ものごとの終わりは、意外なほどにあっさりしている。
コウマサはその時のことを思い出すたびに、振り返る。
『現在開催中のレースおよび、今後開催予定のレース全ての中止を通達する』
『競争ウマ娘寮に在籍しているウマ娘と職員を地方郊外への移動を命ずる』
ある朝起きたら、この二つの知らせが告げられた。
あんまりにもあっけなかったから、実感がなかった。時々あった『10時から18時まで停電するので注意すること』みたいな、いつものお知らせと何ら変わらないものだと思ってしまった。
だが違った。
コウマサはベッドの下にしまっておいた丸型鞄を引っ張り出し、中に詰めてあった使わない布や、ミシン修理用の予備部品を取り出して自習机に並べていった。ごちゃごちゃしたこれらは、収納場所がないから鞄に入れていたが、部屋から出ていく準備をするのに中を一度空っぽにしなければならない。
ふと外を見ると、鳥が鳴いていて、雲は青空を流れている。和やかで、穏やかで、なんてことない日常の延長線上だった。
コンコンコンとドアが叩かれ、扉が開いた。
「コウマサ学生だね? 速やかに荷物を纏めて外に集積しなさい」
眼鏡をかけた見慣れない職員の男が部屋の外から中を覗き込みながら言ってくる。コウマサは「はい」と返事をして、夢でも見ているように、慣れない手つきで大きな丸型鞄に服やシューズを詰めていく。
この鞄を使ったのは、実家からこの寮に移った時以来だなと思いながら作業をしていると、ふと自分の寝台が目に入る。ハナノアカリの手によって干された布団はお昼なのに、いまにも飛び込みたいくらいふかふかだ。
「そういえば、シーツや枕はどうするんでしょうか? 向こうで貰えるのかな」
綺麗に布団を畳んだベッドを前に、コウマサは呟いた。
古いベッドの上の板木には、ささくれだらけの所を修理した跡がある。トゲが寝ている時や、寝ぼけている時に刺さらぬよう、二人で軽く文句を言いながら抜いて補修していったのだ。ベッドの近くの窓際には、ハナノアカリが珍しく花を買ってきて、花瓶を置いておいた跡が残っている。ずっと同じ場所に置いておいたものだから、すこし日焼けをしてしまったようだ。
窓の鍵が目に入る。鍵はいつも外してあった。ハナノアカリがよく窓から外に飛び出すので、いつからか開けっぱなしにしていたのだ。そんな扱いだからか、窓枠の蝶番にある螺子が一本緩んで外れている。もともと古かったのだから仕方がないとコウマサは思ったものだ。
「…………」
じん、と静まり返る部屋を一望する。
この部屋で、たくさんの時間を過ごした。
この部屋には、ハナノアカリとコウマサの痕跡が染み付いている。
ふたりの青春の時間が浸透し、至る所に思い出がある。壁についた小さな傷一つとっても、その時のことを思い出すことができる。
「また、戻ってこれますよね」
迷子になったような不安な心地になり、思わずコウマサは呟く。
いつの間にか準備を終えていたらしいハナノアカリは窓の外を見ていた視線をコウマサに戻し、『きっとね』と優しく笑った。
◆
着替えは何日分持っていけばいいのか。洗濯板は向こうにあるのか、ご飯は移動分だけで良いのか。
分からないことだらけで、それがまた準備を緩慢にさせたが何とか支度を終えると、時刻はお昼前となった。
改めて丸型鞄を部屋の入り口に置き、中を見渡す。
「ずいぶんと、殺風景になってしまいました」
「あはは、マサちゃん、そんな泣きそうな顔しないで」
「なっ! そんな風ではないですから!」
コウマサも思春期だ。
ホームシックになる子供と思われるのが嫌で、慌てて否定をした。それがまたハナノアカリの笑みを深めるのだが、もうどうにも出来なかった。真っ赤な顔で俯くばかりだ。
「あっはは」
「笑わないでください」
「ゴメン」
◆
「ふう」
なんとかコウマサが荷物を廊下の運びやすい場所に移動させると同時に、カンカンカンと手持ち鐘の音が寮の外から聞こえてきた。
窓から身を乗り出して見ると、寮の前の広場に鐘を手にした初老の男が居た。彼は寮の中にいるウマ娘たちの注目が十分に集まったのを確認すると、声を張り上げた。
「集合! 確認事項があるため、各ウマ娘と職員は全員寮前へ。持ち物は要らない!」
コウマサは部屋の中に視線を戻した。いつの間にかハナノアカリは居なくなっていた。トイレか何かかと思ったが、集合場所に行けばどっちにしろ会えるだろう。彼女はパタパタと階段を駆け降りていった。
◆
「只今から出発する者の名簿の確認をするので、各ウマ娘、返事をすること」
初老の男は、おおよその人数が集まったことを確認すると、手元にある紙に視線を落として言った。
どうやら今回の移動の名簿確認のようだ。コウマサは落ち着きなく周りを見渡した。何人も見知った顔のウマ娘はいるが、特徴的な薄桃色の少女は居ない。もしかしてどこか出掛けているのか。そんな心配をよそに名前の呼び上げは始まっていった。
「トウヘンノ」「はい」「マツノカゼ」「はい」
「──」「──」「──」
呼び上げは恙無く進行していく。
いつもの出席確認だ。
ハナノアカリを探すが、姿はない。
「──コウマサ」「──はい」
耳慣れた自分の名前に返事をすると、なにか決定的なことに同意をしてしまった気分に陥った。
初老の男は手元の名簿に視線を落とすと、もう続けて名前を呼ぶことはなかった。
「──。以上、18名」
男はそう締めくくる。
待ってくれ、コウマサは反射的に叫びそうになった。
まだ、名前の呼ばれていないウマ娘がひとりいるじゃないか、と。
「そして、
卒業、一名。ハナノアカリ」
「はい」
呼ばれて、寮の玄関の陰にいた少女が一人進み出てきた。
彼女の格好はカーキ色の、控えめな飾りのついた服で、帽子を深く被っていたから髪色で気が付かなかった。
先生たちの横に並ぶ。ああ、嘘だ。
「ハナノアカリ君は君たちの代表として赴くこととなった。拍手」
初老の男が言うが、ウマ娘たちは誰もが困惑に動かないでいた。横の子と顔を見合わせたり、不安そうに辺りを見回したり。
「以上で確認事項の認識を終える。各人、解散」
フッと自由に動いていい時間になり、コウマサは見慣れない服を着たハナノアカリの元へと向かった。他のウマ娘たちは後ろから見ている。
「──アカリさん」
「ごめんね、マサちゃん」
一声をかけると、桜色の少女は眉を下げて言った。その口調が“どうにもならないこと”を言っている時のようなものだった。
ごめんね、とは一体何に対してなのか。
「今の今まで言えなくて」
「…………」
「ワタシは、
知っている人が、見知らぬ格好をしているだけでこんなにも違和感があるのだとコウマサは知った。
ハナノアカリはいつものキリリとした顔でもなく、悪戯がバレた時の伺う顔でもなく、大人のような諦めの混じった顔だった。
「ごめんなさい、アカリさん。──本当は知っていたんです」
僅かに目を見開く気配がした。
それもそうだろう。ハナノアカリはコウマサに秘密を打ち明けられず、ここまで来たことに罪悪感を感じているようだが、そうじゃない。
「あの夜、一緒に逃げませんかと言ったあとに反応が少しおかしかったものですから、調べたんです」
コウマサもまた、おなじ気持ちを抱くに足る罪を犯したのだと自覚していた。
無論、ただの一介の学生であるコウマサに出来ることはないと言っていい。だけども、ハナノアカリの気持ちを知っていて、コウマサはここまで知らぬふりをしていた。ハナノアカリが行くことを。日常こそが、彼女の幸せとしっていたから。
だから、最後の日まで演じていたのだ。
何も知らない、純真無垢な
「……おどろいたなぁ、まさか、マサちゃんがそんなワルイコだったなんて」
「それじゃあ、わたし
ハナノアカリの言葉に、コウマサはニヤと笑って見せた。普段はハナノアカリが浮かべるような、悪戯な表情。なんとか目に集まってきた熱を無視して、出来るだけ子生意気に見えるように、歯を見せた。
「逃げないよ」
「なんで、と聞くのはダメでしょうか」
目に映る景色がぼやける。
必死に声色を保つ。目の前に立つハナノアカリの表情は一瞬たりとも見逃したくはなかった。
そんな様子を知ってか知らずか、くす、と桜色の少女が笑って全身を優しく包まれるような感覚があった。
「マサちゃんの走りがみたいよ。人一倍努力して、レースに備えていろんな期待を背負ってがんばるマサちゃんと走りたいよ」
抱擁により耳元で感じる、語尾が柔らかなハナノアカリの話し声。もうすぐ聞くことは出来なくなる名残の惜しいもの。
やさしく香るのは草木のあおい匂い。伝わるのは寒い冬に身体をほぐしてくれる温石のような温度。
「だから、ここで守ってね。レースの火を消さないで」
「……はい」
泣かないで、送り出せただろうか。
ハナノアカリのことを。
最後に、なにか渡せただろうか。
あの、周りを振り回すくせに、誰よりも優しい彼女に。
コウマサは暖かな意識の中で、考えた。
そんな思考は、さいごにハナノアカリから発せられた一言で溶けて消えた。
だから、覚えているのはその言葉だけ。
なんども、なんども、この日を思い出すたびに、追憶の終わりの合図として再生される。
──さようなら、アカリさん。
『ありがとう、マサちゃん』
少女たちの青春は終わった。
コウマサは地方にて必死に生きていくなかで、どんな時でも走りの練習を続けるようになった。
誰もが、そんな彼女に何度も問いかけた。
『なぜ、そこまで頑張って練習なんぞするのか』
すると、決まって彼女はこう答えるのだ。
『レースの火は、消えませんから。だから、
次って、あんのか、そんなもん。
問いかけをした人はみな思った。コウマサだけは、確信を抱いたように次にレースがまた開催されると信じていたという。
そんな、お話。
ふたりの、同部屋だった少女たちのおはなし。
◆
◆
『間も無く扉が閉まりますので、離れてください。発車します』
ジリリリリ、とけたたましくベルが鳴る。
大荷物を抱えた男は慣れない鉄道の利用に四苦八苦しながら、なんとか人混みをかき分けて乗車。
木製の座席の一つ空いている所を見つけて腰を下ろし、一息をつくことが出来た。
足元に落としていた視界に、誰かの靴が映る。
向かい合わせになっている座席の向かい側に誰か座っているようだ。
「ふん」
顔を上げて見てみると、相手はどうやら年若いウマ娘のようで、窓に肘をかけながら、歌を歌っている。
「きれいな歌だなぁー、嬢ちゃん」
右目と左腕に包帯を巻き、左手に相当する部分をなくした若い男は興味深そうに声をかけた。
彼女がこちらを向く。格好は男のよく見慣れたもので、これから務めに出るのだろう。
「えれぇ、風流な髪色してやがる。桜みてえだ。おお、やっと日の本に帰ってきたんだ、まさか生きて桜を拝めるタァ、ありがたいこって」
「……怪我の具合はどう?」
ウンウンと頷きながら喋れば、少女は顔色をあまり変えずに問いかけてきた。男は笑った。
「おお、こりゃ
「そうなんだ」
「なかなか風変わりなやつでな、胡散臭いんだよ。だけども良いやつだったよ。ずっと日本の方を見てるあいつのことをみんな揶揄ってたけど、信頼してた」
思い出す。懐かしい思い出だ。聞いてくれる人も居ないだろうから、ついペラペラと言葉が出てくる。
だが、人の思い出話なんぞつまらんかもしれん。そう思って対面に座る少女を覗き見てみると、ジッとこちらを見ていた。だから男は言葉を続けた。
「よく言ってたよ、『俺ぁ、日の本イチバンのウマ娘を送りだしたんだ』ってな。ま、みんな冗談だって笑ってたよ」
「──」
「だから、俺は絶対に帰るんだ。そう決めていた。ここまで来れたからな。もう目の前だ。実家に寄る前に、レース場に行って観戦券を買うんだ。そんで、見るんだ。アイツの言ってた、日本一のウマ娘ってやつをよ」
「みんな笑ってたけど、さ。俺は信じてたんだぜ。誰よりも後ろから追い抜いていく桜みてーなウマ娘ってやつを。だから、見るんだ」
「──そういや、嬢ちゃん。アイツの言ってたウマ娘と髪色がそっくりだな」
それだけ言うと、少女は優しく微笑んだ。
そして、また窓の外の景色に目線を投げかけ、窓を開けてかるく風を受けた。
真っ白な、雪道に──
彼女が歌う。
風に髪が流されて、まるで桜吹雪のようだ。
今はただ──
なつかしい──
あの人を 思い出す──
そうして少女の歌を聴いているうちに──
疲れた体は微睡に誘われて──
「……おや?」
目が覚めた時に、少女の姿はなかった。
少女はいったのだった。
◆
たとえ最後まで無謬でなかったとしても。
それで道中の幸福だった思い出が消えるわけじゃない。
少女の道行は間違いなんかじゃない。悩んで、考えて、ぶつかって、必死に生きた道のりだ。
わぁ、とレース場の入り口で小さな子が声を上げた。
「さくら、きれいだねぇ」
「……うん、とっても」
桜が咲く。
また、今年も。
季節が巡って、春がくる。
まっくらな夜を照らす花明かりに誘われて、潜った夜の先は麗らかな春の日だった。
そこにはきっと、満開の桜が咲く。
『各ウマ娘、ゲートに収まりまして──』
今年もまた、彼女の愛したレース場に、桜がさく。
『スタートしました!』
終章『花の明かり』 終
……
…………
………………
ゼンノロブロイは読み終わった青い本をパタリと丁寧に閉じた。
横にいたライスシャワーもまた、無言であった。
午後の日が差す図書室。
“ハナノアカリ”という一人の少女の物語を読み終わり、残った感慨は一言で収まるような簡単なものではなかった。
今はそれを消化しようと頭を回していた。二人とも無言なのは、ライスシャワーもまた同じ気持ちだからだろう。
「おわっ、! 図書室の整理終わってる!」
その時、静寂の中に明るい声が響き渡った。
ライスシャワーは目を丸くするが、ゼンノロブロイは勝手知ったるように立ち上がって、図書室の入り口へ声の主を迎えに行った。
「お疲れ様です。委員長さん。脚の調子はどうでしたか?」
ライスシャワーはひょっこりと顔を覗かせると、松葉杖をついた桃色の髪をしたウマ娘が笑っていた。あれが足を怪我していたという図書委員長だろう。だから人手が足りず、ライスシャワーが本の整理の手伝いに駆り出されたのだった。
「あ! その本!」
桜色の彼女はライスシャワーに気がつくとニッコリと笑いかけ、その後すぐにライスシャワーが手にしていた青い装丁の本を指差した。
「あ、これは……」
何もラベル貼られていないんです。
ゼンノロブロイがそう伝えると、図書委員長の少女はからからと笑って『そりゃ、ワタシのだからね』と言った。
「──っ」
そこでゼンノロブロイは気がついた。
ゼンノロブロイの思考は止まる。なぜなら松葉杖をついた少女が人差し指を一本立てて、眼鏡の少女の口元に当てていたから。
「あなたは……」
『おいっ、サクラっ! お前、メジロさんのとこでのリハビリ期間は終わってんのにナンでトレーニング来ねェんだよ!』
廊下の奥から聞こえてきたのは、そんな大声。
意識の逸れたゼンノロブロイはもう一度視線を委員長の少女のもとに戻すと、すでに彼女は歩き始めていた。
ちらり、と視線が交錯する。
桜色の髪をした少女はウインクをひとつして、去っていった。
『おら! 行くぞ!』
「はーい、まってまって!」
物語の結末はいまだ不明瞭なまま。
ひとつ、確かなことがあるとするならば。
今日もレースは行われ、誰かが走っている。
昭和に誰かが見た夢は、今日の日まで続いている。
その礎にはまちがいなく、レースが大好きなウマ娘が居たはずだ。
ゼンノロブロイは席に戻り、不思議そうな顔をしているライスシャワーに向かって頷いた。
「練習に、行きましょうか」
今日もレースは誰かの夢をのせて、始まっていく。
その結末は誰にも分からない。きっと、彼女にも。
昭和にウマれたウマ娘! おわり
これにて『昭和にウマれたウマ娘!』の終幕となります。
無事にここまで辿り着くことが出来ました。
ここまでお付き合いいただいた方々、本当にありがとうございました。また、ウマ娘プリティダービーという素晴らしいコンテンツを作って下さった関係者の方々、ありがとうございます。
わたしもまた、書いていてとても夢のような時間でした。
皆さまも、楽しんでいただけたらなら幸いです。
余談にはなりますが、実は本作中において、第二次世界大戦、戦争、兵士、銃、徴兵といった単語は一度も使わないと決めていました。実際に、一度も登場していないのではないでしょうか。
これはわたしなりのウマ娘というコンテンツへの敬意の表し方でした。
ただの自己満足です。ですが、こういったものは大事なんじゃないかなって。
最後になりますが、ほんとうに長い間ありがとうございました。
またどこかでお会いできることをねがっています。
皆さまの健康と幸せを願って。
──調味のみりん