「真っ白な 雪道に 春風香る」
誰かが歌っている。
穏やかに、静かに。風に揺れるカーテンのように、ゆったりと、ひとこと一言噛み含めるように。
「わたしは なつかしい あの街を思い出す」
布団の中で、真っ暗な部屋で。今日や明日に、自分の人生が終わるかもしれないと思った事がある。
そう思ったとき、自分が辿ってきた道筋をみて、何もないと思うと焦るのはありきたりな悩み。だけど、響いてくる歌声には焦燥など滲まず、ただただこちらへの気遣いがあった。
「叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた」
天涯孤独の自分が、終わってしまったら。終わる事が怖いんじゃない。今まで繋げてきたものが自分で途切れてしまう事が恐ろしいのだ。と彼女はかつて言った。“ここで終わったら、本当に消えてしまう。貰った想いも、かけてもらった愛情も、すべて”。
「今はただ なつかしい あの人を思い出す──」
道が通ずるかどうか分からないとき。
それでも手を伸ばすことを、彼女は教えてくれた。
「誰かの歌が 聞こえる 誰かを 励ましてる」
そうだ。誰がが歌っている。
「誰かの笑顔 が見える 悲しみの 向こう側に」
麗らかな午後の日差しのもとで。
やさしい彼女が、歌っていた。
わたしは、彼女を、忘れない。
◆
【現代 トレセン学園】
学校というものは、若人の城であって、普段であれば考えつかないようなバ鹿げたことも時々起こる。若さゆえに、有り余るパワーのために。経験の浅さゆえに、大人では思っても見ないようなことが起こるのだ。
「むー、むー!」
だから、この光景もまた、学校ならではのものかもしれない。
「むーっ! むー!!」
トレセン学園のほこる、広さ、設備、質、全てが揃った技術の結晶。グラウンド。
グラウンドには、簀巻きにされたウマ娘がひとり、転がっていた。
◆
時刻は昼下がりに戻る。
場所は現代のトレセン学園にて。
ハナノアカリはJCYグループ(元檜組)のビルにて身分と特注蹄鉄を入手したのち、トレセン学園まで戻ってきた。そして、ひとつ考えたことがあった。
練習がしたいな、と。
「いいか、また呼びに来るまでこの部屋で待機をしていて欲しい。これは、まだ君の処置が正式には決まっていないからだ」
「うん、うん! ダイジョーブ! ワタシ、ウゴカナイ」
「……本当だろうな。また可笑しな真似は」
「シナイヨ!」
「……では行ってくる」
シンボリルドルフは後ろ髪を引かれた様子ながら、引き戸をカラカラと押して部屋を出ていく。
空き教室にはひとり、ハナノアカリのみが残された。
彼女は脚の様子を確認して、自身特注の蹄鉄の様子を見た。
ハナノアカリが過去へと──彼女にとっての現代へと戻った後にあるレースは
だが、一級特殊整量長距離走に出走するウマ娘たちは誰も彼もが駿メ。並大抵では並び立つことすら無理だ。だからこそハナノアカリは身体を鈍らせたくはなかった。
脚に血が巡る。
筋肉が稼働して、うっすら筋を浮かび上がらせた。
(それに……勝たないと、ワタシが代表で鉄火場に行くって計画がおじゃんになっちゃうしね)
彼女には計画があった。
彼女の元いた時代は強いウマ娘を求めていた。
速く、力強く、持久力があり、意気軒昂。ハナノアカリは自身をそう見せたかった。
強いウマ娘になったなら。
ハナノアカリが一つの謬もなく、そう認められたなら。
突きつけてやるのだ。
『ワタシだけを代表として送れ。ワタシを試金石としている間に後続は錬成に当てよ』と。
そうしたら、きっと、ハナノアカリが鉄の雨のなかを走る間に戦いは終結を迎える。仲間たちは前へと行かなくて済む。
「んっ、ふふ」
なかなかカッコいい計画じゃないか。
だから兎にも角にも、練習あるのみである。
故に昼食を食べられる所まで抜け出して、食事を済ませた後、練習場に出てきたのだった。
つまりはシンボリルドルフの言いつけは守らなかった。
他のことに夢中であんまり話を聞いてなかったから。彼女は怒られるべきである。
◆
「ひ、広ぉ……」
目の前に広がるコース、ターフ、芝の海。
脱走ウマ娘はピカピカに見える設備に知らず、手が震えていた。
(きっと、こんな綺麗で素晴らしい設備を見せてあげられたなら、マサちゃんとかオジョーサマとか、みんなびっくりするだろうなぁ)
あまりの広さと綺麗さに、知らずそんな感想を漏らす。
そしてハナノアカリはキョロキョロと辺りを見渡した。
「?」
はて。
黒板がない。少女は首を傾げた。
コースを使った練習をするならば、予約が必要で、その予約は大抵コース近くに設置された黒板に書き込むのだが。
ハナノアカリは日陰を探した。
小さな屋根のような、日差しを遮る用途の休憩所と思しき場所は見つかったが、ここにも何も設置されていない。
「? ? ?」
ない。予約が出来ない。いったいどうやってコースの管理を──?
いよいよもって思考が堂々巡りをし、辿り着いた結論は──
「ま、いいか! 走ろ!」
誰も使っていないコースを見つけ、意気揚々と飛び込むことだった。
「ずいぶんと楽しそうにしているじゃないか」
瞬間。
何者かに肩にがしりと手を置かれ、コース手前で
「急に空き部屋から居なくなったと思えば、何をしているんだ?」
シンボリルドルフがいた。笑顔だった。顔はにこやかなのに、漂う雰囲気は正反対だった。
ハナノアカリは笑ってない笑顔ってあるんだな、とひとつ知見を得た。
「スゥー……待ってほしい」
ジャジャウマ娘は保身を試みた。
両手を“皇帝”の前に出し、待ったをかけた。
「ワタシにも主張はあるんだ。だから、そう。ちょっと聞いてほしい」
あまりに焦りもせず、シームレスに言い訳を言い出すものだから、流石のシンボリルドルフも一端手を緩めて彼女の話を聞く姿勢に入った。
「うん、うん。ありがと。ワタシ、誰かに捕まったりだとか、結構あったんだ。同部屋のマサちゃんの鬼の裁縫特訓から逃げた時もそうだった。だから、ね。こういう時の対処法も分かってるんだ。つまりは──」
突如として訪れた窮地に際して、ハナノアカリの頭脳は高速回転し、極めて古典的な策を一つ見出した。
「あっ! 見て! 一旦木綿!」
ハナノアカリの頭脳はすこし、回転数が足りなかったようだ。
(逃げろ!)
数々の修羅場を潜り抜けた“皇帝”に子供騙しが効くはずもなく。
「ぐえっ!?」
こうして冒頭に戻る。
◆
「むー、むー!」
グラウンドには、簀巻きにされたウマ娘がひとり、転がっていた。
◆
「そんなに走りたいのか?」
「そりゃ、モチロン!」
シンボリルドルフが地面に転がったままの少女を見下ろしながら尋ねると、響くような答えが返ってきた。
「ふむ」
シンボリルドルフとて、走りたがっているウマ娘を止める道理も理由もない。だがしかし、コースは学園内のネットワークシスにて申請する仕組みであり、
「っ、うぐぐ……」
シンボリルドルフが目を向けると、ハナノアカリは簀巻きにされながら、必死にターフへと這いずり近づこうとしていた。イタズラだとか、勝手知らずな様子などではなく、鬼気迫る迫力だった。
「目の前にっ、こんな素晴らしいターフがあるのに、走らないなんて……なまごろしだよっ!」
ちょっとおどけた声色で悲劇を演じる舞台役者のように大仰に言う少女。誰が見ても、仲の良い少女同士のおふざけ。だが、近くにいたシンボリルドルフだけは知ることが出来た。目だけが。目だけはおどけた殻に包まれず必死な色をしていた。
シンボリルドルフの持っていた先ほどまでの勢いは、簀巻きのウマ娘に負けて萎み、彼女は顎に手をやって考えた。
「今の時間、申請をしているチームは……カノープスだな」
南坂トレーナー率いる、マチカネタンホイザ、イクノディクタスといった有力なウマ娘の在籍するチームだ。
もし、話を通すことが出来れば、あるいはコースの一部でも使わせてくれるかもしれない、と。
「だが、知り合いも何もないだろう」
この薄桃の少女は過去から来たという。ならばこちらにツテなどなく、顔見知りなど存在はしないはずだ。シンボリルドルフが考えていると、後方からトットッと走る足音が聞こえてきた。道を譲るように脇にズレれば通り抜けていく一人のウマ娘。
「いちばんのりー!」
「おっと」
脇を抜けていったのは青色の髪を持ったウマ娘。コースへと続く階段を駆け降りていく。
「ターボ! こら! いきなり走らないっ──って、あれっ!? 会長さん。どうしてこんな所に?」
「いや、なに」
通り抜けていったウマ娘の後を追いかけるのは、二つに結んだ髪を揺らしながら息を切らすウマ娘だった。彼女の姿を認めるとシンボリルドルフはフッと笑った。
「ワタシのコトを忘れるなぁぁぁ……」
そして、この足元に転がっているややこしいウマ娘をどうしたものか、と考えを巡らせ──
「あっ」
素っ頓狂な声を桜色のウマ娘が上げる。
その声に気が付いたのか、ナイスネイチャも声の発生源へと目を向ける。
「ん? なに、このぐるぐる巻きの……あっ」
彼女もどこか抜けたような、驚きを露わにしてシンボリルドルフに視線をやった。
「……」
なぜかハナノアカリも簀巻き状態のままシンボリルドルフを見上げる。こうしてナイスネイチャとハナノアカリの2人が同時にシンボリルドルフの方を一回見つめ、また互いに視線を合わせる。なんで一回こっち見たんだろうか、とシンボリルドルフは思った。
「「あの時の!」」
◆
「まさか顔見知りだったとは」
キミには何度も驚かされる、とシンボリルドルフが苦笑しながら言った。ハナノアカリの簀巻き状態はすでに解かれていた。
「迷子になってた弟くん、大丈夫だった?」
肩を回しながらハナノアカリがナイスネイチャに尋ねると、ツインテールの彼女はすこし恐縮した様子で首を振った。
「うん、うん。ホントにありがとうございます」
「よかった、よかったねぇ」
互いに笑い合う和やかな空間。
優しくナイスネイチャの肩をポンポンと叩いていたハナノアカリは、そこでピタリと動きを止めて、笑顔のまま固まった。
「そういえば」
ナイスネイチャの顔を覗き込む。ついでに両肩を掴む。
突然に変わった雰囲気にナイスネイチャはちょっと眉を動かした。ハナノアカリの表情は変わらない。能面のように笑顔を貼り付けたまま肩をキュッと握った。
「
「え? あ、うん。アタシに出来ることなら……」
雲行きがなんだか不穏になってきた。ナイスネイチャは変わった空気を敏感に感じ取っていた。
だがしかし。ハナノアカリは関係ないとばかりにニヤリと笑った。
まるで詐欺師を彷彿とさせる胡散臭さ。
ナイスネイチャは、“この子は意外とヤバい子だったかもしれない”とどこか冷静な頭で思い始めていた。
「ふふふ……」
小柄な少女が、鈴のような声と似合わず濁ったように口角を上げる。
なにか、
「ふふふふふ……」
彼女の笑い方は、どこか少女をレースに引き込んだ三流詐欺師に似ていた。
「それじゃあ──ここで今、その
◆
「と、いう訳で、今日の午後のメニューだけ参加されるハナノアカリさんです」
「どうもー! ハナノアカリだよ!」
わー、と拍手がぱちぱちと響き渡る。
南坂トレーナーに示されて、横に立つのは菖蒲色のウマ娘。
トレセン学園指定のジャージに着替えたハナノアカリが腰に両手を当てて胸を反らせていた。
ハナノアカリの出した“お礼”の内容とは。
少しだけでもいいから練習に参加させて欲しい。というものだった。
ナイスネイチャに頼み込み、南坂トレーナーがこれを承諾。ハナノアカリは制服姿だった為、ジャージを借りてきてついでに一般的な蹄鉄付きシューズも借りてターフに降り立ったのだ。
「無理しないでね?」
「まあ、見てなさいって」
興味深げに見る“カノープス”の他のメンバーとは裏腹に、すこし不安げな視線を送るナイスネイチャ。それに対してハナノアカリは心配ご無用と鼻を鳴らした。
「坂路、三本」
練習が始まった。
◆
「げろげろげー」
そうして作った得意気な表情は、たった二十分ほどで完全に崩壊し切っていた。ハナノアカリ、グロッキー。
コースの脇で年頃の少女が表現するにはあまりにも、文字に起こすには抵抗が大きすぎる状態になっていた。少女は両膝に手を置いて青い顔をしている。
「だ、大丈夫!? ほらっ、お水、お水飲んでーっ」
マチカネタンホイザは慌てて背中をさすり、ボトルを差し出す。一緒にトレーニングをするという正体不明の、それも自信満々のウマ娘が開始早々青い顔をして離脱したらそうなる。
「ウン、ウン……アリガトウネ……」
木っ端に微塵となった年上の威厳にハナノアカリはほろりと涙をこぼした。坂路がこんなに酸素と筋力を持っていく恐ろしいものだとは思ってもいなかった。
◆
練習は続く。
「次! タイヤ引き」
「あでーっ!?」
人の身長ほどもある大きなタイヤを紐で括り付け、歩き出そうとした瞬間、地面を掴めずつるりと滑り顔から地面を迎えるウマ娘。もちろんハナノアカリである。
「怪我はありませんか?」
「ナイデス」
すぐに南坂トレーナーが走ってきて、心配そうに各所の確認を始める。ハナノアカリはもはや悟りを開いたような顔立ちで簡易診察を受け入れていた。
「痛いところがあればすぐに報告してくださいね。後で痛くなることもありますので」
「ハイ、ワカリマシタ」
そして離れていく南坂トレーナー。
その背中を見て、ハナノアカリはおずおずと声をかけた。
「アノ……自分の蹄鉄取ってきます……」
◆
トレセン学園貸し出しのシューズは、ハナノアカリにとって壊滅的に慣れていなかった。
肩を落としてトボトボと自分の荷物の所に行くウマ娘に南坂トレーナーは心配そうな表情で見送る。
そして当のハナノアカリといえば。
「……ふ」
口許を手で押さえる。
ウマ娘でもない限り、声は聞こえないくらいに離れたところで辛抱たまらんとばかりに両手を胸の前で固く引き結んだ。
「……うふふふふ!」
笑い声。
俯いて居たのは、落ち込んでいたからではなく、こんな姿を臆面もなくほぼ初対面のひとたちに見せるのは、はしたないと思ったから。
「たのしい」
少女は楽しんでいた。
「ああ、楽しいぃ! こんな、こんな、キチンと錬成が出来る! ワタシ、走ってる! 慣れてなくて走りはぜんぜんダメだけど、楽しいッ……!」
出来ないことは、出来るようになる。
出来るようになるように、考えて工夫して失敗して、考えて。
こうした過程が生きることだと思うから。思考を持った者の腕の見せ所だから。
「ふふふ」
自身の専用の蹄鉄が入った巾着袋を手に取る。ずしりとした重量が、懐かしく思える。
ハナノアカリは軽い足取りで練習場所へと戻っていった。
◆
ストレッチは念入りにやる。
筋繊維の一本一本、関節のお皿まで全部意識してしっかりと伸ばす。
練習の小休止にあたって、チームのメンバーは談笑しながらも真剣に自身の体をほぐしていた。
「アカリちゃん? だっけ、お鼻、大丈夫?」
「一切の減速なく飛び込んでいましたからね。いっそ見事な“削り”でした」
柔らかな雰囲気を纏うマチカネタンホイザの発言を、怜悧な口調のイクノディクタスが首肯する。
「だ、だいじょび。いや、や、やっぱり、ワタシの鼻、ついてる? とれてない?」
「取れています」
「ぎにゃぁあ!?」
「冗談です」
チーム“カノープス”のトレーナーを務める南坂は、少女たちの様子を眺めながら、冷静に分析を重ねていた。もちろん分析の本命はチームのウマ娘たち。だが、今日1日だけとはいえ、イレギュラーで加わった少女にも気を配っていた。それは安全のためであり、かつ彼女の走りが新たなヒントに繋がるかもしれないと考える無意識のクセのようなものだった。
(彼女の走りは……特徴的だ)
そう、臨時で参加している見慣れぬ小柄なウマ娘。彼女の走りは一目で特異だと分かるフォームをしていた。
(姿勢が、前のめり過ぎる)
バランスを崩してしまうのは、この姿勢が前傾姿勢になり過ぎているという特徴が故か。通常、ウマ娘の走行時のフォームは人が走るよりやや前傾だが、それはあくまで
「トレーナー! ターボの走りどうだった!」
「ええ、先週と比べて、コーナーでの足回りに注意をきちんと向けられていましたね」
(地面の芝で滑っているのか)
同時並行で対応しながら、うーん、と南坂トレーナーは悩む。
芝で滑ることはままある。雨で濡れていたり、蹄鉄が摩耗して滑り止めにならなかったり、踏み込みが極端に浅いのにスピードをかけた場合などだ。
「ほんとに大丈夫? 思いっきりいってたけど」
ナイスネイチャもまた、眉を下げて小柄なウマ娘の顔を覗き込んでいた。
「ついてる、鼻、ついてる、ダイジョブ」
恐らく、彼女が滑っている原因はフォームだろう。南坂トレーナーはそう結論づける。
極端に前傾姿勢な、教本でもほとんど見ることのないフォームのせい。
(この姿勢で走ると仮定するなら、それこそ地面に脚を突き刺す勢いで踏み込めば、足が固定されて安定するか──)
ハッと気がついて目を見開く。
具体的な思考は成していない。だが、確実に答えに近づいた。
喉仏をヒヤリと汗が伝う。
もし、もし仮に──
今までの彼女の失敗が。失敗に思えるほど極端な前傾姿勢が、今想定したフォームの為だとしたら?
冷静を念じながら、彼女が走った後の地面を見る。
踏み込みが深い。さらに見ようと、膝をついて観察をする。やはり。指の第一関節が簡単に入ってしまう。
(彼女は──ハナノアカリさんは滑っているのではなく、何かが彼女のフォームと噛み合ってないだけ)
南坂トレーナーは知るよしもないが、それはコースの質の違いだった。
ハナノアカリが走っていた時代はまだコースが硬く、頑丈だった。脚への負担が大きかった。だが現代のコースでは膝関節への負担や芝の整備技術の発達により、過去より怪我のしにくい、柔らかなものへとなっている。
ゆえに普段の感覚で踏み込んだハナノアカリが、自分の思ったより深く踏み込み過ぎてしまった地面に脚を取られて転んでしまっていたのだ。思ったよりも段差が高かった階段に、足を取られるようなものだ。
「いやー、楽しいねぇ。もう、こんな時間だ」
「16時15分、まもなくコースの使用終了時刻ですね」
イクノディクタスがコースの脇にある時計を見て言った。ハナノアカリは彼女の眼鏡をちらりと見て、頷いた。
「うん、だから、さ。──最後に模擬競争、しない?」
「模擬競争……? あっ、レース」
菖蒲色のウマ娘の発言にポカンと、意味を勘案していたマチカネタンホイザが手を叩く。臨時参加のこのちんまいウマ娘は、レース形式で競おうと言っているのだ。
「って、えぇ!?」
見た目、穏やかに目尻の下がった顔つきの子なのに、思ったより血の気の多い子なのか。マチカネタンホイザは慄いた。
「無理しなくてもいいんじゃない? ほら、アンタ、明らか調子悪いし」
最初の頃より大分打ち解けてきたナイスネイチャが、砕けた口調でハナノアカリを嗜める。だがしかし、提案者の少女は口の端を釣り上げて見せた。
「なれた。大丈夫。さいしょは地面がふかふかで面食らったけど、むしろそっちのほうが脚の負担気にしなくて走れるし」
だから、と前置きをして、小柄な少女は夕日を背に背負って“カノープス”の面々を前に仁王立ちをしてみせた。
休憩時に肩にかけていたジャージの裾がはためく。オレンジ色にギラギラとした夕陽が逆光から彼女の髪を一本一本縁取って、ネオンライトのように輝かせた。
「競おう! レースで! 戦おう! 自分が結実した技術を削り合って!」
──そのためにワタシはこの時間を貰ったんだから。
映画のワンシーンのような、劇場の芝居のようなシチュエーションと台詞。だけど何もおかしく無かったのは、それが彼女の心から出た一切の偽りのない言葉たちだったからだろう。
あたりの空気が止まって、視線が全て小柄な少女に注がれる。
「…………」
仕方ないなぁ、と最初に呟いたのはツインテールが特徴的なウマ娘だった。
「まあ、せっかくの臨時参加ですし? ここで一戦、やっとくのもむしろ身になるっていうか、あたし自身、まだ追い込み足りないっていうか」
ツインテールの少女、彼女は他人の感情に聡いウマ娘で、優しい子だった。だからこそ、ハナノアカリの目つきに滲む懇願にも似たものを感じとり、なおかつ対応してみせたのだろう。
菖蒲色のウマ娘は、ありがとう、と小さく言った。
「ターボはやるー!」
「レース形式でしか得られない経験というものもありましょう」
「え? え、え? みんな、そんなノリノリで……ッ!? じ、じゃあ私も、やります!」
やんややんやと盛り上がる少女たち。だが、最終的な決定をするのはトレーナー抜きではあり得ない。必然、南坂トレーナーへと注目が集まる。
そんな“カノープス”の少女たちの視線を一身に受けて、南坂トレーナーは少し笑ってしまった。各々の体の状態を確認した限り、オーバーワークにはならない。ならば断る道理もないと許可を出した。
こうして夕暮れ迫るトレセン学園のコースで、チーム“カノープス”対、昭和のウマ娘の対決、となったのだった。
南坂トレーナーはこの勝負を、何年経っても鮮明に思い出すことが出来た。
◆
始まりは、爆発的ではなかった。
実際のゲートを使って開始されたレースは、無観客のなか始まった。
ガシャと音が鳴って、スタート。
「むっ」
ナイスネイチャが声を漏らす。
横のハナノアカリがやや遅れてのスタートだったからだ。
しかし気を取り直し前を向く。
距離は1400メートル。
根岸ステークスなどのレースがある距離だ。直線の半ばからスタートし、コーナーは二つのみ。
「おぉぉー!! ターボエンジン全開ぃー!」
先頭を飛ばすのはツインターボ。空のように青い髪を靡かせながらハナを突き進み、最初のコーナー手前まで一気にバ群を押し上げていった。
ナイスネイチャはここで周囲を見る。
先頭、ツインターボ。少し離れてマチカネタンホイザとイクノディクタスが伺うように脚を貯め、ナイスネイチャ自身は2人のやや後方に控えている。ハナノアカリは更に後方だった。
これが今回出走しているメンバー、5人。
今回の作戦は、おそらくターボ以外は同じになる。
すなわち──
(ゴール前で、一歩分、前に出るっ!)
レースは最終コーナーを回ったところ。まもなくスパート開始地点が見えてくる。
未だ位置関係は変わらず。だが、先頭のターボはバテてズルズルと下がってきた。
ナイスネイチャは遠心力に逆らいながら、コーナリングを敢行。
ぐるぐると回転する景色がパッと定まった時、目の前に広がったのは500メートルの最終コーナー。
「はぁぁぁあッ!」
イクノディクタスが裂帛の声を上げ、追い上げてくる。マチカネタンホイザは普段からは想像もつかない鋭い目つきで下がってきたツインターボを躱し、先頭に躍り出た。イクノディクタスの真横に付く。
(あたしも──!)
ぐっ、と踏み込めば脚へと伝わるエネルギー。景色の流れるスピードがわずかに早まきなり、ラストスパートへと突入する。
「ああぁぁ!」
残り200メートル。ナイスネイチャ、イクノディクタス、マチカネタンホイザ並んで、抜いて抜き返しての目まぐるしい展開となり──
──ガシャん。
(──っ! なんっ、の音!?)
最初に気がついたのは、その瞬間一番後ろに近かったナイスネイチャだった。異音がしたのだ。重厚な金属板同士が、擦れ合うような、普段聞かないようなターフに似つかわしくない異音。
がシャン、ガシャン。
音の間隔は一定で、ゆっくりで、まるでとてつもなく広いストライドを想起させた。がしゃん。がしゃん。と着実に音は近づいてくる。
(まさかっ!?)
そうだ。
来たのだ。
ハナノアカリが。
ここにいる誰より古い、ダービーウマ娘が。
専用の蹄鉄を戦かせて、ターフを力で均して、四足獣のような風を切る前傾姿勢で、がしゃん、がしゃん、がしゃん、と。
音はどんどんと近づき、そして花びらが舞うような、気がつけばのタイミングで桜色の髪が真横を抜き去っていった。
「──ッ!!」
絶句するナイスネイチャ。
駆け抜ける、というよりもむしろ進撃していくハナノアカリ。
このままトップに成り替わるといった勢いだ。
だが、運悪く目の前にはイクノディクタスとマチカネタンホイザの壁が出来上がっていた。少し後ろにはツインターボもいる。
この3人を抜かさなければ1着にはなれない。しかし、3人の間に通り抜ける道はなく、減速をして方向変換をしながら進まねばならなかった。それでは3人を抜かせない。
しかしハナノアカリはすぅ、と息を吸い、まるで深く潜るダイバーのようにわずかに上体を起こす。こうやって肺を膨らませると、一歩、ズンと沈み込み、更なる極端な前傾姿勢へと成った。
(な、なに!? 地面、抉れすぎじゃない!?)
振り下ろした脚に全体重を掛けてるの!? ナイスネイチャは心の中で絶叫した。
ハナノアカリが一歩踏み出すたび、彼女が向いている方向が変わり、加速もしている。
これは、方向変換しながら
ハナノアカリが本気でスパートをかけたなら。
姿勢は地面を擦るほど低く、両手が芝を抉るほど。まるで四本脚で駆け抜けるように。捲れ上がった地面がかろうじて二足歩行だと証明する、そんな
一歩、二歩、と頭の向きを変え更に身体の重心を低く、地に這うほどになり──彼女の世界へと……
「──ぎゃっあ!?」
とは、ならず。慣れない地面に途中でズコーッと転けていった。
◆
ハナノアカリのダイナミックな転倒という事態にレースは中断となった。幸い大事はなかったようで、南坂トレーナーと話す菖蒲色の少女をコースの外から見つめるウマ娘が居た。
コースの外側に設置された安全柵の更に外側、観客席の上に彼女は立っていた。
「なんという……」
“皇帝”シンボリルドルフは呟く。すでに夕陽は地平に隠れて空は紺碧に染まり始めている。
溜まっていた仕事が終わり、ハナノアカリを迎えに来てみれば、レースの最中。これ幸いと彼女がどんな走りをするのかと観客に徹してみれば。
一瞬だった。一瞬だったが、見た。彼女の
まだあどけない顔立ちを残す皇帝はごくりと唾を飲んだ。
だが、競技に浸かるウマ娘ならば分かるはずだ。この意味が。
「つまり、だ」
あの小柄なウマ娘は、どんな道でも。どんなバ群でも。
彼女の名前を『ハナノアカリ』
誰が呼んだか、かつての時代で“鉄脚桜色”と呼ばれるウマ娘。
「ははは!」
なんて、なんて無骨な走り!
あの時代にてっぺんで争っていたウマ娘たち。どんなものかと思えば。
なんだ、バケモノじゃないか。
◆
そうして“カノープス”の面々と最後のストレッチをしている途中、ハナノアカリの鋭敏な耳は一つの足音を聞き取った。軽い、女性のものだ。南坂トレーナーが相手の姿を確認する音がして、それ以降の動作は行われなかった。どうやら顔見知りらしい。
「あのっ!」
掛けられた声にハナノアカリは顔を上げ、相手を認める。
足音の主は黒髪を肩口で切りそろえた、若い女性だった。白いシャツを着て、黒のシングルボタンベストを着用している。ややフォーマルな格好。胸のバッヂを見る限りトレーナーのようだ。
「ワタシ?」
伸脚の姿勢のまま、右の人差し指で自分を指差して確認すれば相手は頷いた。
「はい! ええと……」
いったいなんなのだろう。
ハナノアカリは思った。話しかけてきた若い女性は知り合いではない。というかこの時代にハナノアカリの元よりの知り合いなどいない。
「お話を聞きたくて」
彼女が切り出した要件は、そんなものだった。
◆
「最初、出遅れて前が詰まった時。少しも慌てていませんでしたね。それがスタミナ温存に繋がって、スパートを全力以上でかける事が出来る」
黒髪の女性は頭の中を整理するように言葉を重ねていく。
いちおう、最後のヤツは完全にはかけていないんだけどな。分かるもんなのか、少女はポカンと口を開ける。
「後半になっても、無駄なスタミナ消費をしていないから、あんな体力の消耗が大きな方向変換の技術が使える……」
「オッ」
ハナノアカリは、この人、すごいなと素直に思った。分析が的確で詳しいのだ。しかも分かった点だけを羅列していくのでは無く、走りの要点を押さえている。
「なまえは?」
気になって聞けば、黒髪の女性は名乗っていなかったことに気がついたのか、ハッとした顔をして一礼をした。
「桐生院、桐生院葵です」
「──っふふ」
「桐生院、桐生院かぁ!」
いきなり笑い出した少女の様子に、桐生院葵は面食らったような顔をする。
「ごめんゴメン、なんだかおかしくって」
ハナノアカリは目尻に浮かんだ涙を拭いながら続ける。
「そうだね、この技術は教えてもらったんだ。前が詰まっても決して焦らず、先を信じて機を待つように、って」
カオの怖いオジサンからね。
ハナノアカリは手のひらを開き、再び握り込むように締める。
「とある人曰くワタシの“規格外の踏み込みからなる狂気のスパートを、
どんな展開にも、負けず、折れず、息を潜めて機会を伺える。
「そんな、鋼の意志が如き一手──でしょ?」
「はい……あの、その走りをどこで? まるでトレーナー白書に書いてある、『理想的なウマ娘の走行法』の第零例目みたいで」
捲し立てる早口ではない。だが、確かに興奮と焦ったさの乗った声色で続ける。
「それで、もし、よければ。あのっ、担当ウマ娘になることも一考していただけませんか?」
桐生院葵は一息で言い切ると、相手の少女の反応を待った。言葉を発するものはいない。みんなこの2人のやり取りを注視していた。
「理想的……。そっか、あの酒ヤケのじじい、そんな風に思ってくれてたんだ」
ぼそり、と口の中だけで完結するようにハナノアカリは呟いた。だが、口を動かしたのが見えたのだろう。桐生院葵はハナノアカリの表情を伺って、ごくりと喉を鳴らした。
「ゴメンネ、あなたの担当にはなれないんだ。もう、ワタシには指導員が付いてくれているからさ」
返ってきた返事は拒否だった。分かってはいた。もともとダメ元で、こんなに走りが洗練されているウマ娘がノータッチな筈がない。だが、“もしも”と抱いた期待と現実に桐生院葵は心の中だけで僅かに肩を落とした。
「ね、葵さん。とれーなー白書、だっけ? ワタシの走りに似た記述があるヤツ」
「えっ、は、はい。そうですが」
突然切り替わった話題に、目を少し白黒させながら対応する。慌てたような反応が面白かったのか、桜色の少女はイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「そこの章書いたひと、当ててあげる」
声を含めるように。
内緒話を親友に打ち明けるように。
「桐生院トージロー、でしょ?」
彼女は小さく教えてみせた。
「な、なんで?」
驚きに丸い目をさらに見開く様は、明らかに図星を突かれた顔だ。表情には驚愕が多分に含まれている。一族でつなげてきた、秘伝の色も濃いトレーナー白書の内容の、更に書いた人物を当ててみせるなど。
「だって、わかりやすいもん」
ハナノアカリは口元を両手で押さえてくすくすと笑った。おかしさが隠しきれないように、どこか愛おしさも感じる声色だった。
「ぶっきらぼうだね」
少女は呟く。
「ね、葵さん」
名前を、慈しむように。
「ワタシたちが二度と会えなかったとしても、この出会いは無くならないよね。それって、すごくイイことだよね」
ねっ、と軽い調子で。
桐生院葵は何も言えないでいた。なんだか相手の感情にあてられて、胸の奥から込み上げてくるようだった。
「葵さん、桐生院葵さん」
葵さん、と親しみを込めて少女は呼ぶ。
初対面の筈なのに、しっくりと呼び名がはまっていた。
「ここに会えたことが嬉しいよ。意味なんてない。ただ、嬉しい」
小柄な少女は、そう言って可憐に笑った。
◆
シンボリルドルフは廊下を歩きながら考えていた。
彼女の真価とは。ハナノアカリの強さとは。
彼女の走りは、それを構成する要素の一端でしか無かった。
彼女の真価とは。
後に続くものを慈しむ精神性、そしてレースでは決して容赦のない苛烈さの二面性。強く、レースを愛する気持ちを後進への愛で覆った、そんな少女だった。
なんと完成された心持ちか。
誰が彼女をそんなに“大人”にした。
ぎり、と握った手で爪が唸った。
全てのウマ娘の幸福。それを標榜するシンボリルドルフにとって、ハナノアカリは悲しい存在だった。
たかが、まだ15、16歳の少女が、どうしてそんなに“大人”として振る舞える。まだ遊びたい盛りだろう。甘えたいだろう。なのに、なぜ。あんなにも、模範解答をし続ける。皇帝は思った。確かに、彼女はタイムスリップをして、年代的には自身より年上かもしれない。だが、
シンボリルドルフは知っている。短い期間だが、桜色の少女に振り回され気味に行動したから知っている。彼女の性根は無邪気で天真爛漫なものが大きいのだと。
シンボリルドルフはいつの間にか握りしめていた己の拳に気がつく。
世間がどうとか、役割がどうとか、そんなもの、“大人”になったら背負えばいい。少女なら──年下のウマ娘なら、そういう甘えがあっていいはずだ、と。彼女の仮面を剥がしてやる、と。
“皇帝”は徐にスカートのポケットから携帯電話を取り出すと、聖蹄祭のエキシビジョンレースの出走ウマ娘の名簿を眺め始めた。
空いている枠は、
あの、周りを振り回すジャジャウマ娘は、いったいどんな顔をするのか。びっくりするのか、慌てるのか、それとも受け入れるか。ある種の嗜虐心にも似た感情が皇帝の口角を引き上げた。
聖蹄祭──ハナノアカリの楽しみの時間まで、2日。だが、もう日は暮れる。残りは1日。
冬の裸になった木々に、花は咲かず。
夜の星は行く末を何万年も前から見守っていた。
季節が巡って、桜がほころぶ時に、ハナノアカリは。
きっと、見守る側へ。
目標達成……?
【CLEAR!】最後に楽しむレースを決めよう!
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エキシビションレースに出走する