とあるドキュメンタリを覚えている。
何かの製造をしている工場のドキュメンタリだった。
取材を受ける赤ら顔の所長が誇らしげに語る。環境に配慮した設備に転換したのだ、と彼は無骨な原材料を持って説明していた。
場面が移る。
原材料はレーンに乗って、切って、洗浄して、裁断して、形を整えていく。流れ作業だ。
よく分からないものは、あっという間に“製品”へと変わっていった。
『ここからが大事なんです』
所長がそう言ってレーンを整然と流れる製品を手に取った。そして目の高さまで掲げてまじまじと見つめ、何個か、何十個か、何百個かもしれない。とにかく何個かに一個は手に取って、無表情に投げ捨てた。
『歪みがあるんです。いわゆる不良品ですな。こういうのは見た目は同じでも、キチンとした製品と同じ性能は果たせないんです』
私は長いことやってるので見ただけで分かります、と笑った。
なぜだかその顔を見ているとザワリと心がさざめいた。
どんな感情によるものか分からないし、いまだに言語化は出来ないでいたけど、とにかく心地の良い物ではなかった。
ドキュメンタリの場面は完成品を褒め称える所に移る。
完成品が画面いっぱいに鎮座して、ライトアップによって輝かんばかりだ。
だけど、わたしは画面いっぱいに映る完成品は記憶に残らず、画面の隅に無造作に積み上げられていた不良品を覚えていた。ピントもあってない、誰からも見られない不良品を。
わたしは、日陰にある不良品を覚えていた。
◆
トレセン学園には学生が食事を摂る事が可能なカフェテリアが開放されている。
ただでさえ食事量が多いウマ娘、更に食べ盛りの年頃を満足させるとあればカフェテリアは相応の設備と広さを兼ね備えた場所となった。
メニューも豊富であり、学生かつアスリートである彼女たちを支える食堂は常に満員御礼だ。
(やっちゃった……)
つまり。有り体に言えば。食事時間にはとても混む。
すでに満員となったカフェテリアを見て、お盆を持ったまま栗毛のウマ娘は立ち尽くしていた。
(空いてる席は……ない)
うろうろ、うろうろとお盆を持って彷徨うがどこも空いていない。時間をずらせばある程度は混雑も緩和されるのだが、この後は予定がある。申請しておいたコースの時間があったのだ。
だから早々に食事を終えて、服を着替えてコースに行かなければせっかくの申請が無駄になってしまう。座れる席を探すのに目を忙しなく動かしていた。
(ない、ない……どこも、埋まってる)
普段よく一緒に食べている子たちは運悪く遠征に出ていて学園には居ない。だから自分だけで席を確保しなければならないが、こうして席の確保が出来ずに彷徨っている。
(テレビの近くは……人気だよね。みんな見るから。そりゃ、そうだ)
テレビではレースの映像が流れている。お昼のニュース番組、そのスポーツコーナーだろう。今日は平日だから週末のレースのプレイバックがよくやっている。
『いやぁ、凄まじいメンバーでしたね。では早速レースを見ていきましょう──』
壁に備え付けの液晶は大きくて、何インチあるのか前に調べたけど忘れてしまった。
「あれ、あの子、映ってない?」
誰かの高い声が聞こえた。
何のレースをやってるのかは見なくても分かった。菊花賞だ。物凄いメンバーが一同に会したそうで、事前の盛り上がりは街中にも如実に波及していたのを覚えている。コメンテーターが興奮したようにマイクを握っていた。みんなも同じように盛り上がっている。
わたしは、レースが始まる前に顔はテレビから反対を向いた。
『スタートしました──』
季節は10月末。聖蹄祭まであと2日の昼下がりだった。
◆
メイクデビューして数ヶ月も経った。
実家を出てからはもうすぐで一年になる。
頑張って走った。それで、一勝して以降、秋口に入ってからは掲示板にすら嫌われていた。後方で土を被ってじゃりつく口腔。ゴール板を過ぎた後の冷めた体と口の中の感触が今もすぐ、思い出せてしまった。
『──! ──! 突き抜ける!』
テレビでは同じトレセン学園に通う子の名前が連呼されている。何度も名前を叫ばれて、世界の中心にいるようだ。実際、このレースでは紛れもなく中心にいた。
『──! ──、見事1着!』
映像は次のレースになる。この子もトレセン学園の子だ。
何度も名前を呼ばれて、バ群を突き抜けて、イチバンにゴールを駆け抜けた。記者が殺到して、レース後のインタビューでは顔に疲労を滲ませながらも、それ以上の充実感で滾っていた。
わたしは制服でここに居る。
わたしもおなじトレセン学園にいるのに、世界が違うみたいだ。画面にいるのは優駿たち。輝かしいウマ娘たち。菊花賞、G1の舞台で競うウマ娘たち。
『いやー、すごいレースでしたねぇー、何度見てもあの差しの場面は鳥肌モノです。では早速、解説に移っていきましょう。今回のゲストは──』
いま、こうしてお盆を持ったまま座る席も探せずに立っているわたしは何だ。
周りの音が遠くなった。
いま、こうしてグラウンドの使用時間を気にしているのに事前に席も確保できない要領の悪いウマ娘はなんだ。
視界が薄ぼんやりしてきた。
わたしは何の期待を背負って送り出してもらったんだろう。
「……」
ツキリと右膝が針のような痛み一瞬訴えて、沈黙した。
静かにしてよ。確かに、オーバーワークかもしれないけどさ。
でも、他の子達より何倍も、何倍も頑張らないと追いつかないのだ。
ここ最近は、何もかも噛み合って無いみたいで、上手くいかないけど、立ち止まるわけにはいけないのだ。だって、立ち止まったら、それこそもう……
ああ、でも、ここにお父さんとお母さんが居なくて心底よかったと、それだけは本当に良かったと感謝した。
カチャ、と食器が音を立てた。
お盆を覗き込む。今日はにんじんハンバーグだ。トロミのあるソースが照明を反射して飴色に照り返してる。付け合わせのサラダにはゆで卵がスライスして入っていて、白身の色が緑の草とコントラストを作っていた。
「……ふ」
はっきり言って食欲はない。
お腹は空かない。常に胸の奥がつっかえてるみたいなのに、新たに入る余地なんかあるものか。わたしなんかが呑気にご飯を楽しんでいいのか。こんなに置いてかれて時間がないのに。
「…………」
頭が、重たい。瞼が重たい。手足が重たい。お盆を持つ手が痺れる。
寝不足かな。早く席を探さないと。もう砂が入るかもしれないけど外のベンチで食べようかな。教室があった。でも、他のみんながいるとこは、今はヤダな。そうだ、寝なきゃ。睡眠時間はパフォーマンスに直結するんだから。だけど、休もうとするたびに、追い立てられるような焦燥がある。こんなにわたし、心が弱かったなんてな。
電気を消した部屋の天井が歪む。
『素直に休んでて良いのかい? 他のライバルたちはもっと練習して、差が更に広がるね。ほら、いまこうしている間にも!』
「──っ、うるっさい!」
頭に浮かんだ声に小声で反論した。
「おーい」
自分の叫びでキンと響く耳に、なんだか呑気な声が聞こえた。
ハッとして意識が目の前に戻る。
カフェテリアのざわめきが再び広がった。
「座る? ここ、あいてるよー」
声の主はすぐそこの2人がけのテーブル席に陣取っていた少女だった。
見慣れない子だ。誰だろう。黒を基調とした制服を椅子の背もたれにかけて、シャツの裾を捲ってご飯を食べている。見慣れない服だ。何処の子だろうか。来校者だろうか。
彼女が座って居る窓際のテーブル席は日当たりがよく、昼の麗らかな陽光が肩口より少し長い髪に暖かな色を添えていた。あたりはちょっと壁があって、彼女のいるテーブル席だけカフェテリアから区切られてるみたいだ。
「そんなとこ立ってないで、ほらっ、おいでって」
見慣れないウマ娘が手を振りながら呼ぶ。
なんというか、小柄で、短くちょこんとまとまった眉毛を動かす様は小動物みたいだった。実家で飼っている日向でうとうとしているインコをふと思い出した。
「あっ、はい」
「敬語じゃなくていいよ──!」
こうして、ある昼下がりのカフェテリアにて、わたしは朗らかな雰囲気を纏った見たこともないウマ娘に出会った。
◆
「にしても、こんなに食堂、混むんだねぇ、びっくりだ」
席に着いた途端、目の前の彼女はしみじみと呟いた。
背後にある窓では寂しくなった木が風に枝を揺らしている。
「席、ありがとうございます」
「ん? いいよいいよ! 気にしないで! 空いてたんだから!」
ニコ、と彼女は笑った。
(あ、可愛い)
なんだか見ていてホッとする子だなと思った。薄い桃色みたいな髪色と、少し濃い瞳。彼女はくるくると変わる表情でお昼ご飯のナポリタンを不器用につついている。箸で。
「むっ、むむっ」
「……あの、よければフォーク、使います?」
ハンバーグ用に取っておいたが、別にこちらは箸でも問題はない。お盆からフォークを取り出して目の前に置けば彼女はありがと! といって受け取って食べ始めた。
「──いただきます」
彼女は小さな口で目一杯頬張る。いきなりフォークを使ったせいで量を見誤ったのか、口の中がパンパンだ。ちょっと涙目になりながら必死で咀嚼をしている。
(かっ、かわっ……!)
必死でご飯を食べる、目の前の名前も知らない彼女をいつまでも眺めていたいが、そういうわけにもいかない。この後、練習がある。速やかに食事を終えてアップを始めなくては。
(…………)
ひとくち、切り分けたハンバーグを口に含み、白米と一緒に食べた。
ソースにコクがあって美味しい、はずだ。喉が閉じてるみたいに、中々飲み込めなかった。でも無理矢理水で流し込んで腹に入れる。
付け合わせのマッシュポテトを時折挟みながら無心でハンバーグを食べ続けた。もそもそもそもそ、と。なんだかわたしの食事は目の前の彼女と違って、生きるためにやってる栄養補給みたいだ。や、食事の本質はそうなんだろうけど、せっかくの手間暇かけた味付けを無駄にしてしまっている気がして胃が痛んだ。
『では、次のレースに注目しているウマ娘はいますか?』
『そうですね。どのウマ娘もそれぞれの強みがあり手強い。いずれターフで会うことが楽しみです。しいて言うのであれば──』
テレビではシンボリルドルフさんが記者からのインタビューに答える映像が流れていた。背後に液晶があるからちょうど音声は余さずこちらの耳に入ってくる。
シンボリルドルフ。トレセン学園の会長。比類無き才能のウマ娘。皇帝。あんなレースは見たことがない。あの目まぐるしく変わる濁流みたいなみたいなレースという魔物をどうやったら1人のウマ娘がコントロールできると言うのだろう。わたしにはとても想像がつかない。
そういえば今日は朝からエアグルーヴさんと共にどこかに出ていたというが、用事は終わったのだろうか。どちらにせよわたしみたいなウマ娘には関係のないことだ。現実として居る世界が違うのだ。シンボリルドルフさんとわたしは。
「…………」
ふと食器の触れ合う音が止んだと思って目の前を見てみれば、桃色の彼女が食事の手を止めてこちらに目を向けていた。薄いピンクに染まった虹彩が太陽を取り込んで、こちらを見ている。
「ワタシ、あなたのお話、聞こっか?」
「えっ?」
唐突の提案だった。
何を言ってるのか分からず、思わず聞き返してしまった。
「なにか、あるんじゃない? 言いたい事とか、誰かに聞いてほしい事とかさ」
そんな感じ、するよ、と対面に座った彼女は言った。
あまりに唐突で、脈絡がない提案だった。普通なら、このウマ娘大丈夫かな、と心配するところが、不思議と彼女は自然体だった。
「話してごらん、ほら、ワタシ、多分きみよりお姉さんだから」
なんだか彼女の話し方は独特だ。語尾が柔らかくて、最後の言葉と空気の境がゆったりとしていて、聞いていると落ち着く。
彼女の目がこちらを捉えている。濃い桜色がジッとわたしという存在に注意を向けている。
急かされていた心がふっと呼吸をするみたいに緩んだ。
「…………」
無言の時間だった。
わたしが突然のことで答えられていないでいると、彼女は何事もなかったように食事を再開した。すこし苦戦しながらフォークでナポリタンをくるくるとしている。彼女はそれきり何も聞かない。
かちゃかちゃと食器の奏でる高い音が小気味よく、2人の間にあった無言の隙間を埋めてくれていた。わたしのペースを待ってくれていた。
「きょうはお天気だねぇ」
彼女が呟く。
咀嚼していた分をゴクンと飲み込んで、外を目をやり、目をちょっと細めた。
「──っ、菊花賞に」
引き攣った声が口から飛び出していた。
周りのざわめきは聞こえなくなった。
自分が何を言ってるのかもわからなかった。
「菊花賞に、出られなかったんです」
ただ、喉が勝手に動いたみたいに、胸の奥から迫り上がってくる言葉を止められなかった。
「たくさん、『頑張ってね』、って期待されて送り出されたのに、わたしは、まだ重賞なんて夢みたいで」
声が震えてる。
彼女はジッとわたしを見てる。
「走っても、走っても、結果は霞みたいに掴めないんです。わたし、言ったんです、家を出る時に、お父さんとお母さんに、G1取れるようなウマ娘になるよって」
受け取ったタイム表を覚えている。
そんなに良くは無いと思ってはいたが、数字として現実に突きつけられると不安が一気に実体を持ったように絡め取ってきた。
受け取ったプリントの冷たさを覚えている。くやしくて、くしゃくしゃに鞄にしまって、シワだらけのプリントを見返した時にひどくみじめになったのを覚えている。
「なのに、いま、全然で。こんなんじゃ、誰に合わせる顔もないんです」
電話で嘘を言ったあとの後悔を覚えている。
実家から両親が心配して電話をかけてくれて、『心配ないよ。なんなら今度レースに出るんだ』なんて言った。嘘だった。あんなに真心を込めてくれた2人に、わたしは嘘で返してしまったのだと電話を切った時に気付いてしまった。
「わたしはっ……」
心臓がドクドクと脈打っていた。
口の端がヒクヒクと痙攣していた。止まれ。
恥ずかしい、こんな初対面の彼女の前で急にペラペラと独白を始めるなんて。でも、止まらない。彼女は何も言わない。
「わたしは、あのテレビに映るようなキラキラしたウマ娘とは違うんです。あっちが黄金なら、わたしは鈍色なんです。それで、何より嫌なのが、それを嫉妬してることなんです。わたし、嫉妬してるんです」
そうだ。
嫉妬してるんだ。
どうにもならない現実に、レースの結果に、ちいさな子供みたいに嫉妬してるんだ。ズルい、ズルいって。
ああ。思ってたより限界だったのかもしれない。
こうなる前にチームのトレーナーにでも相談するのが正しいのだろうけど、他の子達も担当している人にこんな形もあやふやな不安をただぶつけるのは気が引けていた。
そうしてバ鹿みたいに溜め込んだ結果が、これか。
「テレビでキラキラしてる彼女たちだって、苦しい思いをして頑張ったって、なにより同じ環境にいるわたしが知ってるのにっ、嫉妬してるんです。わたしにもその才能さえあればって」
悔しい。恥ずかしい、顔を上げられない。
俯いた視界に写る食べかけのハンバーグがいやにもどかしく思えて、余計に目の奥がツンと痛んだ。
「わたしは、……わたしは、もう、ちょっと、……ごめんなさい」
耐えきれなくなって顔を覆う。泣かない。泣きはしない。絶対に。ギュッと体に力を込めて、そして体を丸めるようにして外の一切を遮断した。誰にも見られたくなかった。恥ずかしかった。小さなころは無鉄砲に将来を声高らかに語っていたことがウソみたいだ。
ごめん、ごめんね、小さなころのわたし。わたし、いま、こんなんなっちゃったよ。
「笑って、いいです。重賞入着だって、夢みたいなのに、G1勝つことが
頭を上げられない。血液に鉛が通ったように重たい。
全ての音がぼやけて遠くなって、それで、聞こえてきたのは楽しげな声だった。
「ふふ」
声の主は彼女だ。
日向に座って居る、太陽に愛されたような可憐なウマ娘。
「笑っていいの? ふふ、本当に?」
そんな彼女が、ころころと鈴を転がすように口元を手で抑えて笑っていた。
「こんなに大事にしているキミの夢を、本当にワタシは笑っていいの?」
「あ、え」
二の句が継げない。
強い瞳に射すくめられて、石にされてしまった。
「あはは、ゴメン、ゴメン」
彼女はスッと手を伸ばし、わたしのあたまを2、3度ポンポンとかるく叩いた。身体は楽になった。
「レースは好き?」
彼女が聞く。
「好き、でした」
「そっか」
いつの間にか、わたしは頭を上げていた。
それで、彼女のことを見ていた。桃色の彼女は斜め後ろにある窓の方に視線を向けながら、独り言のように口を開いた。
「ワタシをね、レースの世界に引き込んでくれた人は、最初ワタシを騙すつもりで声を掛けたんだよ。ヒドイよね」
何かの冗談かと思った。場を和ませるための。だけど、語る彼女の目はどこまでも揺らぎがなく、だから本当のことを言ってるのだと分かった。
「ワタシが走ればお金になると思って、なんとしてでも走らせたかったから、出来もしない大レースに勝てるって虚言を弄して、それでレース場に行ったんだ」
やれやれと桃色の彼女は肩をすくめる。なんだか仕草が妙に歳を食ってみえて、ちょっと面白かった。
「立場も、コネも、練習場所も満足に無かった。でも、
「意志……」
いつの間にか、周りの音も聞こえなくなっていた。この世界にあるのは、わたしと彼女とテーブルだけ。意識がただ目の前の少女に向けられる。いっそ怖いくらいに彼女の髪は照らされ輝いていた。
「輝かしい才能に対抗するなら、強い意志を持たなくちゃ。結果が保証されてない世界に、怖い世界に、それでも未来を信じて賭ける意思を。先の見えない道に飛び込む意志を。だって、才能はそれだけで凄いんだから。無慈悲で、不平等で、光輝に思える。ワタシは知ってるよ」
だから──
「勝つんだ、それらに。意志を以て」
ニッと笑う。
白い歯がちらりと見えて、彼女は軽くウインクをして話を締めた。
フッ、とカフェテリアの空調が頬を撫でて、彼女は満足げにフォークを手に持って、わたしは口を開いた。
「え、無理です。わたしには無理です。強い意志だって、それこそ
「──ほ?」
彼女がポカンと口を開けている。わたしはヘンな事を言ってるのだろう。昔から“見かけによらず頑固だ”なんて言われてたけど、今がそうなのだろう。
「気持ちだけでなんとかなるんだったら、それこそ大勢のウマ娘が勝ちますよ。想いの強さがそのまま速さになるなら、きっと挫折するウマ娘なんて生まれないはずです」
彼女はびっくりした顔をして、さっきまでの雰囲気は無い。
わたしは、悪いとは思いながらも動く口は止められなかった。
「──……」
「だから、わたしには到底そんなもの──」
「うーるさーい! つべこべ言わずに走るの! キミは!」
彼女がパンと軽く机を叩いていきり立つ。
そしてビシ、と指を指された。
「強い意志の才能が無い!? いいや、
何を、言ってるのだろう。
なんでそんなに自信満々に言えるのだろう。
根拠は何処にあるんだ。後ろ向きに真面目な言葉が頭に浮かぶ。
「だって、キミは悩んでるじゃない。みじめだーって言ってもココに残ってるじゃない。その練習靴は何のため? 使い古された靴袋は諦めの証拠? 違うよね」
思わず椅子の横にかけていたシューズを見る。この後すぐに練習に行けるように、いつも持ち込んでいた。
チラリと見えた中身は傷だらけの蹄鉄があった。
「見せてよ、キミの夢の煌めきを」
彼女は言う。
先ほどとは打って変わって、優しげな声で。
でも、違う。わたしはそんな大層な存在じゃない。
期待をかけてもらえるような立派なウマ娘でないのだ。
「……わたしなんか……あなたが思ってるようなウマ娘なんかじゃないです」
ごめんなさい。
こんなに言葉を重ねてくれてるのにことごとく否定してしまってごめんなさい。あなたにはわたしを説得する意味も意義も、得られる利益もないのにここまで付き合ってくれているのに。
でも、ダメなんです。
過去に何十、何百と自分で自分に吐いた否定が、素直に誰かの言葉を受け取れないひねくれウマ娘にしてしまったんです。ごめんなさい。
「自分で自分を低める言葉を吐いちゃ、メ。それは確実に自分を脆くしちゃうんだから」
つらつらと重ねていた自己防衛の言葉は、ぴしゃりと切って捨てられた。
下げた頭に、いつの間にか手が添えられていた。
わたしより小さな、でも細かな傷のある、物語を持った手だった。
「いい? 二度と、二度とだよ。自分を傷つける言葉は使っちゃダメ。そこに逃げるのはひとつの弱さと思って、奮い立ちなさい」
この短時間でも分かったことがある。彼女は意外なほど厳しい。でもどこか、温度のある厳しさだった。つらい言葉のはずなのに、じんわりと心が動いていく。
「ね?」
彼女は優しく、こちらを見て言葉を紡いでいる。
この世界に取り残されたわたしという存在を瞳に認めていて。その時間だけはゆっくり息ができる気がした。
本当に不思議なウマ娘だな、と思った。
「──キミは愛されてた?」
「えっ? と……両親には愛されてたと思いますけど……どうだろ、いざ急に聞かれると……」
急な質問だった。でも、彼女の急な話題の転換にも慣れたわたしは頭で考え始める。
愛されてたか? 愛情はあったと思う。だけど、文化圏からか分からないが“愛してるよ”とは面と向かって言われた事はないし、きちんと聞かれると答えに窮してしまう。そもそもなぜ急にそんな事。
そう思って彼女の顔を見れば、──柔らかだった。
子供の自転車を見守る親のように、陽だまりに照らされた顔は穏やかな顔だ。
「なら、ワタシがキミを愛してあげる。キミのことを応援してあげる。ガンバレ! 遥か遠い世界で頑張るウマ娘! 苦しくてやめたくて、でも憧れを捨てきれなくて、不器用にも、もがいてるあなたを」
応援してる、遠いところからでも。
彼女は言った。
そして眉間に皺を寄せるわたしを見て、仕方がないな、と言った具合に軽く笑った。
「そら、愛されたなら、否定なんかさせないよ。愛されたなら、愛に報いなきゃいけないよ。キミは素敵な心のウマ娘だ。目標は遠いぞ、さぁ、気張れ、踏ん張れ、頑張れ!」
頭を叩かれた次はポンと肩を叩かれる。
顔が近づけられて、より明瞭な声が耳朶を打った。くすぐったいほどの音の粒が頭から身体に浸透していく。
「うじうじし切ったら、走れ!」
走れ!
声が響く。背骨にびりりと響く。
小さな体躯から重たい言葉が飛び出してくる。
「走れ!」
走れ!
彼女が言う。
楽しそうに、愉快に。
走れ!
「レースが待ってるぞ」
彼女はそう言って、手に持ったフォークを指揮者のタクトのように窓の外にあるグラウンドを差し示した。
そこには理論などまるでなかった。
ただ、力技のゴリ押しだ。
それでも、新緑の香りがぶわりと鼻いっぱいに広がった。
世界が開けて、ターフの輝きが目に飛び込んできた。わたしが今まで無視してきた存在は、きちんとそこにまだあった。
「走れることは、きっと、素晴らしきことだから」
「……っ」
彼女が言葉に力を込めて言う。わたしのために考えられた言葉たちは、さながらオーダーメイドの服がピッタリと合うようにわたしの頭にストンと染み渡った。
気がつけば。
気がつけば、机を照らしていた日差しはわたしの方まで少しだけ伸びている。でも、まだ日陰だ。
「──走っても、いいんでしょうか」
彼女に訊く。
「また、頑張れるんでしょうか」
答えを期待したのか自分でも分からない。
“出来る”と力強い肯定が欲しかったのかもしれない。いや、欲しかったんだ。
「知らないよ、そんなの」
しかし返ってきた言葉は違った。
彼女と目が合う。
「でも、やるんでしょ? なら、出来ないなんて事はないよ」
「────」
「──ふっ、ふぐっ、むぐ」
返事はしなかった。急いで、目の前の食べかけのハンバーグにがっついた。口の中の水分が無くなって詰まりかけて、胸を慌ててドンドンと叩く。彼女が慌てて水の入ったコップを差し出してくれた。飲む。呑み込む。また、食べ始める。
擬音で表すなら、ガツガツと食べる。
「ふ、ふっ、ぅ、ぅぅー……っ!」
ポロポロと涙が溢れる。
口の中をいっぱいにして、咀嚼をしながら泣いていた。
泣いて、食べて、もう何が何だか分からなかった。
でも、食べた。この後のために。練習のために。強くなるために。
勝つために。
「──ぅ、むぐっ、ふっ、…………ごちそうさまでしたっ」
あんなに量が多いと思っていたハンバーグは完食して、付け合わせもまとめて平らげた。口元を紙ナプキンで拭って前を見れば、満足そうな顔の彼女が居た。なんだか急に恥ずかしくなって、顔が熱くなる。きっと側から見たら真っ赤になってるはずだ。昔からこうだった。
でも彼女は何も揶揄ったりせず、ただ、ニコ、と頬を上げた。
「キミの名前は?」
聞かれて思い出す。そういえばまだ言っていなかった。
こんなに話しても名前を言わなかったなんてちょっと可笑しな話だったなと思いながら。
「イツカノダレカです」
「イツカノダレカ。うん。良い名前だね」
いちど口の中で転がすようにわたしの名前を呟くと、彼女は頷いた。なんだか自分という存在をコロコロの舐め回されるような、そこまで生々しくは無いけれど、とにかくくすぐったい感じがした。
「イツカノダレカちゃん」
また名前を呼ばれる。存在を触って確かめられるようなくすぐったさはあったけど、それより彼女の声色が違っていたことに気を取られた。
「ワタシは祈ってる。キミの快走を」
遠い場所でも、もう直接会えなくても。
まるで祝福の言葉を告げるように、結婚式の締めくくりの文言のように、何処か厳かさがあり、形式ばっているけど、背後に万感の思いが込められた一言だった。
「それじゃ、ワタシは行くよ」
彼女はお盆を持って席を軽く引いた。先ほどまでの厳かな空気はすっかり霧散して、会った時のような日向にいる小動物に似た雰囲気を取り戻していた。
彼女が立ち上がる。行ってしまう。
「あのっ! ……その、また、会えますよね」
彼女は答えなかった。こんな可笑しな質問をしてしまうくらい、なんだか彼女はフラッと消えてしまいそうな雰囲気を持っていたから。春の桜が、少し目を離した隙に桜吹雪になって散ってしまうみたいに。
彼女はちょっと遠くを見て、わたしを見た。ああ、嫌だ。だって、彼女は、喚き散らしたくなるくらい優しい眼差しをしていたから。遠くに行ってしまう。不思議な直感で理解した。
違う制服の彼女はトレセン学園の生徒じゃないのだろう。彼女が誰かわからない。でも、繋がりが欲しかった。これっきりは寂しかった。
「それで、もし、よければ……ウマスタ、交換しませんか?」
「う???」
だから、そうやって携帯を取り出し、提案をしてみたら彼女は動きを止めた。
「……???」
「──?」
彼女が首を傾げ、つられてわたしも首を傾ける。
2人の間になんだか奇妙な間が開いた。
「あ、う、うん! 交換、交換ね! よし、分かった、だいじょうぶ。ちゃんとあるよ。さっき作っておいてよかった」
硬直から再起動した彼女は慌てた様子で服の内側を弄る。
頬に冷や汗が見えた。携帯を無くしたのだろうか。ルームメイトが携帯を電車におき忘れた時に同じような反応をしていたことを思い出す。彼女もそうなのだろうか、と思っていると、予想外のものが手渡された。
「はい! 作りたてで何もつけてないから、使う時は蝋塗ってあげてね!」
手のひらに置かれたのは、ちょうど握り拳よりすこし大きい円形の厚紙。表と思われる面には何処か見覚えのあるウマ娘のイラストが鉛筆のようなもので描かれていた。厚紙の断面はすこしギザギザしていて、手作りのようだった、
──フルドルリボンシ
イラストの横に添えられた文字であるカタカナを見て首を傾げる。
「これは……?」
「えっ、ほら。“うますた”だよ、うますた」
「えっ、と」
彼女は何言っているのだろう。もしかしてわたしの尋ね方が不味かったのか。それとも聞き間違えた何か勘違いをしているのか。左手で持った携帯が手持ち無沙汰になっていた。
「
違う。
ウマスタグラムと言う名前のアプリだ。
だが、そんなにも自信満々に説明されるとこっちが間違っているのかと思えてくる。いや、実際彼女の中ではこれが正解なのだろう。
「あっ、もしかして大きい方がよかった? 会心の出来だったからワタシの秘蔵にする予定だっけど、このクリ──」
言葉が止まる。
彼女の綺麗な色合いの耳がピクピクと反応した、と思った矢先、彼女はくるりと向きを変えて出口へと向かっていった。
「じゃ、またね! そういえばワタシ、ケイタイ、無いんだよ!」
「無いんですか!?」
立ち去りながら言われた言葉に驚愕する。そんな事あるのか。親元を離れているというのに。
「うん! だから、電報ならいつでも受け付けてるから、それじゃ! 芝のコース走ってくるー!」
でんぽう……。
頭の辞書を検索してもヒットが出ず、そうこうしているうちに彼女はいつのまにか風景の中に消えていった。後になかったのは日当たりの良い暖かなテーブル席と手のひらに残ったメンコのみ。
その、ただの厚紙に温度が残っているような気がして、そっと胸に押し当てた。するとカフェテリアの入り口付近が俄かに騒がしくなった。
なんだと目線をやれば、そこに居たのは『皇帝』シンボリルドルフであった。
テレビで見るのもまた凄いが、やはり生はオーラが違う。これでレース前はもっと盛り上がるのだから一体どうなってしまうんだ、なんて呑気に考えていると、シンボリルドルフはまっすぐにこちらに向かってきた。
「すまない、君。先ほどこの位のウマ娘を見なかっただろうか。桜色の髪をしているんだが……それは?」
あのシンボリルドルフに話しかけられている。
わたしが、話しかけられている。一体なんなんだと思いながらも、“桜色の髪”でピンときた。
「さ、さっき貰いました。あと、あの、わたし、たぶんその方みました。これ、シンボリルドルフさん、ですよね? お返しした方が」
手元にあるメンコを差し出す。
本当は手放したくなんて無かったが、これはきっと彼女が気まぐれで渡してくれたものだ。本来の持ち主は、名前も知らない彼女と同じオーラを持ったシンボリルドルフさんなのかもしれない。
そんな気持ちで差し出したメンコは、シンボリルドルフさんが数秒手に持って見つめて、フッと肩の力が抜けたように笑った。
「いや、いい。君が持つといい。とても価値のあるものだよ、きっと」
「──そう、なんですね」
丁寧な手つきで返されたメンコを両手で受け取る。
迷いは無かった。
「それはさておき、彼女を捕まえなくては」
シンボリルドルフさんはちょっと冗談めかして、冗談では無い速度でグラウンドの方へと駆けていった。
そういえば彼女、申請してなかったのかなぁ、とぼんやり考えていた。
「あっ、わたしも練習、行かなきゃ!」
走る。
走る。
いつか見る、ゴールの景色まで。
ハナノアカリのヒミツ①
実は、専用の蹄鉄は不良品の屑鉄を溶かして鋳造したもの。