になく、静かだ。

 

 

 この部屋の住人だった子はもういない。

 あの子の車椅子を押す、軋んだ音もしない。

 喋りごえもない。

 

 

 看護師は、ひとつかぶりを振ると、開いたままの窓を施錠しようと近づいた。カーテンを揺らしているのは、窓から吹き込んできたそよ風だった。

 

 窓を横に引き、回すタイプのロックに手を掛ける。

 

 すると花びらが一枚、ひらりと部屋に入ってきた。驚きながら手に取ってみると、夏にはあるはずもない淡紅色の花。

 

 手のひらに乗せて花びらを見ていると、不思議とあの子が思い出された。包帯だらけの脚を、唇を噛んで見ていたあの子を。

 

「向こうで、たくさん走ってね」

 

 看護師はそう、無人の部屋でつぶやいて、桜の花びらを外に返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 たまたま見たレースに、熱が冷めやらぬまま。

 菖蒲色のウマ娘と春木はレース場を後にした。

 

 そして近くのベンチがある木陰に場所を移すと改めて向き直った。

 午後の日差しが降り注ぐ時間帯だった。

 

 学生帽を被った男の子がパタパタと駆けて行くのが見えた。黒塗りの革の鞄を揺らし急いでいる。学校が終わったのだろうか。そんな時間帯だった。

 

 ハナノアカリの心臓はまだ、とくとくと脈打っていた。

 

「そんじゃマァ、改めて自己紹介でもすっかぁ」

 

 春木は横目にそれらの景色を追ったあと、目の前のちんまりとした少女に向き直った。春に盛りを迎える桜のような色をした瞳が彼を見つめ返している。

 

「え。ワタシ、とくに紹介すべき事項持ってないよ」

「強烈な自己紹介だ」

 

 

 ◆

 

 

 

「んじゃ、マ。俺は春木ミノル。仕事はいろいろ、だな」

 

 具体的な仕事には触れないで、春木は自己紹介を終える。そうして“よろしく”、と日本では珍しい握手を求めた。

 ハナノアカリは不思議そうな顔で手を取って、ふるふると緩やかに振った。

 

「ワタシの名前は、ハナノアカリ。今まで何してたとか、よく分かんないよ!」

 

 そんなことがあるかい。

 そう思ったが春木は気にしなかった。大事なのは、いま目の前にいるウマ娘がカネになるか否かなのだから。

 

「じゃ、俺たちの目標を整理してみっか」

「うん!」

 

 菖蒲色の髪をひら、と舞わせながら少女は頷く。

 元気な子だな、と春木は笑った。

 

「お嬢ちゃん、ハナノアカリ──まぁ、アカリでいいか。東京優駿競争を制覇したいって事だよナ」

 

「そう! ワタシはワタシの走りで夢を与えられるウマ娘になる! ならなくちゃ!」

 

 喋るうちに勢いづいたのか、前のめりに力説し出すウマ娘を“どうどう”、と静止する。

 元気すぎるな、と春木は思った。

 

「よっしゃ、ならさっそく国営のレースに出る為に、どっかの倶楽部に入らねぇといけないが……」

 

「え? え? なにそれ、なにそれ」

 

「ウン? だから、レースを走るためには倶楽部に所属してネェと無理だろ?」

 

 ハナノアカリはポカンと小さな口を開けて疑問符を浮かべる。

 よく分からない。レースには『出たい!』と言えば出られるんじゃないのか。

 彼女の頭の中では疑問符が踊り始めていた。

 

「ウマ娘はレースに出るためにレース場に所属するだろ?」

 

「はぁ」

 

 気の抜けた相槌を返す。

 春木は右手を服の裾から出して、人差し指をひとつ立てた。

 

「それを管轄してるのがレース倶楽部……ここらだと『東京レース倶楽部』だな」

 

「そうなんだ」

 

 ハナノアカリの、授業を受ける生徒のような面持ちに、春木は一抹、嫌な予感を覚えて尋ねる。

 

「お前さん、どこの産まれだ? 両親は?」

 

「え? 分かんない、どっちも」

 

「身分が分かるモンとか……」

 

「ない、ね」

 

「…………」

 

「…………」

 

 沈黙が下りる。

 鳥が遠くで鳴いて、長閑な昼下がりを演出している。

 おかっぱで着物の子供の手を引いた燕尾服の男性が、道の脇で話し込んでいる2人に気がついて微笑んできた。春木は反射のように笑顔を作り会釈する。

 

 

 そして春木は一瞬ひと呼吸おく。意を決して瞑った目を開いて、再び尋ねる。

 

 

 

「身分証ない?」

 

「ないよ!」

 

 

 

 

「…………」

 

 おお、と男は天を仰ぐ。

 快晴。天は俺をバカにしてやがる。

 

 兎にも角にも現実を、目の前にいる夢で目を輝かせたウマ娘に伝えねばならないと眉間を揉みながら端的に伝えた。

 

「……レース、出られないじゃん」

 

「デラレナイジャン!?」

 

 

 ◆

 

 

 こうして目標確認の段階で意気込んだは良いが、のっけから最大の壁にぶちあったウマ娘と男は揃って空を見上げた。

 天気が良い。モンシロチョウがひらひらと楽しそうに飛んでいた。

 

 

 

 身分を証明できる物が無いから、レースに登録できないという問題。

 

 

 つまりはどんな実力があろうと、レースを走れないということ。

 

 

 ハナノアカリが時代の迷子ゆえの突発的な大問題であった。

 

 ウマ娘の少女はどうにか頭を回してうんうん、と解決策を出そうとする。回して、回して、知恵熱で湯気が出そうになるころ、男が小さく息を吐き出した。

 

 

「だが、マァ。手がない事もない。──この俺を誰だと思ってやがる」

 

「ゴハンくれるヒト」

 

「うんそうだナ……って、そうじゃなく!」

 

 表情を改めて男は言う。

 

 

「この天才、春木サマに任せておけ」

 

 

 ニィ、と口角を釣り上げて。

 男は笑った。

 

 

 

 

 

「差し当たり、身分証の問題をどうにかする第一段階として──ここらの材木事業を取り仕切る所に行くぞ」

 

 

 

 ◆

 

 

 材木事業? と疑問の意を込めてハナノアカリが繰り返すと男は自身の服装をいじりながら答えた。

 

「そぅだ、こっから行くトコの人らの組は江戸の頃から続いてるんだよ。だから()()()()。目指すはその親分、テツさんだ」

 

 つまり──

 

 

「身分がネェなら、作ってもらえばいい」

 

 

 この時代、身分があやふやな奴がごまんといるんだ。

 難しいかも知れないが、出来ない事は無い、と春木は不敵に笑った。

 

 

 

 まだまだ子供であったウマ娘は、それって良いのかなぁ、なんて思ったが

 

 

 

「仕方ネェだろ。それに身を証明する方法がネェのは嬢ちゃん、いや、アカリ。お前の落ち度か?」

 

 違うだろ、と丸め込むように続けられ、言葉を喉の奥に押し戻した。

 

 

(マ、お役所に手続きすれば良いかも知れネェが、それだと時間がかかりすぎるかも知れない上に、最悪! 外の間者と疑われて拘束されかねねぇからなぁ)

 

 

 そんな風に考える春木の思考を知ってか知らずか、ハナノアカリは『今から行くの?』と尋ねた。

 

「着いてくんのか? 別に構わネェが、いいのか?」

 

 春木は襟を正す。

 そしてキョトンとした顔のウマ娘の眼前に指を突きつけた。

 

「こっから先は“大人”の勝負だぜ」

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

「おねっがいしますっ!!」

 

 それは綺麗なお辞儀だった。

 全く乱れのない90°であった。

 

 場所はレース場から20分ほど川沿いを歩いた場所。

 だんだんと家々がまばらになり、人通りが少なくなり、石畳が砂利道に変わる頃、木造の年季の入った建物が見えてきたのだ。

 

 春木はそこの入り口に掛けられた暖簾の奥に声をかけたかと思うと、冒頭の台詞を吐き深々と頭を下げた。

 

 そして奥から出てきたのは目元に眉から唇までの傷がある大男。

 

 

 ハナノアカリは『ひぇっ』と小さく声を漏らした。言動に似合わず小心な少女だった。

 

 

 大男は暖簾を支える幾つか傷の入った桐の柱を掴むと、厳しい表情で春木を見下した。

 

 吃驚した少女は後ろで見ていることしか出来なかった。

 

「アンタか」

 

 大男の喉から出た声は、煤で掠れたような重低音だった。

 春木は頭を下に向けたまま『ハイ』と答える。遠くでは金槌の間延びした音が響いていた。

 

「いや、そないな事やっても無理や」

 

 どういう訳か事前に連絡が入っていたらしく、大男は迷いもせず断りの文句を口にする。ざらりとした声だった。

 

 

 詐欺師の男と少女がレースに挑む第一関門は、この男を納得させる事だ。

 そうして身分を用意してもらわなければ、レースに出場できない。

 

 

「頼みます、頼みます。この前言ってた土地と家の権利を渡すので」

 

 なにとぞ、口利きを。

 このウマ娘に身分を用意してくれ、と春木は頼み込む。己のカネのために。

 

 そこにハナノアカリという少女の為、という気持ちは少しも無かった。春木はそういう男だった。

 

 

 数瞬の引き伸ばされた時間を経て、大男はあきれを滲ませた溜め息を空に放った。

 

「あのな、あんな、お前のあれ、差し出す家ってやつ。廃屋やし、土地は価値のないとこお前が勝手にもってっただけやろ?」

 

 だから、要らんと。

 

 ピシャリと断ずるような言葉。

 大男はつまらなそうにふん、と鼻から息を抜く。そして藍色に染め抜かれた半纏の裾からくしゃくしゃの紙箱を取り出した。

 手のひらほど箱から白い棒を──紙巻タバコ──取り出し、口元に慣れた動作で持っていく。

 

 しかしながら、そこで春木の後ろでオロオロとしているウマ娘を認め、舌打ちをひとつして箱に白い棒を戻した。

 

「陶磁器の仕入れ先も渡すので!」

 

「そんな二束三文の取引口なんて買う方が損やわ。口先だけの要らんもん渡されて、お願いされても困る」

 

 

 取り付く島もないとはこの事。

 思ってた以上の手ごたえの無さに春木は一筋、冷や汗を垂らした。

 

 

 

 ひゅう、と風が吹く。

 

 春の風は遠くで木々を揺らす音になる。

 だがこの場に至っては、風も雰囲気を察したのか吹くことはなく、じっとりとした空気が漂っていた。

 それは午後の太陽が、濡れた地面の水分を蒸発させているからかもしれない。むわりと湿気が足元から立ち昇ってきていた。

 

 

(ヤバいかもしれん)

 

 

 春木は焦っていた。

 もちろん最初からスンナリ行くとは微塵も思っていなかったが、何かしらアクションがあると思っていたのだ。あとはそこを突いて、突いて、泣き落としでもして身分を用意してもらえればいい。

 

 だのいうのに。

 まったく手立てがない。

 毛穴から寿命が流れ出るような嫌な時間が続く。

 

 

「おお、せや」 

 

 それを打ち破ったのは大男はだった。

 彼は唐突に、ポンと手を打つと面白がる様に傷のある口の端を吊り上げた。

 

「ほんなら、そこに頭下げてみい」

 

「は? あたま?」

 

 春木が聞き返す。

 頭なら既に下げている。

 その態度をさらに愉快に思ったのか、大男はことさら地面をゆっくりと指差した。

 

()()や」

 

 先日の雨にぬかるんだ地面を。

 濃い茶色の泥が何度か踏み返されて抉れている所もある。ぐちょぐちょの地面だった。

 

「ちょ──」

 

 

 思わず声を上げたのは、今まで話について行けず春木のうしろで何度も口を開いては閉じていたハナノアカリだった。

 

 

()()()()()()

 

 

 一瞬。

 普通の人なら躊躇うようなぬかるみへ春木は額を付ける。

 べぢゃ、と濁った音が辺りを一回叩いた。

 ハナノアカリはヒュ、と喉から変な呼吸をした。

 

「ふ、……は、ははは! 兄ぃちゃん、アンタ、傑作や!」

 

 冗談やったのに! と、大男は笑う。

 手を打ち鳴らして。

 

 

「うわっ、わっ! 汚れちゃうよ! ほら! バイ菌も居るかも……」

 

 

 そこで事態を理解したハナノアカリが慌ててしゃがみ込み、春木の脇に手を掛ける。そして泥から立ち上がらせようとするが春木は存外強い力で地面に張り付き動かない。

 

 

「なんでそこまでするのさ!?」

 

 少女は半分悲鳴のような声で叫んだ。

 

 

「カネのためや」

 

 

 その答えは目の前で、笑いすぎて目尻に涙を浮かべた大男からもたらされた。大男は笑顔を消して、ジッと、ハナノアカリの目を見つめる。

 

「カネの……ため」

 

 少女がぼんやりと復唱すれば、大男は半纏を揺らしながら頷く。

 続けて彼は何かを含めるように眉を下げて、一呼吸置くと口を開いた。

 

 

「そいつはなぁ、嬢ちゃん。カネのためならなんだってする男や。たぶん、嬢ちゃんに声かけたんも、今こうしとるのも、ぜぇんぶカネになると思っとるからや」

 

 

 それは説得だった。

 春木に向けるような棘のある言葉ではなく、ただ物を知らない子供に教える大人の言葉だった。

 

 

「ナァ、嬢ちゃん。こんのキナ臭い時代、生きていくんなら着いてくヒトは選んだ方がええで。コイツは、何度でも言うがカネの為なら何だってやる、そんな男や」

 

 そこまで言い切って大男はハナノアカリから視線を切る。

 そしてふん、とひとつ鼻を鳴らして地面に未だ接地している男を見下ろした。

 

 

「ほんと、むかし、そうやって大事なモンまでカンタンに質に入れよったよな」

 

 

 みっともない。

 侮蔑を隠そうともせず大男は鼻から息を吐いた。

 そして春木をちょっと見やって眉間に皺を寄せ、目の前で驚いたように目を見張るウマ娘に視線をやる。

 

「ええんか嬢ちゃん。アンタの後援者、こないなみっともないで。おのれの頭になんの重さも見出してないねんやろな。やからこんな軽い。ほら! そないな軽い頭いくら下げたって一銭にもならん!」

 

 

 やから大事なモンもすぐ捨てる、と。

 裡に秘めた感情を漏れ出させるように大男は身体を二、三度ゆすった。しゃり、しゃりと独特の衣擦れの音が昼下がりの河川敷に響いた。

 

 

「おねがいします」

 

 

 春木は同じ台詞を口にする。

 それまでの一切合切のやり取りを全部耳にして、それを聞いて、理解して、それでも尚、最初と同じ願いを口にした。

 それしか方法はないと思っていた。

 みっともないが、策も手札も何も無い。その程度の男だった。

 

 ギリと鈍い音が頭蓋骨の内で反響した。

 

 

「…………」

 

 

 その、丸まった背中を見て、ハナノアカリはふと気がつく。

 

 自身の心の中に芽生えた感情とも言えない何かに。

 

 それは明確に言語化出来るほどのものではない。例えるなら、昼間に夢で見た何かを、思い出す曖昧さ。

 

 

 目の前の人物は、ワタシを慮って頭を下げているのではなく、己の願望──お金のために頭を下げているらしい。

 

 

 先ほどまでの友好的な態度も、笑顔も、語ってくれたレースの素晴らしさも、全て手段。まやかし。

 

 お金を稼ぐため、ワタシを走らせるための手段。全てはお金のために。

 

 

 

 ──それって。

 

 

 

 彼がお金のためにそこまでする人だと言うのなら。

 

 今こうして、私が走れるように頭を下げているのなら、それは……。

 

 

 

「──ねぇ、ミノル。ミノルはワタシの走りにお金を見出してくれているの?」

 

 

 自然と口から溢れたその問いは、静かに空気に溶けていった。

 

 久方ぶりの、自発的に口を開いたウマ娘に大男は片眉を上げる。

 少女はしゃがんで春木に目線を合わせていた。

 

 

「ワタシの走りがミノルにとって、()()させるに値する物だと信じてくれているの?」

 

 

 沈黙。

 数瞬の静かさがあたりに満ちて、地面に伏せる男がそれを破った。

 

 

「は、信じるもなにもあるかよ」

 

 

 その声はどこか投げやりだった。

 思えば、最初から“どうなっても良い”とどこか思っていたのかもしれない。

 

 取り繕って騙したと思った少女も、目の前でネタバラシを受けた。

 

 自身の欲望のために、浅ましく利用してやろうという魂胆を暴かれた。

 

 笑顔の下に隠してた醜い魂を白日の元に晒された。それがなにより──恥ずかしい。

 

 

 

 

「……クソったれ。ああ、そうだよ。利用したんだよ、お前を、アカリ。お前に笑いかけたのも、話しかけたのもぜんぶ()()だ。俺のための“賭け”だ」

 

 

 ──お前のためじゃない。

 

 

 春木の声は、叱られる子供がやけになって自分のやった事を詳らかにするようだった。要は投げやりだった。

 少し前に取引に失敗し、もとよりギリギリだった生活はついに破綻した。

 

 

 最後の賭けと近づいた少女も、天は許してくれなかったらしい。

 春木は笑った。とっとと諦めてりゃよかったと笑った。

 じゃなきゃ、()()()()()()()()男のために、少女がひとり傷つくこともなかった。

 

 

 大男は春木の述懐を聞いて、本格的に顔を歪める。醜い野郎だ、と。

 

 

 

 そうして当のウマ娘本人はどうしたかと言うと。

 わなわなとシッポを揺らし、目を見開いていた。

 

 

 ──それって。

 

 

 ウマ娘は思う。

 

 

 

 

(──それって、私の走りにカネという“夢”を見てくれたっていう告白そのものじゃないか)

 

 

 

 

 菖蒲色のウマ娘はふるりと一つ震えた。

 そしてしゃがんだ状態から立ち上がると雲のたなびく空を見て、目を閉じた。

 

 

「──わかったよ」

 

 

 その瞬間、空気が変わる。

 大男は肌でそれを感じ取った。

 

 具体的に何かとは言えないが、空気の香りが変わったとでも言えば良いのか。

 

 先ほどまでのどこか嫌な湿気のじっとりさは幻のように霧散し、爽やかな空気が有無を言わさず辺りを撫で始める。

 

 

 その発生源は紛れもなく、先ほどまで狼狽えていた小さなウマ娘。

 

 

 

 菖蒲色の少女はクッと首を回して、閉じた目を大男に合わせた。

 ゆっくりと瞼が上がる。浮かんでいたのは、鮮烈なまでのサクラ色。

 無意識に大男は喉を鳴らした。

 

 

 雰囲気が、まるで違う。

 ナニかが彼女の心の琴線に触れ、寝ていた種子が芽吹くように覚醒していた。花は咲く季節が来たならば、咲く理由を与えられたのなら、硬い地面を突き破って大輪の花を咲かせる。

 

 

 ハナノアカリは今、咲く理由を見つけた。

 

 

 

「ねぇ、そこのおっきな人。さっき、この人のことを“みっともない”って言ったよね」

 

「……? おう」

 

「みっともなくないよ」

 

 

 少女は春木の額に手をやって、優しく、かつ力強くグイと押し上げた。春木は膝立ちになり、下手人のウマ娘をちょっと睨む。

 彼女はそれにたじろぐ事はなく、ニカっと笑った。

 

 

「ワタシは嬉しい! こんなにもワタシの走りに必死になってくれて!」 

 

 

 ハナノアカリは高らかに、先ほどの戸惑いは微塵も残さず胸に手を当てて謳う。

 春木は悪い人かもしれない。良い人かもしれない。

 出会ったばかりで何もわからない。

 だが、ただ一つ。確かなことは──

 

 

「ねぇ、ミノル! あなたがワタシの走りに“夢”を見てくれているというのなら!」

 

 

 確かなことは、やるべきこと。

 ここで相手を説得し、身分を手に入れる。レースに出る。そして、春に咲く桜のように誰かに“夢”を──

 

 

 そのために。

 目の前の、泥に塗れてくれた人のために。

 まだ見ぬ誰かのために。

 

 

「ワタシは走る!」

 

 

 カン、とハナノアカリは脚を振り下ろした。

 すり減った蹄鉄付きの靴が高い音を奏でた。

 

 

 

勝負(レース)をしよう! テツさん!」

 

 

 

 びゅう、と春の嵐に似た風が吹いて、菖蒲色の髪の毛が巻き上がる。

 大男は生涯、この光景を忘れはしないだろう。

 

 

 

「ワタシたちの“夢”、その第一歩を賭けて」

 

 

 

 ──満開の桜を幻視したあの春の日を。

 

 

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