昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

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終章『花の明かり』
Ep.22 不思議な夢を見ていた


 

 

 この世は平等ではない。

 

 口には出さないけど、少女は知っていた。

 

『よく出来たお嬢さんだ』

『これでかの家も安泰だな』

 

 この世は平等ではない。

 道なき道を切り開き荒野を花畑にできる人もいれば、1人の力では立てない人もいる。

 

 貧者の小屋で生を終える人もいれば、城の尖塔で産声をあげる人もいる。

 

『やっぱり、分かんないよ。メジロの家はでっかいけど、ウチは違うからさ。お嬢さま、頭いいんだね』

『ごめんね、ウチ引っ越さなきゃいけなくなったんだ。おとーさんが失敗しちゃったって』『ごめんね』『さよなら』『さよなら』

 

 この世は平等ではない。

 

 だからこそ、力あるものは力なきもののために在るべきなのだ。

 

 ああ、弱さを悔いる人へ。

 弱さは悪ではない。私が守るから。

 卑しさは罪ではない。私が救うから。

 

 だって、それが、生まれついて恵まれた私の使命。

 名家の名前を冠する、責任だから。

 

 ジリリリと音がする。

 

 ──ね、ね、ハルカさん

 

 やめて。ダメ。そんなことは……

 

 ──あなたの走りって、すごく綺麗だよね

 

 硝子水晶のように、光が虹色に拡散する。

 ふとした拍子におもいだす、ひかりを放つ記憶。

 落ち込んだとき、何かあったとき、何もないときに。手に取って眺めるのだ。

 

 

 ああ。

 

 

 だから、貴方は弱くあって欲しい。

 弱く、惨めで、卑しく、駄目であってほしい。

 

 

 

 そうしたら──私が守るから。

 

 

 

 だから、そんな笑顔を向けないで欲しい。

 

 

 

終章『花の明かり』始

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ぐえぇ、どこだココ!? 

 少女はぐしゃり、と擬音が起きそうなほど、変な姿勢で地面と接吻した。

 

 天地が急にひっくり返った!? 

 彼女は思った。

 

 頭がズキズキする。

 耳が地面と擦れたせいで痛い。

 シッポも砂だらけだろう。

 

 

 ──痛んじゃうまえに払わないと

 

 

 

「……? あれ」

 

 立ち上がって、シッポの砂を払いながら見渡してみれば学校の中庭だった。ハナノアカリの学校の。古く、木造の。

 

 あたりは夕陽がさしていて、葉っぱを茜色に染めている。

 

「……」

 

 ふと違和感があって、目元に手をやると湿った感触がした。

 涙が流れた跡のようだ。……いや、実際にそうだ。あの時間旅行に行った瞬間に戻ってきたのだ。それこそ目元が乾く前に。

 

 一瞬だったのだ。あの時間は。

 

「びっくりだね、こりゃ」

 

 摩訶不思議である。ハナノアカリは呟いた。それから空を見上げて、茜色の空に輝き始めた一番星を認めた。

 

 5秒、10秒。時間が過ぎて、少女は頬を叩いた。

 

「行こう」

 

 行こう。

 もう、お楽しみの時間は終わったのだ。

 ハナノアカリの時間は終わったのだ。

 

 行こう。

 一世一代の交渉へ。

 

 

 ◆

 

 ハナノアカリは過去に戻れた瞬間から、とある計画を実行する気でいた。

 

 この国は状況がよくない。

 

 あの来賓室で聞いた話。

 いまだ、一度も用いられなかったリソース活用の案。つまり、レースを走るウマ娘たちを送るという話。

 

 いままで娯楽や興行として触れられなかった最後の砦を崩す時になってしまったのだ。

 

 

 いっしょに走った子たちが送られる。

 レースの歴史を内包した子たちが消えてしまう。

 繋がっていたレースの想いや、技術や、情熱が途絶えてしまう。

 

 来賓室に居た若い男の人は学校の人で、彼は抵抗していた。詰襟の壮年の男の人は、しかめ面で仕方がないと言っていた。偶然、ハナノアカリはそれを聞いた。

 

 呆然とした。

 頭の片隅では考えていた可能性だったが、いきなり現前し、ハナノアカリの首根っこを掴んで言ってきた。『おれは、もう、ここに居るぞ』

 

 消えてしまう。

 レースが。レースを煌めかせる情熱たちが。

 

 あまりにも現実味がある出来事で、あまりにも唐突にやって来たものだから、ハナノアカリは思わず走って部屋から逃げ出した。

 

 

 

 そして、逃げた先で未来を見た。偶然迷い込んだ時間の隙間で、お祭りに沸く“トレセン学園”なる場所で。

 

 

 すばらしいレースの未来を。

 

 

 輝かしい栄光の数々を。

 

 

 夢に煌めくウマ娘たちを。

 

 

 

 

 だから、決意した。

 

 この未来を、過去から繋げなければ。

 

 

 三女神様が見せてくれた未来まで。

 この時代にもある数多の煌めきを。

 これを知ってるのはきっと自分だけだから。

 

 

 レースの熱を消させやしない。

 

 再び辿り着いた来賓室の前で、ハナノアカリは一度息を吸った。

 

「──大丈夫。ワタシは大丈夫。もう、大丈夫。ワタシはシンボリルドルフさんとも競い合った。素敵なレースが出来た。よし」

 

 

 扉に手を掛けた。

 金属の取り外された、木目のざらざらした感触が肌を伝って、ハナノアカリの心をささくれ立たせた。

 後ろ髪を引かれる思いはあれど、思い出すのは満員のスタンド。未来で見た、はじめての景色、

 

 あの時、あの瞬間。

 

 シッポの毛の先までブワっと広がる感覚。

 みんなの笑顔、拍手の破裂音。緑のターフ。青臭い土の匂い。

 

 だから、途絶えさせちゃ嫌だと思った。

 夢の火を消しちゃいけないと思った。

 

 ガラリと引き戸を引く。

 驚いた表情の男がいる。若い男だ。腰がソファから浮いていた。

 

「君……」

 

 詰襟の男の方は、部屋を出たときと変わらず、ずっと鋭い目をしている。

 

「もし──」

 

 

 喉を震わす。

 移動に遅れて降りてきた髪の毛が首筋をくすぐる。

 今から差し出す首だ。

 

「もし、鉄火の場にレースのウマ娘たちを送るのならば、まずは一人だけを送って欲しいんです」

 

 こうしてハナノアカリの計画ははじまった。

 レースを守る。それだけのために。ひたすらに、そのために。

 

 

『一人だけを送る』

 

 まずは最初に、試験的に。かつ、みんなが納得するようなすごい人材を送るのだ。そうすれば、レース業界もキチンと()()を支払っているよ、とアピールが出来る。世間は少し溜飲を下げる。だって、英雄が行くのだ。レース界の英雄が。

 

「その()()には、是非とも“このウマ娘も行くのか”、と言われる者を」

 

 だから、それは一番速いウマ娘が適任だろう。速くて、スター性があって、人気のあるウマ娘。つまりは次のレース。【一級特殊整量長距離走】にて一着になれば、文句なしにハナノアカリが選ばれる。

 

「見ていてください、ワタシは強いですから」

 

 ハナノアカリが実地に向かい、学園に残った子たちは訓練をしている間に、きっと戦いは終結を迎えるだろう。

 結果として鉄火場に向かわなくてはならないのは一人だけで済む。

 みんなの想いは繋がる。

 

 詰襟の男性は仏頂面のまま黙っている。

 若い男は困惑を顔に浮かべている。

 

 ハナノアカリは優雅に腰をおり、礼をした。

 

「勝負をしましょう、ワタシと」

 

 

 

 

「未来までの道を賭けて」

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 こうして話し合いは恙無く終わった。若い男の人はさいごまで抵抗していたが、結果的にハナノアカリの提案が一番犠牲が少ないことは最初から分かっていたのだろう。大の大人なのに、顔のいろんなところを歪ませて『すまない』と絞り出すように言っていた。

 

(ちょっと悪いことした、かな)

 

 部屋をでたハナノアカリは頭をブルブルと振る。いらない思考だ。決まったらあとは全力を尽くすだけ。

 

 そう考えると頭は幾分か冷静さを取り戻して、胸にこもった熱を排出するように、ふう、と息をこぼした。外は紺色に染まっている。電気もつけない暗い廊下が心地良かった。

 

 

 このまま寮の部屋に帰ろう。

 無性に同部屋のコウマサに会いたくなった。

 もちろん、この計画を彼女に伝える気はないけれど。というか誰にだって言う気は無かった。

 

 桜色の少女は無表情に窓から見える深い蒼色をした空を見つめた。

 

 ハナノアカリが一級特殊整量長距離走に勝てば、レースからは離れざるを得ない。みんないい子だから、知られたら全力で止められてしまう。

 

 理想は、最後まで、微笑んで悟らせないようにゆくのだ。

 

 そんな風に暗い廊下を歩いていると、ジリリリと連続した金属音が耳鳴りのように響いた。ちょうど曲がり角というところで、その“耳鳴り”に気を取られたがために誰かにぶつかりそうになる。

 

「わっ、ゴメンね」

 

 反射的に謝り、相手を見上げると、整った顔が窓から差す月明かりにほんのり照らされていた。

 

「……」

 

 無言で睥睨するのは、鹿毛の髪を編み込みにした、ツンと冷えた空気のウマ娘。

 名家のオジョーサマ、メジロハルカであった。

 

「あら、……偶然ね」

 

 彼女は前と変わらず、気品ある佇まいを崩さずに言った。ぶつかりそうになった事を無視するように。

 

 あれ、気にしないんだ? と、ハナノアカリが不思議に思って観察するがあいも変わらずメジロハルカには隙がない。

 

 凛とした表情は水に濡れた刀のように美しかった。

 

(いつみても、すんごいなぁ、この子……)

 

 なんで身長も少ししか変わらないのに、雰囲気が違うんだろう、とハナノアカリは思った。なんだかオジョーサマは指先まで神経が張り詰めたように、立ち姿に隙が無いのだ。片足でもたれるように立つことはないし、腕も大仰に組まない。幼い頃から培ってきた彼女の人生を垣間見える振る舞いが、ハナノアカリは好きだった。

 

「そーだね! 久しぶり!」

 

 ハナノアカリが手を挙げて反応すれば、彼女は軽く首を傾げた。

 

「……そこまで間を置いてないと思うのだけれど。……まぁ、ついに頭まで残念になってしまったのかしら」

 

 確かにハナノアカリは“トレセン学園”に数日居たから時間の感覚が違った。だが、それにしたってこの言い草はないだろう、とシッポとミミを逆立たせる。

 

「頭()()ってなに!? まで、って! ほか、どっか残念なところある!?」

 

 遠慮なく浴びせられた言葉に桜色の少女は、小さな体を精いっぱい広げて威嚇を敢行した。身長差は縮まらなかった。

 

「うるさいわ」

「はい」

 

 そしてお嬢さまには効果がなかった。

 ハナノアカリはしゅんと元の姿勢にもどった。

 

 

「あ、それで、オジョ……ハルカさんはなんでこんなトコに? 教室はもう撤収してあるから、わすれもの?」

 

「別に、何だって構わないでしょう。それとも、ただ歩くだけでも貴方の許可が必要なのかしら? 私の雇用主でも無いのに」

 

「ヤー! なーんでそんな穿った見方をするのー!? ワタシはただ、気になっただけ! 友達として!」

 

「……そ」

 

 彼女は鼻をツンと小さく頷いた。

 あや、とハナノアカリが目を開き注視しようと顔を近づけると、パチリと彼女と目が合った。思わず息を呑む。

 

「やめれば? そんなこと」

 

 鋭い目をしていたから。

 人から向けられる目には感情が乗る。

 いまの彼女は、突き刺すような感情があった。

 

「えっ?」

 

 彼女は柳眉を顰め指を注意深く肘に置くと、ひと呼吸置いてから含めるように言った。

 

()()は貴方の器じゃないわ」

 

 メジロハルカは高貴なウマ娘だ。

 言い方はキツいことは多々あるが、こんなにも直接的なものはなかった。剥き出しの意思を真っ向から彼女は発している。

 

「貴方が一人で先に行くつもり? 何様なの。貴方ひとりが行ったところで何も変わらないわ。思い上がりもいい加減にしなさい」

 

 ワッと怒涛のように押し寄せる言葉。ハナノアカリは目を白黒させるばかりだ。だが、メジロハルカはお構いなしに、最後に不快感を表すように口許を下げる。

 

「そんなこと、やっても変わらない」

 

「……」

 

 二人のウマ娘以外、誰も居ない廊下に窓から月がのぞいている。

 青白い光は床の木目に染み込んで、黒くなっていった。

 

「もしかして、聞いてた、の?」

 

「はん、耳が良いのは自分だけと思える思考はおめでたいわね」

 

 うわっちゃあ、とハナノアカリは頭に手を置きたい気分だった。やってしまった。同期や後輩のウマ娘たちには誰にも気が付かれずにこの計画を遂行する気だったのに。

 

「…………」

 

 メジロハルカは言葉を続けず、黙ってハナノアカリを見下ろしている。身長の関係上、二人は同じ目線では居られなかった。

 なんだかいたたまれなくなって、ハナノアカリはお嬢さまの視線をまっすぐに受け止めることが出来ない。でも目を逸らすこともまた不誠実だと思って、揺れる瞳のまま見つめ返していた。

 

「帰るわ」

 

 やがてお嬢さまはため息をつくと、くるりと身体を反転させ校舎の側方扉へ歩いて行ってしまう。

 

 後にのこったのは、はてなマークを浮かべる小柄なウマ娘だけだった。

 

「忘れものは……?」

 

 

 ◆

 

 

 翌日。

 

 ハナノアカリの所属するレース場への道すがら、彼女の足取りは重たかった。

 

 

 知られずに進めるはずだった計画だが、誰に知られたところで実際は問題ない。

 計画は国の機関との話なのだ。友達同士の約束なんかでは無い。誰かの感情論ひとつ、誰かの精一杯の行動ひとつで決定は覆ることはない。上層部まで既に上がっているだろう。

 

 だから、誰に知られても問題がない。詰襟の男性もそう言っていた。なんなら、彼が“君の同期たちに私の方から発表しようか”という提案をハナノアカリが断ったくらいだ。

 

 なぜかって? 

 だって、想像してみてほしい。

 

『あの人は、今からみんなのために、帰って来れないかもしれない場所に派遣されるんだよ』と聞かされた集団の中で向けられる視線の質を。

 掛けられる言葉の数を。

 

 ハナノアカリはレースが好きだ。

 みんなと過ごすなんてことない日常が好きだ。

 

 だから、最後までなんてことない生活を見ていたかった。

 それが、まるで腫れ物を扱うような生活に変わってしまう可能性があったのだ。

 

 詰襟の男性の提案をそんな心持ちで断った時、彼は初めて僅かに顔を悲しそうに歪めて頷いた。

 

 ハナノアカリはレース場の入り口を潜る。

 観客用では無い、脇に設置されている職員用の薄暗い通路を通って、レース場の控え室に行く。

 すりガラスが養生された扉をガラリと引くと、パッと中でウォームアップをしていたウマ娘たちが音の発生源を見た。

 

「おはよー」

「今日も走ってきたのー?」

「あ、ねぇねぇ、蹄鉄のクギどっかに余ってるかしらない?」

 

 普通だった。

 何もかも、いつものレースに備えた練習を先の見えない中でやっているウマ娘たちだった。

 

「あ、うん。おはよ」

 

 彼女たちは普段通りだ。

 いつものように窓の外を眺めたり、同期と喋りながら柔軟体操をしたり。途中で老年の指導員が入ってきて、担当の子と話して扉の外に出ていった。

 

「ふつうだ」

 

 そう。何も知らないように。

 “彼女”は何も言わなかったのだろう。ハナノアカリはそう結論づけた。

 

(……なんで?)

 

 いや、別にいいふらす理由は無いが、ちょっとも情報が漏れていないのは不思議に思ったのだ。論理じゃない。感覚の部分で。

 

「あ、ハルカさん」

 

 ちょうどそのとき、部屋の中の空気の流れが変わったので、入り口を見れば鹿毛の上品なウマ娘が目に入った。

 

 彼女は何も言わず、ハナノアカリの横を通り過ぎる。そして部屋のやや中央よりにある自身の割り当てられた靴箱を開きシューズを取り出す。普通のシューズだ。

 ハナノアカリはまた、ジリリリと微かな金属の音を聞いた。

 

 メジロハルカは部屋の様子を一切意に介さず、靴箱を片付けると振り返り、ビシ、とハナノアカリにシューズを突きつけた。

 

「レースをしましょう」

 

「え? 誰と?」

 

 私と貴方で。

 

 

「えっ?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 模擬レースは時々行われる。

 競争の練度を向上させるのに良いと昔から言われているからだ。だから指導員も駄目とは言わないし、ウマ娘自身も積極的に行なっていた。

 

 だが、ハナノアカリはメジロハルカと模擬レースをするのは初めてだった。練習時間が被ることは何度かあれど、それはあくまで個別と個別の練習だった。

 

 それが、メジロハルカの方から一歩踏み込み、ハナノアカリの元へとやって来た。桜色の少女は困惑しながらもシューズの点検を素早く終わらせ、いつか貰った調整用のハンマーで蹄鉄を弄り、レースに臨んだ。

 

 風に流れるレース場の、スタートラインに立ちメジロハルカはハナノアカリを見つめていた。やけに準備がよく、ほとんどハナノアカリの待ち時間となっていた。

 

「…………」

 

 何かを言おうとしたがやめた。

 代わりに目の前に集中を高める。

 

 

 レースの始めは模擬ゲートを使用する。

 錆びの匂いがして、ハナノアカリは息を吸い込んだ。

 

 

 ゲートが開く。

 パッと飛び出たのはメジロハルカ。彼女はスタートがうまい。バツグンに。グングンと彼女は差を開いていき、ついにはハナノアカリが最初の直線の中腹のあたりでコーナーまで行ってしまった。

 

 レースを見物していたウマ娘たちから感嘆の声が上がる。メジロハルカのコーナリングが見事な重心制御だったから。

 

 ハナノアカリは相変わらず重たいシューズで地面の凸凹を潰しながら走っていた。

 

 

 

 

 最終コーナー。

 メジロハルカが5バ身以上のリード。

 

 あと数百メートルでゴールの地点で、鉄脚がスパートをかけた。

 地面のコンディションの一切を無視し、踏み均しながら距離を潰す。ハナノアカリの走力は元来有していたものに加え、シンボリルドルフとの競い合いでもう1段階上へと昇華していた。

 

 野生的な低い姿勢の中に光る理合。

 模擬レースという全力を出して怪我を防ぐために、ある程度抑えるレースであっても滲み出る“怪物”の脚。

 

 結局、ハナノアカリはメジロハルカとの間にあった距離を数秒で踏み潰してみせた。結果はわずかにハナノアカリが1着。メジロハルカは両膝に手を置いて荒い呼吸を繰り返す。

 

 

 

 彼女は終始悔しそうに唇を噛み、汗を拭うこともせず、ハナノアカリを睨みつけるとそれきり何も言わずに出ていった。

 ハナノアカリはその後ろ姿を見送った。

 

 

 

 ◆

 

 

 そして一級特殊整量長距離走の前日となった。

 

「いよいよですねっ! アカリさんの走る姿がまた見れるとなるとわたしとっても嬉しいんです!」

 

「そうなの? カッコいいから?」

 

 ハナノアカリは布団に口元まで入りながら目だけをコウマサの方に向けて聞いた。寝るには少し早いように思えるが、明日に備えて早めに布団に入ってすぐに寝付けるやうにするためだった。

 

「はい、レースの時などはそうですよ」

 

「えぇー、ワタシ、普段からカッコよくない?」

 

 ぶーたれたようにハナノアカリが声を漏らすと、コウマサはピクっとシッポを跳ね上げさせた。

 

「えっと……その、アカリさんは、普段は少々だらしがないですが、……ええ! レースの時はほんっとうに綺麗なんですから!」

 

 だから普段からちゃんとしてくれたらもっと嬉しいんですけどね、と苦笑いするように、優しさの含んだ顔で笑った。手にはハナノアカリが逃げ続けている裁縫の、作りかけの巾着袋があった。慣れないハナノアカリの練習用なのだ。糸のほつれが何箇所も見つかった。夜にコウマサがすこし手直しをしてくれるらしい。

 

「…………」

 

「でも、それも含めてアカリさんですから」

 

 パチ、と糸切りバサミの音が響いた。

 しゅる、しゅると布ずれの響きが夜の部屋に広がった。

 

「ね、アカリさん。二人で逃げちゃいませんか?」

 

「……冗談?」

 

 ほんとうになんてことのない口調の提案だった。

 ただ、明日の献立を口にするみたいに、しぜんに。だからハナノアカリもふわふわと返事を返した。

 軽い口調なのに、内容に現実感がないのが妙に不思議な感じだった。

 

「いいえ。冗談じゃありません。──わたしはアカリさんが大切なんですよ? 手のかかる妹みたいに思う時もあれば、すっごく頼りになるお姉さんみたいに思う時もある、そんな()()のアカリさんが大事なんです」

 

 コウマサは手元の針を動かしながら、ハナノアカリに背中を見せて続ける。彼女の横にあるちゃぶ台の上にある蝋燭だけがちらちらと光を放っていた。ハナノアカリからはオレンジ色の横顔しか見えない。

 

「最近、不穏な空気じゃないですか。わたしたちも()()()()へ送られるなんてウワサもあります。知ってますか?」

 

「ちょっとはね」

 

 ハナノアカリはそう答えると窓の外を見た。

 木枠の端に木の葉っぱが見えて、奥には星が光っている。きっと星座は80年後も変わらないんだろうな、とだんだん微睡んできた頭で考えた。

 

「だから、逃げませんか? どこか、遠いところへ。そこですこしゆっくり過ごして、またレースに戻るんです。函館の方とかどうですか? わたしのひいおばあさんの時代に住んでいた親戚がいるんです。向こうの土地は凄いらしいですよ! 一面に原っぱが広がって、走ってもはしっても、終わりが見えないんですって。走るのが大好きなアカリさんにピッタリじゃないですか?」

 

 コウマサの語る声は、旅行の計画を楽しそうに立てる子供みたいだ。一段と声を高くして、弾むように喋っている。ハナノアカリはなんだか悲しくなった。コウマサに視線を戻すと、彼女は針を置いて部屋の中空を見ながら語っていた。

 

「朝はしっかり家の支度をして、ご飯を作って、お昼は外に出かけて好きなだけ走って、夕方は家の縁側に座って夕陽を見ながらいっしょにおしゃべりをしましょう。明日はどうしようか、そろそろ西瓜のおいしくなる時期だから買いに行こうか、なんて話しながら。夜は蚊帳を貼って、あ、蚊帳は高いですから。中にいっしょに布団を敷いてしまったら楽かもしれませんね。それで、蛙や鈴虫の鳴き声を聞きながら、ちょっとだけ喋って、明日のことを考えて……」

 

 

 コウマサはとうとう針を持つ手を下げて、俯いてしまった。ハナノアカリからは背中しか見えなないが、彼女の小さな背中は震えていた。窓から差す青白い月明かりはちょうど影になってコウマサを照らさない。

 

「アカリさん、怖いんです。わたし、とっても。何かが、わたしのあたりまえの何かが一瞬のうちに壊れてしまいそうで」

 

「だいじょうぶ。マサちゃん。心配しないで」

 

 思考はだんだんと解けていって、言葉はふわふわと浮かぶ。

 滲んでいく視界にコウマサの小さな震える背中だけがくっきりと浮かんで見えた。

 

「明日はきっと、いい日になるはずだから」

 

 だから、ハナノアカリは言葉を続ける。

 意識の保つ限り。なんとか彼女を安心させてあげたいとの思いから。

 

「心配しないで……」

 

 それだけ言って、ハナノアカリの意識は闇へと消えていった。

 眠気の限界だった。瞼は重く、鉛に変わったようだった。意識はどんどんと奥へと引き込まれていく。現実と夢の境が曖昧になる中で、ハナノアカリはなんども“だいじょうぶ”と繰り返していた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夢を見た。

 つめたくて、やさしい夢。

 

 

 気品ある子が立ち尽くしていた。

 レース場のコースから見た景色だ。

 芝が揺れて、桜色の髪の毛がひらひらと舞っていた。

 

 

 場面が変わる。

 月明かりの差す学校の廊下で、床を軋ませながら走っていた。

 あの部屋まで。来賓室まで。すべてが始まった部屋へ。廊下の曲がり角の先に桜色が見えた気がした。

 

 場面が変わる。

 お昼の場面で、レース場で走る桜色を見ていた。

 桜色は調子が良さそうに笑った。

 

 場面が変わる。

 

 

 月の下だ。

 丘の上に桜の木が一本だけ咲いている。

 桜は月下に静かに佇み、朧げな色を放っている。風にそよぐたびに花びらをひらひらと流していた。

 

 気品のある少女は歯を食いしばるほどの激情を押し込めて、その前に跪いて、両手を合わせた。 

 

 

 ──どうか。

 

 

 

 

 

 

 夢を見ていた。

 そんな夢を。

 

 この世界は悲しみが溢れていて。

 右を見れば数多の悲劇が。

 左を見れば欲に濡れた笑みが。

 誰も彼も余裕なんて無いきびしい世界で。

 

 

 

 でも、それでも優しさは消えない。

 どんな汚泥の中からも砂金を見つけるように、優しさを掬う人は居る。

 それだけは忘れないで。どうかあなたが、そんな人と出会えますように。

 

 桜の木から見下ろす視点で少女を見ていたハナノアカリは、そう願った。

 

 

 

 

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