当日の空は、僅かに雲の残る快晴だった。
空模様で何か変わるわけではないが(雨は別として)気になるのがウマ娘というモノだろう。ハナノアカリは思った。
「人もウマ娘も変わらんだろう」
「トーリョーさん、風流がないね、フーリューが」
最後に靴の調節をしながらハナノアカリが言えば、矍鑠とした老人は苦虫を噛み潰した顔になった。そんな顔しなくてもいいのに。ハナノアカリは思った。
「競争前だってのに、強張りがないな嬢ちゃん」
老人は年代を感じさせる、品の良い羽織の裾を整えて控え室の扉を見た。地下バ道へ続く扉で、外に繋がる通路の奥から太陽の光が差しているのだ。
「良いことでしょ?」
「違いねぇ。全くもってその通りだな」
老人はこの瞬間まで、この瞬間を想像することが出来なかった。目の前の少女を、
「…………」
本来であればここに立つのは、また別の男だっただろう。ハナノアカリの指導員だという桐生院はここには居ない。レース場の関係席に座って、最後の指示や記録をする。だから、本当ならばここに来るはずは、あのしみったれた三流詐欺師のバカ者だった。
「さ、行ってこい──」
と棟梁は口に出し、『いや』と、言葉を切った。もっと適切な言葉があると感じたからだ。不意に途切れた老人の言葉に、不思議そうに首だけ振り返ってこちらを見るハナノアカリの瞳を見ながら、以前の事を思い出した。何も持たない2人が、身分を勝ち取るために勝負を挑んできたあの日を。
出会ったとき、砂塵に塗れた少女は今は若草色の羽織を着ている。勝負服だ。立派になったもんだと笑い、パシ、とちいさな少女の、やけに大きく見える背中を叩き
「──存分に走れぃ! 嬢ちゃんの走りを暗くなっちまった日の本に届けてやれや!」
少女は振り返らず、力強く頷くと、光に吸い込まれるように地下バ道の出口へ消えていった。
◆
一級特殊整量長距離走。
名前の仰々しいこのレースは3000米のコースを回る長距離競争だ。未だ
なぜ貴重かというと、世間の状況は芳しくないからだ。言葉を選ばずに言ってしまえば“悪い”。もはやレースに至っては、中止が相次ぎ、しかしウマ娘への指導技術、訓練技術の保存を理由に一級特殊整量長距離走は開かれる運びとなった。
ハナノアカリは電気の付かない地下バ道からターフに出る。太陽の明るさに一瞬目が眩み、手でひさしをつくった。目線の先にあったのは観客席だ。誰もいない観客席だ。がらんとしていて、数枚の落ち葉がひゅるりと歩いていた。
「ふふ」
このレースも能力検定競争として、興行目的ではない開催だ。観客は居ない。野次も応援の声もない。
大レースにも関わらず、不釣り合いにも静寂が支配したレース場はなんだかおかしく思えた。
『各ウマ娘は出走位置へ──各ウマ娘は──』
定刻が迫ったのだろう。ノイズが多い放送機材からゲートインが促される。すでにストレッチを終えていたハナノアカリは鉄のゲートに向かって、一歩いっぽ歩いて行った。
◆
今回の出走人数は6名。ずいぶん少なくなっちゃったな、と思いながら、専用のシューズをがちゃがちゃ鳴らし、ゲートの鉄の柵に手をかけた。そのとき、ふと視線を感じた。目を上げれば、こちらを見つめる鳶色の瞳。編み込みの鹿毛の髪の毛。
今回出走の6人の中にはハナノアカリと、メジロハルカもいた。
「走ろっか」
ハナノアカリがメジロハルカに言えば、彼女は眉間に皺をギュッと寄せ、ゲートに潜って行った。嫌われちゃったかな、と桜色の少女は苦笑いをして、パンと両手で自分の頬を挟む。
頭の瞬きを挟んで現れた顔は、戦士の顔をしていた。
間も無く
◆
ガゴン、と未来で聞いたよりも鈍い音でレースは始まった。
右回り、3000米の長い旅路。
(長いけど……問題ナシ! だよ!)
全てのレースには“型”がある。
言い換えればオーソドックスな戦術がある。
『発走しました。各ウマ娘、開始姿勢は正常であります。まもなく隊列を形成するというところ。位置取りの争いになります』
何年も、何十年も積み重ねられた蹄跡が概ねの最適解を決定づけているのだ。
オーソドックスは前半に体力を温存し、位置取りをなるべく良い場所につける。そして、最後の直線で今まで残せた体力と、気力と、ここまで培った位置取りを消費して順位を上げていくのだ。
びゅう、と風が耳を後ろに流していく。
足に伝わる蹴り足の反作用。ハナノアカリは冷静に周囲を見渡し、自身の順位を確認した。
最初の300米。ハナノアカリは6番手。一個手前の5番手との距離は二バ身ほど。2番手はメジロハルカだった。
(定石通りだね)
レースは順調な立ち上がりを見せて、ここから“さぁ、どうか”という展開だった。
だが、ざわめきがレースを走る少女たちの間を走り抜ける。
僅かにバ群に動揺が走った。
(なん……っ!?)
手前にいた子の、思わず漏れた呟きをハナノアカリのミミは拾った。そう、想定外の事が起きたのだ。
『先頭はヒガシカゼ、第一角において最内でメジ──、いや、上がってきました。メジロハルカが位置を上げ、一気に先頭を交代しました』
実況はあくまで関係者に遠景のレースの状況を伝えるだけものとしてあった。娯楽要素を廃し、ひたすらにレースの状況を事務的に伝えるのが役目。だが、そんな実況の声も僅かに裏返るほどありえない事態が起きていた。
『す、スパートでしょうか、メジロハルカが先頭について後方集団に圧をかけるように走ります』
脚質的に先行を得意とする名家のお嬢様。今回の有力ウマ娘のひとり、メジロハルカがあろうかとか最初のコーナー手前でグッとスパートを掛けたように上がっていったのだ。
◆
(どういう作戦……!?)
二番手になったウマ娘は心の中で叫んだ。
誰もが動揺した。
メジロハルカの強みは緻密に練られたレースプランと、それを押し通す技術、フィジカル。精神。
なのに、今回に関してはまるで
『先頭はメジロハルカです。まもなく第三角、一周目が終わります』
◆
3番手を走るウマ娘は流れる汗とは別に、冷や汗をかいている気分だった。まもなく一周目が終わる。このレースは全部で二周だ。
冷静を保たなくては。
そうであるのに先頭に意味もなく目線をやってしまう。心が落ち着かない。
なんだ、このハイペースは。
メジロハルカの表情は伺えない。何を考えているのかなんてもっと分からない。あの子はほかのウマ娘とよく距離をとる子だったから。
(なんでこの時期に先頭に立った? それも、半ば強引に……なんの意図が、もしかしてそういう作戦なの? 先頭から圧をかけて体力を削るか……そもそもこういう動揺を誘うための罠? ……)
呼吸をしながら酸素を消費し、頭でも酸素をぎゅんぎゅん使っていく。姿勢制御にも思考の隙間が使われて、頭が破裂しそうだ。
(みんな吃驚してる……そりゃ、そうだよね)
位置の確認のために眼球を素早く動かして、周囲の様子を確認すれば走るウマ娘たちの表情もよく見えた。みんな動揺を顔に貼り付けて、それを必死に押し殺して頭を回している。
そこでふと、
このレースの最強格。
小柄で可愛らしい体格に似合わず、どんな距離も、コースも、すべてぶち抜いてくる“鉄脚”の名を冠するウマ娘を。
(最後方か……、いた──)
「ひっ」
思わず喉が引きっつった。
彼女の表情を見た瞬間に。
小柄な少女は、どこまでも昏い夜のような、静かで鋭い表情をしていた。
何より、恐ろしかったのは、この状況において眉の一本も動かさないこと。彼女は何か“別のモノ”を見ていた。
淡い桜色の髪は風に靡き、顔に影を落としているせいで余計そう思えたのかもしれない。そして、その中であっても薄紅色の瞳だけが直に心臓を掴むように迫っていた。距離があるのに、ほんの目と鼻の先に彼女がいる感覚。手触りすら感じるほどの強烈な存在感。
奥歯のガチガチを感じて──ガチン! とねじ伏せた。
びびるな。臆するな。
あれが、国の最高峰。
あれは、強いモノだ。だけど、私だって負けない。
舐めるんじゃないよ、と笑い、加速を始めた。
もう一度ハナノアカリを見やる。
レース前はあんなに、ほんわかとした雰囲気の子だったのに別人みたいだ。
3番手のウマ娘は必死に心を動かして、視線を前へと戻した。
驚いた心臓がまだ落ち着かないが、レースは終わっていない。負けてもいない。間も無く第一周目が終わる。
内回りのコースを二周。
先頭を走るメジロハルカがスタートした位置まで到達し──外側へと向かった。
二周目だ。
彼女もまた、メジロハルカに引かれるように一歩深く踏み込んだ。
◆
レースの第二周目、向こう正面ともなると体力消耗が激しい。
ハナノアカリは前を見やった。
『先頭は変わらずメジロハルカであります。続くようにヒガシカゼ、内にメイトオ、デンヤヲラは一バ身空いた位置、ピッタリ付くようにシヨウノギ、ハナノアカリは後方で機会を伺っております』
「ふっ、ふっ──」
芝を踏む感触。
風を切る音。擦れるシューズから伝わる金属の振動。
その全てが馴染んで、どうでも良くなって、世界と一つになる感触。剥き出しの世界に、ハナノアカリという個が溶け合うように集中が深くなる。
前を走るウマ娘たちの表情も青くなり始めた。
長い旅路も間も無く終わりだ。あと十数秒もしないうちに最終直線へとレースは入る。
ハナノアカリは地面を抉るように踏み込んだ。
◆
「オッ、スパートか」
観客席の横、職員や関係者の席で男は双眼鏡片手に呟いた。
レンズに映るのは、流れるような薄紅色。ハナノアカリだ。
彼は腕時計をややボロい木製の机に置き、双眼鏡とは反対の手に鉛筆を握っていた。机に敷かれた方眼紙には表が作られていて、彼はラップタイムを記録する役目を担っていた。
(ようやく見れるぞ……!)
手元の冷静さとは裏腹に、近くに控えているお偉いさんに気取られないよう内心で何度も腕を振る。きっと心臓は興奮で早鐘を打っているだろう。
彼が見たいもの。
ハナノアカリのスパート。
過去に一度だけ、仕事関係なく見たレースで目に焼きついた、あの“強烈”。今回記録要員として指名されたのはまさに僥倖であった。
彼女の、曲がりながらも加速し続ける独特の走法。
始まりの合図はいつだって、身体を倒すように深く沈み込ませてからだ。
(──きたっ!)
もはや肉眼でも分かるような位置になって、少女の頭の位置が下がった。彼女を知るものならこれだけで大盛り上がりの場面なのだが、周りにいるお偉いさんがたはほとんど知らないようだ。同じしかめ面を並べてレースを見ているような、見ていないような顔をしている。
ああ、勿体無い。彼女を応援するものがきちんと観客として入れたのなら、歓声が上がり、横のやつと大声を上げながら応援したものを。こんな仕事としてレースを眺める連中しかいないのだ。
「おい、あれは何だ、
胸にジャラジャラとバッヂやら布の飾りを付けた男が、それまで退屈そうに組んでいた腕を解いて、コースの方を指差した。
「本当だ。何か可笑しいぞ、あんなものなのか、ウマ娘の競争というのは? 怖いくらいに加速しているぞ」
今度は白い制服を着た目を開き、呟くように言った。
ざわめきは浸透する水のように広がり、鉛筆を握った記録係の男は“何だ”と一瞬双眼鏡から目を外し、関係席を見渡し、納得した。
「──ああ。
◆
見るひと全員が息を呑んだ。
しなやかな肉体。躍動する筋肉。
呼吸一つにも理があり、頬を滑り落ちる汗すら計算のうちに思える。
繊細な姿勢の制御、ながいながいストライド。捲れ上がる芝と土。
その全てを内包したハナノアカリの暴力的なスパート。
「なんて走りだ」
誰かが呟いた。
小柄な少女は、スパートをかけ始め、それまであった何バ身もの差を潰すようにひっくり返してしまった。
つまりは──
一級特殊整量長距離走、ハナノアカリ、1着。
これが結果だった。
◆
「ハアッ、ハアッ……!」
水面から顔を出すように、酸素を求めて口を動かす。
肺胞が早いとこ仕事をしてくれるよう願いながらハナノアカリはゴールラインを見た。
崩れるように二番手に喰らい付いていたのは、鹿毛の少女。メジロハルカだった。
彼女はゴールした直後、立っているのがやっとという様子で内ラチに手を置いて激しく呼吸していた。見るからに苦しそうな様子だ。だけど、ハナノアカリは問いたださなくてはならなかった。
「ハルカさん」
名家のお嬢様のもとへ、歩みを進める。
途中、近くを通った関係席はざわついていた。
メジロハルカは近くにハナノアカリが来た来たことに気がつくと、手をラチに置いたまま、顔だけを上げるように体を動かした。
「コース、間違えたよね」
「そう、……みたい、ねっ……」
「……なんで」
何で、そんな真似をしたんだ。
そこまでは言葉にならなかった。喉の奥で言葉は引っかかったように止まってしまった。だが、聡明なメジロハルカはハナノアカリが何を言いたかったのか全て理解したように、視線を芝へと落とした。
「“コースが直前に変更されていて、先頭を走るウマ娘はその事をレースの極限状態の中失念してしまった。ルールは遵守されなければならならず、今回のレースは不成立にするほかないだろう”。──こんな所、かしらね」
「──っ」
ハナノアカリは息を呑む。
分かっていた。
このウマ娘は全てわかっていたのだ。
メジロハルカは、他人に棘のあるウマ娘だ。
人に対して謙ったりしない、無意味に融和に走らない。誇り高いウマ娘だ。言い方はキツく、周りにウマ娘を寄せ付けない子であった。
だけど、レースにかける想いは本物だった。どのウマ娘とも変わらないものだったのだ。
「それがこんな──っ!!」
思わず拳を振り上げる。
辺りがざわついて、職員の人が何人も止めようと走ってきた。
一緒にレースを走った子たちは心配そうにこちらを注視している。
そんな中でもハナノアカリが見つめるのはただ1人。メジロハルカだけだった。
──こんな。
こんな事をして、批判されるのは先頭を走ってたメジロハルカだ。彼女がコースを間違えた方向に誘導したと判断される。事実、そうした、と本人が認めている。
誇り高い彼女のレースを自ら貶すような行為。また、自身の名前も多少なりとも堕ちるだろう。聡明な彼女がそれを分からないはずがない。
「どうしてっ!」
喉の引き攣りを無視してハナノアカリは言った。
もはや言葉をぶつけるよりも、気持ちの塊を投げるようだった。
「あなたにしてもらった、ほんのちいさなことが」
それに対し、メジロハルカはしずかな声で独り言を言うかのように呟いた。息は未だ整いきっておらず、すこし辿々しい口調で。
前後の文脈を無視したような独白は、レース直後で体内に篭った熱を排するように紡がれた。
──ね、ね。ハルカさん。
「いまもわたしの胸をあたためつづけている」
──あなたの走りって、すごく綺麗だよね
少女は目を伏せる。
濡れた鳶色が地面の色を反射して、茶色が濃くなった。
「あなたの一瞬の気まぐれが」
──気になっただけ! 友達として!
「わたしの“ずっと”になって、残っている」
メジロハルカは言い終わると、顔を上げ、ハナノアカリと目を合わせた。そこに宿るのは潤み、非難するような色。
「貴方には分からないわ。自分の命をかるくなげうてる貴方には。貴方にはわからないわ」
その言い方は、まるで言い分を聞き入れてもらえなかった子供のように聞こえた。拗ねる少女のようにも思えた。
だけどメジロハルカだ。まぎれもなく、メジロハルカだった。
「レースは不成立よ。勝者は無しよ。──だから、賭けも不成立だわ」
顕になった感情のまま、名家のお嬢様はキッとハナノアカリを睨みつけた。頬に張り付いた髪の毛が煩わしくも、指の一本だって動かすのが億劫で、目線だけは外さずに桜色の少女を見ていた。
「貴方は
だから、どうかお願い──
言葉なき、言葉でつたえる。
少女の心からの思い。
お願いだから──
わたしの手の届かないところで、いなくならないで。
そう伝えると、お嬢様は顔を覆って泣いてしまった。
一級特殊整量長距離走 結果
1着 ハナノアカリ 3:25.4
2着 メジロハルカ 二バ身
3着 デンヤヲラ 3/4身
4着 ヒガシカゼ ハナ
5着 メイトオ アタマ
6着 シヨウノギ
さいごの桜は、秋の菊の横にそっと咲いた。
咲いた花びらは、はるかの風に、静かに揺れていた。